10話
丘から帰ったハイルド様と私は、屋敷で昼食を摂ることにした。
マチルダやコニー、ジャックはそれぞれの仕事をしていて、昼食は一緒に摂るわけではないらしい。
「昼食まで顔を合わせていると休めないだろう」と、ハイルド様は端的に言った。
昼食の時間が被るときもあるが、基本的にはどこで食べてもいいらしい。
調理の仕事をしている方が持ち運びができるように作ってくれ、外出先で食べることも可能なようだ。
ハイルド様は昼食をバスケットへ入れると、庭で食べようと私を誘ってくれた。
今日のメニューはローストビーフのサンドイッチとポテトサラダ。サンドイッチは私の顔ぐらいの大きさがあって、一人では食べきれそうにない。
ナイフでカットしてもらい、半分はハイルド様に食べてもらった。
そして、仕事を終えたマチルダが屋敷へ帰ってきたのだが――
「な、あ、……! リル様、どうしたのですか……!!」
私の顔を見るなり、真っ青になったマチルダはそう叫んだ。
そして、隣に立っていたハイルド様をキッと睨む。
「閣下……! やりましたね……! 泣かせましたね……!!」
「……ああ」
「な、なぁにが、『ああ』ですか! リル様の笑顔を引き出してほしいとあんなにもお願いしたのに……っ、泣かせて帰ってくるなんて……! 判断ミス……私はまたしても判断ミスをしてしまいました……」
マチルダは勢いよくハイルド様に詰め寄ると、私の手をそっと取った。
「申し訳ありません。目が……こんなに腫れて……」
痛ましいものを触るように、マチルダが私の目元へと手を伸ばす。
マチルダの手でそっと撫でられると、たしかにそこがじくじくとしていることに気づいた。
ハイルド様が抱きしめていたから、目を擦ることはなかったが、腫れてしまったのだろう。
マチルダに一目で気づかれるぐらいだから、酷い顔をしているのかもしれない。
「マチルダ、これはハイルド様のせいではありません。……私にとって必要なもので、ハイルド様はそれを受け止めてくれただけなのです」
そう。必要な涙だった。
愛を求め、それが手に入らないと嘆き、命まで捧げてしまう私には、現実を見ることが必要だったのだ。
私一人では見つめられなかっただろう。……悲しみと痛みをもたらすものだったから。その悲しみと痛みを受け入れることができなかったから。
妹の身代わりに嫁ぎ、ハイルド様に命を救ってもらっても、なお妹だと嘘をついている私。そんな私には大切なことだった。
「は、『ハイルド様』……と……。リル様が閣下の名前を……っ」
ハイルド様が責められるのは違う、と言葉を発すれば、マチルダは内容よりも、私の呼び方が気になったらしい。
衝撃を受けたように、固まった。
「やはり、名前を呼ぶのは失礼ですね……」
「いえっ、まったく! ぜひ呼び続けていただければ! すこし驚いただけですので。……そう、そうですか! そうですか、これは早計でした。なるほど!」
マチルダは一人で「うん、うん」と頷くと榛色の瞳を輝かせた。
そして、ハイルド様に向かって、親指を立てた拳を見せている。
よくわからないが、マチルダがハイルド様を責めることはやめたので、私の意図は伝わったのだろう。
そして、私には一つ、お願いしたいことがあって……。
「ハイルド様、マチルダ。お願いしたいことがあります。髪を洗いたいのです」
「もちろん構わない」
ハイルド様は私の願いにすぐに頷いた。
そして、マチルダへと視線を落とす。
「マチルダ。湯殿を」
「はい! すぐに用意します」
「ああ、頼む」
「急に言い出して、ごめんなさい」
「いえいえ! 私こそ気づかずに申し訳ありません。長旅をしてきたのです。当然のことでした」
そうして、マチルダは湯の準備に行き、私は部屋へと戻った。
ハイルド様は私を部屋まで送り届けると、魔塵を持って、ジャックのところへと行った。
午後から仕事はしないと言っていたが、魔塵のことは早く進めたいようだ。
マチルダも午後はゆっくりしたかっただろうに、湯の準備をさせてしまい申し訳ない。自分でできればよかったのだが……。
部屋で一人で待っていてもしかたがない。
マチルダを手伝いにいこうと部屋を出ようとすると、ちょうどマチルダが入ってきて――
「リル様、準備ができました」
「……すごく、早いのですね」
もっと時間がかかると思っていたので、驚いて目を瞠る。
マチルダはふふっと笑うと、「こちらです」と私をエスコートした。
「実はここではいつでも湯の準備ができているんです」
「いつでも?」
「はい。リル様は温泉をご存じですか?」
「あ……本で読んだことがあります」
地面の下に流れる地下水。
それが火山の熱で温められ、地表に出てくる場所がある。その水は常に温かいのだ、と。
「ここ辺境伯領は東に火山を有していまして、その地熱が伝わっているそうです。温泉が各地で湧いていて、この屋敷にも源泉が一つ通っています」
マチルダの説明に「ほぅ」と頷く。
いつでも入れる湯がある。それはなんて贅沢なことだろう。
そうこうしているうちに、脱衣室へと着く。
女性二人が入っても十分すぎる広さで、棚には物入などが置いてあった。
