蒼馬の休日1~背徳の宴~(後)
「お風呂に入りたいかな」
シェムルに何か欲しいものかやりたいことはあるかと尋ねられた蒼馬は、そう答えた。
それにシェムルは不思議そうに首をかしげる。
「風呂か? 風呂ならば、毎日入っているではないか?」
シェムルが知る限り、ボルニスの街にいる全種族を通じても蒼馬ほど風呂に入る人はいない。
毎日、夕方になると厨房から盥一杯のお湯をもらい、頭の先から爪先までしっかりと洗う。暑くて汗をかく夏場などは朝夕の二回、時には三回も身体を洗っているのだ。
そのあまりの風呂好きに「ソーマは人間で良かったな。ゾアンなら、とっくにすべての毛が抜け落ちているぞ」とシェムルにからかわれるぐらいであった。
しかし、シェムルが思う風呂と蒼馬の求めている風呂とは違っていた。
「う~ん。僕の故郷のお風呂とは、ちょっと違うんだ。こう、桶をもっと大きくした湯船って奴に、いっぱいにお湯をためて全身を浸からせて入るものなんだよ」
つまり、蒼馬が求めているものは、湯船にたっぷりのお湯を張って全身でつかる日本式の風呂であった。
しかし、このセルデアス大陸は、いまだ電気も都市ガスもない世界である。燃料は現代日本人が思う以上に貴重品だ。現代日本では家の蛇口のコックをひねればいくらでも出たお湯が、この世界ではその貴重な燃料を使って火を焚き、水から沸かさないといけなかった。そうなると、当然費用も手間もかかってしまう。
それを知れば、いくら風呂好きな日本人である蒼馬も、これまで我慢せざるを得なかったのだ。
蒼馬の言っていることは今ひとつ理解できないが、とりあえずシェムルは目的を達した。
「わかった! 風呂だな!」
そう言うなりシェムルは飛び出して行ってしまう。
後には、きょとんとした顔の蒼馬がひとり取り残されていた。
◆◇◆◇◆
「ソーマは、お風呂に入りたいそうだ!」
シェムルの報告に、皆は一様に互いの顔を見合わせた。
この場にいる面々は、蒼馬が毎日風呂に入っている事を知っている。それなのに、さらに風呂に入りたいとはいったいどういうことだと首をかしげた。
「風呂? いつも入っているではないか?」
先程の自分と同じような疑問を口にするガラムに、シェムルは「それぐらいもわからないのか」とでも言うような顔で得意げに語る。
「そうではないのだ。こう、いっぱいのお湯をためて全身で浸かるものらしい」
手振り身振りも交えてシェムルが説明するのに、皆はそれぞれ蒼馬が求めている風呂というものを想像しようとしたが、なかなか思い浮かばない。
「なるほど。さすがは王だな」
その中で真っ先に口を開いたのは、ジャハーンギルだった。
何やらわかった様子で腕組みをしてウンウンとうなずくジャハーンギルに、シェムルは食いつく。
「知っているのか、ジャハーンギル?!」
それに「無論だ」とジャハーンギルは断言した。
「王族種の宮殿にある大浴場のようなものだろう」
ディノサウリアンの王族種ナガラジャは、高い知能を誇るがその身体は四足歩行のドラゴンである。その手足は鉤爪もあり、あまり器用に動かせない。そこで王族種は、奴隷を使って身の回りの世話をさせているのだ。
そして、それは入浴もまた同様である。
王宮には王族種の専用の大浴場があり、そこでは楽士たちが音曲を奏で、勇壮な衣装をまとった戦士が警護のために立ち並び、専属の美しい奴隷女たちが王の玉体を洗うために侍るのだ。
ひとしきりジャハーンギルの説明を聞いた皆は、一様に困惑の表情を浮かべた。
彼らが知る蒼馬の気質から、とうてい美しい女奴隷を侍らせて身体を洗わせるという光景が思い浮かばなかったからだ。
この場でもっとも蒼馬を知るシェムルが「それは違うだろ」と言おうとした矢先、ジャハーンギルへ思わぬ援護射撃が飛んだ。
