チーズ味のくちづけ
店に入ると、カウンターの端に座っている奈緒が見えた。ちょっと照れ臭そうな顔で、小さく俺に手を振った。
イタリアン系のレストラン。アルコールも置いているせいで、かなり遅い時間までやってい店。
昼時や晩飯の時間帯は、学生やらOLで混んでいるのだが、その時間帯を外れると案外閑散としている。何組かのカップルと、数組のOLグループがボックスに居るだけだった。それでもそこそこの人数なのだろうが、フロアーが広いせいか妙に空いて感じられる。
一人の客は奈緒だけだった。そんなこともあってか、俺が入って来たのを見て、ホッとしたような素振りも感じられた。
近寄って行くと、ボックスに行こうと奈緒が言う。
アルコールを飲みながら一人でボックスに座るのは、どうやら嫌なのだろう。奥から二つ目のボックスに座り直し、俺がそれを聞くと、
「そもそも、女の子が一人でお酒飲みに行くと思う? 待ち合わせでしょ」
「ボックスで待ってれば?」
「絶対に来る相手なら、それも有りだろうけど、来るか来ないかハッキリしない相手なら、カウンターでしょ」
「へ〜、いろいろと考えてんな」
ちょうど店の人が、俺の注文を聞きに来た。
「奈緒、なに飲んでる?」
「最初は白」
「なら、俺も同じでいいよ。ところで腹減ったわ。ピザ食うけど、奈緒も一緒にどう?」
「そうだね。さっきの会場、あんまり美味しくなかったから、ほとんど食べなかったしね」
「なら、大き目のピザ一枚。…え? 種類? 上にゴチャゴチャ乗ってるのは好きじゃないな。とにかくチーズがドッツリってヤツ。奈緒もそれでいいだろ?」
「ああ、シグマにまかせるよ」
暫くはとりとめの無い会話。
改めて二人になってみると、数年ぶりの再開にぎこちなさが表に出ていた。クラス会の会場では、大勢の中でもあって、テンションが上がっていたのだろう。
奈緒と目が合うと、困った顔で僅かに笑い、白ワインを流し込んで恥ずかしさを誤魔化している。
俺のワインも二杯目となり、奈緒のワインが赤に変わった頃には、酔いも手伝い距離が近くなっていた。
「ん! このピザいけるぜ」
「私にも頂戴」
そう言うと、テーブルの向う側から身を乗り出し、俺が咥えていたピザの端っこに食らいつく。
両端から二人でモグモグやって、あれ、このままだったらどうなるんだろう…などと何となく考えながらも、俺はピザを離さなかった。
チーズまみれの奈緒の唇は、美味しくて柔らかだった。
下に零さないようにと、ゆっくり離れた二人の口から、ツーっと溶けたチーズの糸が伸びる。
「あははは、シグマとの初キッス、チーズ味。ところでさ、さっきの会場で、私、恭子にキツイ事言って出てきちゃったじゃない。あれからどうなった?」
奈緒は昔からそういうところがある。ギリギリで会話をコントロールする。
俺も、そんな奈緒の身のこなしに、あえて乗っていた。
「場が凍りついた」
「やっぱり! ハハハハハ、シグマ、感謝しなさいよ。あんたってさ、女の企みに鈍いよ」
「企み?」
「恭子、シグマを食べる気だったはず」
確か、恭子と言う女子は、夏場は陸上、冬季はスケートだったように記憶している。放課後、もくもくと走り込みをやってる姿を随分と見かけたこともあって、俺は、あの女子の顔を憶えていた。色恋とは、どうしても結びつかないタイプに思えていた。
「それは、考え過ぎだろ」
「そうだろうと思った」
「……どう言う意味?」
今度は奈緒がピザを咥えて、俺に向かって顔を突き出している。食らいついてやろうとすると、ヒョイと逃げて、一人でモグモグしながらワインで流し込んでいる。
二人のグラスが空になった。
カウンターお姉さんを見ると、すぐに俺の視線に気づいてくれた。軽くグラスを持ち上げ、指を二本立てると、意図を理解したようで、大きく頷いている。
「恭子って、シグマが思ってるような女じゃないってこと」
「陸上とかスケートやってたろ」
「ほんとシグマって、全然周りを見てないんだね。あの子、高校の時からヤリマンだよ」
「え……」
「あんた、ずっとメグミにガードされてたからだね。ちょっと知らな過ぎ。恭子が言ってたでしょ、後ろからシグマに突っつかれたって」
「ああ、言ってたな」
