待ち人来たらず
「ご…ごめんなさい…あ…あ…すみません。ゆるして…ください…クックリーニング出し…出します」
深々と頭を下げて顔を上げない。声も震えている。
「も、もーしわけ、ごっ、ごごご… ございません。お、お、お客様、だいじょーぶでしたか!! あのぉぉ、うちの者がとんだ粗相を……」
なに? ちょっと待ってくれよ。
俺は言葉が見つからず、頭を上げない二人を、ただ、呆然と見ていた。
数時間前。
俺は出掛ける準備をしていた。
昨日の夜中に掛ってきた由美ちゃんからの電話。今更ながら悔やまれる。どうして断らなかったのか。
「シグマ……だめ?」
何と断ったら良いのかが思い付かない。
「シグマ、彼女…いる?」
「いや、いない」
「静香に聞いたんだけど、結婚してるって本当?」
「ああ、離婚した」
「私、シグマと……」
「付き合ってはいないけど、好きな人がいる」
「ぇ……ぁ…そっか…ごめん、私ったら勝手に……誤解して。いい、さっき言ったこと忘れて。そんなこと頼むのって、どうかしてた。うん、もういいの、ごめんね、変なこと言っちゃって」
「いや……頼める人って、他にいないのか?」
「うん、シグマがフリーだと思ってたから言っちゃったけど、こんなの頼める人 …いない」
どうやら、俺にも責任ありのようだ。そんなつもりは無かったのだが、由美ちゃんに気がある素振りを見せていたのだろう。それに動物園で出会った夜、俺は弱っていた。結果的ではあるが彼女に借りがある。
「いいよ、その役、引き受けるよ」
「ほんと? いいの? 迷惑じゃ…」
「気にしなくていいよ」
「私、シグマに付き合って欲しいって……ごめん…今の間違い。なんでも無い。あはは…」
バイトから帰ってきて、そんな昨夜のやり取りを思い出しながら準備をしていた。
時計を見ると7時ちょっと前。約束の9時には随分と間がある。
蕎麦を茹でよう。満腹じゃない方がいい。
ベロの六畳間にタンス類がある。そこで何を着て行こうか迷っていた。
人と会う時の服装に不思議と気を使うところがあるのだ。ジーパンにTシャツじゃダメだ。スーツにしましょ。どのスーツがいいだろう?
俺って学生さんのくせに、スーツが好きで5〜6着持っている。
身体にフィットし過ぎない余裕がある方が動き易いな。まぁ、めったな事にはならないだろうけど、いざとなったら動き難いスタイルはハンデになる。
確か足が余裕で上がるのが1着あったな。タック入ってたから腰回りにもゆとりがあるはず。
スーツの下は何を着ましょう? Yシャツにネクタイじゃ動けない。
整理ダンスの引き出しを開けると、黒のVネックのセーターが目に入った。これなら伸縮性があって全然動ける。これに決まりだ。
部屋の隅ではベロが蹲ってます。前足でーーー手かもしれないーーーパンを押さえながら。
「早いとこ食ってくれよ〜」
っと言うと、「う〜」と、返事とは思えない唸り声を出すベロ。
「あれ? その紙クズって何よ? どっから持って来た?」
蹲っているベロのお尻あたりに、クチャクチャになった紙が見える。何枚もあるようだ。ベロの腹の下からもはみ出している。近寄って手に取ろうとすると、「う〜〜、う〜〜」って。
「そんなパンなんかいらんわ! その紙だって紙。ちょっと見せろ!」
「う〜〜」
ダメだ。パンがあると欲張りな犬に変貌する。ちょうど蕎麦が茹で上がったようだ。さっさと食わねば。ベロにかまってる場合じゃない。
約束の喫茶店には、9時ちょっと前には着きコーヒーを頼んだ。俺以外、他には客のいない喫茶店。
初めて入る喫茶店だった。
妙に細長い造りだな。入り口から奥に向かって細長い。
窓際には4卓のボックスが並んでおり、壁側にはカウンターが入り口から奥まで繋がっている。
俺は1番奥のボックスに、入り口の方を向いて座った。ここなら店の全部が見渡せる。
俺は自分がため息をついているのに気が付いた。
由美ちゃんの声までが思い出される。
「例の男の人に言っちゃったの。彼氏ができたって。だから、もうしつこくしないでって言ったら、嘘だって言うの。嘘じゃないんだったら連れて来い、由美にふさわしい男か見てやるって」
俺に彼氏のふりをして、そいつと会って欲しいと言うのが由美ちゃんの頼み事なのだ。
由美ちゃん抜きで喫茶店で会いたいと、偉そうな事を言ってるらしい。それを聞いて、女房持ちが若い女に手ぇ出しといて、今更、なにもっともらしい事ほざいてんだ! と、少々カチンときたのも事実。俺の悪い癖が出ている。
9時を5分過ぎた。
遅刻かよ。人を呼び出しておいてだらしねぇぇ。
俺は人を待たせるのが嫌いだ。けっこうイライラしてきた。
他には客がいない店。マスターらしきオッさんと、お姉さん1人の喫茶店。なぜかは知らんけれど、チラチラチラチラ俺を見る。それがよけいに神経に触る。
タバコが吸いたいのに灰皿がない。禁煙か?
