8
塵がほとんど存在しない宇宙で、赤と銀の軌道が、重なっては離れてを繰り返す。どちらかが魚雷やスペースカノン砲を発射するも、互いが互いを打ち消し、爆発が起こるだけだ。
まともな致命傷を与えられない状況に苛立つソネヴァは、フォルセティを再び後退させる。神威との戦いで、スペースカノン砲の残弾は残り少なくなっていた。応援を呼ぶにも、味方の機体は海賊の仲間たちの相手で手いっぱいらしい。
この状況で、消耗戦に持ち込まれては不利だ――そう察したソネヴァは、苦虫を噛み潰したような面持ちで吐き捨てる。
「くそっ、このアマ。我々を舐めやがって。お前ら海賊全員、銃殺刑にしてやる」
「ハッ。統括軍の小物が、何ほざいてんの。ギリーズの方がまだ手応えがあったわよ」
キャロラもまた、見下すような態度で応じる。彼女の言葉を耳にしたソネヴァは、右の拳を力強く握った。
オレが、あの男より弱いだと。小声でそう口にした彼は、沸き起こる感情のままに、赤いボタンを連続で押し続けた。それに合わせて、フォルセティの下部にある砲門からスペースカノン砲が連射される。
「口を慎め、卑しいメスが! オレを弱いと言ったこと、今この場で後悔させてやる! 骨一つ残らず、宇宙の灰になりやがれ!」
ソネヴァが怒声を吐くのも構わず、神威は乱射される翠色の閃光を避け続けた。時に宇宙空間を漂う塵を盾にしつつ、ひたすら回避行動を繰り返す。
やがて、赤いボタンを押し続けるソネヴァの指に、フォルセティは一切反応を示さなくなった。弾切れを起こしたそれを前に、ソネヴァはモニターを拳で思い切り叩きつけた。その時、部下の機体から通信が入る。
「イルフェルム中佐、大変です」
早口で、落ち着きがない口調で告げる部下の声を聞いたソネヴァは、半ばぶっきらぼうに応じる。
「何だ、この忙しい時に」
「それが、ギャビン少尉のアイネアースが突然、我々を攻撃してきて……」
「何だと?」
眉間に皺を寄せ、そう口にするソネヴァが急ぎレーダーマップに視線を落とすと、そこには確かにクラードの専用機である『AINEAS』の機体コードが表示されていた。青い丸で表されたそれは、ギリーズの乗る機体の前方に存在しており、周りにいた友軍機の反応も次々に消失していく。
一体どういうことだ、これは。心の内で呟き、口をただ黙って開く上官をよそに、部下の声は焦燥感をさらに増していく。
「もはやギャビン少尉が、ギリーズ元曹長に寝返ったとしか……ぐわああああ!」
部下の絶叫が、フォルセティのコクピット内に響く。驚いたソネヴァがモニターを確認するも、通信してきた部下の機体反応はなかった。
くそっ、どいつもこいつも。赤い唇を噛みながら、ソネヴァは残っている部下全員に向けて声を張り上げた。
「やむを得ない、体勢を立て直す! 総員、撤退だ!」
中佐の号令を受け、金剛の周りで混戦を続けていた緑色の機体は、次第に戦線からの離脱を始める。機体が無傷のものから大破しているものまで、ほぼ全員が一斉にフォルセティへと続いた。そんな彼らの後方で、宇宙海賊は追撃のための魚雷を次々に発射する。だがそれらは全て、部下たちの放ったスペースカノン砲により打ち消され、轟音と灰色の粉塵だけが辺りに散っていった。
「あいつら、逃がすか!」
キャロラもまた、神威での追撃を図ろうと、機体を前進させる。そんな彼女の視界に、扶桑から放たれた信号弾が映った。白と赤、黄色で構成されたそれを前に、キャロラはモルドアとの通信を図る。
「キャプテン、これは」
