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嘘吐き少年  作者: 小島もりたか
3/5

六月二日(火) 午後零時

目を開く。ウリエルは辺りを見回した。灰色の石でできた部屋の様だった。足元には白い線でできた何かの魔法陣が広がっている。後ろを振り向くとそこには、大きな鏡があった。


「ここは……?」

「トエル国外よ」


 右腕に温かさを感じ正面に目を戻すと、髪を銀色に染めた人形の様に美しい女の子がどこか悪戯っぽく笑んでいた。そのままウリエルの言葉に答えず、腕を引っ張っていく。いったい今日は何度彼女に腕を引っ張られたことだろうか。


「待ってくれよ」


 急に引っ張られるものだから、脚が少しもつれた。危うくこけるところだった。そんなウリエルを気にも留めず、彼女は力強く歩みを進めていく。


 ――どこだ、ここは?


 石の部屋を出た。部屋の先も灰色の石の廊下が続いていた。光石で最低限しか照らされていない廊下は、特に飾りもなく味気がない。むしろ薄明るさが不気味に思えた。石の廊下には幾つもの木の扉がついていた。その中のひと際大きい木の扉に彼女は手を掛ける。開けた隙間から、明るい光りが漏れた。


「ただいま」

「あ、お帰りなさいませ!」


 ひと際明るい声が返ってくる。メイド服を着た声の主の女性は、昼食の準備をしていたらしく、一度に二十人は座れるような巨大なテーブルに、六名分程の取り皿を置いていた。

 メイド服の女性は、ウリエルを凝視する。


「まあ! まあ! ライトお嬢様ったら、本当にウリエル王子をお持ち帰りしちゃったんですか?」

「サニー、もう帰ってきていたの?」


 サニーと呼ばれたそのメイド服の女性は、軽く鼻を鳴らした。


「先に帰ってお食事の準備をしておあげなさいとのご命令です」

「流石、何て抜け目のないお母様ですこと」


 ライトが椅子の一つに座る。ウリエルもライトに促されて隣の椅子に座った。目の前でサニーがくるくると小気味よく食事の準備をしていく。


「もう下のバグ退治はひと通り済んだの?」

「それが結構多いようですし、足手まといな魔法使いが多いせいであんまり順調じゃないみたいですよ」

「被害は?」

「甚大みたいです。確認はとれていないですが、簡単に見積もった感じですと、銅髪で百人、銀髪で五人は喰われたようです」

「そんなに……」


 思わず言葉が漏れた。

 トエル国が創造されて以来、国内でこんなに多くのバグ被害がでたことはなかったと聴いている。今までは、精々十数年に一度、小さな時空のワームホールができる程度だったはずだ。死者など、でたこともない。


「皆、ぬるま湯につかり過ぎなのよ」


 ライトの言葉に怒気を煽られる。反射的にライトの襟元を掴んでしまった。銀色の美しい瞳に、侮蔑の色が滲む。


「そうしたのは、ゴールドル家よ」

「違う! そもそもトエル国は魔法使いを守るために創られたのだ。バグに不慣れになって当然だ!」

「不慣れになるのと、備えないのは別の話じゃないかしら? 危機管理能力の欠如よ」

「――っ」

「若いねぇ」

「?!」


 突然の男性の声にウリエルは驚き、振り向いた。


「タピオ伯父様」

「ライト、ウリエル王子にあんまり当たっちゃいけないよ」

「でも伯父様……」

「でももクソもない」


 タピオが睨むとライトは押し黙った。タピオは何食わぬ顔で椅子に座る。


「サニー今日の昼食は何?」

「お腹すいたぁ」


 更に若い男女が部屋に入ってくる。ウリエルの姿を確認するなり、二人は同時に動きを止めた。


「あ、ウリエル王子だ」

「ホントだ、ライトがお持ち帰りしてる」

「?!」


 ふと気がついてウリエルはライトの背後に隠れた。


 ――いま私は追われている身なのだ。


 呆れたようにライトが口を開く。


「今頃隠れても遅いわよ」

「そうだよ、遅いよ」


 若い男がおどけたように笑う。


「ハイネンお兄様に、アイノお姉様。タピオ伯父様の子供で私の従兄姉よ。大丈夫、皆敵じゃない」


 二人がウリエルに「よろしく」と手を振る。


「あ、今日はクリームパスタか」

「またパスタ……」


 二人はぶつぶつ言いながらパスタが並べられている席に座るなり、もごもごとパスタを食べ始めた。タピオに至っては、既にパスタの半分を平らげている。


「お二人もお召しになってください」


 サニーも最後の大皿のサラダをテーブルの真中に置くと、空いている席に座ってパスタを食べ始めた。


 ――ここではメイドも一緒に食事をとるのか?


「食べるわよ」


 ライトも胸倉のウリエルの手を外すと何事もなかったようにパスタを食べ始めた。


「あ、待て」


 ウリエルも急いでパスタに手をつける。程良い塩加減と触感が素朴で、思いの外美味しかった。


「しっかし、王女様も酷いよな、息子より見ず知らずの男を信じるなんて」


 ハイネンの何の気ない言葉がウリエルの胸に突き刺さる。


「きっと、母上は気が動転してらっしゃるのです……」

「王子様には悪いけど、動転するにしてもあの動転の仕方はないな」

「まるでウリエル王子を陥れる言い方だったわ」


 ライトもアイノの言葉に頷いているのをウリエルは横目で見た。


 ――お母様は……。


「――っ」


 ウリエルは自分の身体に久しぶりに現れた、違和感に気がついた。


 ――やはり、もたないか……。


『私の傍を片時も離れませんよう……』

 繰り返し言われたマリアの言葉が耳に蘇る。ライトが目ざとくウリエルの小さな反応に気がついた。


「どうしたの?」

「なんでもない」


 ウリエルは首を横に振り、パスタを口に入れる。タピオが励ます様にウリエルに微笑んだ。


「まあ、何にせよ、好きなだけ滞在していってください。慣れるまでちょっと大変かもしれませんが、ここならまず、ゴールドル家の介入はありませんから」

「何故そう言い切れるのだ?」


 そのウリエルの問いかけに、ウリエル以外の全員が悪戯っぽく笑んだ。


「そのうち分かるわ」

「教えてくれてもいいだろ?」

「ここの存在を、王子様を始めとするゴールドル家の人達や、トエル国に住む魔法使いが誰も知らない、というのが証拠かな」

「ここはどこだ?」


 ウリエルの問に、ハイネンが更に笑みを濃くする。


「トエル国でも、所謂、ケストでもない場所さ」

「じゃあ、結局ここはどこになる?」

「ちょっとは自分で考えなさいよ」

「考えても分からないから訊いているのだ」

「絶対嘘、考えてない」


 図星を突かれて、ウリエルは自分の顔が赤くなるのを感じた。


「お前、さっきから頭が高いんだ!」

「そもそも貴方って、私達が頭を下げてあげる程の存在?」

「不敬だぞ!」

「不敬? 敬えるような人格者でもないわよね?」


 ライトが鼻で笑った。その仕草が更に怒りを湧きあがらせる。


「――っ!」

「まあまあ、ライトもあまり苛めない」


 再びタピオの仲裁が入る。ライトはそっぽを向いた。


「よしよし、じゃあ僕がここを案内しよう」


 そう言ってハイネンが立ちあがる。ウリエルの元まで歩みよると、ウリエルの椅子を引いた。


「さあ、不機嫌なライトなんか放っておいて、僕とおいで」

「え、しかし……」


 初対面の人と二人で行動するには、気が退けた。無意識にライトを窺い見る。目が合ったがすぐに視線を逸らされた。


「ハイネンお兄様、お願いいたしますわ」

「はいはい」

「しかし……」

「大丈夫大丈夫、そんな獲って喰わないってー」


 思いの外強い力で腕を引っ張られ、無理矢理立たされる。そのまま引き摺られる様にして部屋から出されてしまった。

 知らない場所、知らない人ということが恐怖心を煽る。そんなウリエルの気持ちを見抜いたように、ハイネンは笑いかけた。


「ごめんね、身近な人に裏切られたばっかりなのに、こんな知らない男の人に連れられちゃ、そりゃ男の子だって怖いよね」


 ――身近な人……。


 それは母親のことを言っているのだろうか?


 ――お母様は『身近な人』では……。


 言葉もなく見上げるウリエルにハイネンは微笑んだ。不思議と砕けた言葉遣いを遣われても不快にはならなかった。ライトの親族だからかもしれない。


「さあ、外に出るよ」


 ハイネンがひと際大きな扉を開いた。音もなく滑らかに扉が開く。


「あぁ……」


 思わず感嘆の声が零れた。

 足元は砂漠の様な水気のない、薄黄色の砂が凹凸をくり返しながら広がっていた。その味気がない地平の先には、煌々と輝く光の球と、静かに佇むガラス玉が浮いている。


「あれは、なんだ……?」


 ウリエルの問いかけにハイネンは静かに答える。


「地球。魔法使いが言うところの『ケスト』だよ」

「初めてみた……」


 何故だろう、涙が零れた。


 ――きっとあの光る球が眩しいせいだ。


「地球をこうやって観られる人間なんて、そうそういないよ」


 ハイネンが笑う。


「外はあんなにも美しかったのだな」

「そう、綺麗でしょ」


 ウリエルは言葉もなく頷いた。

 ハイネンに誘われて一歩外に足を踏み出す。見た目通りの柔らかい踏み心地が足元を伝う。ハイネンが飛び跳ねた。軽く跳んだように見えたのに、ハイネンの足先は砂埃と共にウリエルの頭まで達した。ウリエルも真似をする。


「うわっ!」


 軽く飛び跳ねたつもりが、自分の身長程度まで跳躍していた。


「凄い! 魔法か?」

「魔法じゃないよ!」


 兎の様にハイネンが跳び進む。ウリエルもそれに付き従った。


 久しぶりに心底楽しい気持ちになる。何も考えずにこんなに楽しんでいるのは、何年振りだろうか。先ほどは『地球』に気を取られて気がつかなかったが、よく見ると向こうの方に小さく光る金色の光がある。そこに向かっているのだろうか?

 後ろを振り返る。だだっ広く広がる砂地に、ポツリと立つ巨大な豪邸があった。ゴールドル家の城と比較すると、多少は見劣りするが、トエル国にこの建物と同等かそれ以上のものは、ゴールドル家の城以外存在しないだろう。しかし、豪勢過ぎる豪邸に思えるのに、何故だろう、その姿はどこか心細さを感じさせられた。


 その豪邸が本来の大きさの半分程度の大きさに見える程に進んだ頃、砂地に数人の人影が見えた。


「何をしているのだ?」


 ハイネンは何も言わなかった。跳び寄りながら、そこへ目を凝らす。


 ――青い?


 人影は青く円形に揺らめくものを囲んでいた。


 ――炎?


 そこに向こう側からこちら側に向け、何かが突っ込んだ。


「あ――」


 次の瞬間、青い炎の様なものに突っ込んだモノは、黒い塵となってこちら側に噴き出された。


「何が起きたんだ――?」


 更に近づく。

 近づいて確認すると、青く揺らめいていたものはやはり炎で、青い炎の円は直径がおよそ人の二倍あることが分かった。炎を囲む四人の人々は、ウリエル達が近づくと振り向いた。初老の男女と、若い男女だった。


「いらっしゃい」


 それだけ言ってしまうと、再び炎に視線を戻す。ウリエルは改めてハイネンに問い掛ける。


「この人々は何をしている?」

「炎の向こう側をよく見てごらん」

「――」


 言われた通りに炎の向こう側を見ようと目を凝らす。空は元々黒を湛えていたが、見上げた炎の向こう側は、その黒より更に深い黒が見えた気がした。また、空に煌めく砂金の様な光りも、炎の先には見ることができない。


「景色に穴が空いていて、それにビニールの蓋をしているみたいだ」


 ハイネンが笑う。


「それがほとんど答えだね」

「え?」

「景色に、穴、といえば?」

「……時空のワームホール?」

「ご名答!」


 目の前に時空のワームホールあると理解した瞬間、身体が震え始めた。足腰に力が入らなくなり、地面に尻もちをついてしまう。

 嫌がらせの様にタイミングよく、向こう側から影が幾つも飛び出し、塵が舞う。


「ひっ……」


 後ずさりしようとしたウリエルの背中を、ハイネンの膝が受け止めた。見上げるとハイネンが優しく微笑んでいた。


「そんなに怯えなくても大丈夫。さっき王子も、『蓋をしているみたい』って言ったじゃないか」

「あ――」


 再び炎の膜から塵が舞う。


 ――あの炎は、時空のワームホールに対する『蓋』なのか?