「私もそういう話を聞いたことがあります」
それはエラディアだった。
「何でも、南にある人間の国にはハレムと呼ばれる後宮があるそうでございます」
そこにも王と妃や愛妾たちが利用する大きな蒸し風呂の浴場があるという。一日の政務を終えた王が疲れを癒やすとともに、そこで今夜の閨をともにする相手を選ぶ場でもあるのだ。
しかし、もちろんエラディアも蒼馬がそのようなものを望んでいるとは思っていない。あくまで知識として、そういうものがあるのだと伝えたつもりだった。
ところが、それを言う前に、続けてドヴァーリンが口を開いた。
「大量の湯を張る大浴場か。あれは良いもんじゃ。疲れもぶっ飛ぶぞ」
質の良い鉱石を求めて地中深くまで坑道を掘り進むドワーフは、ごくまれに温泉を掘り当ててしまうことがある。そうして湧き出た温泉は大地の女神の賜り物とされ、一族の者とともに湯に浸かるのが楽しみであった。
さらに頬の毛をいじりながらズーグが言う。
「まあ、女を侍らせるのはともかく、強そうな戦士がそろうのを見るのは好きそうだぞ」
蒼馬が族王となると、それまで静観していたゾアンの戦士たちも続々と蒼馬のところへ参集してきていた。そうしてやってくる戦士たちはいずれも族王に自身を売り込もうと、派手な化粧や衣装で着飾ってくるのだ。獣人であるゾアンが思い思いに趣向を凝らした化粧や衣装でやってくる姿は、ファンタジー好きの蒼馬にはたまらないものがあった。
新たに戦士たちの一団が訪れると聞けば、仕事を放り出して閲兵に赴くほどだったのである。
「音曲も悪くはないな。すさんだ心を癒やしたり、昂ぶらせたりする」
そう言ったのはガラムである。
ゾアンでも死者を弔ったり、戦勝を祝ったりするのには音曲は欠かせない。また、ちょっとした宴などでも太鼓で即興の拍子を叩いて場を盛り上げるのはよくあることだ。
蒼馬の状態も気の病というのならば、音曲もまた良いだろうとガラムは思った。
「ふむ。――何か、良い案に思えてきたぞ」
そうした意見を聞いているうちに、シェムルも気が変わった。その場を見回せば、他の者も同意見のようだ。
しかし、繰り返すが、この場にいる誰ひとりとして蒼馬がハレムのような大浴場を望んでいるとは思っていない。ただ、それぞれが知っている知識を披露し、またそれに対して意見を述べているだけである。
だが、立て続けに肯定的な意見を聞いているうちに、何となくそれが正解に思えてきてしまったのだ。
「よし! ソーマのために、その大浴場とやらを造ってやろう!」
シェムルの意見に反対する者は誰もいなかった。
◆◇◆◇◆
その翌日から、大浴場建設が始まった。
建設場所となるのは、領主官邸の庭の一角である。そこにはボルニスの領主であったヴリタスが後宮を模して建てさせた建物があったのだが、そこに押し込められたエルフや人間種の奴隷たちが解放されて以降は、放置されたままだった。そこでこれを機に打ち壊し、新たに蒼馬のための大浴場を建てようという計画である。
この大浴場建造の建材として、わざわざドワーフたちが山から巨石を切り出してきた。さらにそれを運ぶの手伝ったのは、ディノサウリアンたちである。浴場で使う手桶や踏み台などはエルフらが得意の木工の腕を振るい、敷布などに使う毛皮はゾアンたちが狩り、ハーピュアンは浴場を飾るための美しい羽根を提供した。
蒼馬によって助けられた種族が、その感謝を示そうと、まさに一丸となって大浴場の建設に協力したのである。
当然、そうした建設の光景は蒼馬の目にも留まった。
「ねえ、シェムル。あそこで何をやっているの?」
最近、領主官邸の一角へ頻繁に人が出入りしているのに蒼馬も気づいていた。時には、大きな石などをコロを使って運び込んでいるのだから、嫌でも目につく。
