世の理
本当に趣味で書いた話なので悪しからず
人類は衰退した。
『屍怨』の進撃によって。
突如と現れた屍怨は、非情な殺戮を繰り返した。否、食事を繰り返した。彼らは人間と同様だ。極度の飢えが襲ってこれば真っ先に食糧を探し、食す。ただ食糧の対象が違うだけなのだ。いやそれは誤謬なのかもしれない。彼らは人間を食す。つまり「肉」を食す。そして、人間も同断だ。牛、豚、鳥、その他諸々...。「肉」を食している。
では彼らは何ら特殊な存在ではないのだろうか?人間と同じ存在なのだろうか?
それはもってのほか違う。
彼らは常に飢えを抱えている。
飢えることが彼らの性質なのである。
人間にも勿論、性質は多々あるが、彼らのように限定的なものはないだろう。
そしてその性質はいくら食べても食欲は減少せず、満腹になることはない。彼らは本能的に食し、生物の性質上食す。そして、主体的に食す。
彼らにとっては一種の理なのである。だが、人間にとってはどうだろうか。四六時中、飢え抱えながら食糧を見つけては食う。ましてやその対象が自分たちだ。脅威でしかない。
しかし客観的、神様目線と言うのだろうか。つまり遥か外側から、世の全ての生物の理を考慮して思考を巡らせばどうだろうか。彼らはただ性質上異なっただけで、彼らの行動は食事でしかない。そして、無論のこと人間も食事は取る。なら、何の問題もないだろう。ただ単にその量が違うだけだ。赤ん坊が食べる量と思春期真っ盛りの少年が食べる量が違うのと同じだ。だから彼らは悪い、悪党のような非情な存在ではない。彼らも一種の生物。 ではなぜ人々は彼らを軽蔑し、異常に思うのだろうか。彼らは生物だ。馬だ。羊だ。牛だ。豚だ。普通の存在だ。どこにでもいるような点々。異常視する必要はないだろう。新しい生物の発見など日常茶飯事のはずだ。
閑話休題。
屍怨は生物だ。立派な生物だ。
正真正銘、生物だ。
だが、彼らは少なからず違ったのだ。
「突如と現れた」。まぁこの表現は間違いではない。だが「どこ」から現れたのか。それが問題である。
彼らは人の中から現れた。
そういう異例の存在なのだ。
だから、人々は異常に思う。つまり、屍怨の性質を異常視しているのではなく、誕生の過程を異常視している。だが、それも違った。
人間は余りにも貧弱で、恐怖にはめっぽう弱い、とてもか弱い生物だった。だから、彼らの性質すらも異常視する。彼らにもない性質は人間も所持しているのに、彼らは動じない。これが絶対的な差異だ。
人々はか弱い生物なために、恐れ慄いた。
そして彼らは世界の理という常識を認知していたからそれに基づき、ただ単に行動した。
だから、人間は負けた。
敗北した。
それは人々が脆弱なために起きた現象。人々の育った環境が余りにも害のないような均衡の保たれている場所だから起きた。
もし、人々は強い者が上に立ち、日々お互い争いを続けていれば。第二次世界大戦のようなケンカがさらに勃発すれば。男だけでなく女も徴兵させれば。
人間は彼らに負けるほど弱くならなかっただろうに。
これが国際平和を唱えた世界の末路であった。
◆
丁度一年前、地球という惑星の人口は、およそ70億人であった。
だが今ではそれは他の生き物によって反転させられた。
今現在、地球という惑星の人口は、零人。
屍怨の数はおよそ69億。
約1億分は、まだ人間が生存している間に人間たちが最新技術を行使して殺傷した。
だがそれもたったの1億にとどまった。
人間は余りにも弱く、屍怨は強すぎた。しかも屍怨が一匹増えていくごとに人間は一人消える。
人間はまもなく絶滅してしまった。
そうして今、この海で覆い尽くされた地球という惑星には、屍怨と他の動植物しか生き物は生存していない。屍怨は人間しか食べない。だから動植物は依然、生命活動を続行している。
さて、この地球はどうなるのだろうか。
人間は一人残らず屍怨となった。
そして屍怨の食糧は存在しなくなった。
屍怨は飢えを一年、耐えられるという。つまり、今がその時。
屍怨は飢餓するのだ。
獲物を全て食い散らかしてしまったが為、無慈悲に死んでいくしかない。この一年間なんとか他の胃に合わない物体を口に入れ、飢えを少しでも晴らそうと思ったが、ついには不可能だった。
彼らも人間と同様、死んでしまうのだ。
そして、一匹残らず、屍怨は絶滅した。
地球にはもう何も残されていなかった。
しかし例外はあった。
丁度、屍怨が出現する前、NASAは宇宙飛行士を招集し、ロケットを宇宙に飛ばしていた。
計、三人、そこに居た。
これが人類の生き残りだった。
長編にするかもです