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獣の刻印(前)

本作は書籍版第1巻の書下ろしとして執筆したものです。

この書下ろしの中の登場人物が七年以上の時を経て本編に再登場したのに合わせてweb公開に踏み切らせていただきました。

本来ならば書籍版購入の特典的な意味合いがある書下ろしですが、本編で改めて再登場の人物の説明しても蛇足にしかならないのと、すでに書籍版が出版されてから七年以上が経過して入手が困難という状況を鑑み、公開させていただきました。

なにとぞご了承いただけますよう、お願いいたします。

 ざあっと音を立てて、北風が吹いた。

 木の枝に未練がましくしがみついていた木の葉を蹴散らした冬将軍の使者は、勝利を高らかに歌いながら、平原へと駆け抜けていく。

 そこは、ソルビアント平原の北に位置する山の中である。

 冬を間近にした山肌には色鮮やかな絨毯を敷き詰めたように、赤や茶色の落ち葉が積もっていた。その中で、北風に身ぐるみをはがされた木々たちが、天に向けて慈悲を乞うように、節くれだった枝を空高く差し伸べている。

 そんな山の中を一匹の小さな獣が駆けていた。

 いや、よく見れば、それは獣ではない。

 全身を覆う茶色の獣毛に、白目の少ない眼球、鼻梁のない低い鼻、尖った耳。いずれも獣の特徴を有しながら、それは二本の足で駆け、その手には鉤爪が生えてはいるが人と同じ器用に動く長い指を有していた。

 ゾアンである。

 このセルデアス大陸に住まう七種族のひとつ、七柱神の一柱である獣の神によって生み出されたと言われる種族だ。

 その小さな獣――いや、少年の後をさらに五人のゾアンの少年が追いかけて来た。その少年らは、いずれも両手両足で地面を掴み、全身を躍動させるようにして四つ足で駆けて来る。

 瞬く間に追いつかれた先を駆けていた少年は、山肌に大きく突き出していた大岩を背にするようにして囲まれてしまう。

「やーい! のろま、のろま!」

「おい! おまえも四つ足で駆けてみろよ!」

「そうだぞ! 四つ足で走れないと、戦士にはなれないんだぞ!」

 そうやって(はや)し立てられた少年は、その目に涙をジワリと浮かべる。

 その少年の仕草をよく観察すれば、怪我でもしたのか、その右足をかばっているのに気づいたであろう。

 言い返せずに泣きべそをかく少年に、さらに調子に乗って囃し立てようとしたイジメっ子らは、自分らの上に影が落ちたのに気づいた。ふと見上げれば、いじめられている少年が背負っていた大岩の上に、小さな人影が立っている。

 それは、ひとりのゾアンの少女だった。明るい栗色の毛をしたその少女は、小さな胸の前で腕組みをし、全身を使って、いかにも自分が不機嫌であると示している。

「やば! 男女だ!」

 イジメっ子のひとりが、焦り声を上げた。それに続いて仲間たちも声を上げる。

「女は、あっち行け! ばーか、ばーか!」

「そうだ! 女はあっち行け!」

 しかし、その少女はイジメっ子たちの罵声には毛ほども怯まず、組んでいた腕を解くと、ぐわっと牙を剥いた。

「うるさい! このひきょうものどもめ!」

 そう言うなり少女は、岩の上から飛び降りた。そして、空中で、くるりと前転をすると、そろえた両足を勢いよく伸ばし、イジメっ子のひとりに強烈なドロップキックを叩き込む。

 少女の蹴りとはいえ、全身のばねを使い、落下速度も加わったその威力は凄まじく、それを食らったイジメっ子は、ゴロゴロと山の斜面を転がり落ちる。ようやく尻餅をついたような格好で転がるのが止まったイジメっ子は、しばらくきょとんとした顔をしていたが、自分が蹴り飛ばされたのに気づくと、大声で泣き始めた。

 突然の出来事に、驚きのあまり固まってしまったイジメっ子たちを少女は睨みつける。

「ひきょうな奴は、このあたしが許さないぞ!」

 そう言うや否や、少女はもっとも近くにいたイジメっ子に殴りかかった。相手は四人で、しかも自分よりも身体が大きい男の子ばかりである。しかし、もともと弱い奴をいじめていた彼らと、怒りに燃える少女とでは喧嘩の気迫が違う。瞬く間に、イジメっ子たち少女に叩きのめされてしまった。

