どこかのだれか
ウエストヒルの小さな村。その南端にある掘っ立て小屋は、今日もつつがなく異世界だった。
差し込んだ淡い黄金色の光は小屋全体を朝焼け色に染め、部屋中に散らばる細かな埃の粒子に混じってヒカリムシたちがキラキラと輝きを放ちながら床や天井付近を舞っている。まるで妖精が飛び回っているようだ。
なんて、ヒカリムシが妖精とはお門違いもいいところだ。妖精は綺麗な泉か深い原生林にしか棲みつかないという。一方ヒカリムシは水場と暗い場所を好むどこにでもいるムシ。妖精と比べるのも畏れ多いのだが、近くに溜め池があるこの小屋はどうやら彼らにとっての恰好の住処らしい。
小屋の中に家具などはない。鍬や鎌などの仕事道具、違う大きさのバケツが二つ。少しばかりの木材に、備蓄してある米や干し肉。それがこの小屋にあるすべてだった。いや正しくは納屋というべきか。
朝の空気は少し冷たい。壁の木材が腐って剥がれた隙間から、容赦ない風が入り込む。
肌寒さに藁で造った寝床の中で身震いしながら、ユズキは目を覚ました。
「寒っ……」
たまに顔近くに飛んでくるヒカリムシを雑に手で払いながら、モゾモゾと寝床から這い出る。
農家の朝は早い。
時期によって差はあるが、日の出前には自分の田畑に向かうことも珍しいことではない。
だから今日のユズキは、いつもよりも遅起きだった。
そそくさと身支度を整え、顔でも洗ってくるかと納屋の扉を開けると、何やら外が騒がしい。この時間帯ならば、農家以外はまだ出歩かないはずなのだが。
そう思いつつ小屋裏の井戸に向かおうとすると、背後から声が聞こえた。
「おーい、ユズキー」
振り向くと村の中心の方から、こちらに手を振りながらあぜ道を縫って走ってくる人影が見えた。
まだ冴えきらない目を細め、その姿を確認する。
段々と近づいて来るにつれてハッキリとユズキの目に映ったのは、一人の男の姿。
隆々とした筋肉を包むように着こなされた藍色の甚兵衛。その服から伸びる手足はスラッと長い。
だがそんなことよりも何よりも、ユズキの目線を釘付けにしたのは、人間の容姿にはとても似つかわしくない、豚の形をした頭部だった。
「なんじゃあれは」
ユズキは思わず二歩三歩たじろいだ。
その姿は、控えめに言っても「化け物」としか形容できない。或いは魔物か。とにかく不恰好でおぞましい豚男が、狼狽しているユズキにどんどん迫って来ていたのだ。
やばい、襲われる。
そう直感したユズキは、納屋に立て掛けてあったスコップを手に取った。
それでも豚男は警戒する素振りもなく、少しも足を緩めない。こちらの様子にはお構いなしだ。
目の前に迫る豚男に、震える両手で狙いを定める。
そして間合いを計り、勢いよくスコップを降りおろした。
「あぶねっ」
だが、その一撃は虚しくも空を切った。そのままスコップは地面をえぐって突き刺さる。
豚男は攻撃をひらりとかわし、目の前で止まった。そして、どこから出たか、情けない声をあげた。
「馬鹿、ユズキ寝ぼけてんのか? 俺だって」
「は?」
若干の面食らったような声、そして豚男は自分の頭部を持ち上げる。
その声にも、豚頭の中から現れた顔にも、ユズキは見覚えがあった。
「タラシ?」
「だれがタラシじゃこら」
豚男の正体はユズキの旧友もとい、悪友のタラシだった。
「なんだよその被り物は」
「へへ、じい様たちがこれでユズキを起こしてこいってさ」
そう答えてタラシはふわっと笑った。
タラシはこの村の現村長の息子。加えて、タラシの父は村唯一の神社『御手洗神社』の神主も務めている。だからさしずめタラシはその跡取り息子ということになる訳だ。
だが、そんな大層な肩書きをまるで感じさせないほどにこいつは能天気というか、だらしのない奴だった。
よく習い事や稽古を抜け出して来ては、ユズキが農作業をしている所を阿呆のように口をぽけぇと開けながら畑の端でただ眺めている。
そしてユズキの作業が一段落すると、何処へともなくタラシはユズキの手を引いて遊びに出かける、というのが常だった。
村の遊びといえば大抵が山や川を駆け回るくらいなのだが、親が繕ってくれたらしい小綺麗な衣服も、タラシはいつもだらしなく着崩して、どんなに土で汚れようとも少しも気にしなかった。
