13話
告白は、別れの挨拶になった。
私が姉であることを伝えようと決めたのは、一度目にこの丘を訪れたとき。
魔塵のマッチの製作を急いだために遅くなってしまったが、ようやく伝えることができた。
――私はここから出ていく。
――そして、伯爵家にも帰らない。
ハイルド様に魔物から助けられたとき、私はどこかで一人で生きていこうと決めていた。
けれど、助けてくれたのが辺境伯、ハイルド様だったこと。勅書を見られたことで、私はまた家族の愛に取り憑かれた。
そんな私に、ハイルド様も……みんなも……。たくさんの愛を渡してくれて……。
――私はもう、一人でも大丈夫。
この胸にはたくさんの愛があるから。
ハイルド様に見つけてもらった花はたしかに私の心にある。
押し花をお守りに……。
私は、この足で歩いていくのだ。
そんな私の決意の告白にハイルド様は――
「そうか……」
と一言だけ返した。
丘に吹いた風が、青い花をそよそよと揺らす。
もしかしたら……驚きや、動揺で言葉がすぐに出てこないのかもしれない。
エバーランド伯爵家が王命を違え、妹ではなく姉を輿入れさせるなんて思ってもみないことだろう。
そう考え、ハイルド様の言葉を待つ。
……だが、ハイルド様からの返事はない。
「あの……」
そっと、ハイルド様を見上げると、その瞳は――
「ハイルド、さま……?」
――さみしそうに微笑んでいた。
なぜ、ハイルド様がこんな表情をするのだろう……。私の嘘が……ハイルド様を悲しませてしまったのだろうか。
その途端、胸がぎゅうっと締め付けられた。
そして、思わず手を伸ばし、ハイルド様の頬に手を当てる。
すると、ハイルド様はその手にそっと自らの手を重ねた。
「すまない……。こんな風になるつもりはなかった」
「いえ……、きっと私の嘘にがっかりされたのですね……」
ハイルド様は私の告白を聞いて、怒ったり、罵ったりはしなかった。
……そうだろう、と思う。
ハイルド様はそんな方ではないことは、よくわかる。
だから……落胆したのだろう。
ハイルド様は私を信じてくれていた。
信じた人間が嘘をついていたら……それはきっと、悲しい。
ハイルド様のことを想像し、言葉をかける。けれど、ハイルド様は首を横に振った。
「違う。俺は……ただ、あなたの名を呼べていなかったかもしれない、と」
「私の名、ですか……?」
思ってもみなかったことに、目を瞠る。
すると、ハイルド様は「ああ」と頷いた。
「俺があなたの名前を呼んだとき、たしかにあなたが喜んでくれたと思った」
「……はい」
「だから、名をたくさん呼ぼうと決めていた。だが、それはあなたの負担になったかもしれない」
ハイルド様は……。私の告白を聞いてブレるような人ではない。
なぜ嘘をついていたかとか、嘘をつかれて悲しいとか、そういうことでこんな表情をする人ではなかった。
私の想像なんて軽く飛び越えていく。
ただそこにある事実を認め、できなかったことを考える。
だから、ハイルド様には私が告白をした理由がわかったのだろう。
……私が、別れの挨拶をしたことを。
「あなたは今、ここを出ていこうとしている」
「……は、い」
「一人で生きていこう、と。……その姿はとても美しいと感じた」
ハイルド様はそう言うと、頬に当てていた私の手を動かした。
私の指先を包み込むようにし、ハイルド様はその場で跪く。
オレンジ色の夕焼け。
夕日に照らされる丘。そこに咲く一面の青い花。
そして――
――私を真摯に見上げる金色の鋭い眼。
――鮮やかな赤い髪。
「……俺に、機会がほしい」
「機会……ですか?」
「ああ。恋しい人の名を知り、口説く機会だ」
もうそこに、先ほどのさみしそうな表情はない。
代わりにあるのは……熱。
