9
黒い宇宙に、幾筋もの白い軌道が浮かぶ。横一列に均等に並んだそれらは、たちまち旋回したかと思うと、一斉にスピードを上げて近づいてきた。
その光景を前にした少年は、自らの乗る宇宙戦闘機の操縦桿を強く握りしめた。だが、力の加減を考えずに握ってしまったため、思うように操縦桿が動かず、機体も反応が鈍い。
そんな少年の乗る戦闘機の前に、敵の戦闘機の姿が鮮明に映った。このままでは、死ぬ。そう直感した少年は、恐怖にかられるまま声を張り上げる。すると、力強く握っていた操縦桿が自然と動き出し、迫りくる戦闘機を紙一重の距離で躱した。
そして、少年は素早く機体を回頭させると、敵の戦闘機目がけてビーム砲を発射する。一瞬、少年の眼前は真っ白に染まった。やがて、再び視界が開けてきた少年の前には、戦闘機の形を成していた金属の破片だけが漂っていた。
やった――少年の口から、その一言だけが漏れる。やった、勝った、生きている。その感覚だけが少年の全身を包み込み、やがて彼は言い知れぬ快楽に溺れ始める。
そして少年は、自身から生まれてきた欲求のままに、迫りくる他の戦闘機も次々に、圧倒的な速さで狩る。駆り、狩る、勝つ。ひたすらそれを繰り返していくうちに、少年の周りには戦闘機の残骸しか残っていなかった。周りを飛んでいた敵の姿は、どこにもない。
――素晴らしい。我々の研究は、完璧だ。きっと君は、女神を失った我々の希望になってくれるだろう。
コクピット内に響く知らない男の声を聞きながら、少年は熱のこもった息を吐き続けていた。そんな彼の青い瞳は、獣のようにぎらぎらと輝いていた。
◇
閉じられたギリーズの瞼が、ゆっくりと開かれる。硬いベッドの上で目覚めた彼は、思考が回らないまま起き上がり、部屋の隅にある洗面台へと赴いた。寝癖の跳ねた金色の髪を水で濡らし、ドライヤーの熱風をかける。
これでいい。そう頭の中で思ったギリーズは、ふとドライヤーを持ったままの右手に意識を集中させた。
さっきの夢の感覚は、未だ手に焼き付いたままだ。知らない敵を撃墜させた手。そして、自分から沸き上がる奇妙な気持ち。時間が経つにつれ、その感覚はぼんやりと不鮮明になるものの、ギリーズは右のこめかみを手で押さえた。
宙塵城を出て以来、ギリーズは時折不思議な夢を見るようになった。少年の頃と思しき自分の夢だ。最初はただどこかへ走り続けていたものが、今度は宇宙で戦いを繰り広げていた。そして日を追うにつれ、夢の感覚はより現実味を帯びてくる。まるで自分が実際にその場にいたような感覚に、ギリーズは小さく舌打ちをした。寝覚めが悪いのは勿論だが、それだけではなく、目覚める度に言い知れぬ自己嫌悪に襲われるのだ。その正体が何かも分からないまま、ギリーズは黙って冷水を顔にかけた。
そして歯磨きを済ませ、着替えを終わらせたギリーズは部屋を出た。廊下から見える景色は、この五日間ずっと同じだ。真っ暗な宇宙だけが広がっている。暗視スコープをかければ美しい星々が見られるかもしれないが、それを見たい気持ちにはならなかった。ドアを出て、その場で立ち竦むギリーズの横で、女の声が響いた。
「おはよう、よく眠れた?」
ギリーズが顔を向けると、セリアが左手を振りながら歩いていた。紅色のセーターと黒いスパッツの上に白い白衣を纏った彼女は、ギリーズに近づくとしげしげと彼の顔を覗き込む。
「な、何だよあんた」
「うん、何かね。何か分からないけど、悩んでることでもあるのかなって。そんな顔してる」
顔を近づけるセリアを前に、ギリーズは何も言わないまま困惑した面持ちを見せた。漂う香水の香りに、ギリーズの鼻腔は心地よく刺激される。