「分かってるだろ、統括軍が撤退している今しか、逃げられるチャンスはない。仲間の損害もある。深追いはするな、退却だ」
「しかし」
「命令だ!」
キャプテンの怒声を前に、キャロラは一瞬身を怯ませた。それは彼女の後ろにいたアスカも同じだったらしく、小柄な身体が小刻みに震え、今にも泣きだしそうな表情を浮かべている。
わかりました。弱々しい口調でキャロラはそう言うと、自らの駆る神威を、金剛へ向けて動かした。辺りには、翠色の粒子と灰色の粉塵、そして撃墜された敵味方の機体の破片が音もなく漂っていた。その様子を黙って静観していたキャロラの耳に、モルドアのさらなる命令が耳に入る。
「ギリーズと人質の小娘、あとあの青い奴も、まとめて金剛へ入れてやれ。どうやら、俺たちの敵ではなさそうだしな。統括軍を撃退した恩もあるが、利用価値もある。フリーゲート、グッドラック」
「フリーゲート、グッドラック」
「うーお、うー」
機械的に告げるキャプテンの号令を前に、キャロラもまた淡々と号令を返した。続けて、アスカも号令らしき言葉を発する。幾度も繰り返されるそれを聞きながら、キャロラは徐々に近づく自由門の故郷を前に安堵の溜息を漏らした。
◇
ギリーズは、硬いベッドの上で目を覚ました。
見慣れない光景を前に、彼はその場で勢いよく半身を起こす。あらためて周囲を見回すと、そこは四畳ほどの洋室で、ベッド以外には小さなクローゼットと観葉植物しか置かれていない、質素な部屋だった。
部屋の一角にあるドアに気付いたギリーズは、ゆっくりとベッドから起き上がる。いつの間にか着せられていた上下白一色の寝間着に目を通すと、彼は裸足のまま部屋を横切り、ドアノブを回す。そのまま、開いたドアから顔だけを覗かせ、狭い廊下をきょろきょろと見回した。すると、幼い子どもが三人、老人の男と談笑しながらどこかへ向かっていくのが見て取れた。彼らの後方にある窓には、黒い宇宙が映し出されている。
「ここは……」
「気が付いたか、ギリーズ」
ギリーズが子どもたちのいた場所の反対側を振り返ると、そこにはクラードが立っていた。白い長袖のシャツに、黒いジャージを履いた黒髪の好青年は、手に持った缶コーヒーをギリーズに差し出し、白い歯を見せて笑った。
「ほら、飲めよ。お前好きだったろ、コーヒー」
クラードから缶コーヒーをしどろもどろに受け取ったギリーズは、引き続き目線をあちこちに泳がせる。くすんだ緑色の床と壁、天井。まったく見覚えのない光景を前に、クラードは溜息交じりに口を動かした。
「ああ、ここは宇宙海賊『自由門』の戦艦の中さ。お前も見ただろ、あのフリゲート。その中だ」
「そ、そうか。おれは、いったい」
徐々に記憶を思い起こしたギリーズは、ゆっくりと深呼吸をする。確かあの時、ソネヴァたちの連れて来た宇宙統括軍と混戦になり、自分はポセイドンの損傷でダメージを負って。最後にモルドアの乗った機体への攻撃を防いだところで、ポセイドンが機能停止になった。そこまでは覚えている。
その後自分がなぜ、自由門の所有する戦艦『金剛』の中にいるのかが、まるで思い出せない。そんな彼の混乱を解き明かすかのように、クラードは右手で拳を作ると、人差し指を天井へと伸ばした。
「俺が合流した後、お前は激しく損傷したポセイドンの中で気を失ったんだよ。多分、昨日宙塵城から逃げ出したのと、朝から戦闘や混乱に巻き込まれたのとで、疲れが溜まってたんだろう。かれこれ十時間、あのベッドでぐっすり寝てたぜ」