「この男女ぁー! もう、遊んでやらないんだからなぁー!」

「ばーか、ばーか!」

 半べそを掻きながら、負け惜しみを言ってイジメっ子たちは逃げ出した。

「どうだ! 見たか! ほこり高い戦士は、ひきょうものには負けないんだ!」

 イジメっ子たちを撃退した少女は、腕組みをすると、ムフーッと鼻息も荒くして勝利宣言をする。

 そこに、いじめられていた少年がおずおずと声をかけてきた。

「……あの。ありが――」

 感謝の言葉を言おうとした少年だったが、最後まで言い切る前に、ガツンッと目の前に火花が散った。

 ぺたりと尻餅をついた少年は、目の前に立つ少女が拳を突き出しているのに気づく。

 自分が少女に殴られたとわかった少年は、気が緩んでいたこともあり、それまで我慢していた涙が一気に溢れ出し、わんわんと泣き始めた。

 泣き出した少年の前に仁王立ちになった少女は、高らかに吠える。

「シャハタ! おまえもなぜ怒らない!」

 少女の名前は、ファグル・ガルグズ・シェムル。

 後に《気高き牙》と呼ばれる少女である。


                  ◆◇◆◇◆


「あたしは自分に恥ずかしいことはやってないもん!」

 そう言って天幕から飛び出してしまった娘に、〈牙の氏族〉の族長を務めるファグル・ガガンタ・ガルグズは、ほとほと困り果ててしまった。 

 子供たちが喧嘩をしたと騒いでいた同胞を捕まえて話を聞けば、驚いたことに自分の娘のシェムルが当事者だと言うではないか。

 急ぎ探し出したシェムルを問い正すと、シャハタと言う少年がいじめられていたのを目にし、許せなかったからだと言う。

 それだけならば良い。見上げた心意気だと褒めてやるところだ。

 だが、それならばいじめられていた当の本人まで殴り飛ばしたのは、どういうわけだと問い詰めれば、「戦士たる者、たとえ多勢に無勢だろうと臆して戦わないとは言語道断。勝てなくとも、誇りを胸に敵へと立ち向かわねばならないのだ」と言うような主旨のことを舌足らずな口調で言い張るのだ。

 いったい、どこでそんな言葉を覚えて来たのかと自分の娘ながら呆れてしまう。

 しかも、言っているのも一応は筋が通っているから、なおさら始末に悪い。どう(さと)したものかとガルグズが頭を抱えていると、そこに天幕の入口をふさいでいた毛織物がはねのけられ、誰かが飛び込んで来た。

 それは、濡れるような黒い毛をしたゾアンの少年である。しかし、その美しい黒い毛は、今は土と落ち葉で汚れ、よく見れば口許には傷すらつけていた。

「どうした、ガラム?」

 それは、ガルグズの息子であるガラムであった。

「……何でもない」

 そう言うなり、ガラムは天幕の隅っこで毛織物をひっかぶって丸くなってしまう。

 この息子のおかしな態度に、どう声をかければ良いか困惑するガルグズだったが、そこに天幕の入口から咳払いが聞こえて来た。

 誰かと問うと、入口をふさいでいた毛織物がわずかにめくられ、そこから赤毛のゾアンが顔を覗かせる。そのゾアンは口許を手の平で覆い、しゃべるなと仕草をしてから、ガルグズを手招きした。

 そのゾアンに連れられて自分の天幕から十分に離れたところまで来ると、ガルグズは尋ねた。

「おい、グルカカ。息子が何かしたのか?」

 その赤毛のゾアンは、ガルグズの親友でもあるファグル・ジャガタ・グルカカであった。

「したのではなく、俺がしてやったのだ」

 グルカカは、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「おまえの息子は、とんでもないぞ。山刀の扱いは雑なくせに、その(たい)のさばき、膂力(りょりょく)、反応の速さ。いずれも同年代のガキどもの中では抜きん出ている。いや、比較にすらならん。あれは、天性の素質と言う奴だな」

 それはガルグズも同じことを思っていた。自分の息子ながら、とんでもない素質を秘めている、と。

「だが、それに頼って少しうぬぼれているのが心配だ」

 だからこそ、村で一番信頼する戦士であるグルカカに、指導を頼んでいたのだ。

「あれほどの素質を持っていれば、無理もあるまい。――だから、ちょいと鼻をへし折ってやったのだ」

 いくら天性の素質があろうともまだ実戦経験が乏しく、技も未熟なガラムでは、歴戦の勇士であるグルカカの敵ではない。しかし、負けず嫌いな息子のことだから、何度となく挑みかかり、そして叩きのめされたのだろう。