「ねえ、良かったら話してみてよ。そうしたら、ちょっとはマシになるかもよ」
肩まである茶色の髪を揺らしながら、セリアが提案する。ギリーズはそんな彼女から顔を逸らしながら、いい、とぶっきらぼうに答える。
「大丈夫よ。聞いたことは誰にも言わないから。安心して、自由門に来る前は、大きな病院に勤めていてね。心理カウンセラーみたいなことも、ちょっとはやっていたのよ」
どんどん顔を近づけてくるセリアの勢いに圧されるまま、ギリーズはやむなく頷いた。そして、彼女に促されるまま、ギリーズはここ数日夢に見る光景から、自分がアムネジアックであることなどを話して聞かせる。
「へえ、アムネジアックでそんな夢を見るのね。初めて聞くケースだけれど、結構なことじゃない」
「結構不愉快な夢だけどな。どうせならハダカの美女に囲まれる夢が見てえよ。あと、おれはアムネジアック呼ばわりされるのは好みじゃねえんだ」
ギリーズは黒いコートの裾を揺らし、ぶっきらぼうに応える。対するセリアは、口元に手を当ててくすくすと笑い声を漏らした。その体勢を崩さないまま、彼女はギリーズに告げる。
「ごめんなさい。ただ、ギリーズにとって夢の内容は不愉快だということは認識しているのね」
ギリーズは無言で頷く。そんな彼を前に、セリアは笑顔を消し、真剣な顔で告げた。
「多分だけれど、ギリーズ。あなたが夢の中で見た出来事は、過去……記憶がない間に、ギリーズが実際に見て、体験した出来事なんじゃないかしら」
セリアの言葉に、ギリーズは目を丸くする。そんな彼を前に、白衣の女は赤い唇をさらに動かす。
「それを今、あなた自身が無意識的に思い出してるんだと思うわ。そうして無意識に思い出したことが、夢に出てきてるのよ」
「そんな、まさか。どうして今更」
ギリーズは信じられない、と言わんばかりに眉をひそめた。そんな彼を前に、セリアもまた首を傾げた。
「さあね。夢という概念はずっと昔から研究されては来てるけど、まだ分からないことも多いから。ただ、何かきっかけがあって、その夢を見始めるようになったんだと、あたしは思うわ」
「きっかけ……ねえ」
ギリーズはそう言って、しばし考え込む。きっかけとしてまず思いつくのは、宙塵城でアスカを見つけたことだろう。だが、そうだとしたらなぜ彼女なのか。リートルーバーが滅び、宙塵城と呼ばれる廃虚になったのは、ギリーズが生まれるより何十年も昔の出来事だ。
それがなぜ、過去の自分の記憶に干渉するのか。それをぼんやりと考えるギリーズを前に、セリアは桟に右肘を置き、窓の外に広がる宇宙を眺めた。彼女の瞳は、どこか愁いを帯びたように遠くを見つめている。
「どうかしたのか」
ギリーズの問いに、セリアは首を一度横に振り応じる。
「ううん、ちょっと思い出してただけ。あたしにとってのきっかけは、あの日だったかなって」
セリアはそう言って、さらに窓の外を覗き込む。うっすらと化粧を塗った彼女の顔が、窓に映し出される。
「あたしも一時ね、昔の夢を見ていたことがあるの。忘れもしない、ケインとの間に生まれた赤ちゃんが死んだ夢。あたしとケインは以前、『アンカー』という小さいスペースコロニーに暮らしててね……女の子の赤ちゃんが生まれたその日、病院でテロ事件が起きて。当時あたしは二階の病室にいて、赤ちゃんは四階の新生児室にいて。それで、新生児室の側にあるナースステーションに爆弾が仕掛けられたの。当時その周辺にいた看護師さんや患者さん、そして新生児室の赤ちゃんは皆死んだわ。あたしの赤ちゃんなんか、あんまり真っ黒焦げで、性別もまともに分からなかったぐらい」