クラードが、先ほどまでギリーズが眠っていたベッドを指し示す。それを聞いたギリーズは、合点がいったと言わんばかりに小さく頷いて見せる。そんな彼の反応を確認したクラードもまた頷き、さらに言葉を続けた。
「それで俺たちを襲ってきた統括軍の連中は、残った連中でどうにか追い払った。今はとりあえず、ソネヴァたちの追跡を避ける形で、暗礁宙域を突き進んでいるところだ」
クラードの言葉を前に、ギリーズははっと思い出したように声を張り上げる。
「そうだ、アスカは。あいつは無事かっ」
「アスカ? ……ああ、キャロラと一緒の艇に乗ってた、あの女の子か。彼女も無事だ。今は別室で、ゆっくり眠ってる」
そうか。ギリーズが安堵する様子を前に、今度はクラードが質問を投げかける。
「ギリーズ。そのアスカだが、あいつが例の『エウリュアレ』か」
クラードの問いに、ギリーズはああ、と一言応える。そのまま彼は、宙塵城でアスカを見つけた過程や、二度も死の淵から蘇ったことを大まかに説明した。その間クラードは一言も発することなく、黙って友人の話に耳を傾けていた。
「なるほどな、大体の事情は分かった……カプセルの中に眠っていたってことは、多分コールドスリープだろうな。宇宙戦争の終わり頃まではザラにあった技術らしいが」
「コールドスリープ? 初めて聞いたな。今じゃそんなに珍しいのか、それ」
首を傾げながら口にするギリーズに、クラードはゆっくりと唇を動かす。
「軍の機密資料でちらっと目にした程度だが、人間を不老長寿にさせる技術らしい。ただ、そのために生きた人間を凍らせるのは道徳倫理に反するとか、人権問題にあたるとかで、宇宙戦争の時代に技術そのものを封印したって話だ」
「へえ。だがそれは表向きで、リートルーバーの連中のように水面下で進めてたって可能性もあるが」
「まあな。だが、俺が知ってるのはせいぜいこのぐらいだ。ギリーズが言うような、どれだけ重傷を負ってもすぐに再生される……いわゆる『不死』の技術については、見たことも聞いたこともないね」
クラードはそう言って、しばし考え込む。すると、そんな二人の姿を目にした男が、ゆっくりと歩み寄ってきた。オールバックにした灰色の髪に、あちこちに皺が寄った小柄な男を前に、ギリーズは眉間を曇らせる。
「誰だ、お前」
ギリーズの問い掛けに、男は不敵な笑みを浮かべて応じる。
「さっきまで戦ったヤツのことも忘れたのか。俺だよ、モルドアだ。自由門のキャプテンよ。まあ、こうして顔をまともに合わせたのも初めてだから無理ないか」
聞き覚えのある声に、ギリーズは一瞬驚くと同時に、どこか納得したような気持ちになった。クラードは、男――モルドアへ軽くお辞儀をする。
「モルドアさん、さっきは艦に乗せて頂き、本当に助かりました。ありがとうございま……」
「儀礼的な挨拶はいい。それでお前ら。今話してたのは、レミース社の不死研究のことか」
モルドアの発した言葉を前に、ギリーズとクラードは顔を見合わせた。そして二人は、自由門のキャプテンへ同時に顔を向ける。
「何だ知ってたのかよ、オッサン。てっきり知らねえと思ったじゃねえか」
「何か御存知なんですか、モルドアさん。教えてください」
次々に言葉を投げかける二人を前に、モルドアは黄褐色の額をぼりぼり掻きながら答える。
「お前ら、もっと順番ってもんを考えて質問しろよ……まあいい。宇宙戦争の頃、俺が一時統括軍に身を寄せてた時に、話をちらっと聞いたことがある。大昔、宙塵城が現役のコロニーだった頃に、宇宙一の勢力を誇るレミース社が、決して死なない最強の兵士を生み出す研究をしていたらしい。もっとも俺は、不死身だなんて馬鹿げた話を信じちゃいなかったがな。キャロラから『エウリュアレ』の報告を聞かされるまでは」
