初夜戦争(没ネタ話)
某天才たちのラブコメ風。
寛容な方だけお読みください。
初夜。
それは結婚して夫婦となった男女が、初めて寝床をともにする夜。
それは愛する男女が、初めて互いの心と身体を重ね合わさせる甘い一夜。
否。それは否である!
初夜とは、これより数十年にわたり繰り広げられる夫婦の戦いの初戦。その勝敗が、これ以降の夫婦の営みを左右するであろう大事な決戦なのである。
かつて聖書の時代、初めての人類アダムの妻であったリリスは自身が上になる体位を要求したがためにアダムより絶縁され、悪魔へと落とされたという。
かほど夫婦の閨において、どちらが上になるかは深刻な問題なのである。ましてやそれが精神的にどちらが上になるかが決定づけられるとなれば、その重大さは体位の問題の比ではない。
そう。初夜においてどちらが優位に立ったかで、後の夫婦生活の主導権を握る者が決定づけられてしまうのだ。
まさに初夜とは、厳しく過酷な戦いなのである。
そして、今宵エルドア国の王宮で、その過酷な戦いに挑まんとする一組の男女がいた。
すなわち蒼馬とワリナである。
「私どもは下がりますので、どうぞごゆるりと……」
そう言ってエルフの女官が扉を閉めると、蒼馬とワリナのふたりだけとなった。
そこは蒼馬の寝所である。
いや。扉を閉められたことで、もはやそこは逃げ場のない金網デスマッチのリングと同じ。勝敗が決するまで逃れられない戦いの場となったのだ。
閉じられた扉の立てる音こそが、まさに戦いの開始を告げるゴングである。
そう。すでに戦いは始まっていたのだ!
しかし、両者はともに動かない。
いや、動けなかった。
すでに蒼馬もワリナも気づいていたのだ。これが決して負けを許されない重要な戦いであるということを。この場での不用意な行動は、敗北を招いてしまうとふたりは熟知していたからこそ動けなかったのである。
そう。決してふたりとも尻込みしていたからではないのだ!
しばし互いの動きに注視し、牽制し合う、ふたり。
その息詰まる無言の攻防の中で、初手を取ったのは蒼馬であった。
蒼馬は寝台へ向けて歩き出したのである。
そこは自分の寝所。まさに蒼馬の領域。英雄色を好むという言葉のとおり、裸一貫から西域の大国の王へとのし上がった稀代の英雄王蒼馬ならば、これまで数多くの女性を引き込んだであろう自分の寝所は、まさに必勝の地。何も恐れることはないという自負が彼に初手を取らせたのか?
否。それは否である!
蒼馬は、童貞であった。彼女いない歴=年齢という、まさに童貞の中の童貞であった。
そんな彼の中にあるのは自負ではなく不安のみ。
ならば、その行動は勇気であろうか。
否! それもまた否である。
このとき蒼馬を突き動かしていたのは、虚栄心であった。可憐な女性を前にして格好いいところを見せたい。恥ずかしい姿をさらしたくない。それは男子たるものならば、誰しもが持つであろう虚栄心であろう。
そして、それは臆病者の中の臆病者である蒼馬も変わらない。
このとき、そのちっぽけな虚栄心が、蒼馬の足を動かしていたのだ。
そのため動かす手足は油の切れたロボットのごとくギクシャクとし、よくよく見れば小刻みに震え、平衡感覚を失っているのか頭がフラフラと揺れている。
その頼りない姿は、さながら初めて庭への散歩に挑まんとする子猫マンチカン!
たとえ餌をもらおうとも、決して人間に従属はしない。僕は孤高の狩人である猫なんだという誇りを胸に、未開の地である芝生の庭へ挑もうとする子猫が、それでも隠しきれない不安に身体をプルプルと震わせる姿そのものであった。
しかし、そんなこととは露と知らないワリナは自らの失策に臍を噛んだ。
先手を取られてしまった!