冷静な口調で、淡々と話すセリアを前に、ギリーズは何も言葉をかけられなかった。セリアは穏やかな、それでいてどこか悲愴な面持ちで続けた。
「それが、宇宙戦争の終わるちょうど十日前のことよ。その日から去年の今ぐらいまで、あたしは毎日のように当時の夢を見続けた。夢を見る度に、もしかしたらあの中にあたしたちの赤ちゃんはいなかったんじゃないか、本当は今もどこかで元気に生きてるんじゃないかって、ちょっと期待したりして……」
無意識に、セリアの両手が自身の腹へと伸びる。やがて彼女の右手に拳が作られ、堅く握られた。そんな彼女から目を逸らしながらも、ギリーズはどうにか言葉を振り絞る。
「あんたらも、大変だったんだな」
ギリーズの言葉に、セリアは彼へ顔を向ける。そこには、屈託のない笑顔があった。
「ありがと。あれから時間が経って、自由門の皆と出会って。いろいろな話を聞いたり、相談したりしているうちに、ちょっとはマシになった感じかな。ここにいる皆も、あたしたちと同じで何かしらの事情を抱えてるコト多いから」
セリアがそう告げると、廊下の隅からキャロラが駆けだしてきた。全力で走って来たのか、彼女の額には玉状の汗が浮かび、息も切れ切れになっている。
「ギリーズ、キャプテンが呼んでるわよ。すぐに来なさい」
キャロラはそう言うと、すぐさまとんぼ返りでその場を後にした。ギリーズはそんな彼女の後姿を目で追いながら、側にいるセリアに声をかける。
「いろいろありがとな、セリアさん。あんたの言う通り、おれもちょっとはマシになったと思う」
ギリーズの言葉に、セリアは口元をわずかに吊り上げてみせた。そして、彼女は右手を左右に振る。
「どういたしまして。じゃ、あたしはここでね。ケインの様子を見てくるから」
セリアは、ギリーズに手を振りながらその場をゆっくりと離れる。ギリーズもまた、キャロラの後を追い掛けた。黒いコートの裾が、前後左右に揺れる。
――ここにいる皆も、あたしたちと同じで何かしらの事情を抱えてるコト多いから。
先ほどのセリアの言葉を、ギリーズはゆっくりと心の内で反復する。彼自身、宇宙海賊の人間の事情には興味もなかったが、きっと目の前を走っているキャロラやモルドアもまた、複雑な事情があるのかもしれない。ギリーズはぼんやりと、そう思った。
◇
金剛のほぼ中心部に作られた艦長室には、小さな机と箪笥の他には、キャプテン専用の座椅子だけが置かれていた。壁には太陽系をはじめとした惑星や衛星、恒星の図面が一面に隙間なく貼られている。モルドアは、その壁の一角に立っていた。ドアを二回ノックする音を聞いたモルドアは入れ、と一言だけ告げる。
キャロラがゆっくりとドアノブを回す。彼女に続き、ギリーズも艦長室に足を踏み入れた。そこには既にアスカとクラードがいたが、アスカは艦長室の壁一面に貼られた地図が珍しいのか、壁の真前でしゃがみ込んだまま動かない。
「来たか。じゃあ早速、話を進めようじゃないか」
モルドアはそう言うと、机の側にある自分の座椅子にどっしりと腰掛けた。そして、彼は部屋の中央に立つクラードへ目配りをする。それに気付いた黒髪の青年は、先ほどモルドアが立っていた場所へ足を進めながら唇を動かす。
「モルドアさんから話を聞いてある。ギリーズ、お前とアスカを連れていく場所が決まったぞ。それが、ここだ」
クラードは、壁に貼られた地図の一角を指し示す。それは、一つの惑星のようだった。ギリーズは、そこに書かれた単語を声に出して読む。