最強の兵士。その言葉を聞いたギリーズは、ごくんと喉を鳴らした。モルドアがゆっくり一息置いたところで、クラードが口元に手を当てながら呟く。
「人類が火星に進出した頃から三百年も続く大企業が、そんなことを……」
「証拠がねえから、憶測に過ぎんが。あとこれも聞いた話だが、レミース社はそれと並行して、戦争で活躍できる強化人間を疑似的に作り出そうとしていたらしい。本当かどうかは知らんが」
モルドアの言葉に、ギリーズは口元にかすかに笑みを浮かべて発言する。
「何だよ、海賊やってるくせにそういう情報はからっきしなんだな」
「茶々を挟むな、若造が。俺たち海賊にとって、金や財宝が何より大事だからな。エウリュアレだなんて訳の分からんものに、いちいち構ってられるか」
モルドアはそこまで言うと、鼻からふん、と息を鳴らす。そのまま、彼は二人に背を向けて廊下を歩き出し、右手を左右に振った。
「それじゃ、飯の時間までまだ時間がある。それまでせいぜい休んでることだな」
ギリーズたちが、そんなモルドアの丸まった背を黙って見つめていると、ふいに彼の足がぴたと止まった。自由門のキャプテンは、顔だけをギリーズに向けて口走る。
「そういや、ギリーズ。あの時の賭けだが……俺の負けだ、それでいい。あと二人とも、俺たちの艦を守ってくれて、ありがとうな」
そう言うと、モルドアは黙ってその場を後にした。彼の姿が完全に見えなくなった後も、しばしの沈黙が続く。やがて、クラードがギリーズの顔に目をやると、彼はどこか浮かない表情を浮かべていた。
「おれは別に、自由門を守るために戦ったつもりはねえんだが」
「まあいいんじゃないか、別に。結果オーライってことで」
クラードが呑気にそう返すのを聞いたギリーズは、寝癖が跳ねた金色の髪を搔いた。顔へ向けて何度かそうするうちに、ふと彼の手が止まる。
「なあ、クラード」
「何だ」
「おれの乗ってたポセイドンは、どうなったか知らないか。できれば案内をしてくれると嬉しいが」
ギリーズの問いに、クラードは構わないさ、と笑って頷いて見せた。そんな彼を前に、ギリーズもまた笑みを浮かべた。
◇
『金剛』の中に広がる狭い廊下を注視しながら、ギリーズとクラードは歩を進める。移動前に整えた髪型に満足しているのか、ギリーズはどこか快活な足取りだ。寝間着から着替えた黒いコートが、彼の歩調に合わせて前後に揺れる。
「この艦も、よくよく見たら結構珍しい代物だな。見た感じだと『ウーラノス』の東亜四十七型のようだが、三百年近く前の戦艦がこうもしっかり動くとはな。海賊の力には恐れ入る」
ギリーズが感心したようにそう口にする。彼の横を歩くクラードは、前へ視線を向けたまま告げた。
「確かに、結構な改造を施してるとはいえ、大したものだ。ちなみにモルドアさんいわく、この艦は『金剛』って言う名前らしい」
「へえ、まあまあ良い名前だな。おれのネーミングセンスには敵わねえが」
ギリーズがコートのポケットに両手を入れて呟く。そんな彼の言動を窘めるかのように、クラードは右手の甲で友人の肩を軽く叩いた。
「そういうこと、あまりでかい声で言うなよ。さて、そろそろ見えてくる頃か」
ギリーズとクラードは、廊下の角を左に曲がる。すると、両開きの扉が見えた。鉄製のそれをゆっくりと開くと、巨大な格納庫が広がっていた。戦闘機やパーツなどを置いている一階と、移動用の簡素な廊下があるだけの二階に分かれている中で、ギリーズたちは二階に立っている。
