お前が人にあいされますように
そう呟きながら、私の頭を撫でた人の顔は思い出せない。
母と呼ぶには、ずいぶん希薄な繋がりの人だった。
片手で数えられる程しか会うことはなかったが、笑うことも泣くこともせず、口をいつもきつく、一文字にひき結んでいた。
だからだろうか、私の記憶中の彼女の顔上半分はすりガラスを通したように靄がかっているのだ。
自尊心の固まりみたいな人で、体が弱くとも気は驚くほど強く。
あの人は勝ち気な女性だったが、父は気が強い女をあまり好かなかったので、両親の折り合いは悪かったように思う。最後には妾にまで立場を追われた女の末路は酷く哀れで、私に根深い恐怖を植え付けた。
ああは、なりたくないものだ。幼子心に抱いたのは同情だったろうか。
『坊っちゃん、信じられないかも知れませんがね、昔は、それはもう愛し合われていたのですよ。』
懐かしむように目を伏せた乳母の言葉は、私の目には真実とは程遠いものに映った。
家中の者に憎まれ口を叩き、家中の者から陰口を囁かれて。
それでもあの家から逃げ出さなかったのは、あの人の最後の意地だったのか、帰るところすらなかったか。……それとも父を少なからず愛していたのだろうか。
あの家の中で、どれだけ生きづらかったかは想像できない。
ただ、いつまでも頭にこびりついて離れない情景があるのだ。
……あの人が儚くなるすこし前、私の頭を撫で、たった一言呟いたあの言葉。
表情のない母が唯一みせた感情。
私の顔に落ちてきた一粒の雫。
おそらくあれは、涙だった。