「リル様、そちらに湯衣がありますので、着替えていただいてもいいですか?」
「はい」
マチルダに手伝ってもらいながら、湯衣へと着替える。
マチルダはジャケットを脱ぎ、シャツとズボンをたくし上げた。
そして、扉を開けるとそこは――
「すごい……」
思っていたよりも、もっともっと豪華できれいな浴室だった。
広さは……私室二つ分ぐらいある気がする。
床は黒いざらりとしたタイル。壁は白いタイルが張られていて、そのコントラストも美しい。
浴槽も広く、一度に十人ぐらいは入れるのではないだろうか。
洗い場も清潔で、不思議なことに石でできたベッドのようなものもあった。
「リル様こちらへ」
あまりの豪華さにぽーっとしていると、マチルダは石でできたベッドのようなものへと私をエスコートした。
「リル様、ここに乗って、仰向けに寝転がってくれますか? 頭はこちらです」
「は、い……」
石でできたベッドのようなものは高さがあり、ちょうど私の腰ぐらいだろう。
踏み石を使ってそこに登り、マチルダの言うように横になる。
どういう用途に使うものか、自分がどうなるのかわからず、すこし怖い。
けれど、マチルダのことを信じているから……。
「あ……これは……あたたかい?」
「はい。この石は温泉の蒸気で温められていて、温かい。岩盤浴と呼ばれるものです」
石に触れている部分がじんわりと温かい。嫌な熱さやぬるさもなく、ちょうどよく体を温めていく。
目を閉じれば、そのまま眠ってしまいそうで……。
「リル様にももっと早く体験していただけばよかったのに……。リル様に言われる前に気づくべきでした」
「……きっと、先に言われていたら、断っていたかもしれません」
「……断って?」
「はい」
「……なぜかをお聞きしてもいいですか?」
マチルダに聞かれて、私はこくりと頷いた。
私が入浴を断っていた理由。それは――
「私は……髪を染めています」
「……この色を、ですか?」
マチルダが私の髪へと手を伸ばす。
マチルダが手にした髪。色は……砂色。くすんで渇いた土の色だ。
「色粉を使っていました。水に弱く、流れてしまいます。マチルダの手にもついてしまったかもしれません」
マチルダをちらりと見ると、マチルダは自分の手をまじまじと見ていた。
きっと、私が言ったように手に色がついてしまったのだろう。
この色粉はすぐに流れてしまうから問題ないと思う。
「リル様、どうぞそのまま」
「……マチルダ?」
マチルダはそう言うと、私から離れて手桶にお湯を汲んだ。
手を洗うのかと思ったが、そうではないようで……。
「ここに窪みがあるのがわかりますか? ここに首の付け根を載せていただき……。はい、そこです」
マチルダは私の体の位置を調整すると、そっと私の額へと手を伸ばした。
そして――
「あ、マチルダ、私は自分で……っ」
「どうか、そのままで。動くと色粉がリル様の体へと流れるかもしれません」
――ゆっくりと髪へとお湯をかけた。
まさか、マチルダが髪を洗ってくれるなんて思わず、目が白黒する。
慌てて上体を起こそうとして……。でも、体を起こしてしまうと、頭側にいるマチルダにお湯がかかるかもしれないと気づいた。
色粉のついたお湯が衣類へと掛かれば、その衣類は使えなくなってしまうかもしれない。
動けなくなった私。
マチルダは気にせず、また汲んだお湯を髪へとかけていき……。
「今、リル様が位置の調節してくれましたので、ここであれば私にお湯はかからず、リル様のほうにも流れていきません。この窪みと傾斜はそのために作られたものなので、気にせず、そのままの体勢でお待ちください」
「でも……マチルダっ……」
マチルダは騎士だ。ハイルド様が言っていたように、こんなのは本来の役割ではない。
マチルダが一緒に浴室へ入ってくれたのは、浴室の説明や、器具の使用方法、入浴の際の決まりなどを説明してくれるためだと思っていた。
こんな風に髪を洗ってもらうつもりはなくて……。
「リル様、お任せください。私には三人の弟がおり、たくさん髪を洗ったものです」
「……弟が」
「はい。久しぶりに髪を洗いたい気分なのです。私の手技をお見せしましょう」
マチルダはそう言うと、また髪にお湯をかける。
私のおでこに当てられた手は、どうやらお湯が顔にかからないように当ててくれていたようだ。
マチルダの言うように、その手には迷いがない。髪を洗うことに慣れているのだろう。
頭を優しく洗ってくれる手に、私は結局、身を任せてしまって……。
石から伝わるじんわりとした温もり。マチルダが優しく労わるようにかけてくれるお湯。
色粉のついたお湯は汚れ、触るのは嫌だろうに、マチルダはずっと笑顔だった。
そうして、マチルダにしっかりと洗ってもらい、浴槽にも入った。
大きなお風呂は最初は落ち着かなかったが、温泉というのは普通のお湯とは違うのか、体の芯から温められたようだ。
「これがリル様本来の色……」
客間へと戻り、姿見の前へと座る。
そこにいたのは――
「美しい銀色の髪……。瞬く度に光る青い瞳は角度によっては紫にも見える……」
マチルダは「ほぅ」と息を吐いた。
「これが……」
そして、恍惚と呟く。
「――エバーランド伯爵家の『宝石姫』」