モノクロムーン
ゆるゆるSF企画2参加作品
宵空には蒼く大きな月。その姿を映す目の前の湖も森も、すべてが繊細な蒼い陰影に浮き上がっている。
耳には微かなせせらぎが響く。と、唸りが遠くから木々の葉擦れとなって近づき、たちまち湖を渡る一陣の風となった。
湖面の月影は細かく乱れ煌めいて、波が彼方から幾重にも岸辺に打ち寄せる。蒼光がにわかに強くなり、その招くような動きにつられて汀に近づいた。
つま先を水が洗う。と、すぐ目の前の水面が盛り上がり、白銀に輝く人影が立ち現れた。
水妖――長い髪から光の粒がしたたり落ち、透ける白い肌に月影が滑る。深蒼の瞳がこちらを向き、頬に柔らかな微笑みを浮かべると、片腕がすっと誘うように上げられた。
気づけば足はすでに水の中にある。光の煌めきは暖かく、まとわりつく感触も愛撫のように心地よい。相手の差し出す白い掌へ、こちらも腕を伸ばす。
その指先が触れ――
「ひいいあああ!」
甲高い悲鳴が響いて、それまでの蒼い世界が爆散霧消した。
弾かれたように飛び起きたタケルは、顔面のヒーリンググラスをむしり取り、勢いそのまま悲鳴元のバスルームへすっとんでいった。
「トゥウィンさん、いかがされました?」
「き、君! お湯が突然水に、に、へ、へっくしょん、こ、これがこの銀河最高の芸術家に対する扱いなの、の、の……あへ」
へっくしょいと連発したユル・トゥウィン氏の白い巨体に、タケルは急いでバスローブをかけ居間へと誘った。強めた暖房の風でカーテンが揺らぎ、その窓越しには蒼い大きな月がのぞいている。
ここはBL‐801恒星系、OT9惑星、第14衛星。つまり夜空の月は、この星の主星にあたる。巨大なガス惑星のスペクトルの関係で蒼い光のみが降り注ぎ、遅い自転で夜が長い。
「トゥウィンさん、ホットワインを。ええ、合成じゃありません」
タケルの渡したワインをすすり、深く息をついたトゥウィン氏は眉を寄せた。
「ポンコツシャワーにプラスティックカップとは、ずいぶん話が違うな」
「すみません。まだ駐在用カプセル住居で、おいおいグレードアップします」
タケルはさきほど投げ出したヒーリンググラスを拾い上げた。
「トゥウィンさんの『モノクロムーン』を拝見しましたが、さすがヒーリングアートの最高峰ですね」
「そうかね、ふふん」
久しぶりの賛辞に、氏の頬肉に埋もれた鼻孔がぴくぴく動いた。
昨今流行のヒーリングアートは脳内イメージを五感にいたるまで作り込み、再生機のヒーリンググラスを通して人々にカタルシスを与える。その中でも十数年前のユル・トゥウィン作『モノクロムーン』は、爆発的な人気を博し、特に十代の美少年作者は女性達を熱狂させた。コンサートではヒーリングにも関わらず、失神者が続出したほどである。
しかし早熟の天才も、今はまるで鳴かず飛ばず。そこへタケルの勤める観光開発会社が目をつけた。先頃開発権を得たこの辺境の地を、彼の新作とともに売り出そうという按配である。もちろん格安で。
「どうです。ここは、まさに『モノクロムーン』の世界でしょう。あのイメージで、ぜひもう一作」
室内の照明を落としカーテンを開ければ、静かに水をたたえる湖、奥深く続く森、汀に寄せる微かな波と、かの蒼い世界ばりの風景が広がっている。が、トゥウィン氏は軽く鼻を鳴らした。
「これだけじゃ陰気なだけさ。君だってわかっているだろう、あれのどこが受けたのか」
そう『モノクロムーン』は、湖の水妖による陶酔が人々を虜にしたのだ。それは画一的なカタルシスでなく、個々人ごと対応する点が天才の天才たる感性と技術なのである。トゥウィン氏は体を揺らして窓辺に近づき、外の景色を一望した。
「静かな世界なぞ、じき飽きる。これだけ条件のそろった星に何か――」
そこで息をのみ身を乗り出す。
「なんだ、アレは」
トゥウィン氏と同じ湖へ視線を向けたタケルは、素早くカーテンを閉めるとライトを点けた。もちろん客人は憤怒の形相だ。
「なにをする! 湖面に何か白い影が動いていたぞ!」
「いえ、何もいません。きっとお疲れで、波を何かと見間違えたのでしょう」
しらを切られて、怒りに開きかけた口が途中でニヤリと歪んだ。
「禁忌か。知れてはまずい秘密があるんだな」
「まさか。ここは銀河連邦お墨付きの安全な星です。長旅でしたし、今夜はもうお休みなさった方が」
肩をすくめてタケルが促すと、トゥウェン氏は存外素直に寝室の二つ並べた簡易ベッドへ身を横たえた。往年の美少年の痩身は、今や何をするにも倍のスペースが必要なのだ。
本社あて定期報告の打つ手を止めて、タケルはそっと窓の外をうかがった。この星の長い夜も終わりに近づいているが、『月』が沈むにはしばらくの間がある。
「まだ出ないはずなんだが」