 さらに数匹の影が現れ、塵となった。


「……なぜ、時空のワームホールを閉じない?」

「所謂『囮』のためさ、本体――地球を守るための」

「普通の魔法使いは誰も知らない場所で?」

「知ってても誰も来ないだろうさ」

「誰の命令で?」

「命令なんてない、僕らの意志」

「何のために?」

「地球を守るために」

「……何か利益は?」

「うーん、強いて言うなら、強くなれる」


 ウリエルはハイネンの考えが分からず、頭を横に振った。

 サラサラと絶え間なく塵が舞堕ちる。


「俺には理解できない」

「別にしなくていいさ、ただ、ここはそういう場所で、僕らが何をしているか、っていうことだけを知っていてくれたらそれでいい」


 ハイネンを見上げた。ハイネンは笑んでいたが、瞳の奥は笑っていないようで、訳も分からない恐怖感に囚われる。

 ぢぢぢぢぢっ

「?!」


 音の方へ振り向く。決壊したダムの水の様に塵が溢れ出ていた。


「二重の強炎ジャベガン・ウェスプ!」


 初老の男が素早く唱えると、炎の色が青から紫に変化した。


「二重の強炎ジャベガン・ウェスプ


 若い男も同様に唱える。炎が円から、薄い円柱に変化した。

 ぢぢぢぢぢっ

 バグの群れが津波の様に押し寄せ続ける。炎の下の塵の山が目に見えて大きくなる。僅かに初老の男性の顔が歪んでいるように見えた。


「大丈夫なのか?」


 ハイネンが何ともない様に頷く。


「まだペッコ伯母さんとトニトルスがいるから」


 改めて周囲を窺うと、確かに女性陣がまだ二人空いていた。


 ――いや、でも、やっぱり、怖――


 そう思った瞬間、巨大な影が炎の壁を突き抜けた。不快な臭いが鼻をつく。

 身を黒く焦がした、長太い影がウリエルに振り向いた。それは巨大な芋虫のようだった。芋虫と視線が交差する。


「あ――」


 全身が硬直した。後ずさりしたかったが、ハイネンに背中をせき止められている以前に、身体が言うことを利かない。

 芋虫がゆっくりと身体をウリエルに向けた。やがて、見た目以上の加速度でウリエルに向かって歩みを進め始める。


 ――え、助けて……。


 後ろでハイネンが呑気に口笛を吹いて笑った。


「英雄は遅れて登場ってやつだな」


 ハイネンを振り返りたかったがそれもできない。

 ただ目を見開いたまま、巨大な芋虫を見つめていると、突然、空から銀色の固まりが振ってきた。


 ――何が……?


 塊は重力による加速を無視した勢いで巨大な芋虫の横っ腹に突っ込んだ。芋虫がグロテスクな悲鳴を上げる。固まりが再び跳んだ。ウリエルはこの時初めて、その固まりが小さな人であることに気がついた。小さな人が空に跳んだ一瞬後に、芋虫の体液がその人を追うように空に跳ね上がる。


 小さな人が銀色に輝く小さな何かを、芋虫に向かって投げる。人の手を離れたそれは次第に巨大化し、芋虫に当たる直前には一本の大きなフォークになった。そのままフォークは滑らかに芋虫を貫いた。まるで巨人が芋虫にフォークを突き立てたかのような光景だった。


 ――凄い……。


 再び芋虫が悲鳴を上げる。首を上げて抵抗を試みるが、その首に今度は小さな人が持つ巨大なフォークが突き立てられた。


紅炎ウェスポナーゼ


 フォークが灼熱色に染まる。フォークを発火点として、紅い炎が芋虫を包んだ。


「あ……」


 気がつくと身体の硬直が解けていた。芋虫の悲鳴が響き、悲鳴と同時に生まれた塵すらも消えていく。

 小さな人が髪を炎の赤に染めてやってくる。小さな人は長い銀髪を一つに括った見覚えのある人物だった。


「貴方って、本当にバグに耐性がないのね」

「ライト……?」


 今まで目にしてきていた姿とはあまりに異なり、ウリエルは目の前の人物がライトであることに気がつくのが遅れた。ライトは普段、他の女子同様スカートを履いているが目の前の人物は、七分丈のズボンを履いており、上も普段は着ていないシャツを着ていた。

 ライトは片手に持ったフォークを肩に当てる。


「いつまで尻もち付いてるの?」


 返事をする間もなくライトに腕を引っ張られ、立たされる。


「ハイネンお兄様も、ウリエルがバグに慣れてないって分かってるんだったら、こんなに近づいたらダメじゃないの?」

「大きいの来ても大丈夫かなって思って。ほら、実際余裕だったろ?」

「もう……」


 ライトは頬を膨らませる。


「ライトちゃんに獲物盗られちゃったー」


 少し離れた所で初老の女性が笑った。女性の傍にある炎は既に紫色の円柱から青色の円に戻っていた。塵の発生も疎らになっている。


「伯母様、申し訳ありませーん」


 ライトも笑いながら言葉を返すと、ウリエルに振り向いた。


「ウリエル、まだあっちは見に行ってないのでしょ?」


 ライトが指差した方向には、金色に光る球が見えた。


「まだだ」

「じゃあ案内してあげる」


 腕を引かれ、歩き始める。


「まてまて、僕が案内人だぞ?」


 ハイネンも後に続いた。


「お前もああして毎日蟲バグを退治しているのか?」

「そうよ」

「なんで?」

「そういう家系だから」

「家系? お前の従兄と言ってることが違うぞ?」


 ライトは面倒くさそうに溜息をついた。


「ハイネンお兄様は、一人前になって尚ここに残っているのだから『自分の意志』だけど、私はそうじゃないから『家系』ってこと」

「じゃあ、『一人前』になれたら、お前はここから出ていくのか?」


 ライトはウリエルに振り向き、目を合わせると憂鬱そうに視線を逸らした。


「さあ」

「自分のことなのに分からないのか?」


 今度はきつく睨まれる。


「それ、貴方に言われたくないわ」


 引っ張っていた腕を放し、ライトはずんずん先に歩いていく。また怒らせたらしいことは分かったが、ウリエルには今一、ライトが怒るポイントが理解できないでいた。


「思春期は難しいな」


 ハイネンが笑ってウリエルの肩を叩く。


「いつもライトを怒らせてしまうのだが、何がきっかけかよく分からぬ」

「王子、王子はもう少し自分の立場を考えてみた方が良い。自分に与えられていたもの、自分が身を置いていた環境……それが一般的なものとは違いすぎるんだ」

「そもそも『一般』が分からぬ……」

「王子はその『一般』を少しでも知ろうとしたことはある?」

「……ない、下々の暮らしなど、知る必要がないと父上に言われてきていた」

「うん。王子には失礼だけど、まずそこが王子の間違いであり、ゴールドル家の大きな間違いでもある」

「なんだと?」


 ウリエルがハイネンを睨むが、ハイネンは怯むどころか真面目な顔を返してきた。


「人を管理する人はね、ちゃんと全体を見なければいけないんだ。でなければいずれ綻びが生じ、崩壊してしまう」

「しかしトエル国はゴールドル家の元で千三百年も続いてきている」

「ほんの二百年程前までは王様の質が良かったらしい」

「お父様だけではく、お爺様までも愚弄するか?」

「事実だ」


 ウリエルはこの歯に衣を着せない言い方は間違いなくライトの親戚だと思った。

 ハイネンは苦笑いをする。


「ごめん、話が逸れた。王子はライトの数少ない友達だからね、仲良くしてあげて欲しいんだ」


 ウリエルは返答をせず、前を歩くライトの背中を見た。ライトの背中は小さいのにいつも力強く、自身に溢れている。


「ライトは、落ちこぼれだと思っていた……」


 ――私の同類だと……。


 同じ魔法が使えない魔法使いと勝手に好意を抱いていた。同類だと。しかし何故いつもあんなに余裕があるのだろうと疑問には思っていた。

 ハイネンは軽く肩を竦めてみせる。


「深くは訊かないけど、学校では手を抜いているみたいだから」

「何故? あれだけ魔法が遣え、バグも一人で簡単に退治できるのに?」

「さあ? またいつか本人に直接理由を訊いてごらん。僕らには直接訊けないや」


 それからハイネンはうんともすんとも言わなかった。黙々と歩く。不思議と光の球に近づくほど、圧迫感が増している気がした。その圧迫感が光の球が発する魔力だと気がつくのには時間がかからなかった。

 光の球の目前でライトが振り向いた頃には、ウリエルは立っているのがやっとの状態だった。発する光も強く、ライトの姿を捉える事が難しい。


「これは『魔法石』よ」

「魔法石――」


 魔法石は、魔力が込められた石のことだが、ウリエルはこんなに大きく、強力な魔法石を見たことがなかった。大きさは直径十メートル程度ある。いったい魔力はどの程度保有されているのだろうか、大まかに感じ取っただけでも、目の前にいる銀髪のライトの魔力が蟻の様に小さくなったように思える。


「こんな強力な魔法石を置いていたら、バグに狙われるではないか?」

「そのために置いてるの。バグ寄せにはいい餌でしょ」

「誰がこんな魔法石を?」


 ウリエルの中でこんなに強大な魔法石を作れる者は一人しか存在しなかった。しかし、ライト達との繋がりが感じられない。


「大婆様」

「誰だ?」


 ライトが肩を揺らす。笑ったのだろう。


「後で会いたければ会えるわ。さ、家に戻りましょ。これで大まかな案内はほとんど終わりよ」


 ウリエルの横をライトが通り過ぎてゆく。ウリエルもその後ろに続いた。帰りは追い風に吹かれているように歩きやすかった。


「結局ここがどこか分かった?」


 ウリエルはしばらく考えて首を横に振る。ライトが鼻で笑った。


「そうよね、そもそもケストを知らなければ、ここの空を見ても分からないものね」


 ウリエルはムッとしたが、怒りを抑えて訊き返す。


「結局どこなのだ?」

「月よ」

「月?」


 訊き慣れない単語にウリエルは首を傾げる。


「トエル国は一日中、中心木ケイム・モーズが地上を照らしているけれど、ケストは、昼間は太陽が、夜は月が地上を照らすのよ」

「昼間と夜で明かりが違うのか?」

「そう、しかも月に至っては夜に出ず、昼間に出る場合もあるし、見える形が毎日変わる」

「明かりの意味がないではないか」

「月はそもそも光源のために存在してるわけじゃないのよ」

「じゃあなんだ?」

「月は地球の周りを回ってるだけなの」

「回って何になるんだ?」

「その様にできてるから、回ってるだけ」

「今も回っているのか?」

「回ってるわ」


 そしてライトは悪戯っぽく笑う。


「まあ正確には、ここは月じゃないけどね」

「じゃあさっきの説明はなんだったんだ?」

「強いて言うなら、月に一番近い場所。月にあるけど、ケストから見えてる月にはここは存在しない」

「意味が分からない」

「次元を少しずらしているの、バグが存在する次元側に」

「次元を――?」

「そう。ずらすといっても0.001次元程度、ほんの僅かよ」

「そんなことが可能なのか?」

「何を言っているの、トエル国も次元をずらしているからこその、あの環境なのよ」

「トエル国が……?」


 ウリエルは苦い生唾を呑みこんだ。


「トエル国も原理は基本的にここと同じ。ただしずらしている方向が真逆っていうだけ。でもその効果は絶大で、一部の例外を除いて、バグの感知をほぼ抑えることができる。バグの存在に怯えながら暮らさなくてもいい、まさに魔法使いにとっては理想の場所。逆にここは、魔法使いにとっては最悪の場所」