軍書に「先んずれば、すなわち勝つ」との言葉にもあるように、戦いにおいて先手を取ることは重要である。ましてやここは蒼馬の寝室――すなわち敵地。そこで敵に先手を取られたのは痛恨事である。
「さすがはソーマ様……!」
ワリナは自身が初めて足を踏み入れた敵地を観察して情報を収集しているとき、その隙を逃さずに間髪を入れずに動いた蒼馬の大胆さに戦慄を覚えた。
しかし、実際には入室してからふたりともしばらく硬直していたのだが、当然そのときの記憶はふたりにはない。
戦慄するワリナが見守る中、どうにかこうにか敷かれた絨毯につまずくことなく寝台にたどり着いた蒼馬は、その縁に腰を下ろすと、ほっとため息を洩らした。すでに寝台にたどり着くだけで気力と体力が尽きかけた蒼馬だが、それでも気力を振り絞ってワリナへと顔を向ける。
「どうした? こっちに来ないのか?」
そして、唇の片端を吊り上げた笑みを浮かべた。
挑発の笑み。
いや、違う。それはあまりの緊張で頬の筋肉が引きつったがためのいびつな笑みであった。
もし、ここに百戦錬磨の女官長がいれば「まあ、お可愛らしいこと」と慈母の笑みを返され、蒼馬は再起不能となるか、逆に新たな性癖の扉を開かれたかも知れない。
だが、幸か不幸か、それが向けられたのはワリナであり、またこの場には彼女しかいなかった。
そして、その笑みに対してワリナは――。
「……くっ!」
――怯んだ。
ワリナとて王家の姫。そのたしなみとして乳母から閨での営みについての教育も受けていた。また、どこかの王家や大貴族に嫁いだ際に、表では夫に尽くしつつも閨では主導権を握り、家の奥向きを掌握するようにという薫陶も受けている。さらに貴族の子女である侍女たちが洩らす貴族の男女の醜聞にも、気のない振りをしながらしっかりと耳を傾けていたため知識は十分。
しかし、王宮の奥に引きこもっていたワリナには、当然のごとく男女交際の経験はない。
知識はありながら実戦経験が無い。
すなわち、耳年増である!
そんな耳年増なワリナは、蒼馬の行動を次のように判断した。
「さすが、ソーマ様。これが乳母の言っていた、『ぷれいぼおい』というものなのですね!」
とんでもない誤解である。
しかし、いかなる誤解であろうとも、それを信じれば真実となる。
蒼馬の微笑みの威力を喩えれば、それは子猫の猫パンチにも劣る威力でしかなかっただろう。
だが、それを受けたワリナの精神防御の厚さは、ティッシュペーパーわずか一枚。しかも二枚重ねを剥がした一枚でしかない。
蒼馬の猫パンチの微笑みが、ティッシュペーパー一枚の防御を貫き、ワリナのハートを直撃する。
その衝撃に腰砕けになり、その場に座り込みそうになるワリナ。
だが、ワリナは屈しない。
その身体に流れるのは、西域の覇権を握るためならば弟ロマニアニス王子との骨肉相食む戦いですら辞さなかった覇王ホルメアニスの血である。
その獣の血が、このまま敗北するのを許さなかった!
毅然と立つワリナの背中に、獣の幻影が湧き上がる。
その獣は、ワリナと同じく獰猛な狼の血を引きながら、もはや室内でしか飼えない小型の愛玩犬チワワそのもの。
チワワの幻影を背負ったワリナは剣を鞘から抜くように、ゆっくりと動かした右手を口許に当て、くすりと笑う。
「あら。ソーマ陛下もせっかちでございますこと」
ああ、まさに覇王の血を引く姫ワリナ。
ワリナの取った手は、先手を取った蒼馬の行動を拙速と断じ、彼が確保した優位を覆す強烈なカウンターであった。
これには蒼馬もたまらず「やばっ! 焦りすぎ?!」と内心で悔やむ。
しかし、覇王の姫ワリナは反撃にとどまらず、さらに攻勢へと出る。
「それほど私をお求めならば、御身が手ずから私の服を脱がされてはいかがでしょうか?」
ああ、何たる豪勇。何たる大胆さ。
王家の姫として純粋培養されたワリナは、これまで異性に肌を晒した経験などない。これから肌を晒さねばならないと思うだけで羞恥のあまり全身が燃え上がりそうなほどである。
しかし、その羞恥を乗り越え、あえてそれを敵に晒す。
それは肉を切らせて骨を断つ、まさに捨て身の反撃であった。
それに踏み切ったワリナの決意を勇気と言わずして、何と言おうか?!
しかも、それはただの勇気からだけの行動ではなかった。
今ワリナが身につけているのは、複雑な構造の婚礼衣装である。これを脱ぐには、いくつものボタンやリボンを解かねばならなかった。
しかし、今の緊張に震える自分の手指では、それもおぼつかない。そして、服を脱ぐのに手間取れば、待っているのは蒼馬の嘲笑である。
「ずいぶんと震えているのではないか。緊張しているとは、愛い奴め」
圧倒的勝利を確信する蒼馬の笑みを思い浮かべ、それを許容できないワリナが打ったのが、自分の不利を転じて相手への攻めへと変える、まさに起死回生の一手であったのだ。
そのワリナの反撃に、蒼馬は天地がひっくり返されるほど衝撃を受けた。
「な、なんだと……!」
蒼馬はこのときのために、ありとあらゆる状況を想定し、そのすべてに対処すべく幾度もの脳内シミュレーションを行ってきた。
しかし、そのシミュレーションのために入力された情報は、現代日本において悪い近所のお兄ちゃんからもらったり、インターネットで見つけたりした十八歳未満は見てはいけない動画や漫画やアニメやゲームなどから得た知識である。
だが、蒼馬が知り得た知識の多くは、実際の戦闘行動であった。
戦闘より前の行動についてのシミュレートは不完全。相手の服を脱がす――ましてやそれが複雑な婚礼衣装ともなれば、まったくの想定外。どこをどうすれば脱がせられるのか、想像すらできない。服を脱がすのに手間取れば、待っているのはワリナの敗者を見下した優越の眼差しである。
「あら、ソーマ様は女性の服も脱がせられないのですか。ぷっ……」
蒼馬はギリッと奥歯を噛み締めた。
そのようなことは許されない。それは完全な敗北である。
男の見栄も誇りも木っ端微塵に砕け散り、蒼馬は再起不能となるであろう。
追い詰められた蒼馬は、必死に打開策をひねり出す。
「それならば、ワイルドに攻める!」
脱がせられないなら、破いちゃえ!