9時20分になった。来ねぇぇ!
男の3人連れが入って来た。チラっと俺に視線を向けると、カウンターの入口側に腰を降ろす。
あいつらの中の1人か? 俺の顔って知らないだろうな。俺は写真で1度見たけど、あいつらだったかな?
1人は帽子を目深に被ってるから、よく見えない。
声を掛けようか。いや、待てよ。呼び出されたのはこっちだ。なのに俺がそんな事やらんきゃならんってか? っざけんな!
更にイライラが増す。くっそーーーー、タバコが吸いてぇぇ。
「そこの姉さん! ここって禁煙か?」
BGMが薄っすらと流れる店内。だ〜れも喋っていないところに、俺の声が異様に響き渡っちまった。こういう時の俺って、自分がめっちゃガラ悪いのに殆んど気が付かない。
「は…はい……いえ…吸えます、タバコ。灰皿…すいません、すぐにお持ちします」
お姉さんが慌ててカウンターから飛び出してきます。灰皿持って。
クソったれが。野郎はなんで来やがらねぇぇのよ。と、俺はブツブツ言っていたのかもしれない。それも、お姉さんが灰皿を持って来る前にタバコに火をつけて。
腰が引けたような変な姿勢で、お姉さんが灰皿を置いていきます。視線を向けると、下げていた頭をちょうど上げたところだった。
目が合った。
慌てて下を向き、戻って行くお姉さん。
カウンターの端っこに座っている三人組が、なにやらコソコソ喋っている。だが、俺の方を一度も振り返りもしない。
違うのか?
9時半になった。
腕組みをして入口を睨みつけているのだが、誰かが入って来る気配すらしない。
こんだけ遅れるってのは、野郎、なめてんのか? 来やがったら、目力で睨み殺してやる。
くそ〜〜、どうしてくれる? 頼まれた以上は帰る訳にもいかねぇぇし。無性に腹が立つのだが、その怒りをぶつける相手が居ねーーーーーーー!!
三人組が立ち上がった。
おおおおお、やっぱりテメェらかーー? って見ていると、振り返りもしないで会計を始めやがった。全然違う人かよ。
「コーヒー、おかわり貰えるかい!」
またもや、静かな喫茶店に俺の怒りを含んだ声が響き渡ってます。
会計を済ませようとしてる三人組までもが、ビクっとしたのがハッキリと分かった。そして、初めて振り返って俺を見る。目が合った。
相手が見るなら俺も見る。
そそくさと、店を出て行く三人組。
何もかもがイラつく。
「はっ、はい!! コッ、コーヒーのおかわりですね!!」
お姉さんの返事も妙にデカい声。
暫くすると、新しいカップにコーヒーを入れて持ってきたお姉さん。
サービスのつもりか、見るからに入れ過ぎ。タップタップして零れそうだ。
「おまっ、おまっ…おまたを……しました…………あっ」
出た。零すかもしれないと思っていたが、おまた、おまたと、変な事を言いながら、テーブルの上にコーヒーカップを転がしちゃったよ。想像もしてなかったぜ。
不思議とカップは割れなかった。
火傷するかもとは思ったが、とにかく腹が立ち過ぎて動く気にならない。
失敗しちゃったお姉さんに、優しい言葉でもかけなきゃと頭では分かっているのだが、イラついてる時の俺ってダメだ。
腕を組んだまま、右手に持ったタバコが口元にある。そんな姿勢で視線だけをお姉さんに。目が合ってます。何か言わなきゃ…
「ごっ、ごめんなさい。あの…あの……ゆるして……」
ゆるして?
「す……すみません……クックリーニング…だっだっ…だします。ご…ごめんなさい」
マズイ。何か言わなきゃ。なんて言ったら?