 逃げたくなった? とライトの瞳が笑っていた。


 ――負けるものか。


 ウリエルが睨み返すと、ライトは意外そうに目を見開いた。一瞬後に今までに見たことがないほど、美しく微笑む。


「元々最悪なんだし、ここには私達以外誰も来れないから、その封印、とってしまってもいいのよ」

「――」


 甘美な誘惑にウリエルは思わず生唾を呑みこんだ。

 もし自身の魔力を解放できたら……そう思ったことは少なくない。


「そうすれば、ここは大変なことにならないか?」


 ウリエルの遠回しの否定にライトはけろりと笑う。


「大丈夫よ。一人増えた所でそう変わらないわ」

「一人増えた所で?」


 ライトはその言葉に答えず、小悪魔の様に笑む。


「それで外すの? 外さないの?」

「私は――」


 下唇を噛む。とても悩ましかった。一度好き勝手に自分の魔力を解放させてみたいと思う半面、もしも魔力が暴走したらと思うととても恐ろしかった。

 結局ウリエルはまだ封印は解かないことにした。

 ライトがつまらなさそうに唇を尖らせた姿の愛らしさには満足した。


 一時間ほどかけて家まで戻ると、リビングが賑やかになっていた。


「お帰りライト、ハイネン。ようこそ、ウリエル王子」


 一番身長の高い女性がお出迎えをしてくれた。


「どうでしたか、外は」


 とても優雅で美しい女性だと思ったが、それよりも視界の端に映る影が気になった。まともな返事ができないでいると、視線に気がついた女性が華の様に微笑んだ。


「大婆様」


 美しい女性に呼ばれ老婆がやってきた。


「なにか御用か?」


 声も顔も手も皺枯れていた。曲尺のように曲がった腰が痛々しかったが、足取りは思いの外軽かった。しかし、それより目を見張ったものは――

「王子がお気になさっていたご様子でしたので」

「あの、貴方も金髪で……?」


 自然と言葉が改まっていることに、ウリエル自身気がつかなかった。

 老婆が皺くちゃの顔をより一層皺くちゃにする。


「私は金色の魔法使い(レナルド・ルルージュ)だよ。私のことは大婆とでも呼んでおくれ。面倒くさいことに巻き込んでしまってごめんなさいね」

「巻き込む?」


 ウリエルは大婆様の言葉に引っかかりを覚えたが、大婆様は言葉を続ける。


「ここには好きなだけいていいからね。ただし、ここにいる間は皆貴方を家族として扱わせてもらうけどね」

「はい――」


 普段のウリエルなら、ゴールドル家の親戚の者でさえ、慣れ慣れしくされることを不快に感じていたが、何故だろう、この時はそれがとても魅力的に感じだ。

 大婆様の外見の年齢は九十歳を超えている様に見える。しかし大婆様は年老いて衰弱している様には全く見えず、寧ろ、人間として熟成されているように感じた。


「そうだ。皆の紹介をしないとね。大勢いるから、会うたびに訊いていっておくれ。皆貴方のことは知っているから、自己紹介はしなくていいよ」

「あ、はい」


 大婆様が振り返り、隣の女性に目を向けると女性がニコリと微笑んで頷いた。女性が手招きすると部屋にいた全員が集合した。


「じゃあ、ライト宜しく」

「え、ここで私?」

「もちろん」


 強い笑顔で女性が頷くと、ライトは面倒くさそうに頭を掻きながら唸った。


「お淑やかに!」

「分かっておりますわ、お母様」


 ――ん?


 ライトがウリエルに振り向く。無理矢理貼り付けたような笑顔をしていた。


「あちらのお三方は先ほど紹介した、タピオ・ルータス伯父様、ヨウカハイネンお兄様、アイノお姉様。そして、タピオ伯父様の隣に立たれている方が、奥様のミエリッキ伯母様です」


 次にライトは召使の服を着た者達を手で示した。


「皆使い魔で、右から順に、サニー、ワキンヤン、サイクル、ザール、トール。

 サニーはお母様の使い魔で、不死鳥。

 ワンキヤンはミエリッキ伯母様の使い魔で、サンダーバード。

 サイクルはタピオ伯父様の使い魔で、サイクロプス。

 ザールはハイネンお兄様の使い魔で、シームルグ。

 トールはアイノお姉様の使い魔で、ケルベロス」


 ウリエルはライトの紹介に目を瞬かせた。召使も全員人間だと思っていた。

 ライトは最後に一人、自分の目の前にいた女性を手で示した。


「最後に、私の母のソル・スターフィールドです」

「え? お母上?」


 ウリエルは目を白黒させる。


「あの車椅子の女性は?」

「ルーナ・ロペスもお母様ですけど、本当のお母様はソル・スターフィールドよ」


 ライトの説明にウリエルは更に混乱する。


「……父上は?」

「ドラコ・ロペス、正式にはドラコ・スターフィールド一人よ」

「は……?」


 ウリエルは益々困惑した。脳内に嫌な関係性が浮かび上がる。そんなウリエルの様子を見てライトは悪戯っぽく笑った。


「ロペスと言う名前は、トエル国での私とお父様の隠れ蓑なの。ルーナお母様はそれに協力して下さっているの」

「なんでそんなことする必要がある?」

「皆それぞれトエル国に隠れ蓑があるのだけれど、お父様は有名なロペス家の人間だから、そうするしかなかったの」

「それでは、あの女性が不憫ではないか?」


 ウリエルが率直に言うと、ライトの眉尻がピクリと動いた。それを見てウリエルはまたライトの地雷を踏んでしまったことに気がつく。しかし、そう思ったのも事実だった。

 ライトの瞳に怒りの色が浮かぶ。


「人の幸せを、貴方に決めつけられる筋合いはないわ」


 ライトは実母の視線を受けて、怒りを鎮めるように深く長く息を吐いた。


「だから、私の本当の名前はライト・スターフィールド」

「スターフィールド……」


 改めて言われた名字を反芻する。どこかで聞き覚えがある名字だった。

 ふと大婆様とライトの母を見た。昼間に見た光景と重なる。


「……『始祖様』と『末裔』?」


 ウリエルが言葉を漏らした瞬間、皆が苦笑いしたのが分かった。ライトの母が答える。


「トエル国ではそう呼ばれているわね」


 再びウリエルは目を白黒させる。


「え? 始祖様は神に最も近い人で、トエル国の『空』に住んでるんじゃ? ってことは、ここはトエル国の空? いや、違う違う、さっき外に出た時に違うところだったではないか。じゃあ、始祖様達はどうやって空に行ったのだ?」

「空にも家があって、ここに通じる出入り口があるからに決まってるでしょ」

「しかし空は神聖な場所で、とてもそんなことはできないはず……」

「神聖とか笑っちゃう。あそこはただの場所。そして大婆様はトエル国の創造者の一人なのよ? できないはずがないでしょ」

「トエル国で伝えられていることは全部嘘だと言うのか?」


 胸の内からじわじわと熱くドロドロとしたものが込み上げてくる。


「嘘というより、誇張されたことが多いのよ」


 ライトとウリエルの間に優しくライトの母が割り込む。


「大勢の人間の纏めるのには仕方がない部分もあるのだけれど、こうやってなりたくもない立場になってしまう人も少なからずいるのよ」


 ライトの母がライトの頭に手を置いた。ライトは嫌そうな顔をしたが、乗せられた手を払いのけることはしなかった。


「ゴールドル家より上の立場なのに?」

「そうねぇ……。別にいらないわ。人はないものねだりというけれど、本当にそうみたいね」


 ライトの母が微笑む。


「ライト、また今度中心木ケイム・モーズの家にも案内してあげて」

「分かった」


 ライトの母がライトの頭を掴む。


「違うでしょ?」

「……はい、お母様」


 大婆様がサニーに振り向く。


「サニー、放映機をここに持ってきておやり」

「はい。転送ドメスウェン


 食卓の上にウリエルの部屋にある放映機と同じ物が現れた。

 勝手に放映機に映像が映し出される。城の様子が上空から映し出されていた。ニュースキャスターが説明をしていたが、映像にばかり気が行き、言葉が耳に入らなかった。パーティ会場の庭はまさしく恐慌が起こった後の状態で、庭を元の姿に戻すには相当な苦労がいるだろうと他人事のように思った。幼少期からマリアと共に過ごした裏庭も、パーティ会場程ではないが、荒れていた。


「マリア……」


 映る映像の範囲にはバグの姿はもう見当たらなかった。会場の片付けをする城の召使たちの姿が映るが、マリアの姿はない。食い入るように見詰めていた画面の映像が突然切り替わる。


「――父上」


 画面には父の姿が映っていた。場所は会見用の会場を使っている。父が口を開いた。


『本日、息子の第一王子・ラファエルの生誕祭に発生した時空のワームホールですが、第二王子・ウリエルが関与していたことが判明しました。

 ウリエルは現在、ラファエルの婚約者であるルーメン・ステルラを誘拐し、逃亡中です。発見次第、すぐに警備隊に通報もしくは捕縛するようご協力お願いいたします。

 捕縛成功時の協力者にはゴールドル家から報奨を与えます』


 画面にウリエルの顔が映った。


『また現在、ウリエルの協力者である召使のマリア・ウォルトンを逮捕し、カルマ収容所に収容。事情聴取を行っております。バグによる被害者は――』


 疲労して覇気を欠いている父の言葉が、頭の中に反響する。


「ウリエル――」


 憐れそうな目でライトが自分を見ているのも気にならない程、頭の中が空ろになっていた。


「そんな……」


 本当に自分は何もしていなかった。ただ、兄の誕生パーティに出席しただけだ。


 ――私にはバグを呼ぶ術など……。


 ないと思おうとしたが、自分が金色の魔法使い(レナルド・ルルージュ)であることを思い出した。自分が封印を解いたら、バグを呼び出せるかもしれない。確信はないが、少なくとも、その可能性があるから生まれてきてからずっと魔力を封印しているのだ。

 だから自分の魔力で魔法は一度も使ったことがなかったし、基本的に魔法は使わなかった。必要な魔法はひと通りマリアが変わりに使ってくれたことも大きいが……。

 恐らくトエル国内で意図的にバグを呼び出せるのは、自分とルーメンとトエル国を創った始祖様ぐらいだろう。

 しかし自分は封印を解いていなかった。

 面倒くさいことに巻き込んでしまってごめんなさいね――先ほどの始祖様の言葉が蘇る。


「――始祖様がバグを呼んだのですか?」


 ウリエルの言葉に始祖様以外の全員が虚を突かれたように、目を瞬かせた。


「ウリエルそれは――」


 始祖様が面白そうに顔に笑みを浮かべた。


「すまないね、あれはそういうつもりで言ったつもりではなかったんだ。私はバグを呼んでいないよ」

「始祖様以外に誰があんなことできるのでしょう?」

「ここでは『始祖様』は止めておくれ」


 始祖様――大婆様がゆったりと微笑んだ。勢いを殺され、ウリエルはガクガクと頷く。


「そうさね……可能性としては、本当に偶然時空のワームホールが空いたということもありうるよ」

「だけど今回の時空のワームホールは本当に誰かが仕組んだ様に、一度に複数個所、しかも同じ種類のバグがでましたよ」


 大婆様の言葉にハイネンが反論する。


「出現したバグの習性が、見た目通り、こちらの世界の蟻と酷似していたら、それはあり得る話だと思うけどねえ」

「あ……」

とライトが小さく声を漏らした。しかし全員がその小さな声に反応した。ライトがしまったといわんばかりに顔を歪める。


「何か思い当たる節があるの?」


 ライトの母が、ライトの顔を覗く。有無を言わせない圧力があった。ライトは恐る恐る口を開く。


「時空のワームホールが開く前に、変なことを言ったやつがいるのよ」

「何て?」

「確か――


 『ねえ、こんな時にバグが出るとしたら、アリだと思う?』


 私がウリエルを連れて逃げようとした時に言ってきた」

「確かに気になる台詞ね……」

「いつそんな会話していた?」


 ウリエルはライトに腕を引かれた時のことを思い出したが、ライトが誰かと会話していた記憶はない。ウリエルの質問にライトは自分でも納得できないことを口にするように、回答する。