包み込まれた指先も、見つめ合う瞳も。全部、燃えてしまいそうだ。
「あなたの名は?」
「私の名は……」
いつも……何度も……ハイルド様は私の考えを越えていく。
一人で決めた『こうしよう』ということを、簡単に飛び越えて……。
魔物の棲む森で死のうとした私を助けた。
これまでの自分を捨てて生きていこうとした私を、私のままで留めた。
なにも力がないと嘆く私の力を信じた。
家族の愛に囚われていた私を解き放った。
そして――
私の名を聞く。
あなたはだれか? と。
私は――
「――シェリル」
妹と一文字違いの、だれも呼ばない名。
「シェリル、です」
あとから生まれた妹に『リル』という愛称さえ奪われた、なにも持たない姉。
父母の期待通りに生まれなかった私。名前は前もって決まっていたようで、『シェリル』という名になった。
けれど、父母はそれをやり直すように、妹に一文字違いの『メリル』という名をつけた。そして、『リル』と愛称で呼んだのだ。
だから、ハイルド様やみんなに『リル』と呼ばれてうれしかったのも本当だった。呼ばれるはずがなかった愛称を呼んでもらえたから……。
ハイルド様はそんな私の名前を聞いて……。
「そうか。……これでやっと、あなたの力になれる」
本当にうれしそうに笑った。
もう……もう、たくさん渡してもらったのに。こんなにもたくさんの愛をくれたのに。
「シェリル。俺はあなたが好きだ」
まっすぐに伝えられた言葉に血が沸騰しそうになる。
でも、それを必死で抑え、言葉を紡ぐ。
この熱に飛び込みたい。けれど……私は……。
「わ、たしは……私は、弱い、です」
「俺はそうは思わない」
だって……私の選択はいつもうまくいかない。
ハイルド様だから……。ハイルド様が何度も乗り越えてくれたから……。だから私は……。
「私は家族に都合よく使われた姉です。『死ね』と言われて本当に死を選ぶような……。そして、生き残ったときは名を捨てて生きていこうとしました。でも、それも叶わず、ハイルド様に嘘をつき、こうして過ごしていたのです」
私がどれだけ弱い人間か。
自分で言葉にしながらも、それが酷く悲しい。
ハイルド様は私の言葉を最後まで聞いて……そして、私を真摯に見つめる。
「では、シェリル。妹がここに来なかったのはなぜだ? 王命を違えたのは?」
「それは……」
冷酷だと噂のあったハイルド様を怖がったのだ。そして、魔物の棲む森があるこの辺境伯領を怖がった。
でも、それをハイルド様に伝えることはできず、口籠る。
するとハイルド様は「わかっている」と呟いた。
「妹は俺を怖がったのだろう。そして、この地を嫌った」
「……」
「そして、あなたも怖くなかったわけではないはずだ」
「……私は……魔物の棲む森や、魔物に……興味がありました」
「ああ。だが、それは真実の一つであって、すべてではない。……恐怖だってあったはずだ」
ハイルド様に言い当てられ、それに言い返すことができない。
恐怖が……なかったわけではないから。
「それでも、あなたがここまで来たのは――」
ハイルド様は金色の瞳で私を見つめた。
私を……。私の力を信じてくれる。
「――家族を守るためだ」
そう……なのだろうか。
私はただ家族の都合よく使われ、反抗する心も奪われ、なにも考えることができず、ただ父に言われるままにここに来た、どうしようもない姉ではないのだろうか。
……きっとそれも真実。
でも、ハイルド様はそうではない私を信じてくれる。
「シェリル。俺はあなたを強いと思う。妹を守るために、王命を違えてまで……。死を決意してまで、こんな辺境まで来ることができる。そして……。あなたは悲しみや苦しみで涙を流すことはあったが、一度も、両親や妹のことを悪く言わなかった」
ハイルド様が……そう言ってくれるから。