尋ねられたシェムルだったが、彼女は蒼馬を驚かせたくて空惚ける。
「ん? ああ。何でも、古くなった建物を潰して別の建物を建てるらしいぞ。――エラディアから聞いていないか?」
言われてみれば少し前に、エルフの中に以前自分が囚われていた建物を目にして苦しむ娘がいるので壊したいとエラディアから言われ、それを了承したような記憶がある。
「ふ~ん。そうなんだ」
他にもやることが山積している蒼馬は、そのときは深くは考えずに流してしまった。
そのため、この勘違いは正されることなく、暴走していったのである。
◆◇◆◇◆
「どうだ、ソーマ! すごいだろっ!!」
蒼馬が政務の合間の休憩時間に、シェムルから「見せたいものがある」と言われて連れ出された先は、ついに完成した大浴場だった。
まず、目を引くのは学校のプールを思わせる大きな浴槽だ。獅子や竜を象った石の彫像の口から、湯気を上げる大量の湯が流れ落ち、その大きな浴槽を熱い湯で満たしていた。
そして、その浴槽を取り囲むように半裸の戦士たちが立ち並び、その肉体美を誇示している。さらに薄布しか身にまとっていない美しいエルフたちが、流れてくる音曲に合わせ、薄い湯気の中を踊る光景などは、もはや幻想としか言えなかった。
呆けたように大浴場を眺めていた蒼馬に、エラディアが中へ入るように促す。
「さあ、ソーマ様。どうぞ、ゆっくりとお浸かりくださいませ」
気づけば蒼馬は着ていた服は脱がされ、薄手の湯着に着替えさせられていた。専門の追い剥ぎも裸足で脱げ出すエラディアの手際である。
そうして言われるがまま湯に浸かった蒼馬へシェムルが得意げに胸を張って言う。
「どうだ、ソーマ! 喜べ! うれしいだろ!」
得意満面といったシェムルに、蒼馬はしばらく無意味に口をパクパクと開閉させる。それから顔を赤くすると、蒼馬は身体と股間を羞恥に身を縮こまらせながら、こう言った。
「お願い。静かにひとりで入らせて……」
奏でられていた音曲がピタリと止まった。
◆◇◆◇◆
「はふぅ~。極楽、極楽ってね……」
蒼馬は大きな浴槽のひとつに満々にたたえられた湯の中に身を浸して、しみじみとそう呟いた。
そこは、あの大浴場であった。
せっかく皆の好意を無駄にするのも申し訳なかった蒼馬は、それ以来、度々この大浴場を利用していた。とは言っても貴重な燃料を使って大量の湯を沸かすのは贅沢であるため、数日ごとである。それもドヴァーリンに頼んで、大きな浴槽に仕切りを設けてもらってのものだ。それでも浴槽の大きさは現代風に言えばトラックの荷台ほどの大きさがある。そんな広い浴槽で、手足を大きく広げて湯につかるのが、最近では蒼馬の何よりの楽しみであった。
浴槽の縁に身体を預けて全身の力を抜き、湯の中に寝そべるようにしていると、疲労とともに身体が湯に溶けていくような気さえする。
「ソーマ、いるか?」
そうして湯船で蒼馬がくつろいでいるところへやって来たのは、ガラムであった。
「こんな格好ですみません。――どうかしました?」
「いや。おまえがくつろいでいるところ悪いとは思ったのだが、少し確認しておきたいことがあってな」
蒼馬は湯船に浸かったままガラムからいくつかの相談を受けた。
しばらくして話も終わり、気が抜けてしまった蒼馬は、暖かい湯に浸る心地よさもあって、思わず吐息を洩らしてしまう。
「はふぅ~」
そんな蒼馬の様子に、ガラムは小さく目を見張った。
「ずいぶんと気持ちよさそうだな」
あまりの気持ちの良さに、思わず人前で気が抜けたところを見せてしまった蒼馬は気恥ずかしげな顔で言う。
「ええ。やっぱりお風呂は、こう肩まで浸かって、ゆったりするのが最高ですね」
自分の言葉にガラムの目が興味深そうに輝いたのに気づいた蒼馬は、ちょっとした提案を思いついた。
