六月三日(水) 午前九時
ウリアは窓から外を覗いた。地平線には既に太陽が昇っているのにも関わらず、空は暗く、星達が瞬いている。
――なんて幻想的なんだろう……。
トエル国の空とは全く違う。そもそも光源が動くということ自体、馴染みがなかった。中心木は毎日五時丁度に夜間照明から昼間用に変わり始め、六時丁度に完全に切り替わる。逆に夜は十七時から切り替わり始め、十八時丁度に夜間照明に切り替わり終わる。位置はゴールドル城の真上の空から動かない。
だから、地平の彼方から太陽の端が見えた瞬間、ウリアは思わず小さく声を漏らしてしまった。夜間照明の中心木も十二分に美しいと思っていたが、地平から昇る太陽は、中心木が比べ物にならない程美しかった。太陽を長時間見つめるなとライトに注意されていたが、ウリアはついつい、うっとりと見つめてしまっていた。そのせいか、目が少し痛くなってしまっている。その辺りは中心木と同じなのかとウリアは感心した。
なんとなく、兄の誕生パーティが遠い昔の様に感じる。昨日は一日の密度が濃すぎた。ウリエルの日常として過ごしてきた日々がいかに薄っぺらかったことか、ウリアはそれを痛感する。
――私は何も知らなかったんだな。
独り小さく苦笑いをする。こちらに来てから、自分がいかにものを知らなかったのかが分かってきた気がする。恐らく、今自分が思っているよりもずっと、自分は物事を知らないのだろう。スターフィールドの人々が、一般より遥かに物知りなことは察することができたが、自分はそれ以前の問題であることも理解できた。自分は外がどんな所であるかすらも知らなかった。こんなに美しい所を、ただの忌諱の対象にしか見ていなかったなんて、なんて馬鹿らしいことなのだろう。
ライトについても色々知ることができて、内心嬉しかった。ティアラ魔法学校一の出来損ないと言われていた銀髪の魔法使い(ティルガ・ルルージュ)。魔力が多くあるのに、出来損ないと聞いて、ウリアは勝手にライトに親近感を抱いていた。そうして勝手に婚約者はライトにしようと心に決めていた。ライトは四侯の娘であるし、ロペス家といことで血筋も悪くなく、銀髪で自分と同じ魔法をあまり使えない身の上だ。そして何より、ライトは顔の造形も見ていて飽きない程美しい。ちょっと気が強すぎるところはあったが、権力者に屈しない姿勢もいっそ清々しい。だからライト程、自分に合った花嫁はいないと思っていた。
しかし、自分の花嫁などもう考えなくて良いことだ。
コンコンと、ノック音がした。
「はい」
ライトが乱れた髪もそのままに、目を擦りながら部屋に入ってきた。身だしなみを整えてから来ると思ったので少し驚いた。
「おはよう、今朝は早かったんだって? よく寝れなかった?」
「いや、よく眠れた」
それだけ返すとまた窓の外に目を戻す。太陽の光が痛いほど眩しい。
「まだマリアは見つかっていないそうだな」
「そう簡単に見つかる訳ないでしょ。一応トエル国も広いのよ。それに向こうは隠れながら貴女を探してるのよ」
「お互い探しあってるのに出会えないなんて、不幸な話だよな」
「まあ、夜探してたのはハイネンお兄様とアイノお姉様だけどね」
ライトは皮肉っぽく言うと一転、心配そうにウリアの顔を窺った。
「身体、元に戻さなくていいの?」
「身体?」
「女の子の身体、嫌じゃないの?」
指摘されてから、ウリアはしまったと僅かに顔を顰めた。
「別にかまわない。どうせトエル国に行く時はまたこの姿にならないといけないんだろ? 何度も換えるのは面倒だ。そもそも、あの薬はそう数もないのだろう?」
ライトの返事を待ったが一向に返しがなく、不審に思って振り向くと、心底意外そうにウリアの顔を覗くライトの顔が近くにあった。あまりの近さに思わずドキリと心臓が跳ねる。ライトは自分の顔の造形の良さを自覚していないのだろうか?
「……なんだよ」
「貴方がそういうこと気にするなんて、意外だわ」
「どういうことだ」
「そのままの意味よ」
そう言ってライトは顔を引いていった。少し名残惜しい。
「でも貴女はそっちの方が似合ってる気がするわ」
「え?」
微笑んだライトは小悪魔の様だった。
「それで、私達が昼間どうするかっていう話なんだけど」
「あ、あぁ」
ライトの話の切り替えに一瞬付いていけず、返事がしどろもどろになる。
「私がマリアなら、まずウリエルは自分一人で上手く隠れられないと思うの」
「……失礼だな」
「事実でしょ」
「……」
ぐぅの音も出ない。現にウリエルはライトに助けられている。
「それでウリエルが一番仲の良い人間に助けを求めると思うのだけど……貴女的に助けを求められると思う人は誰?」
――誰だろう。
問に付いて真剣に考える。親族の人間は、何人か仲も悪くない人間はいるが、結局トエル国の最高権力者である父は裏切らないだろう。他の大人も同様だ。かといって同世代の人間は、そもそも学校に行っていないので、友人も殆どいない。知り合いもいるにはいるが、結局は父の耳に届いてしまうだろう。
そう考えていくと、結局答えは一人になってしまう。
「……」
結論の言い難さに言い淀んでいると、ライトに睨まれた。
「貴女、どれだけ劣悪な人間関係に身を置いてきたの?」
「そんな言い方はないだろ?」
「それで、強いて言うなら、誰がいるの?」
「……お前だ」
恥ずかしさから声が蟻の声の様に小さくなる。ライトが怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「……もう一度言って」
「だから、お前なんだって」
「は? 本気で言ってるの?」
あまりに冷たい物言いに、ウリアはどことなく傷つけられた。表情に出てしまったのだろう、ライトが心底可哀想なものを見る目でウリアを見た。
「貴女って結構不幸ね……」
「俺は結構幸運な方だと思っているが?」
今までずっと、ゴールドル家でしかも金髪の魔法使いとして産まれてきたことを羨ましがられてきたのだ。不幸なはずがない。
しかしそんなウリアの自身をライトは一蹴する。
「私、貴女に散々冷たい態度をとってきたのよ? それなのに、そんな私がマリアを抜いて貴女と一番仲が良い人間だなんて、どれだけ友達いなかったって話よ。それとも私の態度に冷たさを感じていなかったの?」
「え……?」
ウリアは目をぱちくりと瞬かせた。
「え、本当に気が付いてなかったの?」