 それならば、あの有様も納得がいく。

 良い薬になっただろうと苦笑いするガルグズに、グルカカはずいっと右腕を突き出して、その外側を見せる。すると、そこだけグルカカの赤い毛が黒く濡れていた。

「言っておくが、油断したわけではないぞ」

 ガルグズは、目を見張った。模擬試合とはいえ、グルカカに手傷を負わせられるほどの者が、この村の戦士の中にどれほどいるだろうか。しかも、それがまだ毛も生えそろわない若造なのだから、驚きだ。

「あれの力は、飛び抜けている。あれを正しく育てれば、将来は平原に名を残す戦士となるだろう」

 手傷を負わされたと言うのに、グルカカは嬉しくてたまらない様子であった。

「本当に、それほどなのか?」

「それほどだ」

 念を押すガルグズに、グルカカは一切の躊躇(ちゅうちょ)もせずうなずいた。

 それに自分の息子ながら大したものだと、つい口許が緩んでしまいそうになったガルグズだったが、先程のシェムルとのことを思い出し、鼻にしわを寄せた。

 ガラムの素質も予想以上だが、あの真っ直ぐすぎるシェムルの気質もある意味では親の予想を超えている。

「浮かぬ顔をして、いったいどうした?」

 鼻にしわを寄せたガルグズに、グルカカは不思議そうに尋ねた。

「シェムルのことだ……」

 それだけでグルカカは、察した。

「ああ。――何でも、五人のイジメっ子相手に、大立ち回りをしたそうだな。見事なものじゃないか。村でも噂になっていたぞ」

 そして、からかいを込めてガルグズに言う。

「あの子も、将来は平原に名を残す女戦士になるのではないか?」

 その途端、ガルグズは情けない顔を作ると、こう嘆いた。

「それは勘弁してくれ、グルカカ。本当に、そうなりそうで怖いわ」


                  ◆◇◆◇◆


 天幕を飛び出したシェムルは、父親に叱られたのもどこ吹く風で、いつもの遊び場へと向かっていた。

 最近、シェムルが遊び場としているのは、村の近くを流れる川の急流を渡り、向こう岸の斜面を流れ落ちる小さな滝を遡ったところにある、小ぢんまりとした沢である。

 そこは、子供の足では村からやって来るにはやや遠く、大人たちが狩りの休憩場所にするには村に近すぎる位置にあるため、あまり村の同胞たちも寄り付かない場所だ。

 しかし、シェムルはその近くに主がいなくなった洞穴熊の巣を見つけ、それを隠れ家と呼んで遊び場にしていたのである。

 今日も沢で拾い集めたきれいな石や棒として振り回せる枝をもって、隠れ家へと向かったシェムルであったが、その手前まで来たとき、ぴたりと足を止めた。そして、ヒクヒクと小さく鼻を鳴らす。

 自分以外の臭いがする。

 それは、獣の臭いではない。かといって、村の同胞たちの臭いとも違う。

 嗅いだことがない臭いにシェムルはいつでも全力疾走で逃げられるように四つ足になると、足音を忍ばせて穴の中に入っていった。

「……誰だ、そこにいるのは?」

 穴の中にいたのは、見知らぬゾアンの男であった。

 ゾアンの戦士ならば、色鮮やかに染めた蔦を編み上げた胴鎧を必ず身に着けているものだ。それはゾアンの胴鎧の意匠が、それぞれの氏族や血族で引きつがれたもので、それを身に着けることで氏族や血族の誇りを背負うと言う意味もあるからだ。

 ところが、この男は毛織物で作った貫頭衣を腰の辺りで縛った上着に、同じく毛織物のズボンしか身に着けていなかった。これでは、こいつがどこの誰だかわからない。

 また、おかしいのは服装ばかりではなかった。男の目は視点が定まっておらず、運動したわけでもなさそうなのに、肩を激しく上下させて荒い息をついている。

「……何だ、小娘?」

 その男は、かすれた声で途切れ途切れに言う。

 それにシェムルは持ち前の負けん気を発揮し、男に食って掛かった。

「小娘とは、失礼な奴だ! ここは、あたしの秘密の隠れ家だ。おまえこそ、誰だ?!」

 シェムルの言葉に、その男は自分が寄りかかっていた石に目を落とす。人の手で運ばれたとおぼしきその石は、シェムルが椅子代わりに持ち込んだものだ。その周りには、やはりシェムルがこれまで持ち込んできた、きれいな石や木の実などが転がっている。