「不認知系の魔法を使っていたみたい。誰も私達の会話に気がついていなかったわ」

「誰と話ていたのだ?」

「トビトよ」


 ライトの言葉に一瞬、大婆様の皺に埋もれた目が見開かれたが、誰も気がつきはしなかった。


「トビト? 私の横でそんなことをしていたのか? なんて不敬な奴だ!」


 ウリエルの怒りは黙殺された。ライトへの事情聴取は続く。


「トビトさんとは、どなたかしら?」

「トビト・イスラフィール」

「イスラフィール……」


 部屋が瞬時にざわめいた。

 意外な反応にウリエルは周囲を見渡す。ハイネンと目が合った。


「イスラフィール家がどうしたのだ?」

「王子、イスラフィール家のことも知らないの?」


 ライトの物言いに少し苛っとする。小馬鹿にされた気がした。


「だから何なのだ?」


 ライトの母が横から説明をしてくれた。


「イスラフィール家は、ずっとケストバグ退治を専門としているってことはご存知かしら?」


 ウリエルはバグという言葉に驚く。


ケストでずっと暮らしているということは知っていたが、バグ退治をしていたということは、初めて知った……」

バグ退治の方はあまり公にされていないからね。バグに関わる魔法使いの間では、結構有名な一族なのだけど」


 ウリエルは成程と頷いた。

 隣に振り向くと、ライトが瞳を閉じ、眉間に指を当てて難しい顔をしていた。


「何を――」


 全てを言い終わる前に、ライトが喋り掛けるなと言わんばかりに手を出した。しばらくしてから、ライトは眉間に付けていた指を離す。離れると同時に指先につられて、ライトの額から薄白く光る球が付いてきた。ライトはその光を放映機に向かって投げた。光は放映機に当たった。弾けるようなことは起きず、そのまま放映機の中に吸い込まれていった。途端、放映機に映る映像が変わる。

 画面には今にも崩れ落ちてしまいそうな姿のウリエルが映った。


「これは――」


 自分の後ろに映る景色も見覚えがある――今日の兄のパーティ会場だ。


 画面の映像が揺れる。人の群れを掻きわけてやってくる男が見えた。城にいた衛兵だ。映像がさらに動く、ウリエルの腕が映った。画面の下から腕が延び、掴もうとしたが、その前に別の手が横からその腕を掴んだ。


 放映機からライトの声が響く。


『なに――』


 横から腕を掴んできた者に視点が動く。ウリエルにとっては記憶に新しい男が画面に映る。若い男は悪戯っぽく笑っていた。


「これが、トビト・イスラフィール。今日お父様とも会っているわ」


 ライトが説明を加えた。


『ねえ、こんな時にバグが出るとしたら、アリだと思う?』

『意味が分からない! 邪魔しないで!』

『アリかな?』

『さあ、有りなんじゃないの? そっちの方が、逃げるのに助かる!』

 突如、トビトは画面の下から延びる腕――ライトの腕を解放した。

『そうか、アリか!』

と、トビトが面白そうに言うと、画面が僅かに揺れた。素早く視界が動き、ウリエルが映る。

『ウリエルこっち!』


 そこで画面の映像は途切れた。実物のライトが口を開く。


「これがトビトが変なことを言っていた場面。怪しいでしょ?」


 部屋にいた者はそれぞれ口を開いて考察を始めるが、ウリエルは別のことで驚いていた。


 ――なんだ、この魔法は?


 ウリエルは自分の記憶を映像化する魔法など見たことがなかった。そもそもウリエルが知る範囲でのトエル国では、この様な魔法も知られていなかったはずだ。


 ――ここでは、こんなに魔法が進んでいるのか……?


 ウリエルの驚きは余所に、ライトの記憶の考察は続く。


「ライトの記憶を見る限り、確かにこのイスラフィール家の当主が怪しいね」

「でも彼は銅髪だったのよ。他に魔具を持ってる気配もなかったし……」

「あのイスラフィール家の当主だ。もしかしたら好きな所にバグを呼べる技術があるのかもしれない」

「いや、僕が修行に行ったときはそんな技術なさそうだったよ」

「え、ハイネンお兄様の修業先ってイスラフィール家だったの?」

「そうだよ。あ、言ってなかったか……」

「酷いわお兄様」

「ハイネン兄さんが帰って来てからできた可能性は?」

「うーん、それはあるかもしれないけど。まあそもそも、あんまり深く関われていないしね」

「そうなの?」

「うん。当主のトビトさんには一回お会いしたけど、その一回キリだったし。関わった人は数人だけだった」

「なにそれ全然信用してもらえてないじゃないの」

「そうそう、すっごく失敗した」


 ハイネンは恥ずかしそうに頭を掻いた。


「うん――でも、ライトが会った人と、僕がイスラフィール家の当主として会った人は同じみたいだね。僕より二歳も年下の男の子が当主をしていたのは驚いたよ」

「しかも、バグ退治を生業とする一族のねえ……」

「しかも銅髪……」

「イスラフィール家は謎が多いのよね……」


 誰もが溜息をつく中、ハイネンが思い立ったように手を叩いた。


「よし、捕まえて本人に直接訊こう」

「まーた、物騒なこと言い始めた」

「でもそっちの方が手っとり早いよ」

「そうかもしれないが、今回の時空のワームホールの犯人とは違うかもしれないじゃないか」


 ハイネンは両親に窘められるが、捻くれる気配はない。


「なら、とりあえず連れてきて皆で質問しよう」

「それはそれで取り調べみたいよね」

「でもそれ位して真実を暴かないと、王子はいつまでも指名手配のままだ」


 ハイネンの言葉を、ウリエルは認めたくはなかったが少し嬉しく思った。


「そうねえ……」


 ミエリッキ夫人が悩ましそうに頷き、ライトの母が口を開いた。


「ならばハイネン・アイノ・ライトの三人はこれから三日間、トエル国でトビト・イスラフィール探しを行って貰いましょう。今のこちらでの防衛を考えると、三人が交代制の限度ね。三日間で見つからなければ、また違う方法を考えましょう」

「ソル姉さん」


 ハイネンが意見するように手を上げる。


「恐らく王子は防衛の戦力に当てられないと思うし、こちらを手伝って貰っていいんじゃないかな?」


 え、とウリエルは小さく声を上げる。

 自分はトエル国で指名手配されている身なのに、それではわざわざ捕まりに行ってしまうようなものではないか。

 ライトの母は腕を組み、考えるように俯いた。


「そうねえ……」

「どうせこちらにいるだけでも、暇でしょ。気を紛らわすついでにいいんじゃないかなと。王子もトエル国の様子が気にならないかい?」

「あ――」


 ハイネンの言葉で、瞬時に自分がとても大切なことを忘れていることに気が付いた。


『ウリエルの協力者である、召使のマリア・ウォルトンを逮捕し、カルマ収容所に収容。事情聴取を行っております――』


 ――マリア! 何で忘れていたのだ。そうだ、私はマリアを助けなければ……!


「俺も行きたい!」


 ライトの母はウリエルの勢いに少し驚いた反応を見せたが、やがて微笑んだ。


「分かりました。それではウリエル王子にもトビトの捜索を手伝って貰いましょう。では、善は急げ! 出発の準備ができ次第、行って頂戴。采配はハイネンに任せるわ」

「はい」

「準備はライトがしてあげて」

「はい、お母様」


 ライトは自身の母親に返事をすると、すぐさまウリエルの腕を引いてリビングを出た。

 薄暗い廊下をライトに腕を引かれるがまま歩く。後ろをハイネンとアイノも歩いていたが、途中でどこかの部屋に入っていった。

 ライトは廊下の突き当たりまで来ると、扉の前に置いてある棚から、金の腕輪を二つとりだした。一つを自分に付けてから、もう一つをウリエルの腕に付ける。


「これは何だ?」

そとに出るための魔具」


 ライトの返事は素っ気ない。説明が面倒臭いようだ。


「外?」

「行けば分かる」


 ライトは何かを待っている様だった。腕を組み、指を忙しなく動かしている。五分程まつとハイネンが、「おまたせ」と言いながらやってきた。ウリエルの手を持つと、ウリエルに直径一センチメートル程の茶色い丸薬の様なものを掌に乗せた。


「これ、ちょっと大きいけど呑んで」

「え?」


 ウリエルは目を見開いた。丸のみするには少し大きすぎる大きさだ。


「あ、待って、その前に――ちょっとごめんね」


 ハイネンはいきなり謝ると、置いた丸薬をまた掴み、ウリエルが反応する前にウリエルの指先にナイフの刃を当てた。


「痛っ」


 咄嗟に手を振り払おうとしたが無駄だった。掴まれた手首から先は、強い力で固定されて指先以外全く動かない。ハイネンは血が滲み出てもがく指先に赤黒い丸薬を三つ交替で当て、血が付いたのを確認すると素早く引っ込めた。


「何をする!」

治癒モルス


 開いた傷が瞬時に閉じていった。それと同時にハイネンはウリエルの手を解放する。ウリエルは慌てて傷の確認をした。一瞬でも傷ができていたのが幻かの様に、指先には何も異常は見られなかった。


「ごめん、遺伝子情報が欲しかったんだ。髪とかでもよかったんだけど、固形物を練り込むのはちょっと嫌でさ」


 はい、と再びハイネンはウリエルに茶色い方の丸い固形物を差し出した。


「それ呑まないと、トエル国には戻れないよ」

「……」


 受け取らず、躊躇うウリエルをライトが睨んだ。


「早くして頂戴。トビトがいつトエル国を出ちゃうか分からないんだから」

「待て、まず先にこれが何か説明してくれ」


 いきなり何かよくわからない物をだされて、呑みこむのはかなりの勇気が必要だ。ウリエルの反応にライトは面倒くさそうに頭を掻き、ハイネンは少し笑った。


「これは薬と言うより魔具に近い物でね、呑みこんだ人を設定した姿に変身させたりするんだ。遺伝子情報から換えてしまうから、もし捕まっても分からないし、魔法で一時的に換える訳じゃないから、他の魔法で打消されて変身が解けることもない」

「ではこれを呑んだらずっと戻れないということか?」


 ハイネンが微笑む。先ほどの赤黒い丸薬を取り出した。


「それでさっきの行動さ。こっちの丸薬は練り込んである遺伝子情報にそった身体にするためのもの。まあ簡単に言えば、今の姿に戻るための薬だね」

「ならば、大丈夫なのだな?」


 何に対して大丈夫なのかウリエル自身も分かっていなかったが、真剣にハイネンに問い掛けた。ハイネンの変わりにライトが答える。


「大丈夫じゃないもの使わせる訳ないでしょ?」

「……」


 毒薬を飲まされた記憶が脳裏に浮かんだが、何故か言いだせなかった。


「信用していいのだな?」

「信用しなくても別に良いけど、呑まないとトエル国には行けないわ」

「……」


 ライトを一瞥してから、ウリエルは丸薬を口に入れた。呑みこもうとするが、大きさが大きさのため中々呑みこめない。ハイネンもそれを予想していたのか、水を入れたコップをウリエルに差し出した。水と一緒に呑もうとするが、それでもなかなか呑みこめず、やっと呑みこめたのは二杯目の水がなくなる頃だった。


「なんでもう少し小さくならなかったのだ……」


 喉を少し降りた辺りに丸薬がある感覚がして、三杯目の水を一気に飲んだ。それでもその感覚がなくなるまで数分を要した。丸薬の気配がなくなったと同時に、今度は頭がかゆくなり始めた。頭や瞼までも重くなり始める。


「おい、大丈夫なのか?」


 ライトもハイネンも楽しそうに笑んでいる。さらりと肩に何かが当たった。肩を見る。銅色の髪が流れてきていた。髪を摘まみ、引っ張る。自分の頭が引いた方向に引かれたのを感じて、それが自分の髪なのだと気が付いた。


「これは――?」

「細胞から身体を換えてるからね」


 頭の痒みが止まったのと同時に、髪の成長が止まった。自分の足元を見ると、少し身長が伸びたのか地面までの距離が延びていた。

 ハイネンは心底面白そうにウリエルを眺める。


「流石ゴールドル家というか……かなりの美人になったね」


 ウリエルはやっと、丸薬が銅髪の女の子に変身させるものだったことを悟った。


「それでは行って参ります」


 ウリエルが自身の姿を確認しきる前に、ライトはウリエルの腕を引いて扉を開けた。


「よろしく」と後ろで小さくハイネンの声が聞こえた。


 扉の先は小さな教会のような場所だった。目の前に祭壇のようなものが置いてあり、祭壇の様な物を正面に、長椅子が並んでいる。窓がない代わりに、一部の天井がステンドグラスになっていた。外からの強い光が、教会内を艶やかに彩っている。