「いっ、いや……」
「もっ、もーーしわけ、ごっ、ごごございません。だっ、だいじょーーぶですか!! お…お客様、うちの者が、とっ、とんだ粗相を…」
マスターらしきオッさんが飛んで来て、お姉さんと一緒に頭を下げてます。まるで俺に喋らせまいとしているみたいだ。口に出す言葉が更に見えなくなったじゃねぇかよ。
「い…いや……コーヒー……くれ」
俺っていったい何者? やっと出た台詞がコーヒーくれって…。自分でも嫌になる。
マスターは、「えっ、ぇぇえええ!!」とか、「はいーーーー??」って言いながら店の奥へと走って行く。
お姉さんは、俺の傍で突っ立ってます。両手で顔を覆うようにして。まいったね。
「…泣いてんの?」
顔を隠したまま、横に首を振るお姉さん。
「いや…あのさ〜、怒ってないから。とにかく泣かないでくれって。…………ほら、これ」
ポケットに入れてきたハンカチを渡す。受け取ったお姉さんは、ようやっと顔を見せた。バリバリ泣いてるわ。
ひぇ〜〜、とにかく何かを言わなきゃならんと、「き…君…名前は?」って。名前聞いてどうすんだよ?
お姉さんは、怯えたように視線を泳がせてます。
「…純って言います。…うっ…うっ……怒ってる…… だから名前聞いて…ほんとにごめんなさい……あたし…どうしよう……ぅぅぅぅぅ」
名前を聞いたのがよけいにマズイってか? どうしようって言ってるけど、俺が言いたいわ。どうしよう…。
「お、おおおおお客さま〜、コーヒーをお持ちしました〜〜。あのぉぉぉ、本当に申し訳ありませんでした。クリーニング代は…こちらで…」
「そんなのいいって。それより、いつまでも二人してそこに居られるのって、すげぇ面倒」
「ぇ?? ぁ……はい。そっ、そうでした。気がつきませんで…その〜、向こうにおりますので、何かをご用があれば、はい、なんなりと」
ホッとしたように、そんなことを言っているマスターの隣で、渡したハンカチで涙をぬぐいながら頭を下げるお姉さん。
ようやっと二人から解放された。放っておいてくれればいいのに。は〜〜、チラチラこっち見てるし。あれ? また来たよ。
「あの………お詫びに何かサービスさせてください」
「サ…サービス??」
純と名乗っていたお姉さんが、思いつめたような表情でそう言ってるけど、いったい何を言い出すつもりだ? と、唖然としてしまった。
「ちっ、違います! そっ、そんなサービス……あたし…急には……うっ…うっ…」
真っ赤な顔でメニューを広げている。泣きながら。もう止めてくれ。
「てっ、店長が……お願いです、ぐすん、ぐすん…何か注文してください。……あの…お詫びのアレです…しるしです。ぅぅぅぅ……変なサービスは……ムリです……すみません」
勝手に何を言ってんだか。とにかく早く済ませてほしかったのと、俺って甘い物がけっこう好き。酒飲みながらケーキが食えちゃう人なんです。
チョコレートケーキを指で示す。面倒で喋りたく無かったから無言で。
「え……あの…それはチョコのケーキで……はい…かしこまりました」
彼女の反応が何だか変だと感じたが、どうだっていい!! もう、10時すぎてるぞ! どうなってんだ、野郎が来ねーーー!!
由美ちゃんに電話した。
「もし、奴が来ねぇぇ」
「え…シグマ…だよ…ね? 来ないって、ずっと? だって、もう、10時すぎてる…ぇぇえええ? ほんと?」
「ああ」
「ご…ごめん……なさい。ちょっ、ちょっと…一旦電話切るね。すぐ連絡する」
俺はどうしたらいいんだ? もう、ここに座って1時間以上経つ。人を呼び出しといて、こんだけ待たせる神経が許せねぇわ。どんな話があろうと、どうだっていい。喋らせねぇぇぞ。
「あの…おまたせしました……ご注文は…その……チョコレートケーキで間違いなかった…ですか?」
「ああ」
タバコを吸いながらケーキを食べる俺。けっこう小さいな。二口で食っちまったよ。美味いじゃん。
奴が来ない。
由美ちゃんからの電話も来ない。
喫茶店の二人は俺の様子を盗み見ている。さっきマスターと目があったら、一瞬、仰け反るようにして、すぐにエヘラエヘラと引きつったような笑顔を向けて来た。
俺の動き、妙に見張られてるっていうか…見てるよな、あの二人。やめてくれ。イライラするし気になる。
気分を変えようと雑誌でも読もうかと思ったのだが、置いてある場所が遠い。入口付近だよ。動き難い。
時計を見ると10時45分。
怒りが頂点に達しようとしているのだが、その怒りをぶつける相手が居ない。
俺は腕を組んで目を瞑っている。目が合うのが嫌で。
入口から誰かが入って来た気配。
野郎が来たかい? やっと来たか!
目を開けると、入口からこちらに向かって歩いて来る二人の女。
由美ちゃんと静香だ。
俺と目が合ったとたん、二人は固まったように動きを止めてしまった。