 それに男は今の今まで気づかなかったが、かすかに鼻を鳴らして穴の中の空気を嗅げば、確かに目の前にいる少女と同じ臭いが穴の中に染みついていた。

「そうだったのか……。それは悪いことをしたな。この通り、謝ろう」

 年端もいかない子供に食って掛かられたというのに、男は怒りもせず、そればかりかシェムルに謝罪まですると、穴を後にしようと立ち上がろうとした。しかし、よほど体調がすぐれないのか、その動作は鈍く、ただ立ち上がるだけでも辛そうである。

 それにシェムルは、困ってしまった。

 せっかく見つけた自分だけの隠れ家なので、他人に居座られてしまうのは嫌だ。ましてや、ここは〈牙の氏族〉の領域の中である。どこの氏族ともわからぬ者が勝手に居ついて良いわけがない。しかし、見るからに体調が悪い人を追い出してしまうのも気が引けてしまう。

 そんな風に迷っていたシェムルの前を男が通り抜けようとしたときである。

 不意に男の身体が前のめりになり、そのまま音を立てて倒れてしまう。

「お、おい! 大丈夫か?」

 いきなり倒れたまま起き上がる様子のない男に、シェムルは指で突きながら声をかける。

 だが、反応がない。荒い呼吸音が聞こえるため死んではいないみたいだが、どうやら意識を失ってしまっているようだ。

「むぅ~……」

 シェムルは、ほとほと困り果ててしまった。


                  ◆◇◆◇◆


 身体の上に、何か柔らかく重いものが覆いかぶさっている。

 そんな感覚に男は目を覚ました。何度か瞬かせた目をすがめて自分の身体の上を見ると、何枚もの毛皮や毛織物がうず高く積み上げられていた。

 これはいったい何だ? と戸惑う男に声がかけられる。

「起きたか?」

 聞こえて来た幼い声に、そちらに顔を向けるとそこには、ここを自分の隠れ家だと言っていた少女がいた。

 どうやら自分が気を失っている間に、この少女が毛皮や毛織物をかけてくれたようだ。やや行き過ぎは否めないが、おかげで身体を冷やすことなく、先程よりいくぶんかは体調も良くなっているようである。

「すまぬ。迷惑をかけたようだな」

 そう言って毛皮の山を崩しながら起き上がろうとした男をシェムルは手を上げて制した。

「まあ、待て」

 この少女は何を言うのかと眉根を寄せる男の前で、シェムルはその小さな胸を張って腕組みをし、大人ぶった口調で言った。

「ここは、あたしの家も同然だ。そこに来たおまえは、いわば客人だ。客人をもてなさずに帰すのは、戦士として恥だ!」

 そして、男に指を突きつける。

「――というわけで、おまえは、あたしのもてなしを受けなくっちゃいけない。そこで、おとなしくあたしのもてなしを受けるが良い!」

 何とも強引な理屈である。

 しかし、男は不快には感じなかった。

 それどころか、少女の純粋さ故か、小気味良さすら感じる。

「ああ。それでは、おまえのもてなしを受けよう。小さな戦士よ」

 そう男が感謝を込めて言ったとたん、シェムルの態度が一変した。

「戦士!」

 シェムルは、ムフーッと鼻息を荒くする。よほど戦士と言われたのがうれしいのか、全身の毛を逆立たせて、興奮していた。

「おい! おまえの名は?」

 シェムルは威厳たっぷりに名を尋ねる。

 しかし、そう思っているのは当人だけで、(はた)から見れば、どう見ても幼い子供が必死に背伸びしているような微笑ましさしか感じられない。

 男もそう感じたのか、微苦笑を浮かべて答える。

「俺の名前は、シェンガヤ」

「シェンガヤ? 他の名前はどうした?」

 ゾアンが名乗る時は、氏族姓と父親の名前の次に自分の名前を言うものだ。しかし、シェンガヤと名乗るゾアンは、自らの名前しか言わなかった。

「ただの、シェンガヤだ」

 たまに氏族姓と父親の名前を名乗れない場合がある。たいていは恥ずべき行為の罰として、氏族姓などを奪われるのだが、シェムルはシェンガヤと名乗った男が、そのような悪い奴には思えなかった。

「わかった! ただのシェンガヤだな。あたしは、ファグル・ガルグズ・シェムルだ!」

 それから上目遣いになって言う。

「でも、戦士と呼んでも良いぞ!」

 むしろ、そう呼んで欲しいとしか取れないシェムルの態度である。それにシェンガヤはただ戦士と呼ぶのではなく、このこまっしゃくれた少女への悪戯心も込めて、次のように言った。