ウリアの反応に、ライトも目を瞬かせる。
「もう、本当にやめて、貴女どれだけ空気読めないのよ」
「今まで空気は読ませるものだったからな……」
父にも兄にも今までずっとそう教えられてきていた。マリアには「時には読むことも覚えないと、身を滅ぼします」と注意されてきていたが、人間は楽な方に流されたがるもので、ウリエルはずっとその注意に関しては耳を傾けないでいた。
「貴女って本当に愚かしいわ」
「煩い」
「それで、話を戻すのだけれど、本当に、私な訳よね?」
「そうだ」
どこか投げやりな気持ちで肯定する。
「んー、じゃあ、あっちの家にいた方がよさそうね」
ライトは少し考えるように黙ると、一つ頷いた。
「うん。そうしましょう。朝食はあっちで食べるとして、着替えてくるからまだ待ってて頂戴」
「分かった」
ウリアが頷いたのを確認すると、ライトは素早く部屋を出ていった。
――こっちの方が似合ってるか……。
ライトに何気なく言われた一言を頭の中で反芻する。女の格好は久しぶりなので違和感はあったが、ウリアは褒められたことに何となくこそばゆい気持ちになった。
ロペス邸ではルーナが二人を温かく迎えてくれた。ルーナが朝食に用意してくれたフレンチトーストを味わいながら、ライトはルーナに現状を説明した。
「――ということなんだけど、何か異変とか来客とかなかった?」
ルーナは思い返す様に上を向いて目を閉じた。
「うーん、特になかったかしら。お客さんも一人もなかったわ」
「そう……。しばらくこっちに頻繁に来ても問題ないかしら」
ライトがしおらしくルーナの顔を窺うように見ると、ルーナが微笑んだ。ルーナの足元にゴールデンレトリーバーがじゃれつく。
「そんなに気を使ってくれなくて大丈夫よ。ここもあなたの家なのだから」
「ありがとう」
ライトも微笑んでいると、家のチャイムが鳴った。
「あら、誰かしら」
ルーナが玄関に向かおうとするのを制して、ライトが玄関に向かう。ウリアもこっそり後をつけて、玄関を覗いた。
ライトが玄関扉を開ける。外の光がまぶしく、すぐに人の姿が捉えられなかった。
「おはようございます」
無機質な男性の声がした。
「おはようございます。何か御用でございますか?」
声でライトが警戒しているのが分かった。
扉から顔を覗かせている人物の姿が捉えられた。
――あの服は。
ゴールドル家付きの親衛隊だ。顔も見覚えがある。銀髪で声と同じように無機質な表情をしている彼は、二年程前から部隊の幹部を任されている人物のはずだ。
ウリアはやっと、親衛隊もライトと同じようにウリエルは仲が親しい者の所に逃げたと類推していたのだと悟った。だから男性の次の言葉にもさして驚くことはなかった。
「はい。非常に失礼なこととは存じ上げておりますが、ロペス様のご自宅を拝見させていただきたく参りました。こちらにトエル国王、ミカエル・ゴールドル様の勅命書もございます」
そう言って男性は分厚い紙を取り出して、ライトに見せた。ライトは手に取り本物か確認すると、困惑した少女のように男性に返した。
「申し訳ありません。お母様を呼んでまいります」
ライトがこちらに駆け戻ってきた。ウリアと目が合う。このまま捕まってしまってしまうのだろうかと小さく震えていたウリアに、ライトは目線だけで、面倒くさいことになったと言ってきた。
「ルーナお母様」
「はいはい、聞こえてましたよ。替わりますね」
「はい」
ライトとルーナが入れ替わり、ルーナが玄関に向かった。
――どうやって断るのだろうか?
冷や汗を掻きながらルーナと男性のやり取りを見守る。
父の勅命は絶対である、ルーナはそれをどうやって退けるのだろうか。
「狭い家になりますが、お気づかいなくお調べください」
――え?
ウリアはあまりの衝撃で身動きが取れなくなってしまった。そんなウリアを見て、ライトがウリアの肩に手を置いた。骨振動でライトの言葉が耳に届いた。
『なんで波風立つようなことをする必要があるのよ』
ライトの顔を覗く、言葉を発しかけて慌てて思い止まった。
『申し訳ないけど、ウリアの設定のすり合わせもちゃんとできてないし、こんな所で失敗したくないから、貴女の身体に私の使い魔を忍ばせてもらうわ。我慢して頂戴』
――え、使い魔?
顔が驚いていたのだろう、ライトは微笑むとウリア背筋に触れた。ふわりと冷気が背中を撫でた。
親衛隊の者が数名、家に入ってきた。玄関で話していた男性が資料の束を持ってウリアの所にまでやってきた。
――見つかる。絶対バレる。
反射的に逃げてしまいそうな脚を、自分以外の力が止めていた。
「こんにちは」
相変わらず男性の口調は事務的で無機質だ。
「こんにちは」
口が勝手にするすると動く。正確には自分の身体ではないが、自分の身体のはずなのに、そうじゃないように錯覚する。
「君はウリア・セラフィムさんで間違いないですか?」
「はい、そうです」
――なんて不敬な。
ライトが使い魔にウリアの身体を乗っ取らせたことに心底腹がたったが、抗う術がない。
「ご両親のお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「スミス・セラフィムとグランドー・セラフィムです」
「いつ頃からこちらに滞在されていますか?」
「二日前です」
「滞在理由は?」
「生誕祭に参加するためです」
「ロペス夫妻とはどのような関係ですか?」
「ルーナ伯母様のお母様が従姉妹です」
「お母様の旧姓は?」
「ニックスです」
男性は無機質な瞳を資料に写して軽く頷く。
「所属する魔法学校は?」
「アメリカ合衆国カルフォニア州のセレスティア魔法学校です」
他にもかなりの数の質問をされた。こんなに整合性のある嘘はウリアにはつくことができなかったし、思いつくこともできなかっただろう。そのことを実感したせいか、男からの質問が終わって一旦身体の自由が利くようになってからも、ライトに怒るようなことはしなかった。逆に誤魔化せたことに感謝してもいい程だったが、それはプライドに邪魔をされて言うことはできなかった。
三人で家宅捜索する親衛隊を眺めていると、急に外が騒がしくなった。親衛隊がドタドタと騒がしく玄関に向かったと思うと、玄関から無遠慮に醜い体型に豪華な衣装を着せた男が現れた。家を見渡しルーナを見つけるとのそりのそりと本人的には急ぎ足で向かってくる。
――父上?!
