醜態
「シグ…君……」
店から出て、数十メートル行ったところで、俺はサキちゃんの手を考え無しで掴んでいた。2〜3メートル前に居る男を睨みつけながら。
俺は何をしたいんだ?
ワインのせいかもしれない、頭がまともに働かない。掴んだサキちゃんの手が温かい。
「な… 」
男は気付いている。俺が由美ちゃんとの時に喫茶店に現れた奴ーーー由美ちゃんの彼氏だと、泳いでいる視線がそう言っている。
「由美の次はサキか? 女房子供もいるのに、ずいぶんと若い子がお好きなようで」
そう言いながらも頭の隅では、「よせ、そんなこと言ってどうなる」と、冷静な声も聞こえた。
「きっ、君は何を言ってるんだ……ご…ごかいだ。ひ、人違いをしてる…」
「今更とぼけんなよな。あん時は、そっちから俺を呼び出しといて、あれはねぇぇだろ。何時間待ったと思ってんだ。あんたのそのツラ、忘れる訳ねぇだろ」
「いや…あれは…あの時は……ちっ、違うんだ、聞いてくれ。誤解なんだ」
すぐ隣に居るサキちゃんの顔を、どうしても見ることが出来ない。
この男の顔を見ながら、どうしようも無い戯言を聞かされているうちに、喫茶店の時の怒りがまざまざと蘇ってくる。
男はまだ何かを言っているようだ。今だに俺を堅気の人間ではないと思っているのか、両手を前に突き出すようにしながら喋り続けている。
俺はこいつを殴るのか?
腹が立つ。この手の男が死ぬほど嫌いだって事が、今ハッキリと分かった。
「暴力はやめてくれ。 けっ、警察を呼ぶからな」
そんな男の声を聞きながらも、ずっと視線を感じていた。痛いくらいに。
見ないでくれよ。
もう、サキちゃんの前に現れたりしないから。困らせたりしないから、俺をもう見るな。ちきしょう、なんでこんな遅い時間まで繁華街に居るんだよ。帰れよ。早く家に帰れ。付き合ってる人がいるって言ってたよな。それって、まさかこいつなのか。こんな奴に抱かれているのか。
いろんな思いが、次々と頭に浮かぶ。
目の前の名前も知らん男、お前は誰だ、誰なんだ。とっとと俺の前から消えろ。なんでいつまでもグチャグチャくっちゃべってんだ。サキちゃんもなんで俺を見る? もう勘弁してくれ。あんたに見られてたら痛いんだ。苦しいんだって。
まだサキちゃんの手を掴んだままだった。どうしたらいいのか分からず、そうっと、ゆっくりと、躊躇いながら離したその手は、俺の気持ちを代弁するように、ズボンのポケットへと逃げて行く。
もういいや。どうでもいい。
俺は、なぜだか急に冷めた。なにを熱くなっていたのか笑えるくらいに。
帰ろう。きっとベロが待ってる。
目の前で怯えた顔で突っ立っている男。そいつから視線を逸らした。それでも、サキちゃんの顔を見ることが出来ずに、サキちゃんの足下に視線を動かしていた。
視界の端に、俺の手に掴まれたままのサキちゃんの左手が、ポツンと見えた。なぜだかハッとして思わず視線を上げると、そこには、じっと俺を見ているサキちゃんの大きな目。真っ赤で、今にも大粒の涙が零れ落ちそうな目。
どうして?
俺か。
俺のせいなんだな。
「わ…悪い。よけいなこと言ったり…ごめん。その人、彼氏なんだね。あ…謝っといて。俺、行くわ」
サキちゃんの口元が何かを言い掛けるように動いたのだが、男の言葉で遮られた。
「とんだ迷惑な話だ! だから人違いだって言ったんだ!……… ま〜いいけど…分かったんだったら……もう俺の前に現れないでほしい。サキ、行くぞ」
俺は最後まで聞いていなかった。二人に背を向け、停まっていたタクシーに近寄って行った。
「なんで返事くれないの! どうしてなの!」
ああ、やっぱりアイツがサキちゃんの彼氏なのか。痴話喧嘩なんて聞きたくねぇよ。
タクシーのドワが開き、俺はポケットに手を突っ込んだまま、滑り込むように乗り込んだ。
「どちらまで?」
ベロの待つ、家の住所を告げていた。動き出したタクシーの中、叫びたくなった。
バカだ、バカだ、俺は大バカだ。恥ずかしくて酔いが冷める。
人が誰と付き合おうが、俺には関係ないはずだ。それを、わざわざ店から追いかけて行って、いったい何をするつもりだったのか。いいかげんにしろ。余計なお世話だろ。
タクシーはUターンをした。さっきまで俺が居た場所が窓の外に見える。
金曜の繁華街。日が良いのか、結婚式の引き出物を持ったような人が目立つ。そう言えば、サキちゃんとアイツも持っていたような気がする。
俺はスピードを上げるタクシーの中で、視線を前に向けた。歩道にいる大勢の人の中には、きっとサキちゃんがいる。目を向けることができない俺はヘタレだ。どうしようもない意気地無し。
携帯が鳴った。見ると奈緒の名前が表示されている。
