夜の動物園
「夜の動物園、よく来るんですか?」
「いいえ、初めてです。あなたは?」
「俺も初めて来ました。全然雰囲気が違って…」
「ええ、空気が…」
「なんでしょうね…人を寄せ付けないっていうか…」
見知らぬ女性と、どちらからともなく始まった会話。
改めて辺りを見渡している彼女が―――
「ええ、知らない世界に迷い込んでしまったみたい」
「そこのヒョウ、夜は凄いね」
「ええ……何だか怖い」
「あなたが、美味そうだって」
「ひっ……」
思わず後ずさっていた。
17時間くらい前
俺は眠れなかった。
どうしても色んなことが頭をよぎる。寝付くのにも時間が掛かり、更には、何度も目が覚める。
花火大会から二日が経つ。俺はバイト先を変えた。
今年の繁忙期は例年より早まり、バイト先から連絡が来たのだ。行ってみると、「今年も来てくれるんだろ」から始まり、実は3日後からの夜間作業―――18時から翌朝6時までのオペレーターが見つかっておらず、とりあえず1週間ほどの夜勤も頼みたいとの事だった。
喜んで受けた。時給が良いのもそうだが、近所に住んでいるサキちゃんと顔を合わせるのが辛くて。会えばもっと夢中になってしまうのが分かっているし、サキちゃんを困惑させる。俺はほんとうにバカだ。目にキスまでして……。今年中にフェードアウトしよう。大学のある街に引っ越そうか。
とりあえず夜間の仕事を受けていた。ちょっと条件をつけて。ベロも連れて行くことだ。なんせ田舎にある生産工業だから、けっこう何でも有りで了解してくれた。「ベロ、お前も出勤だぜ」。分かってるような顔で俺を見ている。
ん? 今何時だ…まだ暗いだろ。ベロ、何騒いでんだ? 時計を見ると3時だった。あれ…誰かいる。ベロが嬉しそうだ。
「あ~、すみれ」
「……シグマ…入れてね」
暗がりで衣服を脱ぐ衣擦れの音がする。ああ、この人って今でも何も身に着けないで寝るんだ。
ひんやりとした肌が俺に触れる。ベロが俺とは反対側―――すみれの隣に寝たのが分かった。すみれが少しづつだが口を開き、俺の意識も徐々に鮮明になる。
「シグマ、ありがとう……ごめんね。ここの合鍵、置いて行くね。あたし……シグマと出会えて幸せだった。別れた後も……結局…依存してた。シグマ……ごめんね」
泣いているのか、小刻みに震えているのが裸の胸から伝わる。ベロがそんな彼女の腕を舐めているようだ。慰めているのか。
「何かあったの?」
「うん、男の人から……交際してほしいって」
「好きなの?」
「うん…ごめんね」
「俺に遠慮する必要なんか無いよ、バカだな」
「シグマ……優しいんだもん……わかってた」
少しだけすみれが動き、身体全部を寄せてきた。
「何も言わないで。もう、優しくしないで……お願い」
「……」
「別れてから一人の部屋に帰るの……怖かった。一人は寂しすぎる。誰も待っていない。誰もあたしの事なんて……。誰かと繋がっていたかった。一人じゃないって思いたかったの。……それをシグマに求めてた。……あたしって狡い」
暫くの間、隣で泣き続けていた。ベロも彼女の傍から離れようとしない。俺は天井を見ていた。
一人じゃ生きてゆけない
誰かのためだったり
誰かを待っていたり
一緒に闘ったり
共に歩いたり
そう思っていたい
「その人と…大丈夫?」
「うん……結婚を前提として付き合ってほしいって。…きっと大丈夫」
「そっか……俺は大丈夫だから、もう、行ったらいいよ」
「シグマ、一人で……寂しくない?」
「ああ、こいつがいつも待っていてくれるから。ハハハ…」
「ああ…ベロ。シグマの事、お願いね」
すみれがベットから抜け出し服を着始める。ベロもお座りをして、そんな彼女を見上げていた。俺はベットの中だ。
「鍵……このテーブルの上に置いていくね。………ベロ」
彼女は泣きながら出て行った。ベロは不思議と追いかけようとはせずに玄関の方を黙って見ていた。
朝、6:30に起きました。いつも通りだ。ベロとのお散歩から1日のスタート。7時頃には家に戻り、トースト焼いて、目玉焼きも作りましょう。ベロとおんなじ牛乳も飲んで。
テーブルの上には、ぽつんと鍵が。
シャワーを浴びて、さーーーバイトに行きましょう!!
