青いハンドボールが、宙を舞う。
軟らかい材質で出来たそれは、微弱な環境風を受けながらも美しい弧を描き、音を立てずにゆっくりと地面へ落下する。そんな中、少年は空を仰ぎ、両手を自分の身体の前へ伸ばした。常盤色の人工芝の上で、両足を前後左右に足踏みしつつも、十歳の少年の両目は空に浮かぶ青い点のみを注視する。
やがて、少年の細く白い指先に、青いハンドボールがかすかに触れた。少年はそれを再び地面へ放してしまわないよう、素早く両手のひらでボールを支え、自分の胸へと包み込む。それと同時に、少年の耳に小さく拍手の音が聞こえてきた。
「ナイスキャッチ!」
少年から数メートルほど離れた場所に立っていた少女が、少年に向けて快活な声を上げた。少年と同い年の彼女は、顔いっぱいに無垢な笑顔を作ると、拍手をぴたと止め、右腕を左右に大きく振った。それに合わせて、肩まで伸びた黒髪や、紺色のスウェットとは半ばアンバランスな出で立ちの白いミニスカートの裾が、ふわふわと左右に揺れる。
握りしめたボールから、わずかに残った少女の体温を感じた少年は、はにかんだ笑顔を浮かべながらも、少女に向けて左手の拳を伸ばした。そして、軽く握った拳から親指だけを空に向けて突き出す。
「オッケー。じゃ、次はぼくの番だよ!」
少年は数メートル先の少女に聞こえるほどの大声でそう言うと、自分の頭と同じぐらいの大きさをしたボールを自分の頭上に掲げた。少年の視界に、今自分が立っている公園の景色が映る。自分の五倍以上の高さはあるだろう、高い樹木と街路灯が等間隔に配置され、さらに公園の外にはそれよりもはるかに大きなショッピングモールや政府の高官たちが暮らす高級マンション、最新設備が施された病院や研究施設が建ち並んでいた。それは少年と少女が暮らすスペースコロニー『リートルーバー』の、いつもの見慣れた姿だ。
少年は、視界の中心にいる少女へ視線を集中する。彼女は、口元に穏やかな笑みを浮かべながら、両手でハンドボールを受ける体勢を整えていた。
少年は、そんな彼女の様子を前に、手に持ったボールをゆっくり青空へと放した。少年の手を離れたそれは、コロニーが生み出す疑似重力から一時的に離れ、再び高い空へと舞い上がる。白い陽光が、高い空の先に見える巨大な陽光反射壁をとおして、一瞬だけ青いハンドボールに反射し、少年は思わず瞼を細めた。
そして、少年が投げたボールは、リートルーバーの定期回転によって発生した疑似重力にしたがって、再び地面へと軌道を変えていく。少年は、先ほどまでボールの落下地点付近に立っていた少女へと目線を動かす。だが、そこにいたはずの少女の姿はない。受け止める者がいない青い球は、一瞬だけ乾いた音を立てて着地し、人工芝の上を数センチほど転がると、そのまま音もなく静止した。
少年は、少女の名を大声で口にしながら、きょろきょろと辺りを見回す。その過程で、彼の青い瞳は、携帯ゲーム機で夢中で遊んでいる彼より年下の少年たちや、杖を突きながら散歩する老夫婦の姿を確認するが、少女の姿はどこにも見えない。
すると、公園の隅で揺れる黒髪の姿が少年の視界の端に映った。彼はすぐさま、そこへ向かって走っていく。手足を大きく動かし、深く息を吸ったり吐いたりしながら進む少年の前に、紺色のスウェットと、白いミニスカートを着た少女の姿が徐々にはっきりと見えてくる。それとともに、上下黒一色に染まったスーツを纏う男たちが四、五人、少女を取り囲むようにして歩いている姿も確認できた。
少女は、彼らに促されるまま、彼らの進む先にある黒いエアカーに向かって歩いていた。少年は、タブレット端末のニュースサイトや教材の資料でしか見たことがない、政府の高官や大富豪が所有する最先端の高級車が眼前にあることに驚きながらも、なおも足を止めずに進む。そんな彼の耳に、スーツの男たちの会話が入ってきた。
「――先日の精密検査でも、彼女は素晴らしい結果でした。適合率は、限りなく百パーセントに近い数値。『エウリュアレ』としての適性は十分、申し分ないかと」
「よし。研究所に戻り次第、プロジェクトの最終段階に取りかかるぞ。新たな女神が誕生する、記念すべき実験だ」
小声だが、どこか興奮しきった様子で話す彼らを前に、少年は再び少女の名前を叫ぶ。その声に気づいた男たちと、少女の足が止まる。それと同時に、彼女の顔が少年へと向けられた。その表情には、諦めや悲しみといったさまざまな負の感情が複雑に入り乱れているかのように、少年には感じられた。
どうしますか、あの少年は。今は放っとけ、後でどうとでもできる。それより、さっさと車に乗せろ――そう口々に発するスーツの男たちをよそに、少年は少女の元へと駆け寄ろうとする。だが、先ほどまで全力疾走を続けた少年の両足は、そんな彼の思いとは裏腹に、突如として石のように動かなくなり、その場でがくんと崩れ落ちた。それに合わせて、彼の細い身体は硬いアスファルトの地面へと引き込まれる。
少年が短い悲鳴を洩らす。右肘や両膝から赤黒い血が滲み出るのにも構わず、彼は所どころに砂が付着した顔をゆっくりと起こし、目線を少女へと向けた。
ねえ、どうしたの? その人たちは、誰? どうして、ぼくに何も言わずにどこかへ行こうとするの――? 目の前にいる少女へ聞きたいことが、少年の頭の中で次から次にあふれ出る。それを口に出そうと、少年が薄い唇をゆっくりと開いた。すでにエアカーのドアに手をかけていた少女は、少年の顔を一瞥する。彼女の黒茶色の瞳に、少年の姿がはっきりと映った。
「待って、待ってよ!」
少年の高い大声が、辺りに響く。数瞬のあいだ、何も言わずに少年を見つめていた彼女は、瞼を強く閉じると、ピンク色の唇を少年に向けて動かす。
彼女の言葉を耳にした少年は、思わず呆然とした。ぽかんと開けたままの口からは、彼自身の早く浅い呼吸以外には何も出てこない。少女の言葉の意味をしっかりと飲み込めない彼の目前で、少女はスーツの男たちとともに、エアカーの中に乗り込んだ。
ソーラーシステムを内蔵したその車から発せられる重低音に加え、アスファルトの地面を離れる際に車の下部から発生する生温い風を受け、少年は耳と顔を両腕で塞ぐ。音と風が少し落ち着いたところで、彼は強く押えつけていた顔の隙間から瞼を細く開き、そのまま空を仰いだ。
少女を乗せたエアカーは、既に十メートル以上はあろうかという地点にまで到達しており、やがて猛スピードで少年のいた場所から離れていった。
エアカーの姿があっという間に小さくなっていく様子を眺めながら、少年は再び、少女が自分に向かって告げた言葉を思い返し、小声で反復する。
――さようなら。
ようやく少女が口にしたことを理解した少年は、怪我をした肘や膝を、自らの手のひらや身体に当てながら、その場に蹲る。今になって感じ始めた身体の痛みとともに、少年の心の内にできた穴もまた、ゆっくりと拡がっていく。
どうしてだよ、どうして。何度もそう呟きながら痛哭する少年の青い瞳は、少女が去っていった先にある青空だけを、いつまでも見つめていた。