「気が付かなかった? それ聞いて、みんな固まっちゃったの」
「ああ、固まってたな」
「シグマともヤッたんだって驚いたからでしょ」
「まじ?」
「そう、マジ。あれはリカが調子に乗り過ぎ。酔っ払っちゃって恭子に振ったのが間違い」
「けっこういい選手だって噂聞いてたけど…」
「それって中学までじゃないの。高校に入ってからは男に走っちゃって、マジで男無しじゃダメみたいよ。悪いけど、そばに寄りたくないくらい嫌いなんだよね」
それから高校時代の思い出話になったのだが、奈緒が呆れるほど、俺は周りを見ていなかったらしい。
「ところでさ、結婚したって聞いて死ぬほど驚いたんだけど、別れたってマジ?」
「ああ、別れた」
「へ〜、わけ聞いていい?」
「別にかまわないけど、上手く説明できるかな…」
すみれと別れた理由を、誰かに説明したことは無かった。
きっと理解されないと思っていたこともあったが、もしかすると、俺自身、整理がついていなかったのかもしれない。
俺は奈緒に、「父親の凄さってわかる?」と聞いたが、漠然としすぎた問いに、答えに窮しているようだ。
元嫁のすみれは、姉貴の同級生で幼馴染。小さい時に母親を亡くし、お父さんが再婚して異母兄弟の弟がいる。
どうしても馴染めなかったのだ。新しい母親に。それと、小学の3〜4年生だったすみれは、おそらく早熟だったのだろう。父親と新しいお母さんとの間に、性の匂いを嗅いだのだと思う。
毎日のように、姉貴のところに遊びに来ては泊まることもしょっちゅうだった。
俺の目から見ても、すみれの父親は、娘より新しい家族を選んだのだと思う。とにかく家に居場所が無かったのが、高校を卒業するまでのすみれだった。かたくなな性格の、すみれの方にも原因があったのかもしれない。
「いくつ上だったの?」
「俺より4つ上。俺たちが中3になった時、高校卒業してる」
「いつから付き合ってた?」
「3年の卒業まじかの時に、俺、入院したの知らいないか?」
「え…そうだっけ」
「鎖骨折って入院。だけど4日くらいで出て来たから、知ってる奴少ないかもね」
「知らない…何やったの?」
「他校生に喧嘩売られたから買っただけ。ただ、相手が3人んもいたもんで、ちょびっとダメージが残ったんだよね」
「ボコボコにやられたの?」
「いや、二人をボコってる隙に、後ろからやられたの。もう、俺も動けんかったけど、向こうが逃げてってくれたから、俺の勝ち。ひっひっひ」
「…なにやってんの。まるでガキだね」
「それでさ、入院している病院に、すみれが新米看護師として勤務してきたの」
「看護婦さんなんだ」
「そう。四年制の看護大学卒業したての新人看護師だった」
「へ〜、骨折しても下半身だけは元気だったってことか」
「あはははは……そう言っちまうと身も蓋もないだろ。ちゃんと出会いと接近があって、ロマンチックな夜を向かえて…」
「っで、やっちゃたんでしょ」
「まぁ、そうだな」
「ところで、最初に言ってた父親の凄さって、なに?」
別の町の大学に行った俺。休みの日は必ず戻ってすみれのアパートに泊まり、すみれが休みの時は俺のアパートに泊まっていった。
俺は親父とお袋に言った。結婚したいと。
今考えるとただのバカだ。生活力もない学生のくせに一人前の口利いて、19のガキが嫁を持ちたいと言ってるのだから笑える。
もちろん大反対。しまいには親父にぶん殴られた。学生の分際で頭冷やせって。
ハタチの誕生日に、勝手に籍入れちゃったんだよな。それにはすみれも反対してたけど、意地になってたんだと思う。
一緒になって初めて気がついた。俺ってヒモじゃん。
親父とは喧嘩別れのままなのだが、大学にの金は出し続けてくれた。ただ、生活費とかアパート代は自分で稼ぐつもりが、結局はすみれの援助で、どうにかこうにか。
「カッコつけたクセに、なっさけねぇだろ」
「あ〜、シグマには無理だろうね」
「そう。それで休学してアパートも引き払って、今の生活」
すみれとの一緒の生活。一応は新婚生活。
俺はずっと意識していたのだと思う。自分の生活力の無い不甲斐なさを。
それと、すみれが欲しがっていたモノを、何としても与えたくって背伸びをしていた。痛々しいほどに。