「『DYNAMIS』……」
ギリーズが口にした惑星の名を聞いたクラードは、一度小さく頷く。そして、手元で『デュナミス』を指し示したまま、ギリーズに向き直る。
「ああ。宇宙戦争の後に締結された条約で、戦争や紛争に一切関与しない、恒久の平和を保障された唯一の星だ。俺たちは、この惑星を目指す」
ギリーズは、かつて軍の在籍時に聞いたデュナミスの情報を思い出す。デュナミスは、今から約百年前に人類が五番目に発見した、生物が居住可能な惑星だ。二つの大陸に小さな島々があるほかは、青い海が広がっている。自然環境そのものは地球と大幅に近く、太陽の光を疑似的に再現した中継基地が、陽光を射出しながら周回することで地球とほぼ変わらない環境で生活できるらしい。
現在の状況で、この惑星以上に最適な環境は他にはないだろう。ギリーズがそう考えていると、クラードは地図を指し示す指を忙しく動かす。
「俺たちの艦が今進んでるのは、このミダス宙域の辺りだ。それで今は、統括軍の監視を掻い潜る形で遠回りの航路を進んでいるから……デュナミスに着くのは、大体一か月後になるか」
一か月。その言葉を聞いたギリーズは、息を呑む。長い旅になりそうだ――心の内で覚悟を決めたギリーズは、モルドアへと顔を向けた。
「上等だ。おれはそれで構わないぜ。それで、ポセイドンのオーバーホールも、それまでには終わりそうか」
ギリーズの問いかけに、モルドアの代わりにキャロラが口を挟む。
「心配いらないわ。ケインを中心に、整備の連中が頑張ってくれてるから。それまでには確実に終わるわよ」
キャロラがそう言うと、しゃがんだまま両手で地図を触っているアスカの身体を掴む。驚いたアスカが、訝しげな表情で唇を尖らせた。
「うー?」
「ほら、アスカもそう言ってる」
笑顔で口にするキャロラに、ギリーズは小さく溜息を吐く。いや、言ってねえだろ。小さく呟くと、彼は艦長室にいる面々を見渡した。そして口元に笑みを浮かべると、凛とした口調で告げる。
「みんな、ありがとな。統括軍に追われて、一時はどうなるかと思ったが。お前たちのおかげで、何とか乗り切れそうだ。本当に感謝してる」
ギリーズがそう言った後、艦長室にしばしの静寂が流れる。やがて、最初に口火を切ったのは彼の友人だった。
「何を今更、しおらしいことほざいてんだよ。お前らしくもない」
クラードは、ギリーズの肩を思い切りぽん、と叩いた。イテッ、と短い悲鳴が部屋中に響く。ギリーズが肩を押さえながらクラードの顔を見つめると、彼の顔には爽やかな笑みがあった。
「おれはお前の友達だろ? だったら、友達が困ってるのを助けるのは当たり前だ」
自信たっぷりにクラードが告げる。その瞬間、ギリーズとキャロラは揃って噴き出した。
「何だよ、何かおかしいこと言ったか」
クラードが困惑しながら、両手を上下にあたふたと動かす。そんな彼を見て、キャロラは目元の涙を指で拭って答える。
「あんたって、ギリーズと比べてまともそうだと思ったけど、意外と馬鹿なのね」
「まったくだ。そんなことで統括軍を飛び出してきたのかと思うと……笑いが止まんねえ」
キャロラに続いてギリーズもそう口にする。やがて、二人に倣ってアスカもくすくすと笑い始めた。その様子を目にしたクラードは、たちまち赤面した。
「なっ、悪いかよ。俺は素直にお前を心配してだな、休暇もすっ飛ばしてここまで来たってのに……」
早口で捲し立てるクラードの前に、ギリーズは右手の拳を差し出した。青い瞳をした青年は、黒髪の青年の顔を真っ直ぐに見つめながら告げる。