「ここは……?」


 立ち止まって景色を楽しもうとするウリエルの腕を、ライトが強く引いていく。

 ライトが教会の扉を開く。


「――うわ」


 外の景色を見て、思わず声が漏れた。

 地には膝丈まで覆う長さの空色の草原が広がり、目の前には途方もなく巨大な金色の樹が立っていた。そして頭上には、

「街が逆さに――」


 『街』が広がっていた。


「ここは、トエル国の『空』。目の前の樹が中心木ケイム・モーズよ。さっきつけた腕輪を外して中心木ケイム・モーズを見たらダメだからね。酷い目にあうから」

「ここが……」


 ウリエルは外を月から見た時に流した涙とは違う涙を流していた。


「何で泣くのよ?」


 ライトがぶっきらぼうだが、どこか困惑したように言う。


「ここに来るのが夢だったんだ」

「夢って……ゴールドル家直系なら来れるでしょ?」


 ウリエルはゆっくりと首を横に振る。


「来れないよ。来れるのは当主と後継者だけだ」

「へえ……」


 ウリエルは中心木ケイム・モーズを見上げながら、透明な涙を幾筋も流す。ライトはウリエルに気を使ったのか、ウリエルを置いて中心木ケイム・モーズの葉の部分まで、文字通り、飛んでいった。


 ――本当に、本当にここに来ることが夢だった。


 トエル国に住む魔法使いは、ゴールドル家に管理されるのだが、何で管理しているのかと言うと、中心木ケイム・モーズで管理が行われているのだった。


 トエル国に滞在するためには、中心木ケイム・モーズの葉に自身の魔力を使って名前を書き、それを中心木ケイム・モーズの枝に付ける必要がある。そしてトエル国の出入りは全て、中心木ケイム・モーズを通してしか行えない――ウリエルは今回初めて例外を知ってしまったが。真っ当な魔法使いならば、必ずトエル国に関わらなければならず、中心木ケイム・モーズの葉にその名を刻まなければいけなかった。中心木ケイム・モーズの葉は、言わば魔法使いの戸籍票のようなものだった。

 なので一般的にはトエル国に住む魔法使いはゴールドル家に管理されていると言われているが、正確には、中心木ケイム・モーズを管理できるのが、ゴールドル家なので、魔法使いはゴールドル家に管理されているといことになる。


 ゴールドル家はトエル国で唯一、中心木ケイム・モーズの光で目がつぶれず、空に足をつくことができ、中心木ケイム・モーズを管理することができる魔法使いと認識されてきた。だから強力な権力を持ってきたのだ。


 ――なんて、簡単なことだったのだろう。


 ウリエルは思わず溜息をついた。涙はまだ止まらない。

 なんとなく空に来るには特別な儀式が必要なのだと思っていた。父や兄は一度も空に行くところを見せてくれなかったので、空に行く術など全く知らなかった。それに父や兄は『魔法』ではなく、始祖様から与えられた神聖な力とも言っていた。


 ――なにが神聖だ。


 父や兄や周りの人々がずっと、神に近い存在と崇め続けていた始祖様は、他の人より寿命が長いだけのただの普通の魔法使いに見えた。空だってそうだ。ライトが笑った通り、来てしまえば、本当にここはただの場所でしかない。神聖とは一体どういうものなのか分からなくなった。

 涙はいつの間にか停まっていた。


「ウリエル」


 ライトがウリエルの傍らに降り立った。手にはライトの掌より少し大きめの薄い銀色に輝く葉が握られている。ライトはそれをウリエルに差し出した。中心木ケイム・モーズについている葉は金色をしているのに、ライトが持ってきた葉は不思議と銀色をしている。ウリエルが首を傾げていると、ライトが面倒くさそうに説明してくれた。


「名前が書かれていない葉は、樹から採ると銀色になるのよ。そんなことも知らなかったの?」


 ウリエルは押し黙る。最後の一言が余計だった。


「貴方の偽名も決めなきゃいけないのだけれど、何かある?」


 ウリエルは目を瞬いた。偽名など、考えたことがなかった。そもそも自分の本来の名前以外を語る必要がある日が来るなど、予想していなかった。そんなウリエルの反応を見てライトは何度も頷く。


「ないのなら『ウリア・セラフィム』とかどうかしら? あと、設定はケストに暮らすルーナお母様の、お母様の妹の娘よ」

「じゃあそれで」


 特に理解しないまま肯定した。本当の名前が名乗れないのなら、名前も身分もどうでもよかった。そんなウリエルをライトは、自分が業と踏んだ蟻の様を見る様な、憐れな目で見た。ウリエルは目ざとくそれに気が付いたが、何も返す言葉が出てこなかった。


 ウリエルは自分という存在が、ハイネンが血をなすりつけた丸薬の中に全部しまわれてしまった様な感覚がした。

 中心木ケイム・モーズの葉に名前を書こうとして、ふと気が付いた。


「ライト、書くものがない」


 ライトは呆れたように溜息をつき、そしてズボンのポケットから本来の長さから半分程度になってしまった、小さな鉛筆を取り出した。


「まあどうせそう言うと思ったけど、別に書くものなんて関係ないじゃない」

「なんでだ?」

「魔力で書くんだから、極端に言えば指だっていいのよ」

「そうだったのか……」


 相槌を打って心が乾いた風に吹かれた気がした。

 ウリエルの反応にライトは「どうしたの?」と首を傾げたが、ウリエルは

「いや、なんでもない」

と首を横に振った。


 ライトから受け取った鉛筆に意識を集中する。

 ライトの反応といい、髪の色といい、自分は今、銅髪の魔法使い(レクト・ルルージュ)の身体になっていることは何となく察していた。しかし久しく魔法なんて使っていなかったので、魔力の使い方に手こずってしまう。

 集中して集中して、やっと自分の魔力を鉛筆の先に感じ始めた頃は、心の中で大きく安堵の溜息をついていた。

 ウリエルは自分の身体を手術するように、じっくり丁寧に魔力を込めた鉛筆で、中心木ケイム・モーズの葉にライトに言われた名前を書いた。書き終わった頃には、背中や額から滝の様な汗が流れていた。


「頂戴」


 ライトがウリエルから葉を取り上げる。葉に付いた柄――葉柄の部分をちぎり取り、ウリエルの右手の中指にそれを括りつけた。


「あ……」


 思わず声が零れていた。

 結びつけられた細い茎が銀色の指輪に変化した。それと同時に、色が入れ替わる様に中心木ケイム・モーズの葉の色が白銀から金色に変わる。葉の光は瞬きする間もなく強くなり、ウリエルが刻んだ文字が光りに埋もれて読めなくなった。


「樹に戻してくるから待ってて」


 ウリエルはライトの言葉で我に還り、そして言葉もなく頷いた。


 ――あの指輪はそういう仕組みだったのか……。


 魔法協会に所属する者――トエル国に何かしらで関わっている魔法使いは、須らく銀色の指輪をつけている。それは、魔法協会に所属する証しでもあり、トエル国に滞在及び住むことを許された者の証しでもあった。

 また指輪は魔法使いのサポートも行っており、魔法を使用する時の魔力の安定化や、所有者に対する有害な魔法効力の弱体化なども効力に含まれる。

 そしてこの指輪には、一般の魔法使いには知らされていない様々な機能も付随されていた。そのうちの一つが指輪の位置情報機能――地球で言うところの、GPS機能だった。


 ウリエルは指輪を発行する機関の中枢にいながら、その機能について知らされていなかった。


 違法にだが新しく発行された指輪をウリエルは複雑な気分で見つめていた。

 現在、ウリエルはライトに案内された寝床のある部屋に待機していた。恐らくこれから自分が生活をする場所になるであろう部屋を、特に何の感慨もなく受け入れ、静かな気持ちで新たな指輪を見つめる。

 指輪の裏側には『ウリア・セラフィム』と魔法言語で刻まれている。


 ノック音がした。

 特に返事もなく扉に顔を向けると、ライトが扉から顔を出した。手には女の子の服らしき布を持っている。ライトは部屋に入ってくるなり、無造作に服一式をウリエルに押し付けた。


「これに着替えて」

「わかった」


 ウリエルは無気力にそれを受け取った。受け取った布を広げるとやはりそれは女の子の服装だった。

 ウリエルは着替えるためにライトの退出を待っていたが、ライトは一向に出る気配がない。呆れて思わず小さく溜息をついた。


「着替えなくていいのか?」


 ライトはウリエルの言葉の意味を表面しか受け取らなかったようで、そんなことも理解できないのかと言わんばかりに眉を顰めた。


「寧ろ何で着替えないと思ったの?」


 言ってからライトならばそう返してくることに気が付いた。


「言い方が悪かった。着替えたいから部屋から出て欲しいのだが」


 この言葉にもライトは不可解そうに眉間に皺を寄せた。


「元は男の子なんだから、別に裸を見られてもはずかしくないでしょ?」


 ライトの言葉に何故かウリエルが赤面した。心臓が高鳴る。


「いや寧ろ元が異性だから、部屋から出るだろ?」

「でも今の身体は女の子よ」


 伝えたいことが間接的では伝わらず、かといって直接的には伝えたくないことでウリエルは身悶えしたかった。


 ――いや、そういうことが言いたいんじゃないんだ……。


 ウリエルは秘かに、同じ言語でも越えられない言葉の壁を感じた。


「じゃあせめて後ろを向くとか……」

「嫌なら貴女が背中を向ければいいでしょ?」


 ライトらしい言葉にウリエルはとうとう諦めて、仕方なくライトに背を向けて着替えることにする。意外なことに服を脱いだ時や、着る時、ライトが手伝ってくれた。どうやらライトはウリエルの着替えの手伝いをするために部屋にいようとしたのだと、着替え終わってから気が付いた。

 着替え終わるとライトはウリエルの姿をみて一つ頷いた。


「結構似合ってるんじゃない?」

「……そうか」


 長く延びてしまった髪はライトが一つに縛ってから団子状にまとめてくれ、それほど鬱陶しく感じなくなっていた。


「じゃあ、早速行きましょ」


 ライトはウリエルに自分の今の姿を確認する暇も与えず、腕を引っ張り部屋から連れ出す。連れていかれた先は最初に来た部屋、姿見がある部屋だった。そこには既にハイネンとアイノの姿もあった。

 アイノはウリエルの姿を見るなり感嘆の声を上げた。


「まあとっても美人! 服の感性もライトにしては悪くないじゃない」


 アイノの手放しの褒め言葉にウリエルは内心こそばゆい気持ちになる。


「顔の基礎の良さは流石ゴールドル家って感じよね」


 ウリエルにしては珍しい照れの表情を見せているところに、ハイネンは一枚の紙とどこにでも売っていそうな一本杖を手渡した。紙には複雑な魔法陣が描かれている。


「これ、向こうで使うから一応先に渡しておくね」


 ハイネンはライトに振り向く。


「集合場所はいつもの公園で」

「分かった」


 ライトが頷くとハイネンとアイノは二人に手を振った。どうやら一緒にここから出る訳ではないようだ。

 ライトに力強く腕を引かれ、入ってきた時と同じように鏡の中に身をすべり込ませる。全身を鳥の羽根で撫でられた感覚がした後、閉じていた目を開くと見覚えのある簡素な寝室に立っていた。ライトは慣れた足取りで部屋を出て一階におりる階段を下っていく。

 階段を下りたすぐ先には、『ライト』が立っていた。その『ライト』は普段ウリエルには見せたことがないような綺麗な微笑みを顔に浮かべていた。ライト本人に近づくなり、手を重ねる。


「いってらっしゃい」


 花が散る時に言葉を残す様に、『ライト』もそんなありふれた言葉を残して消えていった。見ると重ねた手の指には、先ほどまではなかった銀色の指輪がはめられていた。


「私の代理よ」


 ライトが訊くこともなしにそう答えた。

 ウリエルはふと自分の腕に違和を感じた。


「ん?」


 腕に見覚えのない物が付いていた。中心木ケイム・モーズの葉の様な薄い銀色の光を放つ、細い光りの腕輪。


「なんだこれは?」

「向こうに行く前に言った、あっちでのことを誰にも話せなくするための物よ」


 記憶を掘り起こしてみると、確かに何となくそんなことを言っていた気がした。


「どんな代物なのだ?」

「私達に関わっている時以外、あちらでのことを記憶の範疇から外すってだけ」

「ふーん」


 感心して光の腕輪を見ていると、リビングから車椅子の女性――ルーナが出てきた。


「あらあら、今日は忙しいのね」

「そうなの。王子のせいで向こうもてんてこ舞い」


 ルーナはまじまじとウリエル――ウリアを見た。


「もしかして彼女がウリエル王子?」


 ライトはルーナの言葉に素直に頷いた。ルーナもアイノと同じように目を輝かせる。


「とても似合っているわね」

「ありがとう、ございます……」


 ルーナは父の記者会見を見ているはずなのに、ウリエルに特に慰めや同情の言葉を掛けるわけでもなかった。しかしウリエルには逆にそれが温かく感じた。

 ルーナへの挨拶もそこそこに、ライトと『ウリア』はロペス家の自宅を出発した。


「そういえば、ライトは俺の逃走を幇助したって指名手配されていないのか?」


 トエル国に既に出てきていて今更な疑問だった。ライトはウリアのその質問を鼻で笑う。


「お母様やお父様が目撃者全員に失念魔法を掛けてくれているわ」

「失念? 忘却とは違うのか?」


 ライトは更に鼻で笑った。


「貴女、もう少し魔法の勉強をした方がいいわ」


 少しむっとしたが、説明が聴きたかったので押し黙る。


「両方とも結局はある一定の記憶を呼び起させないというのが使用目的だけど、それまでの過程が大きく違うの。それに、忘却――忘失魔法は今の技術では開拓されていないし、そもそも研究することも禁じられているの」

「何故だ?」

「人の記憶はとても尊いものであり、本来誰かに制御されていいものじゃないからよ」

「何で尊いのだ?」

「だって自分の記憶が誰かに弄られちゃ嫌でしょ。相手にされて嫌なことはしちゃいけないでしょ?