「どうです? 時間があれば、一緒に入りませんか?」
湯船の湯も蒼馬があがれば、洗濯に使うか、そのまま捨ててしまうだけである。しかし、せっかく沸かした貴重なお湯なのだ。それではもったいない。他の人にも楽しんでもらった方が、有益だろう。
そう思った蒼馬の誘いに、ガラムは少し考える。
「そうだな……」
ゾアンは身体が汚れても水浴びをするか、せいぜい水で絞った布で毛を拭くぐらいである。このような大量の湯に浸かるという習慣はない。そのため、蒼馬がいかにも気持ちよさそうに湯に浸っている様子にガラムも好奇心が抑えられなかった。
しかも、ちょうど良い具合に、この後は特にこれといった予定もない。
「よし。物は試しに、お邪魔させてもらおう」
そう言うなりガラムはその場で胴鎧を脱いで、湯船に入ろうとした。
しかし、そのとき蒼馬は嫌な予感を覚える。
「ちょっと待ってください!」
蒼馬に制止され、湯船に入りかけていたガラムは片足を上げたまま止まる。
「どうかしたか?」
「えーと……僕の故郷では、お風呂に入るには作法があるんです」
不思議そうな顔で尋ねるガラムに、蒼馬はわずかに口ごもってから適当な嘘をでっち上げた。
「なんだ。面倒くさそうだな」
鼻にわずかにシワを寄せるガラムに、蒼馬はなだめるように言う。
「まず、あそこの甕に入っているお湯で体を流しましょう。僕が手伝います」
「身体を流すぐらいは、自分だけでできるぞ?」
自分の提案に怪訝そうな顔になったガラムを押し切って蒼馬は言う。
「いえいえ。お互いに裸になって、互いの身体を洗い合い、友好を深めるのを僕の故郷では『裸の付き合い』というんです」
「なるほど。寸鉄を帯びずに裸で向かい合うことで親睦を深めるのだな」
ガラムは自分なりに「裸の付き合い」をそう解釈した。
そう思えば、これは良い機会だとガラムは考える。
これまで蒼馬には苦労ばかりかけていた。蒼馬のおかげでゾアンたちは父祖の地である平原を取り戻せたばかりか、自分は大族長などという分不相応な称号までいただいたのだ。
その深い恩義に報いるためにも、ここは「裸の付き合い」とやらで親睦を深めておくのも悪くない。
ガラムは蒼馬が勧めるままに、木の桶を伏せた即席の椅子に腰掛けた。
「では、お湯をかけますね」
蒼馬は手桶で甕からお湯をすくうと、一声かけてからガラムの頭からぶっかける。
「……うわぁ」
蒼馬の口から、絶望に近い声が洩れた。
ガラムの身体から流れ落ちた水が、泥水のように濁っていたのだ。
しかも、汚れだけではない。よくよく見れば小さなダニかノミのような虫が、流れるお湯の上でジタバタともがいていた。これでは、蒼馬ならずとも現代日本人ならば誰もが愕然としたことだろう。
「ん? どうかしたのか?」
そんなこととは露とも知らないガラムは不思議そうに尋ねるのに、蒼馬は慌てて答える。
「いえ、なんでもないです! ――ところで、ガラムさんはお風呂は好きですか?」
「ああ。たまに川で全身を洗うと、さっぱりして気持ちがいいな。一昨日も洗ったばかりだ」
一昨日に洗って、これか。
蒼馬は石鹸を手に取ると、ガラムの背中をごしごしと洗い始めた。しかし、しばらくしておかしな事に気づいた。
いくらやっても石鹸が泡立たない。
蒼馬は間違って石鹸以外のものを手にしたのかと手許を見るが、それは石鹸に間違いなかった。
もしやと思って、また手桶でお湯を汲んで流す。すると、今度はお湯が黒く染まった。
おそらくは水浴び程度では落ちなかった垢や脂が固まった汚れが、石鹸で溶けたものだろう。これでは石鹸が泡立つはずがない。
愕然として手が止まった蒼馬にガラムが肩越しに尋ねる。
「もう終わりか、ソーマ?」
「……いえ。これからです!」
こうなれば徹底的にやってやる!
