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亜樹は利き手である右手をぎゅっと固く握りしめると、ゆっくりと縮めていた四肢を弛め、ベッドの隅に腰掛けた。
「…今も無力だけど、私、この時はもっと無力だったんだよな」
静かに呟いて、言葉を繋ぐ。
「私はてっきり、お母さんに会いたすぎて暑さにやられて白昼夢でも見てるんだと思った…けどここはあまりも現実的だし、痛覚もある。ここが本当の本当に過去なら、私は一体何のために戻ったんだろう。私はもといた場所に戻れるのかな…?」
最後が消え入りそうになり、ぶんぶんと頭を振る。
「――こらっ、亜樹! お前はこんなことくらいで動じないだろう。落ち着け… 考えるんだ、“この場所”が何を求め、そして私が何を求めているのか」
両頬をパシッと平手打ちすると、亜樹はふらりと立ち上がった。
そのまま階下に駆け下りると、亜樹の『本当の』年齢からでは五歳しか違わない多恵の姿を求めた。
先ほどの怒りは収まったのだろう、淡々と茶の間の隣の台所で配膳の準備をしていた多恵ににっこりと笑いかけ、「帰るの遅くなってごめんね、手伝うね」と慣れた手つきでさっと配膳する。
茶の間に家族分の食事を盛り付けた亜樹の姿に若干の違和感を感じた多恵は、不思議なものを見るように亜樹に視線を合わせると、まだ皆の揃わない二人だけの茶の間でぽつりと呟いた。
「…亜樹…? 亜樹、熱でもあるの…? 今日の亜樹は何か違う…ううん、亜樹は確かに亜樹なんだけど…おかしいわね。お母さん、なんだか暑さにやられちゃったのかしら」
「何もおかしくないよ、お母さん。私は亜樹だけど、亜樹ではないの」
意を決した眼差しで亜樹は多恵を見据える。
それは、十歳の亜樹の外見に似合わない、とても大人びたものだった。
「お母さん、私はずうっと遠くの場所から、この姿を借りてお母さんに会いに来たの。信じてくれなくてもいい、お母さん、私は未来の亜樹… 成長して大人になった、あなたの子供です」
多恵はぺたりと座布団に座り込み。
それから少しの間、糸が切れたように笑い続けた。
「――あはっ、あははははっ! もう! 亜樹、何を言うのかと思ったらそんな冗談」
「お母さん」
「ほら、早く皆を呼んできて。亜樹の好きな夢物語なら夜にでも聴いてあげるからさ」
亜樹はふう、と小さくため息をつくと、今だありありと記憶に残る祖父の書斎、祖母と同居の伯母の二人部屋、これまた同居の大叔母の一人部屋、最後に沙耶と美結を連れてきて、玄関で仕事帰りの父を迎えてから茶の間の末席につく。
何事もなくただ穏やかに流れてゆく時間が、もどかしかった。
――そして。
夕食後、多恵とともに片付けを終えた亜樹は、一本の大樹がさわさわと風に揺れる庭へと、多恵を呼び出した。
「何、改まってまた何かの冗談? 亜樹、お母さんまだ忙しいんだから」
「…お母さん、お母さんがまだ『今の私』に語っていないことで、私が知っていることを話します。私と沙耶と美結の間には、二人の子供がいたよね? 二人とも、お腹の中で亡くなってしまったけど、お母さんはそれがとても悲しかった。だけど無邪気な私たちには、今の時点ではまだ言えてなかった」
「亜樹、どこでそれを」
「私が中学二年になった時…」
「う、嘘よ、誰かに聞いたんでしょ! 確かに亜樹がもう少し大人になるまで黙っていようとは思った…けど…」
「――そして、美結の下にもすぐに子供ができた。でも、考えに考えて養育費面で諦めて中絶したんだ、その辛さは計り知れなかったと、虚しくて、仕方なかったと」
「…な…んで…そんな全部…」
うろたえる多恵をそっと抱きしめ、亜樹は囁く。
とてもとても穏やかな声で、私は未来の私だから、と――。