 しかも『忘失』となると、完全にその記憶を復元することはできない。一度されてしまうと、自分の中にあったその記憶は永遠になくなってしまうことになるのよ。

 そんなの嫌でしょ?」


 ウリアは確かに、と小さく頷いた。

 自分の中にあるその記憶は自分のものでしかない。例えライトがしたように放映機の様な物で自身の記憶を見せたとしても、それを見せた者にその時自分が感じた、思った気持や感覚を全て伝えるのは不可能に近いだろう。

 もし消されてしまった記憶が自分の最も大事なものだったら――バックアップがなく、復元もできない状態でそれをされてしまったら、自分はその人物を一生恨むだろう。


「しかし『記憶の範疇から外す』ということは、『思い出せなくする』ということだろう? 忘失と何が違う?」

「忘失魔法はそこの記憶ごとまるっと消してしまうのだけど、記憶の範疇から外す――失念魔法は根本的な記憶を消してるわけじゃないの。

 そこの記憶が『思い出しにくくなっているだけ』で、脳には残ってるの。だから思い出させようと思えばいつでもできる」

「でも断面的に見たらその時、その記憶がないという意味では同じじゃないか?」


 ライトは困ったように眉間に皺を寄せた。


「そう言われてしまうと確かにそうなのよね。意識しないで欲しいことを、意識しないようにする。という点では確かに同じなのよ。

 でもその根本のありようが全く違う。だから失念魔法は許されて、忘失魔法は許されないのよ……」


 ウリアは頭を掻いた。まだどこか納得できていなかったが、ライトの様子をみるとこれ以上は説明を求められそうになかった。


「そうかもしれないが、俺は忘失魔法でもかけられるのは嫌だな」

「申し訳ないけど、家ではそういう風にしているの。信用していようが、いなかろうが血縁者以外には全員にね」

「そもそも何故隠しているのだ?」


 ライトは眉間の皺をさらに深く刻む。


「本当の理由はまだ知らないけど、大婆様が関係しているからでしょうね」


 ウリアはその言葉で何となく納得した。

 魔法使いの中では神に最も近い存在として崇められているのだ。関係者以外に接触する場合、そのことが余計な問題を起こしてしまうのかもしれない。


 住宅街から外れた場所に、あまり手入れをされていない森林を携えた小さな公園があった。特に遊具などはなく、公園の中央に子供七、八人が同時に遊べそうな噴水があるだけで、後は円い噴水を中心に点線の様にベンチが並んでいるだけだった。それ以外はトイレと木しかない、簡素な公園というより、森林が手入れをされていないため、鬱蒼とした公園になっていた。公園というより、雑木林に何故か噴水がある場所と言った方が近いかもしれない。


 そんな公園なので、元々人もあまり来ていなかったが、ラファエルの誕生祭でさらに来る気配が消え、時空のワームホールの出現でとうとう人っ子一人来るはずがないような雰囲気になっていた。


 ライトは慣れた足取りでその公園に入ると、噴水のある辺りは無視して、森林の中に入っていく。ウリアが戸惑いながらもライトに付いていくと、森林の中に急に開けた場所に出た。大人が十人ほど余裕を持って寝転べられる程度の広さを持った場所だ。何故か他の森林の土とは異なり、そこは乾いた砂が敷き詰められている。


「ここは?」

「秘密基地みたいなものよ。さ、さっきハイネンお兄様から受け取った杖で、紙の魔法陣を描いて」


 そう言ってライトもその辺に落ちていた枝で魔法陣を地面に書き始めた。

 ウリアはハイネンから受け取った紙を見た。


「――こんな複雑な魔法陣を?」


 ウリアの言葉にライトは面倒くさそうに眉間に皺を寄せた。そんなにしょっちゅう眉間に皺を寄せていたら、そのうち普通の顔も眉間に皺が寄ったままになるのではないかと小さく思った。


「複雑だから先に来て描いてるのよ」


 ライトはその複雑な魔法陣を何を見るでもなく、淀みなく描いていく。ウリアの紙を見ていないのに、地面にその絵の複製をしたかのような美しい絵が描かれていく。

 ウリアが唖然と見つめている間にライトはその魔法陣を描き終わってしまった。直径一メートル程度の円に、文字の様な絵の様なものがぎっしりと詰め込まれているのに、ライトが描いていた時間は一分と経っていなかった。

 ライトはウリアを呆れたように見た。


「まだ描き始めてもなかったの?」

「あ……」


 慌てて三〇センチメートル程の杖の先を地面に突き立てる。


「ちゃんと魔力込めて描かないと意味ないからね」

「あ……」


 慌てて杖の先にまごまごと魔力を込める。ライトと同じように一メートル程の円を描こうとして歪な、楕円にも含まれないような形を描いてしまった。

 その円に似ても似つかない形を見て、ライトは呆れたように溜息をつく。


「地面に魔法陣を描く練習もしてなかったのね。学校に行っていたら、即補習なくらいの出来栄えよ」

「煩いなあ……」


 描いた図形を足で消して描き直したが、何度描いてもできた形は最初に描いたものと大差なかった。ライトの描いた魔法陣を見る。どうしてあんな綺麗な円が描けるかが理解できず、首を捻っていると、ライトが退屈そうに口を開いた。


「練習したらあれ位の円誰でも簡単に描けるようになるわ。さすがに五メートルぐらいになってくると、ちょっと難しくなってくるけど」


 ライトと目が合う。ライトが自身の持っていた枝を取り出した。ついでにどこからか紐も出す。


「今回は諦めてこれでコンパスみたいにしたら?」


 むっとしてライトの言葉を無視して、再び挑戦を始める。三十回ほど挑戦したところで、ライトに杖を取り上げられた。


「魔力が無駄だから、今は大人しくコンパスで描きなさい」


 そう言ってライトは自分が使っていた枝とウリアの杖を紐で結びつけた。二本を直接紐で結びつけるのではなく、それぞれの先に紐を結びつけている。


「私が枝を持っててあげるから、紐の弛みを一定にして、杖で線を引きながら枝の周りを回りなさい」

「……分かった」


 ウリアは渋々、言われた通りにして魔法陣の円を描いた。確かにコンパスで描けば綺麗に、そして簡単に円が描けてしまった。


 円の外周をベースにして魔法陣の中身を描いていく。ライト程ではないがそれなりの魔法陣を描くことができた。丁度魔法陣を描き終わった頃、ハイネンとアイノが広場にやってきた。ハイネンはウリアの魔法陣を見るなり、

「お、描けてる描けてる」

と言葉を漏らした。ハイネンもアイノもすぐさま魔法陣をその辺で拾った手頃な枝で描き始める。二人は同じ魔法陣を直径二メートル程の大きさで描いた。描き終わると枝を棄てて、それぞれ描いた魔法陣の前に立つ。


「これから使う魔法を、ウリアにも使って貰うから。よく見てて」


 ウリアが頷いたのを確認すると、ハイネンもアイノもまるで打ち合わせしていたかのように、同時に口を開いた。


「「手に負えない密偵スペスィード・ルルブン」」


 呪文と同時にそれぞれの魔法陣から放たれる突風がウリアの頬を撫でた。


 ――何が……?


 今頬を撫でたのはただの風ではないのは直感でわかったが、それが具体的に何かまでは分からなかった。


「今の呪文覚えた?」


 ライトが隣からウリアの顔を覗く。


「手に負えない密偵スペスィード・ルルブンだろ?」

「よくできました」


 心のこもっていない声でライトが褒める。


「今の貴女の身体だと魔力が足りないと思うから、アイノお姉様から魔力貰ってね」


 そう言われてアイノに振り向くと、アイノも勝手知ったる様子でウリアに向かって頷いた。


「今からする魔法は、簡単に言うと虫を飛ばして情報を収集する魔法なの。呪文を唱える前に自分が探したいもの――今回だとトビト・イスラフィールさんの顔をよく思い出して念じてね。そうすると彼を見つけた虫の情報が頭の中に入ってくるから。でも、たぶん最初は混乱すると思うから、ウリアの呪文は『優秀な密偵ガルグ・ルルブン』あたりにして貰いましょうね」


 アイノの優しい説明にウリアは思わずおっとりと頷いてしまう。


「あと、捜索範囲は南街にしてもらおうかな」

「わかった」


 頷くとアイノに軽く鼻を突かれた。アイノの不意打ちにウリアは目を白黒させる。


「女の子が、そんな口を利いてはいけませんよ。どこで誰が見ているか、何が起きるか分かりません」

「う……」


 自分が今、女の子の格好をしていることを忘れてしまっていた。

 頷いて、アイノの手を握りながらハイネンやアイノと同じように魔法陣の前に立つ。握った手から初夏の様な少し熱い熱が身体に流れていているのを感じた。


 ――魔法陣に魔力を向けて、呪文を唱える。


 久しく使っていなかった魔法陣を使用した魔法の使い方を反芻しながら、呪文を唱える。ウリアが口を開くと同時にライトも口を開いた。


「優秀な密偵ガルグ・ルルブン」「手に負えない密偵スペスィード・ルルブン


 呪文と同時に、魔法陣から大きさが二ミリメートルにも満たない小蝿が湧き出てきた。と言っても、あまり数は多くない。恐らく百匹程度だ。それらが何かを待つかの様に、魔法陣の上で停滞する。

 直感で、今、彼らに命令しなければいけないと分かった。


 ――トビト・イスラフィールと、マリア・ウォルトンを探せ!


 心の中で念じると同時に小さな小蝿達はそれぞれの方向に飛散していった。


「今、南街って指定するの忘れていたでしょ?」


 急にアイノに顔を覗かれて、ウリアは心臓が飛び出た気がした。


「え……」


 ――なんで分かったのだ?


 そんな表情のウリアを見て、アイノはくすりと悪戯っぽく微笑んだ。


「今の魔法には、小蝿に対して不認知の魔法がかけられてるけど、自分より上位の魔法使いには効かないからね」

「あ……」


 ウリアは小さな悪戯がばれた時のような顔をしていたが、アイノはそれを見て怒った風でもなく、逆に悪戯をしたように笑う。


「魔法のお勉強をしていないのは分かっていたけど、そこまで気が付かないのは危ないよ」


 特に言い訳をするでもなく俯いていると、突如頭の中に走馬灯のように様々な景色が飛び込んできた。いきなりの現象に頭の処理がついていかず、足腰に力が入らなくなってしまう。


「あ――」


 ライトが駆け寄ってきたのが、遠くに見えた。


 ――なんだ?


