12
眩い光の中、少年は一人ぽつんと立っていた。故郷の空気が、彼の身体に心地よく沁みわたる。一歩足を踏みしめると、人工芝の柔らかい感触が心地良い。少年が空を見上げると、巨大な陽光反射壁から白い陽の光が視界に入り、彼は瞼を細めた。
その時、彼の前に突如黒い影が現れ、一瞬だけ白い光を遮った。なんだろう。影の正体を、少年は目で追い掛ける。彼の視界がはっきりと捉えたそれは、青いボールだった。
ボールは、重力に従ってどんどん下へと落ちていく。少年は、ボールを手に取るべく駆け出した。やがて、ボールは人工芝の上で一度バウンドし、再び常盤色の絨毯に身を沈める。
少年は、静止したボールを手に取り、掴み上げた。その時、遠くから女の子の声が聞こえてきた。彼が声のした方角へと顔を向けると、少年と同じ年頃の少女が右腕を振りながら、走っていた。少年の前で立ち止まった少女は、黒髪を小さく揺らし、息を上下させながらも少年の顔を見上げた。少年の青い瞳と、少女の黒茶色の瞳との視線がぶつかる。
「どうもありがとう。ナイスキャッチ」
少女は拳から親指を突き出し、少年へ無垢な笑顔を向ける。感謝の言葉を前に、少年はどういたしまして、としどろもどろに答えた。
「あなたは、だあれ? わたしの名前は……」
少女は、少年に自らの名前を教えた。そんな彼女に続いて、少年も自分の名前を口にした。
少女と出会った公園で、少年はいつも彼女と遊んでいた。青いボールを投げては、捕まえる。捕まえたボールを空へ放ち、相手が受け止める。それを繰り返す単純な遊びだが、少年にとってはそれだけで満足だった。
だが、ある日のこと。少年の前から、少女はいなくなってしまった。いつものようにボール遊びをしていた時、彼女は見知らぬ男たちと共にどこかへ行ってしまったのだ。
少年はひたすら、少女を追いかけた。どうして、ぼくの前からいなくなったの。どうして、どうして――。
涙を流しながら、少年はただ少女の姿を探し続けた。転んでもなお、視界が闇に包まれてもなお、少年の足は止まることなく、ただ走り続けていた。
それから、数日が過ぎたある日。少年の前に突然、少女を連れ出した男たちが現れた。幼い少年にとって、彼らの話は難解であり、話の真意を読み取ることはできなかった。だが、彼らが口走っていた「あの子に会わせてあげる」という言葉を受け、少年は彼らと行動を共にすることにした。
その瞬間、少年の視界は暗転する。黒い闇と白い光が交互に現れる。自分が一体どうなっているのか、何が起こっているのか。彼自身よく分からなかったが、唯一少女にまた会える、それだけを信じ続けた。
気付けば、彼は黒い宇宙にいた。見知らぬ戦闘機に乗る少年の目の前には、幾筋もの白い軌道が広がり、容赦なく彼へと迫って来ていた。敵の戦闘機だ。
このままでは、死ぬ。そう察した少年は、恐怖に抗うかのように、戦闘機を動かした。やられないように、躱す。そして、目の前の敵を狩る。やがて、少年の前から敵の姿は消えた。代わりに、聞き覚えの無い男の声が彼の耳朶に響く。
「素晴らしい。我々の研究は、完璧だ。きっと君は、女神を失った我々の希望になってくれるだろう。どれ、そんな君に新しい名前をあげよう――『ギリーズ・エンドライン』だ。気に入ってくれると、嬉しいけどね」
少年は、男の声が告げた名前を頭の中で反芻した。その日から少年は、『ギリーズ・エンドライン』になった。
新しい名前を得た少年はその後、男たちに操られるまま、目の前に現れた戦闘機を撃墜し続けた。少年の成長に合わせて、その精度はより正確になっていく。ほぼ毎日をとおして、基礎体力や学力をはじめとして、反射神経や直観力、観察力を磨き上げた。戦闘機に乗っている間は、操縦技術や適応力、判断力を見極める。
「流石ですな、『ギリーズ』という少年は。我々のテストで、常に記録を更新し続けている」
「この前の戦いでは、敵の機体を二十五機も墜としたんですよ。やはり強化人間は凄い。ステンノーやエウリュアレをはじめとした不死身の兵士よりも、確実な活躍が見込めますね」