ライトを見ると、想定の範囲内だったのか平然としている。どうしようかと戸惑っているとまた身体の自由が利かなくなった。ライトの使い魔の仕業だろう。
父の姿を見ていると、目が合った。
「あ――」
何故か父の動きが止まった。
――バレたのか?
しかし父は予想外の言葉を口にした。
「マリア……」
父はしまったという風に口を押さえる。
――え?
父は自分を見てマリアと言わなかったか。何故ここでマリアの名前が出てくるのだろうか。疑問が頭を渦巻く。
父は佇まいを直して、何事のなかったかのようにルーナのところまで行った。
「お久しぶりです、ロペス夫人。急な申し伝えを許可して頂き、感謝致します」
「いえ、この程度のことでしたら何もお気遣いして頂くには及びません」
何故父がここに来たのだろうと考え、やっと思い至る。ライトは四侯の一人であるドラコ・ロペスの娘だ。四侯はゴールドル家に次いで権力がある。国王直属の命令で家宅捜索するのであれば、義理を欠かないために国王自らわびの挨拶に来てもおかしくない。
父がウリアに振り向いた。
「こちらのお嬢様は?」
「生誕祭に一度来てみたいという従姪の話を聞きまして、招待していたのです」
生誕祭という言葉に父の顔が僅かに引き攣る。
「こちらに捜索が周ってきているということは、まだウリエル王子は見つかっていないのですね」
国王相手にルーナはなかなか辛辣なことを言うとウリアは思った。ルーナは国王が恐ろしいとか、国王に取り入ろうとか思わないのだろうか? なんとなくそんな辺りは、血は繋がっていなくともライトに似ている気がした。いや、皮肉をちょくちょく挟むのはスターフィールドの血筋と言った方が良いかもしれない。
父は顔を更に引き攣らせる。金糸でできたハンカチで額の汗を拭いた。特に返事をするつもりはないらしく、すぐに話を切り替える。父はルーナからウリアに視線を移した。
「ライトもとても美しいが、君も彼女に負けず劣らずとても良い顔立ちをしている。名前は何と言うのかね」
「ウリア・セラフィムです」
口が勝手に動く。
「そうかそうか」
父が笑顔で何度も頷いた。何故だろう、父が自分を見る目をとても不快に感じた。
「どうだろう、ウリア。君がトエル国に興味があるのなら、こちらに来てゴールドル家に仕える気はないかい?」
ヘドロでできた蛇が身の内で心臓に絡みついたような気がした。ウリアのその気持ちに呼応したかのように、誰かがウリアの首を小さく横に振った。
「お誘い頂けてとても嬉しいのですが、まだあちらでやり残していることがありますので」
「ではそれが終わったら、どうかな?」
「ご配慮ありがとうございます。前向きに検討したいと思います」
ウリアがそう言うと、父は満足したように頷いた。
「もう作業は済んだかね?」
後ろで待機していた男に父が振り向く。
「はい。それらしきものは何も見つかりませんでした」
無機質な男の言葉に、父もマニュアルの様に頷いた。
「ではロペス夫人。失礼な行為を快く承諾していただき、誠に感謝致します」
「報償金になります。お納めください」
男が小袋をルーナに渡した。見た目がとても重そうだった。実際に重かったのだろうルーナはすぐにそれを膝の上に置いた。
そうして嵐のように父と親衛隊はロペス家を去っていった。
ライトがルーナの膝から報奨金を持ち上げる。
「流石ゴールドル家、報奨金の額も多いわね」
そう言って覗く握り拳大の小袋の中には、トエル国の最高級貨幣の金貨がぎっしりと詰め込まれていた。
呆けたように突っ立っているウリアを見てライトは笑う。
「特に何もなくてよかったわね」
ふと気が付きウリアは辺りを見回すが、そんな挙動不審なウリアをみてライトはさらに笑みを濃くする。
「盗聴器とかは特にないみたいよ」
ライトが差し出した指先に一匹のオニヤンマが停まった。それを聞いてウリアは安心したように床に座り込んだ。
「流石に四侯の家には仕込まないわよ。王族と四侯の信頼関係に罅が入っちゃうわ。そもそも今回の件もかなり四侯に対しては失礼だからね。まあ、だからわざわざ国王が謝罪に来たってのもあるのだけど」
まあ見事に国王を裏切ってるけどね、とライトは楽しそうに笑った。
「何故、そこまでしてお前たちは私を匿ってくれるのだ?」
思わず疑問が口から出てしまい、ウリア自身驚いた。
「いいじゃない、理由なんて別に」
「私の無罪が判明してからの報酬が目当てか? なら何が欲しいのだ?」
ライトもルーナも苦笑いをする。
「別に報酬なんていらないわ。全部足りてる」
「しかし……じゃあ何が目当てなのだ? お前達は皆、なんで国王を裏切ってまで私に親切にしてくれるのだ?」
「貴女の無罪を知っているもの」
「何故私の無罪が分かる。少なくとも蟲は分かるだろうが、ルーメン・ステルラの誘拐まで無罪だとは証明できないではないか? それなのにお前たちは好きなだけ家にいていいという。何故だ?」
ライトもルーナも更に苦笑いを深めた。
「もう、大人しく匿われてればいいのに……」
「じゃあやはり何か裏があるのだな?」
ライトは面倒臭そうに頭を掻いた。そして一つ溜息をつく。
「一度掻い摘んで言ったけど、スターフィールド一族は、トエル国に対しては偽名や人によっては偽った性別、家族構成で暮していることになってる。ここまではいい?」
ウリアは一つ頷いて見せた。
「私とお父様も家族構成を隠しているのよ」
ライトは一つ呼吸を置いた。
「私には姉がいるの」
そしてウリアの顔を覗く。
「ここまで言って予想がつかない?」
ウリアは顔を大きく横に振る。全く予想ができていなかった。そんなウリアに一つ溜息をついてみせて、ライトは結論を言った。
「ルーメン・ステルラは私の姉、レイ・スターフィールドよ」
「え……」
ウリアは瞳を何度も瞬かせる。ライトの言ったことがなかなか脳に達さないようだ。