そう決意した蒼馬は、何度もガラムを石鹸で洗っては湯で流した。すると、しだいに石鹸も白い泡を立てるようになる。
そうして、ようやくガラムの全身を洗い終える頃には、せっかく温まっていた蒼馬の身体も冷めてしまっていたので、ふたりは肩を並べて湯船に浸かった。
「ふぅう~。これは、なかなかいいものだな」
初めての日本式のお風呂に、ガラムもご満悦といった様子だった。
「石鹸と湯で身体を洗うというのも、なかなか心地良い。冬毛から夏毛に一気に生え変わったような爽快な気持ちだ」
人間風に言えば、一皮むけたというところだろう。確かにあれだけの皮脂の汚れが落ちたのだ、さっぱりするだろう。
蒼馬とガラムは、しばし無言で風呂を堪能していた。
と、そこに新たな来客が訪れる。
「ソーマ殿。ここにガラムが来ておらんか?」
そう言って入ってきたのは、ズーグであった。ズーグは蒼馬と並んで湯に浸かるガラムを見つけると、ひょいっと片手を上げる。
「おう、ここにいたのか、《猛き牙》。探したぞ。ちょいと相談したいことがあってな」
「ああ。こんな格好ですまん。――何かあったのか?」
ズーグは湯に浸かったままのガラムとしばらく話し合う。ズーグが持ち込んだ相談は、いずれも大した内容でもなくすぐに相談は終わってしまった。
しかし、相談が終わってもズーグはすぐには立ち去らずに、湯に浸かる蒼馬とガラムを物珍しそうに眺める。
「ずいぶんと気持ちよさそうだな」
その台詞に、何となく既視感を覚えつつ蒼馬は言う。
「えーと……ズーグさんも、一緒に入られます?」
「ん? いいのか? ――そうだな。ひとつ経験してみるか」
ズーグはその場で胴鎧を脱いで入ろうとした。
しかし、それをガラムが制止する。
「待て、ズーグ」
そして、ガラムはしかつめらしい顔で、こう言った。
「この風呂に入るには作法がある。それを俺が教えてやろう」
◆◇◆◇◆
「あら、シェムル様。ソーマ様はご入浴中ですか?」
官邸の中をひとりで歩いていたシェムルに声をかけたのはエラディアだった。
シェムルが敬愛する「臍下の君」である蒼馬の傍から離れて行動するのは、よほどのことだ。
しかし、入浴するときだけは別である。
さすがに女性のシェムルが警護に就くわけにはいかない。そのときだけはシェムルも蒼馬の警護をシャハタに任せるしかなかった。そうして警護をシャハタに任せている間に、普段はなかなかできない獣の神の御子としてゾアンの戦士たちを鼓舞するために皆の様子を見て回るのが最近のシェムルの常であったのだ。
今日もまたゾアンの同胞たちの様子を見てきたばかりのシェムルは、ひとつため息を洩らしてから愚痴る。
「そうだ。ソーマの風呂好きにも困ったものだ」
せっかく作った風呂を喜んでくれるのは、シェムルとしてもうれしい。だが、入浴の度に警護を外れなければならないのがシェムルの密かな不満であった。
そんなシェムルにエラディアはクスッと笑ってみせる。
「まあ、よろしゅうございませんか」
それからしばらく、ふたりは他愛のない世間話に興じた。
ところが、その途中でシェムルはいるはずのない人を見かけて驚く。
「シャハタ! 何で、おまえがここにいる?」
それは蒼馬の警護をしているはずのシャハタであった。
不意にシェムルから声をかけられたシャハタは驚いて、身体をびくっと震わせる。すると、その両腕に抱えられていた大量の酒壺がガチャガチャと騒々しい音を立てた。
「おまえにはソーマの護衛を任せたのに、ここで何をしている?!」
シェムルの鋭い詰問に、シャハタはたじろぐ。
「え、いや、その……用を頼まれまして、やむなく」
しどろもどろに弁解するシャハタに、シェムルは容赦しない。
「やむなく、ではない! 護衛がいなくて、ソーマの身に万が一でもあったらどうするつもりだ!」
「私もそう申し上げたのですが、みんなが自分たちがいれば問題ないからと……」
キリキリと眼を吊り上げるシェムルに、シャハタの声も徐々に尻つぼみになって消えていった。
「皆とは、どこの誰のことだ?!」
シェムルはすごい剣幕で食ってかかった。
敬愛する「臍下の君」から護衛を遠ざけるなど決して許されないことだ。それを強要する不届き者は縛り上げて平原の狼の生き餌にしてやると言わんばかりの形相である。
それを真っ向から向けられたシャハタは、顔を引きつらせながら言う。
「ですから、みんながです」
◆◇◆◇◆
大慌てで大浴場に駆け込んだシェムルが見たのは、初日以外は湯が張られることがなかった大浴槽にも湯が満たされ、そこで酒壺を片手に大騒ぎしながら湯を愉しんでいる男たちの姿であった。