白衣を着た男たちが、口元に笑みを浮かべながら話す。少年は、そんな彼らを特に気にすることなく、与えられた任務をこなし、戦うための技術を手に入れていった。
そしていつしか、少年から青年となった彼の記憶からは、あの少女の存在はすっかり抜け落ちてしまった。
コールドスリープを繰り返す度に、青年は違う人間と出会った。だが、戦場で敵の戦闘機を撃墜することだけは変わらない。機械的に相手を殺し、生き延びる。
それを繰り返していたある日、突如彼の前に若い男が現れた。ベージュ色のスーツとスラックスを纏い、口元に笑みを浮かべた男は、青年へ告げる。
「君はもう必要ない」
青年は、男が口にした言葉を理解できなかった。男は、そんな彼を前にさらに言葉を重ねた。
「特需を得るため、長く続けてきた戦争が、泥沼化してきてね。そろそろ終戦させようかと思ってるんだ。我が社としても、利益を得る見込みがなくなってしまった以上、強化人間である君を飼い続けるメリットがなくなったんだ」
男は歪な笑顔を浮かべた。青年は、そんな彼の言葉を前に、何も感情を抱くことなく応じる。
「だが我々も、長年活躍してくれた君を切り捨てるほど、鬼じゃない。どうだい、ギリーズ。君に新しい人生をあげようではないか。宇宙統括軍なら、君の得られた才能も活かせるだろう。もっとも、今までの記憶は消させてもらうけどね」
そして、青年の視界は暗転する。これまでの記憶の欠片が、音を立てて壊れていく。後に残ったのは、強化人間としての才能と、十九歳の青年『ギリーズ・エンドライン』としての情報だけであった。
自身の生い立ちや本名、そして出会った少女のことは、遠い忘却の彼方に消えた。消えた筈だった。
あの日、宙塵城で彼女と再会するまでは――。
◇
青白い光の中、青年は目を見開いた。彼はすぐさま白い戦闘機を操り、素早く上昇させる。その時、青白いビーム砲が紙一重のところで通り過ぎた。そして、オーガ・ポセイドンはその場で回頭し、再びグリトニル・フォルセティと相対した。
「馬鹿な。あの状況で、ゼウスの攻撃を避けるなど。不可能だったはずだ!」
ソネヴァは、湧き立つ怒りに任せて声を荒げる。通信越しにその声を聞きながら、青年は後方に座る少女へと顔を向けた。興奮が落ち着いたのか、彼女は無表情のまま青年の顔を見つめていた。
「トリトン?」
青年は、そんな少女の頭をそっと撫でた。はにかむような彼女の笑顔を前に、青年もまた微笑む。
「……そうか、そうだったんだ」
頭の中で蘇る記憶を噛みしめるように、青年は声を震わせる。
すべて思い出した。何もかも、大切なことさえも、自分は忘れていた。
目の前にいる少女――月読飛鳥は、きっと初めから自分に気付いてくれていたのだ。
忘れていたのは、おれのほう。そう悟った青年は、握りしめた拳に力を込めた。そして彼は、スクリーンの先にいる金色の機体へと向き直り、自らの名を目いっぱい叫んだ。
「……トリトン・トライデント、オーガ・ポセイドン! 行くぞ!」
青年――トリトン・トライデントは、操縦桿をあらためて握りしめ、グリトニル・フォルセティへと真っ直ぐに突っ込んだ。その瞬間、白い戦闘機から粒子状の推進剤が大量に溢れ出す。雪の結晶のごときそれは、宇宙に青白い軌道を描いた。
黄金の機体の前で、トリトンは白い機体を旋回させる。左へ、右へ――徐々に速度を上げていくオーガ・ポセイドンに翻弄されつつも、ソネヴァは自らの機体を動かし、ミサイルやスペースカノン砲を発射した。だが、撃ち出した攻撃はことごとく命中せず、オーガ・ポセイドンが描く軌道をただ見ていることしか出来ないでいた。
「ば、馬鹿な! 何だこの速さは。動きが、見えない! 何故だ!」
ソネヴァは、動揺を隠すこと無く叫んだ。そのまま、彼はゼウスをはじめとした戦艦へ急遽通信を図る。
「おい、早く次のビーム砲を撃て! 急げ!」
ソネヴァが怒声を上げるも、ゼウスにいる若い男の声が、声を震わせて告げた。
「申し訳ありません。次の攻撃まで、もう少し準備がかかります。それに、今の状態ではイルフェルム中佐にも危険が……」