ギリーズは一歩前に進み出ると、眼下に広がる光景を前に息を呑んだ。向かって左右に置かれた戦闘機の数々に加え、前方には整備された滑走路が真っ直ぐに伸びていた。その奥にある宇宙との出入口はシャッターで堅く閉じられている。
天井に据えられた照明の灯りを頼りに、ギリーズは所どころが錆びついた古い廊下を進む。やがて、彼の足は螺旋階段に行き当たり、そこからさらに下へと降りて行く。
階段を下りきって、コンクリートでできた床をしっかりと踏みしめながら、ギリーズは周囲に置かれた戦闘機の数々を眺めた。クラードが駆る『アイネアース』に、キャロラとアスカが乗っていた『神威』。唯一滑走路の出入口と向かい合う形で止められた灰色の機体は、モルドアの『扶桑』だ。他に、自由門が所有する茶褐色の機体も多数配備されていた。宇宙統括軍との戦闘を経て、多少の損傷を受けたそれらの中に、ギリーズの乗っていた『ポセイドン』の姿は見当たらない。
「クラード、おれの機体は……ポセイドンはどうなったか、分かるか」
ギリーズは、同じく移動してきていたクラードへ、顔を向けて尋ねる。戦闘と長距離の移動が続き、ポセイドンは大きなダメージを受けていた。流石にもうぶっ壊れたか――ギリーズが頭の中で、半ば諦めかけたその時、格納庫内に若い男の声が響いた。
「あの白い機体なら、今は別の作業場で整備してるところさ」
ギリーズとクラードが、声のした方角へ同時に顔を向ける。そこには、上下紫色で統一された作業着を纏った三十代ぐらいの男と、白衣を着た美女が立っていた。キャロラと同様黄色系の肌をした二人は、ギリーズたちを交互に見つめると、ふと思い出したように声を上げた。
「おっと、失礼。僕はケイン。ケイン・ダシャームだ。自由門の一員で、戦闘機の整備が主な仕事さ」
男――ケインはそう言うと、隣にいた二十代と思しき女の肩に手を置き、さらに続ける。
「彼女はセリア。この艦の船医で、僕の妻だ」
「セリアよ、よろしくね」
セリアは、パーマのかかった茶髪をふわりと揺らし、小さくお辞儀をする。ギリーズたちも、彼女に倣ってお辞儀を返した。そんな二人を前に、ケインはギリーズへと目を向ける。
「君は確か、ギリーズ・エンドラインと言ったっけ。君の乗ってた白い機体は、僕たちで頑張ってオーバーホールしているところさ。何せ金剛に運び込まれた時は、本当に酷い状態でね。良くここまで持ったな、というのが正直な感想だ。幸いにもメインシステムがまだ生きてたから、どうにか作業は進められてるよ」
「オーバーホール?」
ギリーズがケインの言葉を鸚鵡返しする。そんな彼を前に、ケインは目元を細め、快活な口調で答えた。
「ああ、キャプテンの命令でね。自由門にある戦闘機用の予備パーツを使ってもいいから、あの白い機体を改良してやれってさ。キャプテンが気をかけるだなんて、大した人だよ」
後でキャプテンにお礼言いなよ。そう口にするケインの横で、セリアが一歩前に進み出た。
「あたしにとっては、中に乗ってたあなたがほぼ無傷だったのが、正直信じられなかったわ。奇跡と言ってもいいかもね」
「奇跡、ねえ」
頭を掻きながら、ギリーズが興味なさげに聞き流す。すると、ギリーズたちが先ほど開いた鉄製の扉が再び開かれた。そこからアスカとキャロラが現れ、格納庫へと入って来た。
「トリトン、トリトン! うー!」