ユズキがあだ名で「タラシ」と呼ぶのも、そういう理由だ。
そんなタラシの性分を、ユズキは煩わしいと思う時こそあれど、嫌うことはなかった。
むしろ家柄や生活の差で高慢ちきにならず、身寄りのない貧乏暮らしの自分とも分け隔てなく友達のように接してくれるタラシの懐の広さは素直に感心するし、とても感謝している。
まぁだからと言って、先のイタズラでユズキが気を悪くしないかと言えば別の話。
「こんな朝からご足労痛み入るけど、これから芽キャベツとさつまいもの種蒔きをしなくちゃなんだ。だから遊ぶのはその後にしてよ」
素っ気なく言ったユズキに、タラシは目を丸くする。
「何言ってるんや、今日が何の日か忘れたんか」
「え?」
「今日は御手洗祭りやで」
タラシの言葉に、ユズキはハッと思い出した。
「やっぱり忘れとったか。ユズキはたまに抜けたとこあるからな」
そう言ってタラシは皮肉っぽく頭を抱える。
「もう後集まってないのユズキだけやで、はよ行くぞ」
そしてもう一度豚の頭を被り直し、村の方へ体を向けた。
何だか馬鹿にされているようで若干癪に障ったが、今は意地を張っている場合ではない。
ユズキはスコップを放り出し、走りだしたタラシの背中に連れだって御手洗神社に向かった。
御手洗祭りは、年に一度開かれるウエストヒルで一番大きなお祭りだ。ユズキたちの村はいつも閑散としているのだが、その日だけは遠くからも祭りのために訪れる人で村は活気を帯びる。
祭りでは1日を通して様々な演目や儀式を行わなければならないため、毎年村人が総出で早朝から準備に取り掛かるのだ。
そしてその祭りこそが、ユズキが一年で最も心踊る行事だった。
「出願の締め切りにはギリギリ間に合いそうやな」
「だといいんだけど……」
懸命に走りつつも不安げな顔をするユズキ。
そんな横顔を見て、タラシは何かを思い付いたように言う。
「心配すんなや、いざとなったら俺が用紙を裏からちょちょいと――」
「それはだめだよ」
一瞬、二人の間に沈黙が流れた。
タラシはあっけにとられたように、ユズキを見つめている。
「あ、いや、ごめん。でもだめだ。みんな正々堂々と出願してるんだ。それでもし僕が選ばれたとしても、それで胸を張って皆の前に立てるほど、僕は無神経じゃない」
まあ、どうせ選ばれることはないけどねと、ユズキは自虐めいて微笑む。
すると、その笑顔もかき消すほどの高笑いで、タラシはユズキの背中を思いっきり引っ叩いた。
「痛って!!」
「さっすが、俺が見込んだ奴じゃ!」
背中がジンジンと熱い。あまりの痛みに飛び上がるほどだった。
「ユズキはきっと選ばれる。お前には十分、その資格があるんやからな!」
「いや、分かんないでしょ。そもそもあれ、抽選式だし」
「それでもなれるさ。俺がユズキに嘘ついたことあったか?」
根拠のない言葉だった。けれど何故かタラシが言うと、本当になれるのではないかと思えてくる。
やっぱりタラシは、すごい奴だ。
「その頭で言われても、説得力ゼロだよ」
「あ……忘れてた」
タラシは少し恥ずかしそうに豚の被り物を取ると、走り去り際に、よりにもよって道の端にあったお地蔵様の頭に被せて置いた。
この罰当たりめ。
もう御手洗神社は目の前だ。鮮やかに散りばめられた色とりどりの装飾にも負けない真っ赤な鳥居が目に映る。
既に準備に取り掛かる村人で大通りは騒がしい。杭をうつ音、荷物を運ぶ人の掛け声。
その雑踏の中、両端に灯籠の立てられた道を駆け抜け、その鳥居をくぐった時、タラシはユズキの肩に手を回して言った。
「なれよユズキ。勇者に」
御手洗神社は誰を拒むこともなく、若者二人を歓迎した。
境内は、周辺よりも一層人で溢れかえっていた。
いつもは寄り付く人も少なく、せいぜい子供たちが遊び場としている程度だが、今日の混み具合は村の人口よりも多いのではないかと思うほどだ。
まだ午前の時間帯にも関わらず、見知らぬ顔も多い。どうやら他の村や町から訪れた人も既にいるらしい。
それもそのはず、この御手洗祭りのメインイベントは朝、この後すぐにとり行われる。
「急ぐぞユズキ、受付は社の脇にあるはずや」
「おう」