「あの時お前が来てくれて、おれはすげー嬉しかった。これからも、よろしく頼むぜ」
ギリーズの言葉に、クラードは黙って拳を差し出す。そして、二人の拳がこん、と音もなくぶつかった。
◇
ゼウスの艦内にある細長い廊下を進みながら、ソネヴァは手に持ったアップルジュースを一息に飲み干す。いつもなら、林檎独特の甘味と瑞々しさで自身の喉が癒される感覚を楽しむところだが、現在の彼にはそんな余裕はなかった。さも苛立ちを隠さないかのように、ソネヴァは大股で前へと進み、コントロールルームへと入る。そして、その場にいた自分の部下全員に向かって声を張り上げた。
「どうだ、奴らの艦は見つかったか! 偵察班の報告はどうなっているッ」
上官の怒声に、部下の男女たちは何も言わないまま、意気消沈した面持ちを浮かべ、それぞれの作業にあたっていた。そんな彼らを前に、ソネヴァはアップルジュースの入っていた紙カップを握り潰す。
「お前ら、それでも統括軍の人間か! だいたい――」
「まあまあ落ち着きたまえ、ソネヴァ殿。部下を必要以上に詰っても、時間を浪費するだけで、何も解決はしないよ」
ソネヴァが後方を振り返ると、アッジャがいつの間にか立っていた。ソネヴァはすぐ背後に立つ大企業の会長の手前、二、三度小さく空咳をする。どうにか感情を抑え込むと、彼は部下たちに構うことなくアッジャと会話を始めた。
「どうされましたか、わざわざこんなところまで」
「貴賓室でのんびりしていても良かったんだが、どうにもここの様子を観察する方が面白いものでね。彼らの職務に専念する姿は、我が社にとっても必要なものであるからね」
そう口にするアッジャの言葉を受け、部下の男性が感嘆の溜息を漏らす。その様子を憎々しげに聞きながら、ソネヴァはアッジャへ報告する。
「ギリーズ・エンドラインとアスカ、両名は自由門の艦に乗ったまま、依然消息は掴めていません。恐らく一般に利用されていない宙域を進んでいると思いますので、その宙域を中心に偵察班を飛ばしてはいるのですが」
ソネヴァの報告を聞いたアッジャは、淡々と頷くと、コントロールルームの前方に映し出されたスクリーンへ顔を向けた。スクリーンには、現在ゼウスが進んでいる宙域の様子や、周辺の宙域の地図が幾つも複雑に映し出されている。やがて、アッジャは口元に小さく笑みを浮かべると、どこか快活な口調で告げた。
「なるほど。彼らは、いったい何を目指してるんだろうね。このまま宇宙海賊にでもなるつもりかな」
「その時は、その宇宙海賊もろとも、宇宙の塵にしてやりますよ」
そう言って、ソネヴァは右手の拳を強く握った。先日の戦闘で、赤い宇宙戦闘機に乗った女海賊の発言が未だ頭から離れない。自分をギリーズ以下の小物だと言い放ったこと、必ず後悔させてやる。
「それにしても、予想外だったねえ。まさか、軍の中から寝返る人間が出てくるとは」
アッジャの発言に、ソネヴァははっと目を見開く。彼はそのまま身を翻し、会長と呼ぶ男へ深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、レミース会長。あのクラード・レオ・ギャビンという男、ギリーズ・エンドラインと親しくしていたようで……我々の注意不足でした」
頭を下げたまま口にする統括軍中佐を前に、アッジャはまあまあ顔を上げて、と口にする。ソネヴァが顔を上げると、アッジャは口元を歪ませた。
「なあに、計算が狂うこともあるさ。気にすることはないよ」