暖かい家庭。自分を待っていてくれる家族。守ってくれる存在。
「父親って凄いって…初めて分かった」
「あ〜、シグマの言いたいこと、分かった気がする」
「互いに自然体じゃないんだよな。いや…それも俺の思い過ごしだったのかもしれない」
俺には見えていると勝手に思っていた。なにも言わないすみれは、実は言えないのだと。
俺の説明が分かり難いのだろう。聞いていた奈緒は眉を寄せて首を傾げている。
「どういう意味?」
「彼女が求めていたのは家庭なんだよな。子供の頃からずっと憧れて憧れて…ただの何の変哲もない普通の家庭。片親だろうが、血が繋がっていない他人だろうが、とにかく受け入れてくれて、甘えることができる存在」
「うん…」
「俺が無理して背伸びしまくって……彼女にしてみたらさ、それってけっこうキツイよなって、俺、思っちまったんだよな」
「シグマ……あんたそれって…しっかり話し合ったこと無かったんじゃないの?」
「ああ」
「バカだね〜」
すみれは子供の時から、飲み込む性格だった。こうして欲しい、それはやめて欲しいと口に出す事をしない。いや、いつの間にか、それが習慣づいていたのだろう。必死に身に付けた生きる術だったのかもしれない。
「突っ張ってるクセに甲斐性も無くって、彼女の求めているモノを造る事が出来ていないって思いながら彼女を抱いた。…憑かれたようにね」
「それって…」
「自己嫌悪と、もっと背伸びの悪循環」
何よりも俺を悩ませたのは、彼女がこう思っていると感じた事だ。
ーー自分のせいで、シグマが無理をしてる。まだ全然若いのに、いらない苦労を背負い込んでいる。
「シグマ、別れた奥さん、そう言ったの?」
「いや…」
「あんたが勝手にそう思われてるって感じただけでしょ。シグマらしくないんじゃない?」
「ああ、俺らしくねぇぇんだよな」
「あ…」
勘がいい奈緒は分かったようだ。
「そうだね。とっかかりはどうであれ、どんどんシグマらしく無くなっていくの、別れた奥さんも気づいてたはずだね」
「ある日、すみれが、別れましょうってボソっと…」
「でも…」
「あれは不思議だった。互いにそれ以上なにも言わないんだけど、相手が何を考えているかが伝わった。ある意味、すげぇ理解し合えた瞬間だな」
「どう言うこと?」
「彼女が思っていたのは、このまま一緒にいたら、俺が酷く傷つくってこと。俺が考えたのは、その逆。俺と一緒にいたら、彼女が疲れ果てて傷つくってこと」
「それが、言葉にしなくても互いに分かったってこと?」
「ああ、分かった」
しばらくの間、奈緒も俺も口を開かなかった。
俺はタバコを吸った。すると奈緒の手が伸び、そのタバコを吸いながらーー
「ねぇ、シグマの初体験ってメグミでしょ」
「あ、ああ」
「次が別れた奥さん?」
「そうだけど、いったい何?」
「私とセックスしよ」
「な……なに…」
「据え膳食わぬは男の恥だよ。借りも返してもらわなきゃね。安心して、私、大学に彼氏いるし、卒業後も、きっと帰えってこないから」
ちょうどその時、俺の後ろのボックスで人の立ち上がる音が聞こえた。
あれ、奥のボックスに誰か居たんだ。ずいぶんと静かだったな。
奈緒も、自分が言ったことを聞かれたかもしれないと思ったのだろう、思わずペロッと舌を出している。
中年の男が俺の横を歩いて行く。通り過ぎてから振り返った。きっと連れが居るのだろう。
目が合った。
あれ? どこかで会ったことあるな。誰だっけ?
男は直ぐに目を逸らすと、連れを待たずに店の出口の方に足早に歩いて行った。
思い出しそうで思い出せない。
出口の傍にある会計で、支払いを済ませて居る男の背中を、俺は身を乗り出すように見ていた。
後ろから人の気配を感じて振り返ると、そこには目を伏せた女の人が立っていた。
「え……サキ……ちゃん」
僅かに視線が絡んだ。
だが逃げるように行ってしまった。
「俺、大学のある街に引っ越すわ」
「ふ〜ん。さっきの人って知り合い? 目ぇ真っ赤だった。でも、相手の男って不倫だね」
奈緒の言葉で、椅子から跳ねるように立ち上がり、俺は店を飛び出していた。
思い出した。アイツだ。
由美ちゃんの元彼。嫁がいるくせに、ストーカーまがいのことをやっていた野郎だ。