アスカが言いながら、廊下にある柵を越えようとする。上下白色の寝間着に、茶褐色のジャケットを着た彼女の背中を、キャロラが必死に押さえ込む。
「ちょっと、アスカ! そこから行くんじゃない、あっち、あっちの階段!」
キャロラが階下へ通じる螺旋階段を指し示す。やがて、ギリーズたち四人が一斉に自分たちを見つめていることに気付いたキャロラは、アスカを押さえたまま声を張り上げる。
「ちょっとみんな、アスカを何とかして。さっきからトリトントリトンって、あちこち動き回って聞かないのよ」
キャロラに続き、アインとツヴァイも後方から現れた。二人もまたアスカの手や足を押さえるも、アスカもまた手足をじたばたと動かしている。そんな彼女の黒茶色の瞳は、ギリーズだけを見つめていた。
「おい、アスカ」
ギリーズがそう言いかけた時、暴れていたアスカの半身が前へと倒れ込んだ。キャロラたちが再び掴む間もなく、少女の華奢な身体は階下のコンクリートへと落ちていく。
気付けば、ギリーズの足は無意識に駆けだしていた。目の前の少女へと、真っ直ぐ両腕を伸ばす。
そして、彼の手がアスカの細い身体を掴み取った瞬間、ギリーズの脳裏で一瞬だけ何かが弾けた。
アスカによく似た少女が、遠くへ歩いていく。自分はそれを追いかけるが、どれだけ走っても追いつかない。手を前へ伸ばしても、それが決して彼女の身体を掴むことはできない――。
アスカを庇い、半身をコンクリートで擦る痛みよりも、頭の片隅に湧き上がった奇妙な感覚に、ギリーズは心を奪われていた。
「ギリーズ、大丈夫か!」
「アスカ!」
クラードやキャロラたちが、二人へ駆け寄る。そんな彼らの前で、アスカは仰向けになったギリーズの身体に覆い被さる形で、彼の両肩を揺さぶっていた。対するギリーズは瞼を閉じたまま、彼女の声に反応を示さない。
「トリトン! トリトン!」
頬を紅潮させながら、アスカが叫ぶ。ギリーズの側にやって来たクラードたちは、格納庫内に空しく木霊する少女の金切り声を、黙って聞いていた。
「トリ、トン……」
アスカの目から涙が零れ落ち、そのまま彼の胸に顔を埋めた。そんなアスカの頭に、白い手がそっと置かれる。
「いつまでそこにいるんだよ。重いだろ……」
アスカがギリーズの顔を見上げる。細く開かれた彼の瞼から、青い瞳が覗く。ギリーズが右手でアスカの柔らかい黒髪を撫でると、彼女は声を上げて泣き出した。ギリーズは、再び黒いコートへと顔を埋めるアスカを黙って見つめていると、クラードが問いかけた。
「二人とも、怪我はないか」
クラードの言葉に、ギリーズはアスカの身体を注視する。特に怪我をしている様子はないことを確認し、安堵の溜息を漏らす。
「大丈夫だ。アスカも、おれもな」
ギリーズはそう言って、クラードへ拳を差し出すと親指を上へ伸ばしてみせる。そんな彼を見て、クラードもわずかに微笑を浮かべた。
そして、嗚咽を上げる少女の頭を優しく撫でたまま、ギリーズはキャロラへ顔を向ける。強い決意を秘めたその表情は、どこか堅く、力強さがあった。
「キャロラ。さっきの賭け、おれが勝ったら何でも望みを聞いてくれるんだったな」
ゆっくりとした口調で問いかけるギリーズを前に、キャロラは小さく頷いた。それを確認したギリーズは、さらに言葉を続ける。
「決めたよ。おれは、アスカを守りたい。統括軍の手が及ばない場所まで、おれたちを連れて行ってくれるのに、力を貸してほしい。頼めるか?」
ギリーズの言葉に、キャロラは一言だけ分かったわ、と告げた。そのまま、彼女は一人だけ踵を返し、格納庫を後にした。