鳥居から社までは、石畳の敷かれた一本道が続く。木陰となった並木道だ。
両サイドには出店の準備をしているらしいおっちゃんが往来する人に気を遣ってか、とてもやりにくそうに骨組みを組み立てている。
ユズキたちはそんな人混みを掻い潜り、やっとのことで社の前に出た。
「やば、もう受付片付け始めてるわ。ちょっと待てー!」
「タラシ、こんなとこで走んなって――」
タラシの後を追いかけようと気をとられた瞬間、ユズキの腰辺りに軽く衝撃が走った。
しまった、誰かにぶつかってしまったか。
「あっ、すみません、って……」
そう言って腰辺りを見下げると、そこには少女がいた。
いや、もしかすると少年だったかも知れない。髪を肩あたりまで伸ばし、祭りに来たとは思えないほどボロボロの服を着た子供。
ユズキの声に反応するように見上げた顔に見覚えはない。
だが、その獲物を捉えたかのように見開かれた大きく鋭い目が、ユズキの視線を離さなかった。
そして少女は、小さな口を開く。
「お前がユズキか」
一瞬、心臓がどきりした。
その様子に、全く見知らぬ少女はニヤリと笑う。
不気味な笑み。
開いた口から覗く犬歯が、妙におぞましい。
いやそれよりも、今この少女は、自分の名前を呼ばなかったか。
「おーいユズキ、何しとるんやー!!」
声の方に振り向くと、タラシが受付の人の腕を掴んでこちらに腕をふっている。
そしてもう一度視線を戻した時、もうそこに少女の姿はなかった。
「誰だったんだ、今の」
ユズキは少し気になったが、その疑念も受付やタラシと話しているうちにすぐに忘れてしまった。
それからユズキは無事に出願を済ませ、受付に迷惑をかけたお詫びとして、タラシと準備の手伝いをしつつ、祭りの開始を待つのだった。
「天地開闢、創生の余多を司りし大御神よ。その寛大なる御心で、我ら一族の繁栄に御力を賜りたまへ――」
タラシの父、御手洗神社の神主の祈祷を合図に、祭りは粛々と開始された。
神棚の御前で文言を読み上げる神主。そして社を囲うように、沢山の人だかりがその様子を黙して見つめている。
確かに祈祷も大事な儀式なのだが、しかし祈祷を真面目に聞いているのなど、この人数と言えども、じい様連中を含めたごく少数だろう。
「今年は誰が選ばれるのかね」
「去年は隣町の子だったから、きっと今年はこの村だろ」
祈祷が終わりに近づくにつれ、周囲もざわざわと騒がしくなってくる。
「ったく、神聖な祈祷やぞ。最後までちゃんと聞かんかいっ」
「まあまあ」
隣で腕を組んだタラシが若干不機嫌だ。自分は習い事など親の言い付けはすぐサボるくせに、案外父親の事は尊敬しているらしい。
しかし、それも仕方ないといえば仕方ない。皆のお目当てはこの次の儀式なのだ。
祈祷が終わり、神主が一礼して神殿の奥に退くと入れ替わりに、巫女の姿をした女性がやけに装飾の派手な箱のようなものを持って皆の前に登場した。
「これから、勇者選定の儀を執り行います」
その声に、周りからは一斉に拍手が起こった。皆が巫女の持つ箱に向けるのは期待の眼差しだ。
「気に入らん」
タラシがその光景を眺め、呟く。
「全く気に入らんで」
そしてもう一度、今度は独り言のようで、皆に訴えているような口調でタラシは言い直した。
「ちょっとタラシ、もうちょい声のトーン落として」
「なぁ、ユズキもそう思わんか」
タラシは不服そうに顔をしかめている。なまじ身長もあるだけに、その迫力は結構なものだ。
「ここにおる奴の、一体何人が本気で勇者になろうと思っとるんじゃ。どうせ選ばれたって1ヶ月もせんうちに戻ってくるだろうに」
「それは前も聞いたから、落ち着いてって」
そこまで大きな声ではなかったが、周りの視線が痛い。
大事にならないようにとユズキはタラシをなだめていたが、ユズキ自身の意見もタラシとそう違うわけではなかった。
御手洗祭り、別名『勇者祭り』は古来から多数の勇者を選定してきた。
その目的は無論、人間を襲う魔族を退けるため。
聞いた話では、その昔、地上には人間と同じく知性を持った『魔族』が存在したという。
人間と魔族はお互いの領土を拡大するため、争い合っていたのだが、魔族の強大すぎる力に人間は徐々に苦戦を強いられるようになっていった。