「だから、ルーメンは私の姉なの。で、姉はただの家出中。だからルーメンは誰かに誘拐された訳じゃないって知ってるの」
「家出……。なんで止めてくれなかったのだ?」
「気がついたらいなかったの。それに金色の魔法使い(レナルド・ルルージュ)が本気で逃げるわけよ? 捕まるはずないじゃない」
「そもそもなんで家出をしたのだ?」
「馬鹿ね、自分が嫌いな相手の嫁にされると分かってて、なおかつ逃げる力があるなら、逃げるに決まってるでしょ」
「……そうなのだな」
ウリアはやっと色々なことに対して府に落ちた。
ウリエルにルーメン誘拐の容疑がかっている以上、ウリエルは容疑が晴れるまでゴールドル家に帰ることはできない。容疑が解かれるにはルーメンが見つかるか、ウリエルの無実を証明しなければいけないが、本気で逃げている金色の魔法使い(レナルド・ルルージュ)が見つかる訳もなく、また女王がウリエルを貶いれようとしている限りウリエルの無罪も証明できない。
――ライトの家族は全て理解していたのか……。
だから自分に対して同情的で協力的だったということをウリアはやっと理解した。
「でも何でルーメンは兄上と結婚したくないのだ? 次期トエル国王女になれるのだぞ?」
「まともな魔法使いなら、ゴールドル家に関わるなんてまっぴらごめんよ。百害あって一利なしよ」
「でも君の父上は関わっていないか?」
「それは自分がトエル国を支えないと、他の魔法使いが可哀想だからよ」
「ならば何故、ルーメンは最強の魔法使いになったのだ?」
「不可抗力よ。姉さんはそんなものになるつもりなかったもの」
「しかし――」
なお抵抗をしようとするウリアに、ライトは手を叩くことで妨害をした。
「もうこんな生産性のない話は終わり。重要なのはこれからどうするかよ」
「しかし――」
ぱん
再びライトは手を叩く。今度は叩いた手の上に一冊の見覚えのある本が現れた。
「これは……」
ライトはその本を手に取り、一つ笑うと階段に向かって駆けだした。ウリアも慌ててその背を追いかける。
「ルーナお母様、自室にいますわ!」
「はーい」
ルーナの声がのびやかに響いた。
ライトの自室は女の子の部屋とは思えない程、非常に簡素なものだった。いや、実質ここで生活していないと考えると妥当なのかもしれないが、飾り気のない木目調の勉強机とベッドと本が幾つか詰め込まれている本棚程度しか部屋にはない。
ライトがベッドに座るので、ウリアもつられてベッドに座った。日頃使っていないと分かっていても、女の子のベッドに座るのはとてもドキドキした。
丁寧にベッドに置かれた本を見る。
「これは……マリアの日記だ。どうしてこれを?」
悪戯っぽくライトは笑む。
「入手方法については、企業秘密です。そして所持は期限付きなのでご注意ください」
ウリアはそっと表紙をめくろうとした。
「あ……」
本全体がひっくり返った。
「鍵がかけられてるの。何か知ってる?」
「ああ」
ウリアは頷いた。十歳の誕生日にマリアが全く同じ日記帳をウリエルにくれたからだ。
――これからは、毎日とはいいませんが何かの節目節目に、是非あったことを綴ってください。
マリアの言葉が脳裏を過る。
そういえば、いろいろあり過ぎて今回のことに関して日記を書けていいない。ひと段落したら書かなければと、心の片隅でウリアは思った。
ウリアは本を手に取ると、左上の頂点から外周を指で撫でた。
「なるほど……」
表紙に薄い光りの文字でアルファベットと数字一式がキーボード配列の様に現れた。
「合言葉が必要って訳ね」
ライトが呟く傍で、ウリアは文字を叩いた。パスワードは知っていた。小さい頃、ウリエルを膝に乗せながらマリアは何度も日記を書いていた。その時にパスワードを打ち込む姿を見ていたので、今でも覚えている。否、何よりパスワードが覚えやすいものだったといこともあるかもしれない。
――U20020914
ウリエルの生年月日を叩いてから、日記帳の表紙をノックする。
「珍しく、やるじゃない」
表紙をめくると、今度は造作もなく開いた。
マリアの日記の一ページ目は、やはりマリアが十歳の誕生日を迎えた日だった。
「そういえばなんでマリアの日記を覗く必要があるのだ?」
自ら日記を開けておきながら、ウリアは言外に非常識ではないかと言ったつもりだった。ライトはマリアの日記をめくりながら答える。
「マリアさんの私生活を覗くつもりはないの。でも、収容所でトビトが話してたことが気になって……。どちらにせよ、説得するには情報が必要でしょ?」
「……」
ウリアは口を噤む。
実際にそうなるかは分からないが、トエル国の存亡がマリアの言葉にかかっているのだ。いや、トビトはトエル国に蟲を呼んでいたはずなので、マリアがそう望むのなら本当にやってのけるだろう。
そして、トエル国存亡に対してのスターフィールド一族はとてもドライだ。
「――ライトは、俺がトエル国が滅びればいいと望めば、本当にそうなってもいいと思っているのか?」
ライトは日記帳に目を落としたまま答える。とても絵になるような光景だが、内容はとても優雅とは言えたものではない。
「そうね。私はトエル国のことあまり好きじゃないから。別に滅びるならそうなってもらって構わないわ」
「愛着はないのか? 思い出も」
「思い出はあるけど……愛着はないわ。別に魔法学校も外じゃだめってわけじゃないし」
「でも、魔法使い達は蟲の恐怖に苛まれることになる」
ライトが視線を上げる。声を掛けるのも憚れるほど、冷たい視線を。
「外の魔法使いは蟲と上手く渡り合いながら暮らしてるの。トエル国の魔法使いは甘え過ぎよ。別にトエル国がなければ暮らしていけないことはないわ」
「――」
ウリアは黙した。スターフィールド一族は誰もかれもそんな意見だった。
確かにそういった面もあるのかもしれないが、ライト達にトエル国に住む魔法使いに対する慈悲はないのだろうか? 意見のすれ違いが悲しかった。