 一つの映像は城に向かっていた。また一つの映像は、どこかの家のキッチンを飛んでいる。さらに別の映像は人混みの間をすり抜けている。

 頭の中に次々と様々な状況の映像が飛び込んでくる。

 目の前には銀色の髪をした三人の人が自分を窺っているのに、他の映像が次々に脳内に流れ、実際に自分の目で見ている映像がどの映像なのかの判別がつかない。

 目が回った。

 次々に違う映像が途切れ途切れ切り替わっていくのだ。


バグが出たって――』

『ウリエル王子が――』

『アハハ――』

『今日の晩御飯は――』


 違う、映像だけでなく、音声も切り替わっている。

 それが余計にウリエルの頭を混乱させた。

 今まで生きてきたなかで、こんな経験は一度も体験をしたことがなかった。

 一つの映像が、エプロンをつけた女性の顔に近づいた。彼女はキッチンで人参を切っている。彼女の隣では、レンジフードでぐつぐつと鍋が煮え立っていた。


『ママ、お腹すいた』

『まってもう少しよ』


 ――マリア……。


 知らない母親とマリアの姿が重なった。幼い頃からずっと傍にいてくれたのは、ミカエル・ゴールドルの妻のエダニではなく、傍仕えのマリアだった。マリアだけがただ一人、ウリアの理解者であり、ウリアの味方だった。

 パチパチと切り替わる映像の一つが歪む。


 ――マリアは今、傍にいない。


 その事実に不安になると同時に、マリアの境遇を案じた。


 ――マリアは今、カルマ収容所にいる。


 カルマ収容所はトエル国に唯一ある、魔法使いの犯罪者を収容する施設だった。一度収容されても出て来られないことはないが、出所後はトエル国から追放されてしまう。また、カルマ収容所の取り調べと言う名の拷問は、かなり厳しいものだと聞いている。マリアは今頃、身体的にも、精神的にもボロボロされている可能性が高かった。

 マリアの今置かれている状況と自分の状況を比較して、どれだけ自分が恵まれていたかということにウリアはやっと気が付いた。


 映像が次々に切り替わる。

 切り替わる映像の中に、マリアが入り込まないか神経を研ぎ澄ませようとしたが、脳の処理オーバーだった。

 ぷつん

と脳の処理機能が落ち、目の前が静かな暗闇で覆われた。


「――あ」


 起きあがり、周囲を見渡す。座り込んだ際、尻部に柔らかさを感じたので確認すると、地面はサラサラとした砂だった。

 視覚も目覚めてすぐのためか、視界の端が薄靄がかかったように白い。


 ――私は……。


 記憶が混雑していた。先ほどまで城にいたつもりだったのに、何故か今は見知らぬ雑木林の中にいる。ライトと若い男女がいた。三人の姿を確認してから、やっと記憶が戻り始める。ライトがウリアが起きあがったことに気が付いた。


「貴女、アイノお姉様が『呪文を唱える前』に念じてって言ったのに、『後』に念じたでしょ?」


 ライトが皮肉っぽく笑いながら言った。


「あ――」


 思わず口から声が漏れた。確かに小蝿が出てきてから念じていた。小蝿が出てきていたということは、呪文を唱えた後に念じたことになる。


「呪文を唱える前に念じないと、蝿から送られてくる情報を全部受信しちゃうことになるのよ。だから脳の処理範囲を超えてしまって気絶しちゃったの」

「そうなんだ……」


 ウリアは少なからず肩を落とした。空の明るさがあまり変わっていないところをみると、気絶していた時間はごく僅かだったようだが、それでも失敗してしまったことが残念で仕方がなかった。


「マ――トビトは見つかったか?」

「まだよ」


 ライトはウリアの腕を引っ張り起き上がらせる。


「ほら、せっかくなんだから貴女も休んでないで手伝って。今度はそうね……五匹ぐらい飛ばしてみましょうか。そうしたら失敗してもまだ倒れずにすむわ」

「――」


 ライトは別にウリアを励ましているつもりはなかったようだが、その言葉が不思議と胸に沁みた。


「それに、本当はマリアさん探したいんでしょ?」


 ライトに心情を見透かされ、心臓が跳ねる。


「なんで……」


 わかったのだろうか? 全て声に出して問い掛けられずにいるウリアにライトは微笑む。


「なんとなく、わかるでしょ」

「……そうか」


 ライトのどこか確信めいた言葉に、ウリアは頷くことしかできなかった。


 一度も体験したことがない、凄まじい勢いで風景が通り過ぎてゆく。

 長かった林地帯を抜けると大きな湖があった。反対側に見える陸地は霞がかかってみえ、目の前では湖の端が海の様に波打っていた。

 その湖の中心に白い豆腐のような建物があった。否、正確には真横からは豆腐に見えるが、真上から見た場合、四角い白いドーナッツに見える。そこがトエル国にある唯一の犯罪者の収容所、カルマ収容所だった。


 ウリアはずっとトエル国で暮してきていたが、そこを見るのは初めてだった。父や母が穢れた場所だと、関わるのを嫌がっていたからだ。


 ――マリア……。


 ウリアはそこに収容されているはずのマリアに思いを馳せる。

 チカリと遠くで銀色の光が瞬いた。ウリアを誘うようにその光は瞬きながら八の字を描く。そこに向かって飛び進む。光源はウリアと同じ、小さな小さな蝿だった。ただし、それの身体は、光沢のある銀色で構成されていた。光源に辿り着いた時には収容所の外壁が目前に迫っていた。


 銀色の蝿はウリアの姿を確認するとさらに収容所の外壁に近づいていく。


「外壁に当たったらダメだから」


 ライトが隣から注意を投げてくる。

 外壁に当たってはいけないのに、銀色の蝿――ライトは外壁に近づいている。鈍いウリアにはその理由がわからなかったが、ライトが目的にしていたであろう場所に辿り付いて理由が分かった。


 五階建ての建物の屋上に近いところの壁にそれはあった。

 収容所の必要以上に白い壁に、ごく小さな点があった。三ミリメートルほど、丁度小蝿が通ることができる程度の、極小の穴が。


 ライトは迷わずそこに飛び込んでく。一瞬、銀色の身体のせいで壁の穴がなくなったように見えた。

 ウリアも続いた。便利なことに小蝿の身体は簡単な意志だけで思い通りに動いてくれた。小蝿は何の迷いもなく小さな穴に吸い込まれていく。穴の中に入るとすぐに出口のこれまた小さい点が見えた。闇夜の満月のように、煌々と輝いて見える。羽ばたいて一ミクロメートル程度しか余裕のない隙間を、小蝿は精密に飛んでいく。

 小蝿が光に飛び込んだ。


 ――眩しい。


 外壁と同じ色、正確には外壁は風化しているので、外壁より幾分か綺麗な白が視界を支配していた。暗闇からのギャップでウリアは頭がくらくらしたが、小蝿は全く構わないようで、先に潜入していたライトの姿を見つけるなり、追従した。

 トエル国唯一にして最高の収容所。脱走者は一度も出したことがないと聞いている。そんな場所に何の困難もなく、簡単に潜入できてしまった。


 ――警備は一体どうなっているのだ?


 ウリアは収容所の警備に、一抹の不安を抱いた。

 特に独房を目にしないまま、ライトとウリアは白い廊下を飛んでいく。窓がなく、光源は天井にぽつぽつと点在する蛍光灯だけで、薄気味悪い。

 人の気配も特にないことも、薄気味悪さを際立てていた。


「取り調べ室と、拘置部屋は一階にあるから」


 隣でライトが説明をしてくれる。


「今は夕飯の時間だから、殆どの囚人と看守は二階の食堂にいる筈だけど、マリアさんは例外に入るでしょうね。恐らく、取り調べ室から調べた方が早いと思うわ」


 ライト曰く、収容所の主な構成は、

 一階は、看守たちの休憩部屋や取り調べ室、外部との面談室。そして運動場の中庭。

 二階は、看守たちの待機部屋や食堂、シャワー室。運動部屋。

 三・四階は、独房。

 五階は、特殊房及び拷問室、懲罰房。

 そして地下には、特殊房が二階分。

となっているらしい。


 ゴールドル家の者でさえ知らなかった情報を、何故ライトが知っているのかとウリアは問い掛けたが、ライトは答えを何も返してくれなかった。

 銀色の小蝿は迷いなく、収容所のエレベータ――階段は存在しないらしい――に辿り着くと、ドアの隙間やエレベータの隙間を抜けて一階まで移動した。流石に一階には人が多くいたが、不認知魔法のお陰で見つかることはなかった。

 取り調べ室一帯や、取り調べされる人間が収容される部屋一帯を何度も探したが、マリアの姿や、マリアについて話している人間を見つけることができなかった。


「……おかしい」


 ライトが呟く。


「まだ捕まって初日なのに、取り調べ室周辺にいないのは、変だわ」

「確かに……」


 ライトがゴクリと唾を呑む音が聞こえた気がしたが、もしかしたらウリエル自身の音だったかもしれない。


「もしかして……やはり、拷問室に……?」


 発した声が自分で震えているのが分かった。


「いや、でも、まさか……」


 ライトも少なからず動揺しているようだ。珍しく、言葉を何度も途切れさせる。


「二手に分かれて探すわ。私は、五階から探すから、貴女は念のため、二階から探して」

「いや、俺が――」

「五階は結界が厳重なの。慣れていないとすぐ殺されるわ」

「ならライトは慣れてるっていうのか?」


 ウリアが苦し紛れに言った一言に、ライトは即答する。


「貴女よりかは遥かに慣れてるわ」


 ウリアは渋々頷いて、自身の小蝿の羽を二階へと向かわせた。内心、拷問されているマリアをいきなり見なくてすむ可能性がなくなったことに安心したが、マリアが拷問されているかもしれないという事実に動揺していた。


 二階へ移動すると、食堂独特の様々な料理が室内にこびりついた匂いと、実際の料理の匂いが嗅覚に鋭く刺さった。食堂の天井付近を滑空する。全身灰色の囚人服を着た人達がのんびりと夕食にあり付いていた。


 食堂には百人程度の囚人がいるようだが、女性の姿はあまりみられない。マリアの姿もなかった。シャワー室、運動部屋、看守たちの待機部屋、全て確認したが、どこにもマリアはいなかった。

 諦めて三階の探索を始めようとしたところで、ライトから声があがった。しかしライトの声はやはり戸惑いが宿っていた。


「いたわ」

「どこに?」


 拷問室という単語が脳裏を過るが、それは無視するようにする。

 ライトは一つ息を吸い込んだ。


「――特殊房」

「特殊房? それはどんな部屋なんだ?」


 マリアは無事なのか、それだけが気になるウリアに、ライトは微笑んだ。


「大丈夫、マリアさんは無事よ。でも――」


 ライトが言い淀む。まどろっこしく感じて、つい先を急かしてしまう。


「なんだ?」

「――とりあえず、案内するから、ここまで来て」


 ウリアはライトに言われる通りに、五階のマリアがいる特殊房と言われる部屋まで文字通りすっ飛んで行った。

 特殊房は房一つ一つが鉄の扉で隔絶された、看守からでも中が窺えない閉じられた部屋だった。扉の隙間からやっと入り込むと、間違えて城に戻ってきたかと勘違いしてしまった。


 ライトに案内された特殊房は、ゴールドルの城の客室のように豪華だった。床には深紅の絨毯が、高い天井には少し小さめのシャンデリアがあり、深紅の絨毯の上には皮張りのソファーに金の支柱でできた椅子と同じく金でできた机が乗せてある。外側の壁は一面ガラス張りの様に、外の景色が一望できる。

 金の支柱の椅子に、マリアは老いてはいたが上背のある背を珍しく丸めて座っていた。俯き、目を閉じている。


 ――な……。

 ウリアは部屋にもう一人いる人物を見て言葉を失った。机を挟んで反対側に彼は座っていた。一生懸命、マリアに話しかけているようだが、マリアは目を閉じたまま答えない。

 やがて、彼――父は焦れたようにテーブルに身を乗り出してマリアの顔を覗いた。


「頼む、マリア、教えてくれ」


 マリアはゆっくりと瞼を上げた。全てを焦がすような炎を奥に宿しながら、銀褐色の瞳が真っ直ぐに父の顔を捉える。父はマリアの視線に瞬時に怯んだ。こんな弱そうな父の姿は見たことがなかった。


「知っていたら、私はここにおりません」


 マリアの声は、今まで聞いたことがないほど冷たい声だった。どんなに呆れているときでも、ウリエルに対してこんな声で話しかけることはなかった。


「では心当たりは?」

「ありません」


 きっぱりと強くマリアは言った。マリアは続ける。


「何故、あの時王子を庇ってくださらなかったのです?」


 ウリアは『あの時』とはいつだろうと考えて、やっと昼間の兄の誕生パーティの時の件のことを言っているのだと分かった。

 父は露骨にマリアから視線を逸らした。


「妻が連れてきた証人の証言が一番有力だった……」

「有力だった、ということは、今は違うということなのですか? それならば何故、王子を指名手配なさるのです?」

「本人に直接訊きたいからだ。それなら、逆に訊こう、何故、ウリエルは逃げるのだ? 何かやましいことがあったのじゃないのか?」

「そんなことは……」


 マリアは何故かうろたえた。ウリアは何故マリアがうろたえたか分かったが、父に叫んで訴えたかった。


 ――私は何も悪いことはしていない!