「もういいッ!」
ソネヴァはそう言って、部下との通信を強制的に切断した。後であの男は免職だ。そう意気込みながら、彼は白い宇宙戦闘機を狙い、ミサイルを撃つ。だが、オーガ・ポセイドンから放たれたスペースカノン砲によって、攻撃はすべて打ち消された。
「そんな攻撃、もうおれたちには効かない! 諦めろ!」
力強く響くトリトンの声に、ソネヴァはこめかみに血管を浮き上がらせる。その瞬間、彼は自らの立場も忘れ、スペースカノン砲やミサイルなどを次々に撃ち続けた。
「舐めるな、アムネジアックが! 俺は正義だ、敗北など有り得ん! 死ね! 墜ちろーッ!」
前方から乱発される砲撃を、トリトンの操る白い機体は難なく躱し続ける。そしてそれは、着実に金色の機体との距離を詰めていった。ソネヴァが驚く間もなく、トリトンは至近距離からスペースカノン砲を放つ。
「ギリーズ・エンドライン! 貴様……ッ」
断末魔の悲鳴とともに、グリトニル・フォルセティは翠色の閃光の中に消えた。暗視スコープ越しにその光景を見つめながら、トリトンはぽつりと漏らす。
「おれはもう、アムネジアックでも、ギリーズ・エンドラインでもない。おれは、トリトン・トライデントだ」
閃光が消え、トリトンは金色に塗装された痕跡の残る塵芥を一瞥すると、オーガ・ポセイドンの船首を青い惑星へと向けた。彼が再び進み出そうとした瞬間、ゼウスとは離れた位置にある藍色の戦艦から青白いビーム砲が放たれる。
トリトンはすぐさま、白い機体を上昇させ、船首を左へと旋回させる。オーガ・ポセイドンと接する寸前のところで、巨大な青白い閃光が数秒にわたり瞬いた。
「どうやら、あの戦艦を何とかしなきゃいけねえみたいだ。行くぞ、飛鳥」
「おー」
トリトンの言葉を受け、飛鳥は楽しげに声を上げた。少女の声を合図に、彼の戦闘機はデュナミスの周りにいる四隻の戦艦へと駆けていく。青年の狙いは、先ほどビーム砲を放った戦艦だ。
藍色の装甲で覆われたそれを前に、トリトンは躊躇いなく茶褐色のボタンを押す。刹那、魚雷発射管から放たれた五発の魚雷が、戦艦の心臓部である機関室や艦橋に相次いで命中した。間を置かずにトリトンが青いボタンを押す。すると、オーガ・ポセイドンから灰色のミサイルが放たれ、戦艦の中心に命中した。貫かれた藍色の装甲が、爆音と共に宇宙空間を漂う。
やがて、見る間に炎と煙に包まれた藍色の戦艦は、誰一人脱出する間もなく、大爆発を起こした。燃料をはじめ、熱を含んだ鉄や塵が辺りに散らばる。中にはデュナミスの重力に引っ張られ、隕石のごとき勢いで大気圏へ突入したものもあった。
「しっかり捕まってろよ、飛鳥!」
一瞬だけ生じた爆風に機体の自由を奪われながらも、トリトンは操縦桿を離さず、固く握り続けていた。爆発の衝撃で生じた鉄塊が、ゼウスやアウズンブラをはじめ、あちこちの戦艦へ猛スピードで衝突する様子がスクリーン越しに見て取れる。
新たに生じた宇宙塵を前に、戦艦の連中はおれたちを攻撃する余裕もないだろう。そう悟ったトリトンは、デュナミスへ向かうべく、オーガ・ポセイドンの操縦桿を握り直した。その機体からは、粒子状の青白い推進剤が、衰えることなく放出され続けていた。
◇
金剛が、デュナミスの周辺宙域から離脱を始めて、ニ十分ほどが経過した。リナをはじめ、アインやツヴァイは、指令室のスクリーン越しに外の宇宙を眺めている。その中で、リナだけは唯一デュナミスの周辺宙域に目を凝らしていた。
あっ。リナは思わず声を上げる。どうした、どうした。十歳の少女が発した声に、アインとツヴァイは素早く反応し、顔を向けた。
「見て、これ。デュナミスの周辺。何だか、雪が降ってるみたいに綺麗」
リナが指さすまま、二人はスクリーンに映る景色に目を移す。そこには、青い惑星と戦艦の姿に混じって、白い雪のごとき細かな粒子が漂っていた。
「ほんとだ、綺麗だなあ」
「きっとギリーズだ。あいつ、無事だったんだな。良かった」
「こらっ、アイン、ツヴァイ! 無駄話をしない!」