白髭を生やした男の言葉に、ソネヴァは心の内で安堵する。しかし、アッジャはソネヴァを一瞥すると、溜息交じりに続けた。
「ただ、ね。別の人から聞いたんだけど、君はこの前の戦いで、目標とはまったく別の機体に夢中になっていたそうじゃないか。ここを出る時に、必ず目的を達成すると言っていたのは何だったんだろうね。しかも弾切れまで起こしてしまったと言うんだから、笑い話にするにもちょっとね……ビジネスというものは、そう幾度もチャンスがあるわけではない。次は無いと思いたまえ」
アッジャの言葉に、ソネヴァが何も言い返せないでいると、コントロールルーム内部で甲高い電子音が響いた。二、三度鳴り響いた後、若い女性が上官らに顔を向ける。
「偵察班より報告。ミダス宙域周辺で、目標を捕捉したとのことです」
女性の言葉を受け、ソネヴァは素早く声の上がった方角へ顔を向けた。そのまま、女性へ向かって声を張り上げる。
「その情報、本当か!」
「間違いありませんっ」
女性もまた、上官の言葉に負けじと大声で応じる。ソネヴァは、女性の座る席へ足早に近づく。そして、彼女の前にある机に映し出されたモニターを前に、目を輝かせた。
そこに映っていたのは、間違いなくあの宇宙海賊が根城としていた黒いフリゲートだった。宇宙の闇に紛れながらも、シルエットをくっきりと浮かび上がらせたそれを前に、ソネヴァは湧き上がる感情をどうにか抑え込む。中佐、と女性が心配そうに呼びかけるのをよそに、彼はコントロールルームにいた部下たちへ顔を向け、一息に命令する。
「奴らの足取りを追い続けろ! その間に我々は、連中を確実に仕留めるための準備を進める。急げ!」
ソネヴァの鶴の一声で、部下たちは慌ただしく動き始めた。アッジャは、その様子を見てどこか感心したように、笑顔で何度も頷いている。
今度は、必ず勝つ。モニターに映る黒い戦艦を見つめる銀色の瞳には、業火のごとき煌めきが宿っていた。
◇
金剛の中央部にある狭い廊下で、三人分の足音がこつこつと、異なるリズムを奏でる。ギリーズは、右手でアスカの手をしっかりと繋ぎながら、目の前を歩くアスカと同年代と思しき少女の話に耳を傾けた。
「……と、そんなわけで。アインさんとツヴァイさん、昔は違うマフィアの敵同士だったんですよ。それが揃いも揃ってキャロラさんに一目ぼれして。それがきっかけで自由門に入って、キャロラさんの下っ端になったんです」
少女――リナ・ロンメイは、セピア色の髪を揺らしながら、抑揚のある声で説明する。金剛のメインオペレーターを務める彼女の話術を前に、ギリーズは口元に左手を寄せ、必死で笑いを堪えていた。対するアスカは何のことか分からないようで、一人首を傾げていた。
「おいっ、それ……マジで? ということは、馬鹿みてえに『お嬢お嬢』って言ってんのも」
青年の言葉に、リナはその場で立ち止まり、後方を振り返った。目鼻立ちの整った黄白色の顔をした彼女は、唇を尖らせ、声を潜める。
「そーなんです。傍から見たら、キャロラさんに対して何かと過剰なお付きの人に見えますけど、違うんですよ。いつかキャロラさんをお嫁さんに迎えようと思ってるから、自分がカッコ良く見えるよう我先にとアピールしてるんです」
リナが真剣な口調で告げるのを聞き、ギリーズは声を押し殺して笑い出した。いい歳をした男二人が、何やってんだか。そう思いながら、ギリーズは湧き上がる気持ちを抑えるのに必死だった。