逆転の発想であった。力尽くで婚礼衣装を破いて男のワイルドさと力強さをアピールする。窮地を打開するばかりか、窮地そのものも利用する。まさに西域全土を震え上がらせた蒼馬の奇策であった。
――かに思えた。
それを実行に移す直前で蒼馬は自分の失策に気づく。
私の恩寵があった……!
そうである。自身に掛けられた恩寵という名の呪いによって、その手では何も壊せないのだ。
おのれ、アウラめ……!
蒼馬は、今このときほどアウラに怒りを感じたことはない。アウラを恨んだことはない。今すぐにでも夜空に向けて「アウラの馬鹿野郎ー!」と叫びたかった。
そのとき脳裏に「そもそも、あなたの腕力じゃ恩寵がなくても無理でしょ」と嘲笑う幼女神の顔が一瞬浮かぶが、すぐさま振り捨てる。
今はこの窮地を脱する手を考えねばならない。しかし、考えられる時間はほんのわずか。打開の手を打てるだけの材料もない。
もはや蒼馬も進退窮まったかに見えた。
しかし、蒼馬を侮る事なかれ。
彼こそはホルメアが誇る最高の将軍と呼ばれた名将ダリウスを下し、数々の劣勢を覆してきた稀代の策士、破壊の御子その人である。
「そうだな。少し焦りすぎていたようだ」
蒼馬は表情を緩めて、そう言ったのだ。
自らの失態を認める。
しかし、それはあえて攻撃を甘受することで受ける損害を最小限にする防御――否、失態を甘受できる男の余裕を示す攻撃であったのだ。
さらに蒼馬は反撃に打って出る。
まず腰掛けていた寝台の上に横たわると、頬杖をついてワリナの方を向いた横向きに寝た。
「夜は長い。まずはお互いを知り合おうではないか」
ワリナは、驚愕した。
その目が向けられたのは、横たわる蒼馬の手前に空けられた一人分の寝るスペースである。
これはソーマ様がもっとも得意とされているという、悪名高き包囲殲滅作戦――破壊の御子の抱擁!
ホルメア最強と謳われた黒壁を打ち破った際に、蒼馬が用いたと言われる包囲殲滅。あえて兵を退くことで、そこに敵を攻め込ませて内側に引き込んだところで包囲し殲滅する必勝の策である。
寝台に空けられたスペースの意味は明らか。自分にそこへ寝ろという蒼馬の意図である。しかし、そこへ自分が横になれば、間違いなく蒼馬は左右の腕を伸ばし、包囲してくるに違いない。そうなればもはや自分は殲滅されるのみ。
だが、いつまでもこの場に立っているわけにはいかない。それでは蒼馬への失礼に当たる。前に行くしか選択肢はなかったのだ。
「窮地にこそ好機があります」
だが、そのとき進退窮まったワリナの脳裏に思い浮かんだのは、ホルメア最高の将軍と呼ばれたダリウスの顔であった。
「包囲を仕掛ける敵は、まずこちらを内側に入れねばなりません。すなわち、こちらの刃もまた敵に届くのです。包囲をしかけられたときの起死回生の一手とは――」
ワリナはキッと顔を上げると、自ら寝台へと歩いて行く。
「すなわち、正面突破あるのみ!」
見ていてくださいませ、ダリウスおじさま!
何故かとてつもなく渋い表情のダリウスの顔を脳裏に浮かべながら、ワリナは飛び込むような勢いで蒼馬の胸に飛び込む。
「そうですね、ソーマ様。まずはお互いをよく知りましょう」
そう啖呵を切るワリナ。
だが、すぐ目の前にある蒼馬の顔に、それ以上の言葉が続かない。
「そ、そうですね……」
そして、蒼馬もまた間近にあるワリナの顔に言葉を失っていた。
しばし見つめ合う、ふたり。
戦いは均衡状態。
エルドア国王宮の夜は、まだまだ明けそうになかった。