キャロラが、二人へ顔を向けて一喝する。男二人は、しょんぼりとしながらも、新しいキャプテンの言葉に従順に従う。キャロラは、リナの元へゆっくりと歩き出した。そして彼女の横に立ち、スクリーンの先にある光景を眺める。
「そう。ギリーズ、アスカ、良かったじゃない。せいぜい幸せに生きるのよ」
独り言のように呟き、キャロラは青い惑星を一瞥すると、踵を返した。指令室を後にしようとした彼女の耳に、通信を知らせる電子音が入る。リナが通信を繋ぐと、黒髪の青年の顔がスクリーンに現れた。
「アイネアース、クラード・レオ・ギャビン、戻りました。キャロラ……じゃなかった、キャプテン。金剛への受け入れ許可をお願いします」
「却下」
キャロラは、クラードの顔を見ることなく即答する。えっ、と青年が素っ頓狂な声を上げるのも構わず、彼女は続けた。
「あんたも、元は統括軍の人間じゃない。およそ一月ここにいたからって、仲間みたいな感覚でいられては困るのよ。どこか他の良い場所を当たりなさい」
淡々と告げるキャロラに対し、クラードは目を瞠った。そして、そんな彼女へアピールするように、彼は声を張り上げる。
「そんなこと言うなよ。仮にも、お前たちと一緒に二度も戦った仲だろ。それで、もう自由門の一員だと思ってたのは、俺だけだったのか」
クラードの問いに、キャロラはそうよ、とぶっきらぼうに応じた。
「大体、何の手土産もなしに宇宙海賊に入ろうだなんて。虫が良すぎるのよ。私が新しくキャプテンになったからには、それなりのものを用意してもらわないと」
キャロラの言葉に、その場にいた誰もがうわっ、と悲鳴を上げた。クラードもまたその一人だったが、彼だけは真剣な面持ちだった。そして、彼は唇を動かす。
「じゃあ、取引だ。俺がさっき連れて来た、こいつを引き渡す。それで、俺の自由門への加入を認めてもらう。悪くはないだろ。もっとも、セリアさんに診てもらう必要があるから、急がねえと」
クラードが言い終えた瞬間、スクリーンに目を向けていた者が一斉に歓声を上げた。そして、キャロラたちの耳に、聞き覚えのある男の声が響いた。
「イテテ。おいお前ら、早く入れろ。俺は確かに、キャプテンを譲るとは言ったが、死ぬとは一言も言ってねえぞっ。折角頑張って、脱出ポッドに入ったと思ったらこれだ。まったく」
男の声を聞いたキャロラは、迷うことなく駆け出して行った。彼女の目指す先は、きっと格納庫だろう。そう察したクラードは、取引の成立を喜ぶかのように、灰色の髪の男と笑い合った。
◇
青い星の姿が、目の前でどんどん大きくなる。その様子を目の当たりにしながら、トリトンは大気圏への突入準備を進めた。すると、後ろに座っていた飛鳥が、彼の背を強く握る。小さなその手は、微かに震えているのが感じられた。
「トリトン、うー」
「なんだ、怖いのか?」
トリトンはそう言って、飛鳥へと振り返る。不要となった宇宙ヘルメットと暗視スコープを脱ぎ、互いの額を軽くぶつけると、彼は飛鳥の黒茶色の瞳を見つめた。彼女もまた、髪が所どころ跳ねた青年の青い瞳を見つめ返す。
「おれはそうは思わない。むしろ楽しみだ。おれが覚えている限りじゃ、地球や火星、そしてこのデュナミスには一度も来なかったからな」
トリトンは、飛鳥からヘルメットを離す。その瞬間、彼女はどこか不満げに頬を膨らませながら、青年の背を握っていた手を放した。代わりに、飛鳥は小さな身体をトリトンに預ける。前に座る青年の広い胸まで両腕を伸ばし、精一杯の強い力で抱きしめた。
「うーん」
飛鳥は、大きな背中へ顔を埋める。その感触を感じ取りながら、トリトンは真っ直ぐにスクリーンを見つめた。
「何より、今のおれはもう一人じゃない。飛鳥、お前がいてくれるんだからな……だから、約束する。おれはもう、飛鳥から絶対に離れない。これからは、ずっと一緒だ」
トリトンがそう口にした瞬間、オーガ・ポセイドンの周りに橙赤色の炎が宿る。その炎を纏ったまま、白い機体はデュナミスの重力に従って、大気圏へ突入した。