自らは人知れず蟲と闘っているというのに、トエル国は滅びてもいいという。ウリアには何故そういう考えに至るのかが不思議だった。
ライトが僅かに身を乗り出す。どうやら日記に気になる個所があったようだ。ウリアも一緒になって日記を覗く。
二〇〇一年十二月一日
あと約一カ月でトエル国とはしばらくお別れになる。
外での生活について教えてくれるドラコさんにお礼をしなければ。ドラコさんに「昔に比べてだいぶ自信が持てるようになってる」
と言われたことはかなり嬉しかった。
ドラコさんは一時期抜け殻の方になっていたことがあったけれど、
今はとても幸せそう。ルーナさんに感謝しなければ。
私もいつからだろう、気がついたら心にぽっかりと穴が空いている。
とても会いたい人がいる気がするのに、それが誰か、いや、その気持ちが
本当であるかも確認することができない。
恐らくこれはドラコさんと同じ現象なのだろうけれど、確証がない。
私は早くその人を思い出したい。
ライトは日記を指差した。
「これ――ドラコとルーナってお父様と、お母様のことじゃないかしら。確かトビトはマリアさんの本当の年齢は四十一歳と言っていたわよね」
「あ……」
確かに、マリアの本当の年齢がその歳であるならば、ドラコやルーナと歳が近いはずだ。知合いでもおかしくはないのかもしれない。
続きと言ってライトがページをめくると、一枚のメモが差しこまれていた。ライトが読み上げる。
『ウリエル王子へ
とうとうこの日記を開く時がやってきたのですね。
嬉しくもあり、寂しくもあります』
「どういうこと?」
とライトがウリアを振り向く。
「マリアは日記の開き方は教えてくれていたのだが、居場所は教えてくれていなかったのだ。もし読みたければ、日記を奪ってみせろと言っていた」
「そういうことね」
ライトは続けて読み上げる。
『これから先に書いてあることは、王子の人生にとても大きな影響を与えてしまいます。
影響とは、悪い方向にです。
もし、本当に知りたいのであれば、日記などではなく、私が直接お伝えしたい……。
それでも日記でいいから知りたいのであれば、このまま日記を読み続けてください。ありのままの真実を書き綴っています。この日記帳に嘘は書けませんから。
親愛なるウリエル王子、
もしこの日記を読んでも、できれば今まで通りに私に接して頂けると、とても助かります。
王子の一番の味方であり、王子の一番の僕であることが私の一番の誇りです』
ライトが唾を呑みこむ音が聞こえた気がした。
「ウリエル、どうする?」
恐る恐る、ライトはウリアの顔を覗いた。
「私は――」
ウリアは答えに窮した。『悪い方向に影響がある』という言葉がウリアの心を挫く。
「私は、」
ライトがわざわざ言葉を区切って、宥めるように言う。しっかりとウリアの両肩を掴んでいた。
「貴方はまだ、これを知ってはいけないと思う」
肩を握るライトの手は、冷たいのにどこか湿っている。もしかしたらライトは今までの流れで、結末が分かってしまったのかもしれない。
ウリアはライトの手をそっと外した。
「――でも、知らなければ、マリアを説得できない」
「それはあくまで憶測の話よ」
「なんでここまできて、怖気づかないといけないのだ?」
ライトの様子で読むまいか迷っていた心が決まった。
「いつか知らなければいけないことを、今知って何が悪い」
「精神年齢が足りていないと、精神的負荷耐えられないこともよくあることよ」
「まだ俺は幼いと?」
「そうよ。実年齢も十四しかないじゃない。せめて十八歳になってからでもいいのじゃない?」
ライトとウリアは睨み合う。
「トエル国が滅んでもいいのか?」
「別に滅んでもいいと思っているけど、まだ滅ぶと決まった訳じゃないわ」
「俺のことだ、お前が気にすることでもないじゃないか」
「存続の決定権を握る人の親しい人が、今知るべき内容でもないと思うの」
「でも知らなければ、どうにもできないことだってあるではないか」
「それを幼い者が知ったところで、意見が偏るだけよ」
「俺は偏らない」
「慢心よ」
「慢心じゃない、事実だ」
「事実じゃない、自惚れよ」
「――」
しばらく無言で睨みあい、やがてウリアは行動にでた。日記帳を手に取ったのである。それを見たライトはウリアを一つ睨んでから、ため息混じりに、
「好きにすればいい。私は別にトエル国がどうなろうが知ったこっちゃないわ」
と言った。しかし日記の内容は気になるのか、背はむけず、ウリアと一緒になって日記を覗きこんだ。
メモが挟まれていたページの字は酷く乱れていた。数日分をまとめて書いたのか、同じように乱れた字が続いている。
二〇〇一年十二月二日
ミカエル王子にどうしても、一度だけでいいから私の願いを叶えてくれと頼まれ
一夜を伴にしてしまった。外でも色々と優遇される様に取り計らうと約束してくれ
たけれど、王子には妻がいる。これでよかったのだろうか。
もともと、王子が私にそれなりの気があることは知っていたけれど、今更になっ
てこれでよかったのかと酷く後悔している。
嫌な予感ばかりが私の胸の内を広がり続ける。
そうして数日間は一日の出来事と、その日の行為を悔やむ行為が書き綴られていた。数カ月分の日記を読み流していると、再び酷く文字が乱れている個所があった。
二〇〇二年三月十五日
月経が来ていなかったので、念のため検査したら妊娠していた。病院にも行った
ら妊娠していると言われた。思い当たる相手はミカエル王子しかいない。どうしよう……。お腹の子に罪はないと思ってはいても、どうしても恨まずにはいられない。王子の子を妊娠したなんて、誰にも言うことなんてできない。
……
二〇〇二年八月二十日
ゴールドル家に何故かミカエル王子の子を身籠っていることがばれてしまった。