「ああ。――では、小戦士と呼ぼう」

「むぅ……。まあ、いいか!」

 頭に小とつけられているのは残念だが、自分が小さいのは事実だ。

「よし、シェンガヤ! 腹が減っているだろう。これを食え」

 そう言ってシェムルが手渡したのは、小さな果実を干したものである。子供のおやつに良く食べられるものだが、ここ数日の病のせいで、狩りもできず、ろくに食べ物を口にしていなかったシェンガヤには、その甘酸っぱい果肉は胃袋に沁みるようであった。

「安心しろ、シェンガヤ。あたしの父は、〈牙の氏族〉の族長だ。後で、父に会わせてやるぞ」

 同じように干した果実を齧っていたシェムルがそう言うと、シェンガヤは焦った。

「小戦士よ。もしや、俺のことを誰かに言ったのか?」

「いや。まだ、だぞ」

 先程、シェムルが毛皮や毛織物を取りに自分の天幕に戻ると、なぜか兄のガラムが毛織物を引っかぶったまま丸くなって寝ているだけで、父親のガルグズの姿はどこにもなかった。また、毛皮や毛織物を運んでいる途中で何人かの同胞とすれ違ったが、シェムルの奇行はいつものことなので、誰にも咎められはせず、彼女もわざわざ聞かれないことを教えはしなかったのだ。

 それにシェンガヤは、ホッとした様子で身体から力を抜いた。

「小戦士よ、頼みがある」

「おっ! 何だ? 何でも言ってみろ!」

 穴の外に種を飛ばしていたシェムルは、うれしそうに返事をする。

「俺のことは、誰にも言わずに内緒にしておいて欲しいのだ」

「うん、わかった!」

 シェンガヤの頼みに快諾したシェムルだったが、ハッと何かを思いついた顔になる。すると、いそいそとシェンガヤに向かって真正面に向き直るとすまし顔で、こう言った。

「このファグル・ガルグズ・シェムルは、父の名と我が戦士のほこりにかけて、シェンガヤのことは、ないしょにすると誓うぞ」

 見よう見まねで戦士の誓約をするシェムルに、シェンガヤもしかつめらしい表情を作る。

「その誓い、確かに受け取ったぞ、小戦士よ」

 そして、ふたりはどちらともなく笑い合ったのだった。


                  ◆◇◆◇◆


「待て、シェムル。どこに行くつもりだ?」

 自分の分の昼飯を持ったまま、天幕から出て行こうとするシェムルをガルグズは呼び止めた。

 ここ数日、シェムルは食事になると自分の分を持ってどこかに行くのである。おおかた以前ように傷ついた山猫の子供でも拾って、餌をやっているのだろうぐらい思っていたガルグズだったが、こう毎日ではさすがに咎めぬわけにもいかない。

「ちょっと外で食べてくるだけだ」

「ダメだ。ここで食え! それとも、ここでは食えない理由でもあるのか?」

 そう言われてしまえば、ここで食べないわけにはいかない。

 シェムルはその場で干し肉や団子を口いっぱいに詰め込むと、頬を膨らませてモグモグと口を何度か動かしてから、ゴクリと飲み込んだ。

「遊んでくる!」

 不機嫌さを表すように全身の毛を逆立てて天幕を出て行くシェムルの後姿を見送ってからガラムは、父親に目を向ける。

「なあ、親父。最近、あいつは変じゃないか?」

 息子の問いにガルグズは、すげもなく答える。

「あいつが変なのは、前からだ」

「……それもそうか」

 ガラムも納得して、自分の残りの食事を口に運ぶ手を動かした。

 父親と兄から、ひどい言われようをされているとは知らないシェムルは、いつものように隠れ家に向かっていた。しかし、今日はすぐに隠れ家には行かず、途中にある沢の中にザブザブと音を立てて踏み入る。

 そして、太ももまで水に浸かりながら、じっと身動きひとつせずに沢の中でたたずんだ。そのまま、しばらく真剣な面持ちで水面を凝視していたが、いきなり両手を勢いよく河に突き入れる。