そんな状況を打破する術として人間が生み出したのが、勇者という存在。
神託によって選ばれた勇者だけが、魔族と対等に渡り合うことができ、人間は魔族による侵攻をなんとか食い止めることができた。というのが言い伝えである。
「だが今はどうだ。みんな勇者なんかに興味はない。あるのは副賞の銭や名誉だろうよ」
タラシは吐き捨てるように言った。
こんな調子なので、一旦境内から離れた茂みにタラシを連れてきたのだが、どうやら今のタラシはかなり虫の居どころが悪いらしい。
「こんな平和ボケしてたんじゃ、また魔族に侵攻されたらお仕舞いや」
タラシの意見は最もだった。だが村の人たちの考えもユズキには少し分かるのだ。
魔族や勇者の言い伝えは、今や都市伝説と成り果ててしまった。
少なくとも村の最年長者のそのまた祖父が幼かった時代から、魔族は人間の領土に侵攻してくることもなければ、襲われたという知らせもない。
それどころか、魔族を見たという者すら、この村にはいないのだ。
襲われたこともなく、見たこともなく、いる確証もない。そんな存在を信じることが、本当に正しいのか。
ユズキも時々不安になる。
そうしたことから、最近の勇者は、最低一週間の村の外の探索を責務とした、ただの徴兵制度に。
いつしか勇者選定の儀は、ただのプレゼント抽選会。勇者は形骸化してしまっていた。
「みんなの考えも、間違ってるとは限らないよ」
その時、ユズキの体が少しだけ浮いた。タラシがユズキの胸ぐらを掴んだのだ。
「じゃあお前は、自分の両親がただ道端でのたれ死んだんや思てるんかっ……!」
一瞬、ユズキの心中に寒気が走った。
ユズキの身体に抵抗する力が無くなったのを感じて、タラシは手を離す。
「いや、すまんっ……! ついカッとなってもて」
「ううん、大丈夫」
ユズキは依れた胸元をただし、まるで子犬のように円くなっているタラシの頭をくしゃくしゃに撫でた。
「タラシの言ってることも、正しいよ」
「それに」と続けて、ユズキは空を見上げる。
「それを確かめるために、僕は勇者になりたいんだから」
いつの間にか、ユズキのもう一方の手のひらは、固く握られていた。
「ユズキ、俺いまお前に惚れたかもしれん」
「冗談でもやめて、気持ち悪い」
ユズキは撫でた手をそのまま、タラシの頭にコツンと振り下ろした。
しばらくして、御手洗神社の境内に戻ると、すでに中央に机が用意してあり、ユズキの出願用紙も入った派手な箱もそこに置かれていた。
周りの目はその一点に集まっていた。期待の高まりがピークに達しているのが容易に感じられる。
そしてその期待を一身に受け、タラシの父親が先程の祈祷の時とは違う袴を着て登場し、箱の前に立った。
神主はまた文言を唱え始める。どうやらこれは勇者選定の儀に用意された文言らしい。
人だかりは益々増えるばかりで、箱の置かれた所を中心にして境内は見物客で溢れかえっていた。
「どうやユズキ、見えるか」
「見えた! あ、違った。神主のハゲ頭だった」
「あほいうな、あれはハゲじゃなくて剃ってるんや」
背の高いタラシに持ち上げられても、ユズキの視界に例の箱は映らない。ただ神主が荘厳として立っているのが僅かに見えるだけだ。
「タラシも将来ああなるんだな」
「あほいうな、俺は年取ってもふさふさや!」
「神主を継いだらってことだよ。てか今親父のハゲ認めただろ」
話している間に、神主は文言を読み終えた。それが終われば次はいよいよ箱から紙を取り出す番だ。
「こりゃ前に出るしかないな、強行突破でいくぞ!」
ユズキたちは、すし詰め状態の人混みを掻き分け、中央の箱が見える位置を目指した。
通りやすいよう、屈んで進んでいるせいか、見物客の腕やらが身体に当たって痛い。それに箱の位置も分からなくなりそうだ。
それでもひたすらに前進していると、ふと人混みが晴れた。
目の前には、神主と、間近で見ると一層派手さの際立つ装飾の箱。
ユズキたちはちょうど、儀式の真正面に出たのだ。
「やっと抜けた」と気を抜いた時、前へ前へと乗り出す後方の人の波に、ユズキは突き飛ばされてしまった。
ふいに箱が眼前まで迫る。
その瞬間、ひょこっと、箱から毛のようなものが飛び出してきた気がした。