病院には一度しか行っていないし、誰にもこのことは伝えていなかったのに、何故
発覚してしまったのだろう。今は無理矢理トエル国に送還され、一室に閉じ込めされている。王子からの謝罪もあったが、私と赤ちゃんはこれからどうなってしまうのだろう。不安しかない。
……
二〇〇二年九月十四日
半日間に亘る陣痛の末、3015グラムの女の子を出産。ゴールドル家直系の血筋で
女児が生れた記録はないし、女児は生まれないと明言されている。明らかに私の生
んだ赤ちゃんは異端だった。
また――
「え――」
「あ――」
二人は同時に声を上げた。マリアの日記が突然消えたのだ。
「なんで、まだ制限時間はたっぷりあるはずよ」
ウリアは妙に納得しながら、ライトの言葉に首を横に振る。
「マリアが日記を呼び寄せたんだ」
自分の声が妙に平坦に聞こえた。
「え、あの日記ってそんなこともできるの?」
「できる。紙とペンをくれないか」
ウリアはライトに手渡された紙に手慣れた手付きで簡単な魔法陣を描き、人差し指を一つ舐めて陣の中心に置いた。
「出庫」
瞬間、紙が見覚えのある一冊の本に変わった。
「この日記帳は簡単な魔法陣と遺伝子情報だけで、持ち主の魔力も必要なく、持ち主の場所に呼び寄せることができるんだ」
へえ、と感心しながらライトがウリアの日記を観察する。
「じゃあこれは、貴女の日記なのね」
「そうだ」
頷いた声が、自分でも酷く乾いているように聞こえた。
「――だから読まない方がよかったのに……」
ライトの非難にやっと苦笑いしてみせる。
「そうだな……そうかもしれない……」
心がどこかで難破している様だった。早くどこかに辿り付きたいのに、実際は生きることにも精一杯の状況で進むどころではない。
――私は、マリアの子だったのだ……。
それを知ると、実母と思っていた女王・エダニのウリエルに対する冷たさの原因が理解できた。マリアは望んでいなかったとはいえ、エダニにしてみればマリアは十分ミカエルの不倫相手だ。そして、自分はその不倫相手の子供で、しかも非常に稀な金髪の魔法使いだ。可愛いはずがない。
自分が何故男として過ごしていたかも、何となく理解できた。父母であるミカエルもエダニもウリエルが女であることを知らず、マリアだけがそのことを知っていた。ゴールドル家の直径に女児が存在してはいけない。恐らく、エダニにウリエルが女と知られた場合のことを鑑みて、男を装ってきたのだ。知られたら何かと理由をつけられて殺されかねないから……。
だからきっと、今回の事件の責を全てウリエルになすりつけて、社会的に抹殺できることは、エダニにとって喜び以外の何にでもないのだろう。
冷たい血液が身体を巡っていくのをウリアは感じた。
――私は、私は……。
「あ……」
ふと温かいものが手に触れた。ライトの手だった。
ライトが心配そうにウリアの顔を覗いていた。そんな憂いを帯びた顔でさえ、ライトの顔や仕草や風貌や雰囲気は全て絵になるなと心のどこかで思った。そんなライトが口を開いた瞬間、室内に突風が巻き起こった。
「何?!」
突風に視線を遮られ、次にまともに視界が開けた瞬間には、ライトの部屋とは似ても似つかない場所にいた。そこは、四方――否、六方向全てが巨大な純白の壁でできた部屋だった。
ウリアはあまりの白さに何度も瞬きをする。ふと、視界の端に動くものが入った。それはウリアが何かを考える間にウリアに近づき、ウリアを強く抱きしめた。
「ウリエル王子――!」
ウリアは自分を抱きしめた者の姿を必死に捉えようとしたが、それより先に嗅覚が誰なのかを告げた。
「マリア……?」
そっと肩に手を添えて、顔を上げさせると今にも泣きだしてしまいそうなマリアがそこにいた。皺くちゃではあるが、気品あふれる顔を涙があふれないように必死に歪めて、ウリアを見つめ返している。
少し間が空くと、取り乱したことを恥じたのか、素早く姿勢を立て直して表情を固く戻してしまった。片手には日記帳を持っていた。
「失礼いたしました」
「……マリ――」
突然拍手が聞こえた。驚き振り向く時に、ライトもそちらに振り向くところが見えた。ライトも一緒に連れてこられていたらしい。
「いやあ、マリアさん凄いですね。一日もかからず見つけるなんて。これが愛の力ですか?」
軽薄にトビトが笑った。マリアは淡々とそれに答える。
「全てトビト様が私を連れ出してくださったお陰でございます。感謝致します」
「いやいや、マリアさんが優秀だったとはいえ、こんなにすぐに見つかるとは思ってもいなかったですよ」
「運が良かったこともあるかもしれません」
マリアは優雅に、座りこんでいたウリアとライトを立ちあがらせた。
「ここはどこだ?」
出入り口を探すが、扉らしきものは一つもない。巨大なサイコロの中に閉じ込められているようだった。
「申し訳ありませんが、私も存じ上げません」
「ここは、誰にも邪魔できない、僕のちょっとした秘密基地さ」
トビトが答える。
「あなたがトエル国に蟲を呼んだの?」
今度はライトが問い掛けた。それにトビトは軽薄そうに頷く。
「ご名答。まあ、君は分かって当たり前だよね」
「なんで呼んだの?」
「面白そうだったから」
「どうやって呼んだの?」
「それは秘密」
「蟲の制御はできるものなの?」
「意のままに操るという意味の制御なら、できない。けど、出現させる場所を大まかに絞ることは、君達スターフィールドもやっているよね?」
「……なんでそのことを知ってるの?」
トビトは心底楽しそうに笑む。
「僕はイスラフィール家の当主だ」
「イスラフィール家って……何なの?」
「イスラフィール家は基本的に外で蟲退治を生業とする一族さ」
「基本的にでしょ?」
トビトは笑む。
「そう、イスラフィール家にはある使命がある。……何だと思う?」
ライトはしばし考えるように俯いた。ウリアも考えたが全く思いつかない。
「……トエル国、もしくは、ゴールドル家の監視や制裁?」