 激しい水音とともに、水しぶきが顔にかかった。

「むぅ。ダメだった……」

 シェムルは悔しげな顔をして、水面から何も掴めなかった腕を引き抜いた。

 兄のガラムは、まるで鈴なりに実った果実でももぎ取るように、ひょいひょいと川魚を掴み取るのだが、どうも自分には出来そうもない。

 さて困ったぞ、とシェムルは河原に転がる大きな石の上にあぐらをかいて座る。

 これまでは自分の食事をシェンガヤに分け与えていたのだが、今日のように父親に咎められては、それもできなくなってしまった。そこで何とか自力で食べ物を手に入れようとしたのだが、それもうまくいかない。

 冬支度のために、すでに村の周辺にある食べられる木の実はあらかた採り尽くされているし、兎や鳥を狩るには今のシェムルは力不足であった。

 さて、どうしたものかと、うんうんと唸りながらシェムルは考え込んだ。

 しかし、すぐにめまいでも起こしたように、上半身をぐらぐらさせたかと思うと、後ろに倒れこむ。

「むぅ~。あたしはバカだから、良い方法が思いつかない!」

 仰向けになったまま抜けるような青空を眺めていたが、しばらくしてからシェムルは大きく両足を振り上げると、それを下ろす反動で寝ている体勢から一気に飛び起きた。

 そして、その小さな胸の前で腕組みをすると、ムフーッと大きな鼻息を洩らす。

「戦士たる者は、たとえいっときのおじょくにまみれようとも、誓いを守るものなのだ!」

 そう言うと、シェムルは村へ足を向けた。


                  ◆◇◆◇◆


 朝、ガルグズが目を覚ますと、シェムルの姿が寝床から消えているのに気づいた。昨夜は何やらゴソゴソを動いていたのは知っているが、いつの間にか外に出て行ってしまったようだ。

 どうせ朝食ができる頃には戻って来るだろうと深くは考えず、石を囲って作った炉に柴をくべて火を起こそうとする。

「族長、大変だ!」

 そこへ天幕の外から、自分を呼ぶ声がした。来訪も告げずに声をかける無礼に気づかぬほど切迫している様子に、これはただ事ではないとガルグズも外に飛び出す。

「いったい、何ごとが起きた?!」

 そこにいた村の戦士にガルグズが吠えるように問い質すと、その戦士は慌てふためきながらも事情を説明する。

「大変なんだ、族長! 昨夜のうちに食糧庫から食い物が盗まれた!」

 ガルグズは、「何だとっ?!」と叫びながら驚きに目を見張った。

 これから厳しい冬を迎えようとしている時期に、ただでさえ少ない食糧を盗まれては、氏族の者たちの命に関わる。だが、それ以上に、固い同胞の絆で結ばれていたはずの村で、そのような不心得者が出たのにガルグズは愕然とした。

「どれほど盗まれた?! 盗んだ奴は分かっているのか?!」

「盗まれたのは、せいぜいひとりが数日食う分だ。あと、盗人は、わかっている」

 盗人の正体が分かっていると聞き、ガルグズは怒りとともに叫んだ。

「いったいそいつは、どこの誰だ?!」

 しかし、その戦士は即答しなかった。

「説明するより見てもらった方が早い。まあ、とにかく来てくれ」

 その戦士が案内したのは、村のはずれに設けた檻である。

 格子状に組んだ太い木の枝を縄で固定した簡素な造りのその檻は、村の掟を破ったり、騒動を起こしたりした者を閉じ込めておくためものだ。普段は人が寄り付かない場所だと言うのに、すでに何人もの同胞らの姿が見えた。しかし、彼らの顔には盗人への侮蔑やそれを捕えた興奮と言った表情はなく、何故か激しい困惑の色を浮かべている。そして、彼らはガルグズが来たのに気づくと、気まずそうに顔を逸らすのだ。

 いったい何があったのかと怪訝に思うガルグズだったが、盗人を捕えていた檻の前に来ると、しばし呆然と立ちすくんでしまう。

「……これは、どういうことだ?」

 たっぷりと十を数えるほどの間をおいて、ようやくガルグズはそう尋ねた。

 それに誰もが返答に窮してしまう。その中でただ一人、グルカカだけが口を開いた。

「言っておくが、俺たちの誰かが入れたわけではないぞ」

「だから、どういうことなのだ?!」

 悲鳴のように叫んだガルグズに、グルカカはため息ひとつを洩らして言った。

「気づいたときには、すでに檻の中にいた。本人が言うには、罪を犯したので自分から入ったらしい」

 檻の中で、ガルグズに気付いたその盗人は、ひょいと片手をあげる。

「族長、おはよう!」

 檻の中から、あっけらかんと朝の挨拶をしたのは、シェムルであった。

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