「しっぽ……?」
「大丈夫か、ユズキ!」
「ああ、大丈夫」
今のは気のせいだろうか。
「それでは、神主、お願いします」
うむ、と神主は箱の中に手を伸ばす。
「いよいよ決まるぞっ」
周囲も神主が紙を引き出す瞬間を、食い入るように見つめる。
そして、ついに神主が紙を掴んだ。後はその手を引き抜くだけで、勇者が決まる、はずだったのだが。
神主はなかなか箱から手を引き抜こうとはしない。何だか、手こずっているようにも見える。
「あれ、おかしいな」
腕に力を込めて、紙を引き上げる。が、紙は一向に顔をださない。
ユズキは察した。神主は必死に箱から手を出そうとしている。だがどういうわけか、紙がどうしても引き抜けないのだ。
なんだなんだと、周囲も段々とざわざわしてきた。
今度は勢いをつけて、思いっきり引っ張り上げる。だがそれでも腕は抜けない。まるで箱自体が、腕に絡み付いているようだ。
そこで、神主は掴んでいた紙を離し、別の紙に掴み直す。
すると、先程の抵抗がまるで嘘のように、腕はするりと箱から抜けた。
「どうしたんだ?」
儀式の様子がおかしかったせいか、周りは紙が引き抜かれた後も騒ぐでもなく、微妙な空気に包まれている。
とても勇者発表前の雰囲気ではない。
「今年の勇者を発表する」
気を取り直した神主のよく通る声が、その空気を引き締めた。
周囲は一瞬にして静まり、ただ神主の次の言葉を待つ。
緊張の一瞬。
「今年の勇者は……ユズキ・カスガ」
「え……」
それは間違いなく、ユズキの名前だった。
それ以降のことを、ユズキはよく覚えていない。
確か決まった瞬間、タラシが抱きついてきた気がするが、ユズキは全くの放心状態でリアクションすらとれなかった。
拍手も心なしか、去年より疎らだった。
周囲の見物客も、自分や身内と関係ない人物だと分かると、新しい勇者を祝福するでもなく、すぐに離散し、あっという間に境内は普段の様相になってしまった。
おかげで勇者選定の儀は、最大の盛り上がりも見せないまま、粛々と終わったのだった。
そして残った事実は、ユズキが名実ともに、勇者となったこと。
だがユズキがそれを実感するのは、しばらく後の事だった。
「魔王さま、ユズキ・カスガを勇者にする任務、無事完遂しました」
「ご苦労、ポンスケ」
「有り難きお言葉」
地図に載らない場所。その玉座に座るのは、一人の女性。
「もう少し近くにいらっしゃい」
「御意」
彼女の手招きに、2本の尾を持つ獣は応じる。
そして眼前まで近づいた時、禍々しいまでのオーラと共に、彼女の手が獣に伸び、次の瞬間、強大な力によって獣は包み込まれた。
「よーしよしよし。良い子ですねー」
「キャウン」
溶けるような甘い声に、情けない鳴き声。
「魔王様、その者を呼び出すたびに戯れるのはお止め下さい」
どこからともなく、一人の男が現れた。英国風の様相をしているが、話すたびにちらつく牙がただの人間ではないことを明らかにしている。
「カズキ、あなたこそ魔王様なんて呼ぶのは止めて。ここは魔王の間よ。誰も聞いちゃいないわ」
その言葉に、カズキという男は気を抜いたように深くため息を吐いた。
「その言葉遣いが魔族たちの前で出ないかを心配しているんだよ、マキ。それに魔族に変な名前をつけないでくれ。ポンスケなんてまるで威厳がない」
「この世界でも体裁を気にするのね、カズキは」
「何のことだ」
「いいえ、何でもないわ」
玉座に座る女性は、退屈そうに獣の頭を撫でていた。
英国風の男は咳払いをし、すぐに仕事の顔つきに戻る。
「とにかく、今年も勇者が決まったらしいので我々も対策を尽くしますが、くれぐれも油断のありませんように」
それだけ言って、男は黒い霧となって消えた。
「全くうるさい側近だこと。あなたもそう思うでしょ?」
膝の上の獣に話しかけるが、獣は腹をむき出しにしてノーガード状態。とても話など聞いている様子はない。
女性は膝からその獣を下ろした。すると、獣は途端に彼女に膝まづく。
「ポンスケ、もう一仕事よ。新しい勇者を監視しなさい」
「御意」と答えた獣は、風のように走り去る。
「面白くなるのはここからよね」
獣の後ろ姿を見送りながら、誰もいない広い空間で一人、呟いた。