すると、リナが突如人差し指を自身の顔の前に持ってきた。静かにしていてください――小声でそう口にする彼女に半ば圧される形で、ギリーズとアスカはコンクリートの壁に背を預けた。リナもまた、壁伝いに背を預けると、茶褐色のジャージをじりじりと動かしながら、廊下の角へ目を動かす。その先に立っていた人物のやり取りに、三人は聞き耳を立てた。
「どうして駄目なんですか、キャプテン!」
突如響いた少女の金切り声に、ギリーズは眉をひそめた。そんな彼の耳に、モルドアの低く穏やかな声が入ってくる。
「聞いた通りだ、キャロラ。今度連中とやり合う目的は、復讐のためじゃない。ギリーズとアスカ、二人をデュナミスへ送り届けること、ひいては俺たち自由門の義理を貫くためだ。それで、目的を達成したら、俺たちはその場から撤退する。それは何度話そうとも変わらん、いい加減聞き分けろ」
諭すような口振りに、キャロラは興奮冷めやらぬ様子で答える。
「ですが……戦争の終わり際、統括軍の連中に身内を殺された人間が、ここには大勢いるんです。それはキャプテンも、分かっている筈」
「だからこそ、だ。いくら身内を殺されたからって、俺たちは宇宙海賊……同じ仲間だろう。統括軍とまともに戦えば、多くの犠牲が出る。復讐のために、仲間の命を犠牲にする理由はない」
しばし、沈黙が流れる。やがて、キャロラが口火を開く。小声ながら鋭い口調に、リナやアスカは口を噤んだままだ。ギリーズは静かに息をしながら、二人の様子を見守る。
「キャプテンは、悔しくないの? 母さんを目の前で殺されて、何も思わないの! 薄情者……ッ」
刹那、細長い空間に乾いた音が響いた。リナとアスカは、音とともに目にした光景を前に、思わず目を伏せる。
モルドアは、空にぶらんと漂ったままの右手を、そっと下げる。手には、少女の頬を叩いた痛みがわずかに残っていた。
もういい――キャロラはそう言って、目元を一度だけ擦る。その様子を前に、モルドアは黙ってその場を離れた。彼の足音が、少しずつ遠ざかっていく。コンクリートの床越しに、そう感じ取っていた三人の耳に、キャロラの声が響く。
「あんたたち、最初からそこにいたのは分かってたわよ。盗み聞きだなんて、趣味の悪い」
キャロラの指摘に、リナとアスカ、ギリーズは立て続けに彼女の前へと姿を現す。彼らを前にしてなお、キャロラは黙って彼らを見据えていた。左の頬を黙って押さえたまま、彼女はギリーズたちの横を素通りしようとする。
「うー?」
キャロラが三人とすれ違おうとしたその時、アスカの細い指がキャロラのジャケットの裾を捕まえた。キャロラが振り返ってみると、アスカは細い眉をハの字にさせ、オレンジ色の髪の少女を見つめていた。そんな彼女の目には、うっすらと涙を溜まっている。
おい、アスカ。ギリーズがそう言って、アスカを止めようとするより先に、キャロラの涙声が漏れる。
「何よ、あんた。こんなので、私に同情してるつもり?」
キャロラはそう言って、茶褐色のジャケットを掴む少女の細い指を、自らの指で絡め取る。対するアスカは、うーあー、と口にしながらキャロラの顔を見つめていた。
やがて、キャロラの両腕がアスカの華奢な身体を包み込んだ。柔らかく、長い黒髪の感触を頬で感じつつ、キャロラは呟く。
「アスカ。私、あんたが羨ましい。あんたみたいになれたら、私、きっと楽になれるだろうに」
やがて、キャロラはアスカを抱いたまま、小さく泣き声を上げた。床へ垂れたままの少女の両腕が、不器用にキャロラの身体を包んだ。
リナは、キャロラの背を何も言わずに優しく撫でる。その様子を黙って見つめるギリーズは、数日前にセリアが口にした言葉を再び思い起こしていた。心の中で響く彼女の言葉は、不思議と重々しく感じられた。