 マリアは束の間うろたえたが、すぐに元の毅然とした態度に戻った。その姿は、とても年老いているとは思えない程の力強さを持っている。


「そんなに疑われるのなら、どうか私に自白魔法を掛けてごらんください。

 『王子の居場所を知っているのか』、

 『王子がルーメン様を誘拐したのか』、

 『王子がバグを呼んだのか』

私に直接訊くのではなく、自白させれば宜しいのです」

「しかし、それは……」


 今度は父がうろたえた。普段なら、誰かれ構わず自白魔法を使うはずなのに、不思議なことである。父は弱腰でマリアに訴えた。


「君がそう言う時点で意味がないのだよ。自白魔法の対策がされている可能性が高くなる」

「今まで自白魔法が破られたことはないはずです。いつまでも机上の話ばかりしていても、時間の無駄でございます」

「しかし……」


 父は言い淀み、マリアの顔を覗いた。僅かに幼さが残った顔だった。


 ――マリア、そんなことをしてまで……。


 マリアの献身に、ウリアは言葉がでなかった。

 しかし、自分の居場所まで見当がつかないのは、何故だろうか。マリアはライトがウリエルを連れて逃げる姿を目にしているはずだが――と、思い返していて、重要なことを思い出した。ライトの両親がこの事件のライトに関する記憶を失念させているはずだ。


「しかし、何故ウリエルは逃げたのだ。実は君にも隠していることがあるかもしれないのだぞ」


 マリアはきつく父を睨んだ。


「確かに隠されていることもあるでしょう。しかし、私は王子がそんなことをする方ではないと、存じております。ゴールドル様、貴方は王子の父でありながら、ご子息のご性格を把握されていないのですか?」


 父は更にうろたえる。快適な温度に調節されたこの独房で、父は滝のように汗を流していた。額から汗が流れては落ち、父の膝には大きな丸い染みが幾つもできていた。

 父の汗が移ったのだろうか、マリアの瞳にも雫が溜まっているように見えた。


「それは……」


 父はそこまで言うと、口を閉じて首を横に振った。


「本当にすまなかった……」


 マリアと目を合わさず、それだけを早口で言うと、父はマリアから逃げるように――実際、逃げたのだろう――独房を出ていった。マリアは言葉もなく、それを見送った。

 ウリアは目を白黒させた。意味が分からなかった。

 何故父がマリアに謝ったのか、マリアから逃げるように独房を出ていったのか。

 一緒の光景を見ていたライトに視線を向けると、ライトは苦虫を噛んでしまった様な顔をしていた。


「……ライト、マリアと父上はどういう関係なのだ?」

「私に訊かないでよ。貴女の方がずっと詳しいことでしょ」

「いや……」


 ウリアは首を横に振った。

 マリアと父は一体どういう関係なのだろう。今までずっと、マリアは父の命でウリエルの世話をしていたはずだ。なのに先ほどのやり取りをみてしまうと、なんとなく、それだけではない気がしてしまう。


「流石ゴールドル家、闇が深いわ……」


 ライトの呟きを、ウリアは即座に否定することができなかった。


「マリアさんの居場所も、無事も確認できたけど、これからどうする?」

「どうするって――」


 助け出したいというのが本音だったが、場所が場所である。そんなウリアの弱気を見抜いたかのようにライトは強い口調で言った。


「貴女、いつもの自信満々な態度はどこにいったのよ。素直に『助けろ』って言えばいいじゃない」

「でも、捕えられている場所はカルマ収容所だ」

「カルマ収容所がなによ。そうやって何かやる前に無理だ無理だって言ってたら、何もできなくなるわ」

「そうかもしれないが、明らかにできないこともあるだろ」

「でも挑戦しないと何も始まらないでしょ」

「その最初の挑戦が致命的になることもあるだろ」

「それはよく考えで実行しないからでしょ」

「そもそも学校一のできそこないの癖に、そんなことができるとでも?」


 ウリアは言った瞬間後悔した。そんなことを言うつもりはなかった。しかし言われた本人はその言葉に関しては気にしていないようで、目が合うなり睨まれた。


「それで、そのできそこないに力を借りてでも、マリアを助けたいの、助けたくないの?」

「それは……助けたいに決まっているだろ。マリアはこんな所にいるべき人じゃない」


 ウリアの本心からの言葉に、ライトは満足したように微笑んだ。


「それなら、一緒に助けましょ」

「……すまない」

「そういうときは、『ありがとう』でしょ?」


 子供に諭すようなライトの言い方に少し笑ってしまう。


「ありがとう」

「よろしい。――ということだから、お兄様、お姉様」


 ライトがハイネンとアイノに振り向くと、二人は笑った。


「若いっていいねぇ」

「叔母さんも私達も二人は捜索の頭数に入れてないから、ウリアはこちらのことを気にしなくていいからね」

「はい、ありがとうございます」


 ウリアの言葉にアイノは軽く手を振ることで返した。


「よし、じゃあ準備をするわよ」


 ライトが丁度ポケットに手を突っ込んだ瞬間だった。

 マリアのいる特殊房に変化が起きた。


「――なんだ?」


 先ほど父が座っていた席の後ろ、その空間が波打つように揺れた。マリアも突然のことに驚いたように、年老いて細くなった目を大きく見開いている。

 空間が波打って波打って波打って――そしてそこから見覚えのある姿が現れた。


「こんにちは、マリアさん」

「――トビト!」


 ウリアの声に驚いたようにハイネンとアイノが近づいてきた。


「え、まさかそっちにトビト・イスラフィールがお出まししちゃったの?」


 ハイネンの言葉にライトが困惑しつつも頷いた。そして二人の額を指で軽く叩く。視覚を共有したらしい、ハイネンが叩かれた瞬間、「本当だ」と呟いた。

 トビトは昼間にも見せていた、あの軽薄そうな笑みを顔に貼り付けている。


「貴方は、今日王子とお話していた方ですね」


 マリアは驚きつつも、冷静だった。トビトは軽薄な笑みのまま頷く。


「そうです」

「どうしでこんな所へいらっしゃったのです?」


 トビトは笑みを深くした。一瞬ウリアと目が合った気がしたが、小蝿は不認知の魔法が掛けられているし、そもそも小さいうえに静止していないので存在を知っていても目で追うことですらやっとのはずだ。


「マリア・ウォルトンさん、僕はあなたに非常に興味を持ちました」


 マリアは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。


「私は、今日貴方と関わった記憶はございませんが……」

「あなたは僕と全く関わっていないかもしれませんが、僕はあなたをよく知りました」


 トビトとマリアの会話はどこか噛み合っていない。


「マリアさん、あなたはこの国が好きですか?」


 唐突な質問にマリアは目を薄く白黒させる。


「……何故そんなことを訊くのです?」

「訊きたいから訊くんです」


 それが何か問題でも? という風にトビトは肩を竦めた。


「それで、マリアさんはこの、トエル国が好きですか?」

「魔法使いには必要な国だと思っています」

「それは僕の問に答えていません。僕が訊いているのは、マリアさん、あなたがトエル国を好きか嫌いか、それだけです」


 マリアは一瞬視線を下げると、睨むようにトビトを見た。


「好きです」


 マリアの言葉にトビトは笑みを深くする。


「それは本心でしょうか?」

「そんな無駄なことは訊いていないで、さっさと私に自白魔法を掛けたら宜しいでしょう。ウリエル王子は無罪です」

「僕はカルマ収容所の人間ではありません。あなたにウリエル王子の居場所を吐かせるつもりもありません」


 トビトは笑む。軽薄そうに笑む。


「だって、あなたがウリエル王子の居場所を本当に知らないということは、知っているから」

「では、何をしにここに来たのです」

「その問いにはもう答えました。僕があなたに興味を持ったからです」


 マリアは困惑の色を深くする。


「貴方が興味を持つようなものを、私は何も持っていないはずですが……」

「……本当に?」


 トビトは意地悪をして楽しむ子供の様に生き生きとしている。


「マリアさん、あなたの本当の年齢は、四十一歳ですよね」


 ――え?


 ウリアは驚愕した。マリアの年齢は六十を超えていると聞いている。それに今の見た目なら、どう見ても四十代には見えない。

 しかしマリアはそれを肯定するように、額から汗を流した。よく見ると小刻みに震えている。


「……何故それを?」


 トビトは笑む。噛んで含めるように、トビトは言う。


「僕はあなたよく知っています」

「……どこまで知っているのです?」


 瞳の色を藍色に染めながら、マリアは問う。トビトもマリアの心に同調するように瞳を藍に染めた。軽薄そうな笑みは消えていた。


「ほぼ全てを。もちろん、娘さんのことも知っています」


 ――娘?


 ウリアはマリアに娘がいることなど聞いたことがなかった。マリアは生涯孤独だと聞いている。しかし、マリアはその事実を肯定するように両手で顔を覆った。


「どうやって知ったのです?」


 マリアの声は震えていた。泣いているのかもしれない。


「それは言えませんが、僕以外、誰も知りませんよ。――お察しの通りです」


 ――お察しの通り?


 この時はよく意味が分からなかったが、後からライトに訊いたところ、恐らく記憶を覗いたのだろうと説明してくれた。

 マリアは顔を両手で覆ったまま、首を横に振った。


「もう一度訊きます。マリアさん、あなたはトエル国が好きですか?」


 トビトの顔に笑みは浮かんでいなかった。マリアは涙で濡らした顔を上げる。瞳の色がどこまでも暗い。吸い込まれてしまいそうなほどの漆黒の闇色をしている。


「……嫌いです」


 小さいが、強固な声でマリアは言った。


「トエル国がなくなって欲しいと思いますか?」

「……」


 その言葉にはマリアは固く口を閉じた。死刑宣告を待つ検察官の様に、トビトはしばらくマリアの言葉を待っていたが、やがて答えがまだでないことを悟った。


「まだ分からないのなら、分からないでいい。とにかくマリアさん、僕と共に来てください。あなたはここにいるべき人じゃない。そうして、一緒にウリエル王子を探しましょう。答えはそれからでも十分だ」


 マリアはゆるりと立ち上がり、差し出されたトビトの手を取った。


「貴方は、私からその答えを訊いてどうするつもりなのでしょう?」


 トビトは軽薄な笑みを浮かべた。


「その答えは、あなたから僕の質問の答えを貰った時に答えましょう」


 さあ、こちらへ、とトビトがマリアの手を引くと、マリアの指に付いた指輪に触れた。優しく息を吹きかけると、丁寧にマリアの指から指輪を外す。

 トビトは再びマリアの手を引く。マリアの足が床を離れる瞬間、マリアと入れ替わる様にその指輪を床に落とした。瞬間、指輪はマリアの姿に転じた。マリアが波紋に飲み込まれると、トビトが再び波紋から姿を現した。


 宙を飛びまわるウリアと目を合わせ、悪戯っぽく笑う。


「期限は五日間。僕達はマリアさんの意志で、トエル国の存続を決める。

 もし、トエル国を滅ぼしたくないなら、頑張って君を探すマリアさんを見つけて説得してくれ。僕達イスラフィール一族はトエル国があろうがなかろうがどっちでもいいから。

 あ、逆でも僕達は一向に構わないよ。

 とにかく、五日後――そうだね、六月七日の十八時にしようか。

 その時に、トエル国の存続を決めよう」


 トビトは軽薄な笑みと、ニコリとも笑わないマリアにそっくりな人形だけを残して波紋の中に消えていった。

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