「ご名答。でも君なら収容所での僕とマリアさんとの会話も聞いているし、まあ分かって当然だよね」
「それで制裁の決定権をマリアさんに委ねるというの? それはマリアさんの荷が重すぎるんじゃないの?」
トビトの笑みに僅かに酷薄さが混じった。
「そうかもしれないけれど、これが僕達の規則さ。人間の中で、トエル国が存在することが原因で一番不幸になった者。その人にトエル国存亡の決定権を委ねる。これが僕らの一貫した規則の一つさ」
また一つ笑むとトビトは再びマリアに振り向いた。
「それでマリアさん、マリアさんは今どちらの気分?」
ドキリと何故かウリアの心臓が跳ねた。
トビトは答えを待つようにマリアの顔を覗くが、マリアは瞳を閉じたまま答えない。
「マリアさんにとっては幸福感、不幸感どちらが大きかったかな?」
マリアの閉じた瞼が何かを堪えるように小さく震えているのが見えた。
「お前はどこまで失礼なんだ!」
思わず怒鳴っていた。得体のしれない者がウリアに振り向く。
「何が失礼なんだい? 僕はむしろ君のその発言の方がマリアさんに失礼だと思うよ」
「な――」
「そもそも、そういう言い方自体が、君自身がマリアさんを不幸だと思っているからでることだ」
トビトは酷薄に笑う。
「ねえ、トエル国で二番目に不幸なウリエル・ゴールドル――今は、ウリア・セラフィムと呼んだ方が良いかな。ウリア、君はトエル国にどうなって欲しい?」
「私は――」
急に問い掛けられ、ウリアは困惑した。小さく頭を振る。
「君はどこまで真実を知ったのかな?」
マリアがウリアに振りかえった。マリアの瞳に焦燥が溢れているのが、ウリアでも分かった。
「日記を読んだのですね?」
ウリアは歯切れ悪く頷く。視線を逸らそうとするウリアに、マリアは必死に目を合わせようとした。
「どこまでお読みになったのですか?」
マリアの声が僅かに震えている。
「私の産まれた日の最初の部分――ゴールドル家に女の子が生れるのは異端だというところまでだ……」
答えてからしばらく、マリアから言葉が返ってこないのでチラリとマリアを窺うと、マリアは蹲って顔を手で覆っていた。肩が揺れている。泣いているのが分かった。
「マリ――」
「最後まで読めてなかったんだね。それは残念だ」
トビトはさらに酷薄に笑う。
「じゃあ、不親切な僕が君の不幸さを教えてあげるために、もう一つの真実を教えてあげよう」
マリアが素早く顔を上げ、トビトを制止させようとしたがトビトはマリアに静止魔法を掛けてしまった。杭に足を刺されてしまったように動けないウリアに、トビトはすたすたと歩み寄り、首に手を伸ばした。そして首にぶら下がる白銀のチェーンを引っ張る。直ぐに首飾りのトップの深い金色をした石が現れた。既に石が服から出ているというのに、トビトは引っ張る力を緩めようとしない。
「やめろ――」
ウリアは今更のように抵抗しようとしたが、遅かった。
ぷつん
と些か呆気なさすぎる音を発して、ウリアの首飾りは切れてしまった。
――魔力が……。
暴走すると思って備えたが、全くその兆候は現れない。慌てて周囲を窺うと酷薄に笑うトビトと無表情のライトが整然と立っていた。どうやら動揺していたのは自分だけだったらしい。
「――どういうことだ?」
ウリアの呟きにライトが答える。
「そもそも細胞変換しているのだから、金髪の魔力は今はないはずなのよ」
しかしその言葉にもトビトは笑う。
「なるほど、だから今は魔力があったのか」
ライトはきつくトビトを睨む。
「普段は女神の雫が封印してるのだから、ないに決まってるじゃない」
「さて、ここで一つ疑問が浮かびます。普段は金髪であるウリエルの魔力を封印しているはずのこの石は、何故銅髪程度の魔力を封印できていないのでしょうか?」
「それは――」
ライトは言葉に詰まるが、ウリアは何故ライトが黙したのかすぐに理解できなかった。ややあって、ライトが小さく唾を呑みこむ音が聞こえた。
「まって、そんな話、冗談じゃないわ。発動に条件があった可能性もあるじゃない」
「いや、女神の首飾りの効力の発動条件は、首飾りを首に着ける、それだけでいい」
「その話に確証はあるの?」
トビトは悪戯っぽく笑った。
「あるさ」
そしてポケットから徐に一つの首飾りを取り出した。細い金色のチェーンの先に、黒っぽい石が付いている。
「これが本物の女神の首飾り。そしてこの石が、女神の雫」
「――」
ウリアもライトも、マリアでさえも、トビトが出した石に目を奪われていた。
トビトの持つ『女神の雫』は不思議な色をしていた。一目見ただけだと、深い黒色をしているように見えるが、よく見ていると実は黒色ではない。白色に見えてきたと思ったら紫に、青に黄に赤に次々色が変化しているように錯覚する。その石は色があるようでその実、色がないようでもあった。そしてその色の中に、幾つもの小さな光の粒が、瞬き合い、一つの小さな星団になっている。とても石であるとは言い難い代物だった。まだ映像を反映している球体と言った方が信じてもらえるかもしれない。
最後の抵抗の様にライトが呟く。
「でも、貴方のそれも、本物という確証はないわ」
「なら着けてみるといい。貸してあげるよ」
そう返すトビトにライトは小さく頭を振った。
トビトは再び軽薄に笑う。
「待て、アレが本物の女神の首飾りというなら、私が着けていた物はなんなのだ?」
「――偽物よ……」
ライトが苦々しく答える。
「偽物でも俺は魔力が封印されていたということは、どういうことなのだ?」
「――」
ライトが口を開き、再び閉じる。ウリアから視線を逸らした。代わりにトビトが皮肉な笑みを浮かべながら口を開く。
「それはね、ウリア。ウリアに元々魔力がなかったということさ」
「――なんだと……」
ウリアは自分の頭から血の気が引いていくのが分かった。
――私に魔力がなかった?