辺境とはいえ、テラフォーミングが全く必要ないこの星の開発権が異様に安かったのは、実はワケあり物件だからだ。それでも工夫次第でペイできるとタケルの会社は踏んだが、早くもアレが出てくるとは大問題だ。しかも氏のイメージを壊さないため、口外を難く禁じられている。現場がマニュアル通りでないのは今に始まったことではないが、とりあえず本社の指示要請を打ち込んで送信した。
恋人のミニ映像にキスを送り、再び窓外を見やったとたん、タケルは目を剥いた。駐在カプセルから湖へつづく草地の上を、蒼白く丸い塊がよちよちと動いている。言わずと知れたユル・トゥウィン氏の巨体だ。数メートル歩くにも息切れする身で、まさか戸外へ出るなど思いも寄らず、タケルは急いで防護スーツを着込んだ。
外へ飛び出せば月の光がすべてを蒼一色に染め、スーツのオレンジ色も色相を失っている。
「トゥウィンさん! 戻ってください!」
牛歩ながら氏はすでに汀にたどり着き、周囲を見回していた。湖は静かで丸々とした月を映している様は、まるでトゥウィン氏が二人いるようだ。いや、空の本体を加えれば三人か、と懸命に走るタケルが思った瞬間、その水面に波紋がたった。
水音とともに、ほっそりとした青白い少女が現れる。
水妖。実はこの星はまさに『モノクロムーン』そのものなのだ。ただ――
しばし立ちすくんだトゥウィン氏だが、たちまち引き寄せられるように、ふらふらと湖の中へ足を踏み出した。
「行っちゃだめです! ここはヒーリングの世界じゃありません!」
タケルの叫びに、振り返った白い丸顔が悲しく微笑んだ。
「僕はねえ、君。わかってるんだ。自分がどうなってるか」
脂肪にだぶつく腹を情けなくなでる。
「創作力もとうに枯れて、生きている意味はどこにある? 死に場所として、これ以上はないよ」
「いえ、死に場所なんて! ここは」
スーツの重さにあえぎながら、タケルは懸命に腕を伸ばしたが、その指先は数寸でトゥウィン氏の上着をかすり、勢い余って水中に倒れた。生ぬるい中もがいて顔を上げると、いつの間に増えたか水妖達が氏を取り囲み、どんどん沖へと遠ざかっていく。
「トゥウィンさん!」
タケルの呼び声が、虚しく蒼い月空の下に残った。
数十時間後に着いた探査用のVTOLに乗り込み、タケルは沈む月とは反対方向へ飛び立った。目指すはこの星の昼の部分であり、水妖の活動地域だ。彼らは自分達に近づく生命体に対し、強い保護本能を発揮させる。これは危険な生物が他にいないとの証左でもあって、ユル・トゥウィン氏の身はひとまず安全というのが本社の見解であるが。
眼下に広がる蒼い森をいくつかの河が走り、その果ての空がそれまでにない明るい青に変わっていく。と思う間に薄明が白く輝きだし、太陽が望むとともに光景が一変した。
あたり一面に乱れとぶ鮮やかな原色。森林も草原も岩場も、赤青緑紫黄色と補色同士が対になっているという派手さだ。静かな蒼いモノトーンに慣れた目が、強い太陽光線の直撃もあいまって、強烈なめまいに襲われる。あわてて色彩調節ゴーグルで身を守るが、意識されないレベルの波長でじわじわと脳内に浸食してくる。一説によるとこの環境で百時間を超えると、脳に異常を来すという。
まさに、これがこの星のワケありの内容だった。そしてユル・トゥウィン氏の生還は、地球時間で一ヶ月を経た後となったのだ。
建設されたばかりの軌道エレベーター発着駅の喫茶室で、タケルはコーヒーをすすっていた。ひっきりなしに行き来する観光客は、生還したユル・トゥエン氏によるヒーリングアートの大ヒットによるもので、本社の目論見は見事にあたった(かなりの計画変更があったが)。
「やあ、君はあの時の、ええと」
黄色い女性の歓声を引き連れて、偉丈夫な美青年が太陽のような笑顔で近づいてきた。
「すまん、名前を失念してしまったが、その節は本当に世話になった」
「いえ、わざわざ声をかけてくださっただけで恐縮です。これからコンサートですか」
「ああ、まさかこんなになるとはね」
美青年――カムバックを果たし、いまや全銀河の注目を浴びるユル・トゥウィン氏は、蒼い瞳でにっこり微笑んだ。
原色の世界での一ヶ月は、彼に新しい精気を呼び起こしたのだ。数十時間においては負担を強いる強烈な色彩は、いったん慣れると素晴らしいインスピレーションをもたらすと、その後の研究で明らかになった。もちろん、いきなりは危険なので、蒼い夜との行き来で徐々に慣らすメンタルヒーリングの聖地として、この星も有名になった。
捜索中は本社からさんざんの叱責をうけたタケルも、先日ボーナスとして長期休暇を与えられ、おかげで恋人との結婚へこぎつけた。
「妻も大ファンなんです。がんばってください」
「ありがとう」
軽く手を振り踵を返したユル・トゥウィン氏が、再びファンの人垣へ戻っていく。水妖の保護があっても、戻るまでの一ヶ月はサバイバルに近かったその後ろ姿には、もはやだぶついた脂肪のかけらもなかった。
お読みくださいましてありがとうございました。
某所のテーマ「いろ」で考えたものですが、字数が大幅に増えてしまい反省しています。