私のこれまでを認めてくれるから……。
「あなたと同じような仕打ちを受けたとき、あなたと同じような選択ができる人間がどれほどいるだろうか。俺は……あなたは強い人だと思った。そして、そこまで愛されている家族はなんと幸福なのだろう、と」
なにも持っていなかった『シェリル』が輝き始める。過去も含めてすべて。
愛されたいと願う私が。……ほかのだれでもない、『シェリル・エバーランド』のまま。
「俺はあなたを愛している」
「は、い」
「俺はあなたと共に生きていきたいと思った。だから、あなたの愛を向けてもらえるように努力している最中だ」
努力なんて……。ハイルド様がする必要はないのに。
これだけたくさんの愛を渡してくれた。だから、同じだけ返してほしいと、ただそれだけで私は頷くのに……。
「屋敷から出ていきたいというのならば、それを阻むことはしない。だが、危険がないように、あなたが一人で生きるための援助をさせてほしい」
『だから、愛せ』と。
……でもきっと、ハイルド様はそう言わない。
私が自分の意思で、自分の心で、ハイルド様に愛を渡す。それをじっと待ってくれるのだろう。
「……それで、なんだが……」
ハイルド様は急に声のトーンを落とした。
どことなく、しょんぼりして……。
「こんなことを言うのは情けないが……」
金色の鋭い眼が、珍しく少しだけ垂れている。
ハイルド様もこんな表情をするのだ、と思わず見つめてしまう。
すると、ハイルド様はすこし目をさまよわせて……、私をぐっと見上げた。
「もしよければ、シェリルが住む場所に俺が訪ねていくのを許してほしい」
「訪ねるのを……?」
「……食事に誘ったり、遠乗りに誘ったりもするかもしれない」
「食事や遠乗りに……」
「そしてまた……こうして愛を乞うと思う」
ああ……。そうか。
私が一人で生きると決め、屋敷を出ても……。ハイルド様は私に会いに来てくれる。
そして、また……こうして……。
「それは……」
……なんて幸せなことだろう。
私の嘘をすべて受け止め、出ていくと言う私を拒まず、それでも追いかけてくれる。
「……魔物の棲む森でも、来てくれますか?」
家族は来なかった。
私の待ち人。
もし、私の待ち人がハイルド様であれば……。ハイルド様は……。
「もちろんだ。何度でも」
金色の瞳が私を射抜いた。
「シェリル」
「は、い」
「シェリル」
「はいっ……」
私の名は。こんなに甘く響く。
私の名は。こんなにも幸福を呼ぶ。
「愛している」
ハイルド様はそう言うと、そっと私の手の甲に唇を近づける。
そっと触れられれば、そこから体すべてに熱が伝わって……
「――俺の妻になってくれないだろうか?」
もう……。私にはもうなんの言い訳も残っていない。
私はこの熱に飛び込んで……。愛したいのだ。ずっとずっと……この人を。
「――はい」
跪いているハイルド様にぎゅうと抱きつく。
そして、ハイルド様はそっと私を抱き返した。
***
魔塵のマッチの権利者として、書いた名は『シェリル・ナイン』。
そして、温かな日々は続いていく。
……はずだった。
だが、それは長くは続かなかった。
辺境伯領に……告訴状が届いたのだ。
書かれていた内容は――
本来なら妹が輿入れするはずだったのを、姉である私が自ら偽り、横取りしたという訴え。
ハイルド様と私の結婚取り消しの要望と、王命通りに妹を娶ることの要請。
そして、私は伯爵家へと帰り、魔塵のマッチの権利を伯爵家のものとすることの要求だった。
『お前が代わりに死ね』と言われて、その通りにした私の家族への愛。
ハイルド様という、温かな男性に出会えた運。
魔塵のマッチを作るために、一緒に考え、行動した時間。
ようやく手に入った、愛にあふれた日々。
それらすべてを奪う書状だった。