死の間際でもないのに、脳内に走馬灯の如く今までの記憶が呼び起こされる。
ウリアの誇りは、自身がトエル国の第二王子であることと、何より魔法が使えなかったとはいえ、金色の魔法使い(レナルド・ルルージュ)であったことだった。否、誇りではなく、ウリアのアイデンティティであったのだ。
「嘘だ……」
呟いたが誰も何も言い返さなかった。それが嘘ではなく、真実であると如実に伝えている。
――ならば、私にはもうなにも残されていないではないか……。
自分はゴールドル家には存在しないはずの『娘』であることは、十分に理解していた。だからまだライトから『ウリエル』ではなく、『ウリア』と名付けられ、呼ばれる様になっても許容することができた。しかし、魔力に関しては違った。ずっとずっと、物心がついた時から、ウリアは――ウリエルは自身が金色の魔法使い(レナルド・ルルージュ)であると思ってきていたし、周りからもそう持て囃されていたのだ。自分の性別、出生だけでなく、魔力まで嘘でできていたなど、どうしたら許容できるだろう。しかも、ウリアはまだ自分の不幸な出生のことですら、受け止めきれてはいないのだ。
「マリア……」
ウリアは底の見えない闇でできた瞳をマリアに向ける。
「そうなのか? 今までずっと、私を騙してきたのか?」
トビトの呪縛から解き放たれたマリアは、ウリアの言葉ではなく、現実を否定するようにゆっくりと頭を横に振った。
「ごめんなさい……」
マリアは全ての言葉を呑みこんで、やっと一言、そう言った。ウリアはそんなマリアに罵声の一つもあげることができなかった。心のどこかで気づいていたからだ、マリアがそうして自分を守ってくれていたことに。自分自身も深く傷つきながら、娘である『ウリエル』を守ってくれていたことに……。
ウリアはマリアの腕の中で声を上げながら泣いた。
愛する人が殺されたような状況の中、トビトは目的を達成できた真犯人の様に冷酷な笑みを浮かべた。
「さて、トエル国で一番不幸な親子に質問です。君たちはトエル国にどうなって欲しい?」
ウリアが顔を上げた。瞳が暗く光り、口から呪詛の様な言葉が漏れ出た。
「――滅んでしまえばいい」
マリアがそんなウリアを強く抱きしめる。
「あなたは? マリアさん」
「私は――」
マリアは僅かに躊躇った様で、一瞬目を伏せた。
「結論を今、出してもよろしいでしょうか?」
「問題ないですよ」
怪しく笑みながら、トビトは頷く。
「私は、」
マリアは一度ウリアに目配せしたが、ウリアと目を合わせることはなかった。
「トエル国の存続を希望します」
強い意志の籠った声で、マリアは言った。
「え……」
瞬時にマリアが言ったことを許容できず、ウリアはただマリアを見上げた。マリアはウリアに優しく微笑むと、今度は優しく抱擁した。
「なんで……?」
ウリアは自分の望んだ方を選んでくれなかったマリアに絶望する。
「なんで……なんでマリア?」
マリアは言葉もなくウリアを抱擁し続ける。すると、満面の笑みを浮かべたトビトが同じ質問をマリアにした。
「僕にも是非聴かせてほしいな。何故、トエル国の滅亡を望まないかの」
マリアはゆっくりと、その重たい瞳をトビトに向けた。
「貴方には想像がつきそうな気がしますが……理由まで言わなければいけないですか?」
「あくまで可能性であって、本当の理由は本人に訊かなければ分からないですから。理由を教えてくれなければ、逆に滅ぼしてしまうかもしれない」
おどけるようにトビトはそう言った。マリアは小さく溜息を付く。
「――このまま、不幸なまま終わらせたくないと思ったからです。私はウリエル王子とトエル国で一番幸福な人間になりたいと、今、王子を見て思ったのです」
ウリアはマリアが僅かに震えていることに気がついた。
マリアを見上げていると、マリアと目が合った。その視線の真っ直ぐさに自分の不幸を妬む気持ちを見透かされた気がして、ドキリとする。
「王子、王子もこの老いぼれと一緒に闘って頂けますか?」
実年齢よりも遥かに年老いた身体。身体のあちこちにある深い皺には、今までの人生の不幸と苦労が刻まれている様に見えた。
――しかし、マリアはまだその不幸と闘おうとしている。
「……断る理由がないだろう?」
瞬きをすると一筋、熱いものが頬を伝って流れ落ちていった。流れた軌跡が冷気を帯び、火照った頬を冷やしていく。
ぱちぱちぱち
小さいがよく響く拍手がした。
振り向くと金髪の青年が満足気な笑みを浮かべながら拍手をしていた。
「いやあ、二人とも素晴らしい選択だよ。オージさまも最終的に存続を選んだのは意外ったね」
三人とも目尻が裂けそうな程、目を見開いていた。目の前にいる青年の美しく輝く金色の髪を。
「あ……貴方、本当は金髪……?」
「でも、金色の魔法使い(レナルド・ルルージュ)は始祖様とルーメンと俺しかいないはずでは……」
金髪の青年――トビトは軽薄な笑みを浮かべた。
「僕はモグリの金髪さ。知っているのはイスラフィール家とイスラフィールと関係が深い魔法使い。君の大婆様――所謂、始祖様とかね」
「え、大婆様は貴方を知っているの?」
「知っているよ。イスラフィール家の当主になって最初にすることが、ポースさんに挨拶に行くことだからね」
ライトはかなり困惑しているようだった。
「大婆様は初めから今回の蟲騒動の犯人は貴方だって、ご存知だったのね……」
「そうだろうね」
「なんで大婆様は……」
「僕が犯人だって教えなかっただって? 君らしくない愚問だね。君たちの勉強のために決まっているじゃないか。まあ、敢えて教えなくても、君たちなら僕に辿り着けるって信用していたのもあるんじゃないかな」
トビトは一つ笑むと、場を締めるように一つ手を叩いた。
「さて、これで今回の僕らの仕事は終了だ。君達を帰してあげよう」
「待って、一つ訊かせて。貴方達はトエル国を滅ぼせると言っていたけど、具体的にはどう破壊する予定だったの?」
ライトの問いかけにトビトは困ったように笑む。
「それは、企業秘密かな。手掛かりをあげるとしたら……そうだね、これはイスラフィールの人間か、あるいはスターフィールド一族の人間にしかできないことだね」
「私達にもできるの?」
「トエル国の仕組みが分かればね。まあ、他にもできる魔法使いはいると思うけどね。
さてさて、そろそろ僕も帰らせてもらうよ。送り先は、ロペス邸の君の部屋でいいね?」
トビトは三人の返事を待たないまま、一つ指を鳴らした。
「あ、もう一つ手掛かりよう。ケケラバイルの生態系について調べてみるといいよ」
一瞬視界が金色で埋め尽くされたと思うと、次の瞬間には小ざっぱりとした見覚えのある部屋に戻っていた。