「ちょっとシグマ、いったいなんなの? 私、ふられたってこと?」
「いや……悪い。俺……」
「え?……シグマ、大丈夫?」
「うん …」
「今どこ? タクシーの中なの? どこに向ってるの? 家? 住所教えて」
「ごめんな…ちょっと一人になりたくて」
「シグマ……何かあったの? 様子へんだよ。さっきの二人連れ………いったいどうしちゃったの? 私、そっちに行くから、住所は?」
「うん、いい。大丈夫だから気にしないで。たまにあるんだよな。……見られたくない」
「そっか……分かった。セックスはまた今度だね。おやすみシグマ」
俺は携帯を切り、待ち受け画面に視線を向けると、10件以上の着信ありの表示に初めて気がついた。最近、マナーにしっぱなしだ。
履歴を開くと、太郎、伸二、静香、ミクの名前が何度も表示されており、元カノのメグミの名前まであった。
いいや、放っておこう。
すると、また携帯が鳴り、見るとミクからだった。こいつの声を聞けば、少しは気分も晴れるかと思い、出てみた。
「ミクだよ〜〜ん。シグまだ立ってる〜?」
「お前ね〜、メグミに見られてたんだからな」
「うっそ〜〜、アタチがサワサワちてるとこも?」
「ああ」
「立ってんのバレた?」
「あのね…」
「キャハハハハ。ねぇねぇねぇ、テレホンHしようよ」
「なっ…… お前スケベだね〜。今、タクシーに乗ってんの。出来るわけないだろ」
「え〜〜〜、 ならしゃ〜、ひとりぼっちでしゅる。シグ聞きたい?」
確かにミクと喋っていると気が紛れた。あまりにもバカ話し過ぎて。
いつの間にか夢を見ていた。ミクの変な声と、泣き出しそうなサキちゃんの姿がごっちゃになった、おかしな夢の中に俺はいた。
「お客さん、起きてください。お客さん。傍まで来ましたよ。ここから、どう行けば?」
「……ん? え…あれ? ここどこ?」
運転手に起こされたのだが、方向感覚が無い。辺りを見渡しても、なんだかハッキリしない。
「悪い、ちょっと停まって。頭、ボーっとしちゃって」
ようやっと分かってきた。確かに俺の家の近くのようだ。ここら辺は入りくんでいて、目印になるような店も無い住宅街なのだ。以前も飲んだ帰りにタクシーで寝てしまい、全然違う方向に誘導したことがあった。
今回は上手く誘導できました。
タクシーを降り、家の鍵穴に鍵を入れようとするのだが、酔ってるせいでモタモタしている俺。ベロが「早く開けろ」と騒いでいた。
やっと開いた。
「ベロ〜〜、ただいまだ〜」
勢い良く飛びつかれたせいで、倒れ込んでしまった俺の上に乗っかって、盛んにペロペロやってるベロ。
「痛てて……オシッコは?」
そう聞いた途端、パッと俺の身体から飛び降りると、電柱に一直線に走って行って片足を上げていた。
「シャワー浴びてくるから、ベロ先に寝てて」
家に入り、歩きながら着ていた衣類を脱ぎ散らかす俺。風呂場の前まで来ると、ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンっと、チャイムが壊れるほどに連打された。
「なんだ〜?? 誰よ…夜中だぞ。ふざけやがって……」
酔った頭じゃ、チャイムの鳴らし方に怒りが含まっていようが、夜中の12時過ぎの訪問客であろうが関係ない。そのまま全部脱いで風呂場に入って行きました。
シャワーを捻るとチャイムの音も聞こえなくなり、そのうち訪問客があったことすら忘れた。
どうしようかな、身体洗うの面倒になってきた。
余計に酔いが回り、ヨロヨロしながら風呂場から出ると、バスタオルを掴んで居間へと歩いてゆく。身体を拭くのすら億劫だ。早いとこベットに倒れこみたい。
今日は飲み方が悪かった。
空きっ腹にウィスキーをロックで数杯飲んだ後、ワインをけっこう飲んだ。あのイタリアンの店、ワイングラスがちょっと大きかったような。
やばい、目が回り始めた。
「ん………?」
居間に誰かがいた。
目が合っているのだが、思考がついていかない。
「シグ君!」
「あれ……サキちゃん?」
「どうして行っちゃったの!」
「へ…???」
「何度も何度も呼んだでしょ!」
「は…い〜?」
「手紙だって、なんで返事くれないの!」
「アハハハ……」
「シグマ!! 笑って誤魔化さないで!!」
「サ〜キちゃーーーん」
「ちょっ……あっああああああ!! シグマ、重い、重いって……」
酷く酔った俺は、サキちゃんがなぜそこに居るのかも良く分からないままーーーっと言うより、何の疑問も感じないまま抱き付いていた。素っ裸で。
二人で倒れ込み、そにまま俺は意識を無くしたらしい。
遠くでベロの吠える声が聞こえた。