しかも、そこにいたのは兄のガラムとズーグだけではない。酒瓶を片手にガハハッと笑うドヴァーリンの姿があると思えば、向こうには潜水艦の潜望鏡のようにピンッと立てた尻尾を湯の中から突き出したジャハーンギルが湯船の中にうつ伏せで浮いている。さらには種族を問わず、数多くの男たちが湯船に浸かっていたのだ。
「……やあ、シェムル」
男たちとともに湯船に浸かっていた蒼馬がシェムルに気づいて手を上げた。
しかし、その顔は真っ赤で、湯あたりしているのは明らかだ。
慌ててシェムルは駆け寄ると蒼馬を浴槽から引きずり出す。陸に揚げられた魚のように力なくぐったりと横たわる蒼馬を気遣いながら、シェムルは男たちに向かって叫ぶ。
「貴様らっ! いったい何をしている?!」
ここは蒼馬のために造った浴場である。それなのに、なぜこいつらが蒼馬と一緒に湯を満喫しているのがわからなかった。
このシェムルの怒声に大騒ぎしていた男たちがピタリと止まる。
その中から、すでにほどよく酒精が回ってできあがっているズーグがご機嫌で答えた。
「おう。御子様ではないか。――見てわからんのか? ソーマ殿と男同士の裸の付き合いと言う奴だ」
ズーグが来た後も、どういうわけかこの日に限り次から次へと浴場に人が尋ねてきたのだ。そうした人たちが一様に風呂に興味津々といった様子だったので誘っていったところ、気づけばこの大人数となってしまったのだ。
そして、ついつい蒼馬が温泉に浸かりながら酒を楽しむ話をもらしたところ、それならばと誰かが酒まで持ち込み、気づけばこのような有様となってしまったのである。
そんなことを上機嫌な様子で説明したズーグは、そこで顔をしかめて見せた。
「だいたい、男の入浴中だぞ。そんなに俺たちの裸を見たかったのか?」
そう言うなりズーグは湯船の中で立ち上がると、「フンッ!」と小さく気合いを入れて、その見事に盛り上がった筋肉を誇示して見せた。しかし、問題は筋肉ではない。湯に入っていたのだからズーグは裸である。それが何も隠さずに立ち上がったのだ。
当然、股間はモロ出しである。
「なっ?!」
シェムルは絶句した。言葉が出せない代わりに、足元に転がっていた手桶を引っ掴むとズーグへ目がけて投げつける。手桶はズーグの頭に命中し、パコンッと言う音が浴場に反響した。
それを見届けることなくシェムルは全身の毛を羞恥と怒りに逆立てて、足音を荒げて浴場から出て行ってしまう。
「ヌハハハハッ! 勝った!」
頭に乗っかった手桶を王冠のようにかぶりなおしたズーグが勝利宣言をすると、周囲にいた男たちはやんやの喝采を上げた。
そんな男たちが馬鹿騒ぎをする中で、湯あたりをしてひっくり返っている蒼馬にエラディアが寄り添う。
「あらあら。ソーマ様、大丈夫ですか? ささ、もう上がられて休まれましょう」
蒼馬を助け起こすエラディアに気づいたズーグが、ニヤリと笑う。
「おう、エラディア殿も覗きか?」
そう言うとズーグは、再び自分の肉体を誇示するポーズを取る。
先程と同じく濡れた獣毛の下で盛り上がる筋肉。
そして、モロ出しとなる股間。
しかし、エラディアはわずかにも動じない。
そればかりか、微笑んだまま視線を下に向けた後、上品に口許を片手で隠す。
そして、くすりと小さく笑った。
「ぬあっ?!」
背景に稲妻が走りそうなほど衝撃を受けたズーグは、一気に酔いが醒めてしまった。それからズーグは股間を隠しながら、ずぶずぶと湯船の中に沈んでしまう。そして、その後ろで喝采を上げていた戦場では百万の敵すら恐れない猛者たちもまた、いっせいに股間を隠すと、小さくなって湯船に沈んだのである。
◆◇◆◇◆
この日本式の風呂と、そこでの酒宴は多くの者たちから好評を博した。この後も蒼馬が大浴場を利用するたびに、多くの者たちが理由をつけては大浴場を訪れ、入浴に与ることになるのだ。
しかし、これに不快を示したのがシェムルである。
浴場でのズーグの悪戯がよほど衝撃だったのだろう。ことあるごとに蒼馬たちが入浴するのを「破廉恥だ! 不道徳的だ!」とこきおろしたのである。
そして、それを聞いた多くの民衆たちは、こう噂をしたという。
自他ともに認める破壊の御子の第一の忠臣である彼女が、それほど口汚く罵るのである。そこでは、よほど淫らで不道徳で退廃的な行為が行われているのだろう、と。
今後「蒼馬の休日2~凶馬の呪い~」なども公開できればと思っていますが、あくまで本編を最優先なのでいつになるとも確約できませんがあしからず。