8
――その晩のこと。
リィン、と鈴のような澄んだ音色が耳元で響いて、亜樹は重い瞼をこすった。
自らの身体が仄かに光っていることにはっと気付き、隣のベッドで眠っている父親を起こさぬように洋間を出る。
(もう、帰らないといけない時期なのかな…、そんな、こんなに早く…)
リビングの時計はちょうど十二時三十分前を指している。
亜樹は隣の畳の部屋で沙耶と美結を寝かしつけた多恵の耳元でそっと声をかけ、多恵一人だけを玄関の外、星空がよく見える庭に誘い出した。
「こんな時間にどうしたの、亜樹」
少し怒り声の多恵に、亜樹は頭上を指差して…
「――ねえ、お母さん、今日は流星群が見られるらしいよ。あ、ほら、今光った!」
はしゃぐ子供のように瞳をきらめかせて、多恵に振り向いた。
多恵は、はぁ、と小さくため息をついてから、亜樹の言う星空を眺める。
ゆっくりと首を上に向けて――
そして、両目を見開いた。
そこにあったのは、流星群などではなく。
この低地からでは見えるはずもない、満天の星空だった。
広く流れる天の川、至るところできらきらと虹色に輝く綺羅星たち。
「亜樹、これは――」
口を開きかけた多恵は、亜樹の姿を見て、はっと手を伸ばした。
亜樹の身体からは淡い光が放たれ、身体が透けかかっていたのだ。
「――お母さん、流星群なんて騙してごめんなさい。私、一人で消えるのが少し、ほんの少し、怖かった」
「あ…き…」
「ねえお母さん? お母さんは、私のこと、好き?」
憂うような眼差しで問いかけた亜樹の身体…まだ触れられるそれを、多恵はぎゅっと強く抱きしめて。
「…っ、当たり前じゃない! 大好き、大好きよっ! だって亜樹は、私のかけがえのない子供だもの。それは未来の亜樹も子供の亜樹も変わらないっ!」
多恵に抱かれながらつう、と、一筋の涙を流した亜樹は、何かが吹っ切れたような清々しい笑顔を多恵に向けた。
「ありがとう、お母さん。私、すごくすごく嬉しい。ねえ、お母さん、お母さんが今私にくれた言葉を…本当の亜樹に、きっと聞かせてあげてね」
多恵はふわりとした肩までの柔らかい髪を風になびかせ、優しく潤んだ瞳でしっかりと頷く。
そしてよりいっそう力強く亜樹を抱きしめると、そっと身体を離した。
亜樹の目の前に立つと、光の粒子となって消え行く亜樹の姿を、正面から静かに見据えていた。
そうして、最後に淡く淡く、亜樹が消え行く刹那――
「お母さんっ! 私、私本当はっ、お母さんは――!」
踏ん張りをきかせて亜樹は場に少しの間留まると、多恵を見据えた。
多恵は、全く動じずに微笑んでいる。
「…行きなさい、亜樹。たとえ今亜樹のいる世界に私がいなくても、私はずっと亜樹を見守っているわ」
「……っ!」
「あんたはずっと変わらないのね、何かあるとすぐ顔に出るんだから。亜樹の今いる世界には、私はいない。そうでしょう?」
亜樹は両目から大粒の涙を溢すと、透けきった両腕で多恵に抱きつき、それが虚しく空を切ったのを皮切りに、別れの言葉を紡いだ。
「…お母さん、私、お母さんに会えて、幸せだったよ。お母さんの子供で、幸せだったよ。お母さんはずっと私を支えてくれた、ありがとう。さよなら、大好きなお母さん――」
――…。
光の最後の一粒が消え、しん、と静まった真夜中。
見上げれば、先ほどまでのまばゆいばかりの星空も、いつもの、星が遠くで点々と光る穏やかな空に戻っていた。
多恵はそっと胸に手を当てると、成長した我が子の心が穏やかであることを祈った。
ゆっくりと玄関に戻り、扉を閉め、静かな足取りで二階に戻ると、洋間のドア側のベッドに『紛れもない亜樹』のすうすうと寝息を立てている姿を発見して、柔らかく笑う。
「――人騒がせな子」
多恵は亜樹が足で蹴飛ばしたらしいタオルケットをそっとかけ直すと、何事もなかったかのように畳の部屋に戻り、沙耶と美結の隣に身体を横たえた。
その目からは、静かに涙が滴っていた――。