逃避
ーーーーー懐かしい、音が聞こえた。
ゆったりとした音楽に合わせて紡がれる、女性の澄んだ唄声。
日本昔ばなしのオープニングだ。
気付いて、目を開ける。
私は、おばあちゃんの使っている少しゴワゴワした布団の上で横になっていた。
隣には、まだゲーム機の存在すら知らない頃の幼い弟。
「ねえちゃん」
そう舌足らずの口調で呼ぶ声は高い。
「なん?」
尋ねた私の声も、子供特有の高さを持っていた。
「はやおくりせん?」
アナログテレビの小さな画面は、これまた懐かしいCMを流していた。
「する」
私が言うと、弟は小さな手をビデオデッキに伸ばす。
ほのかな線香の香り。
網戸にしているベランダからは耳障りにならない程度の蝉の声。
夏真っ盛りなのに稼働していない静かなクーラー。
薄くホコリを被った奥行きのあるテレビの後ろには、もう他人にあげてしまった幼児向けのおもちゃたち。
「ねえちゃん、はじまったよ」
弟に呼ばれてテレビを見ると同時に、「わらしべ長者」と優しい声がタイトルを読んだ。
「これのつぎは「座敷わらし」やけん、はやおくりでとばそうね」
そういえば、あんた「座敷わらし」苦手やったね。
思ったことは口に出さず、黙って頷く。
ずっと、この穏やかな時間が、空間が、続いてほしい。
そう願った瞬間ーーーーー
現実に引き戻された。
私は、穏やかな時間を過ごせる子供ではなく、高校生だ。
隣に弟はいなくて、周りは他人ばかりの教室。
教卓では担任が日本史の授業をしている。
今は3限目。午後にはやらなければならないことがたくさんある。
帰りたい。
さっき見たように、おばあちゃんの家に帰りたい。
高校生は大人じゃない。
でも、それなりに責任や複雑な人間関係はある。
大人じゃないが、全てを放り出して逃げ出せるほど子供でもないのだ。
笑顔でいてほしい人たちがいる。
協力してくれる人たちがいる。
背負うものが、その重圧が、私を今椅子に縫いつける。
私が、やらなくては。
両手を握り締めて気合を入れ直す。
そして、進んでいる黒板の文字を手元のプリントに書き写すべく、私は重いペンを手に取った。
励ましてくれる優しい歌姫のためにも、逃げずに戦います。