夕方6:30頃には帰ってきた。車庫に繋いだベロと一緒に家に入ると、鍵がテーブルの上に置いたまま。
どうする?
何なんだこの気持ち。穴が開いた……心?
そんなはずない。絶対に違う。違う…はず。俺ってこんな奴だったの?
心がザワザワする。これって何だろう? TVの砂嵐がザーザー言ってるようだ。
自分の心の中を覗くのは嫌だ。見たくない。誰かと会おうか。色んな人の顔が浮かんでは消える。
意味が分からない。すでに別れたはずのすみれ。ざわつく自分の心にイラつく。俺って、こんなに周りに影響されるのか。
ダメだ、俺には無理だ。弱いところを見せる事ができない。一人で出かけよう。
そうだ、動物園。夜の動物園って行ったことがない。夜間営業やってるって聞いたことがある。そのあとは、どっかで飯でも食って……映画! 映画でも観てこよう。
動物園に着きました。ふ~ん、夜間営業って期間限定なんだ。その割にはあまり人がいない。人気ないのかね。人気を出すための夜間営業なのかな。
一人って目立つかもしれないなどと、妙に周りを意識している俺。確かにカップルが目につく。デートスポットなのかもしれない。
草食系はあまり興味がない。確かニャンコの親分達は夜行性だったような。ライオン、ライオン、どこだ、どこだ。
「おおおお! いた、あれだ!」
ライオン君、普通に寝てます。なんで?
あれ? 女の人。一人で来てるのかな。待ち合わせ? おっ、こっち見た。変な奴だと思われたら嫌だな。視線をライオン君に戻してと…………寝るなよ。別の猫科の動物を探しましょう。
「おおお!これはそれっぽいぞ! 何がいる? なんて書いてある? 黒ヒョウ?!……黒すぎて分からん。目を凝らして……見えん」
もしかしたら、こいつも寝てるか? あっ、また会っちゃったよ。さっきの人だよ。えっ、ちょっと微笑んで会釈したか? 俺も慌てて頭を下げた。ぎこちない笑顔で。
男一人で動物園って、変かな~。意識し過ぎが? 他にも一人の男は居るには居るが、明らかに動物の生態観察が好きで好きでたまらんって感じ。俺もそう見えるのかな。べーーーつに~、どうでもいいけどよ~~。ちょいと、ここも離れましょう。
喫煙場所が見えた。そこで一服しながら物思いに耽っていた。
子供の頃、黒ニャンコ飼ってな~。夜になると妙にテンション上がって、走り回ってたよな。それに比べて、さっきのライオン君。人生に疲れた中年のサラリーマンかよ。夜の動物園は独特な雰囲気なのに、ライオン君がバリバリやる気無ぇっての。昼間が元気だとも思えない。
俺は何気なく振り向いていた。ん?……ええええええええ!! タバコ吸うの? これで3度目だよ。なんだかバツ悪いな~。なんで何回も会っちゃうの。ここって、けっこう広いぞ。いやいやいや、どうしよう~。とりあえず、タバコの火を灰皿で消しましてと。……こっち見てるか? すれ違う時は、ちょっとニッコリして軽く会釈でも。上手く笑えたか?
いや~、かなり歩いた。想像以上に広いわ。
「おっおおおお!! ヒョウだよ。このニャンコの親分は凄いわ。闇と共存してるって一目でわかる。綺麗だ。猛獣って目を奪われる気がする」
暫くの間、ヒョウに見とれていた。げっ…まただよ。
「夜の動物園、よく来るんですか?」
「いいえ、初めてです。あなたは?」
それが最初の会話だった。
「あなたが美味そうだって」
「ひっ……」
思わず後ずさっていた。
「あはははは、檻の中なんだから、食われたりしないよ」
「もう、やだ~、ビックリしちゃった…ふふふ」
「でも、あなたを見ながら舌なめずりしてるね」
「え…」
俺の後ろに跳んできた彼女。二人で暫く笑い合っていた。
「一人で…」
「おひとりで…」
二人で同じことを言い掛けていた。再び笑い合うことに。「一人で来たんです。夜の動物園がどうしても見たくて」と彼女が言い、「ああ、俺もおんなじ」と返していた。
すると、園内に音楽が。
「閉館の合図だね、きっと」
「そうですね……あの…これから…帰る…の…あ…別に…意味など…なくて…はい」
そう、口ごもった彼女は、真っ赤になって俯いてしまった。
「いや…その……どっかで飯でも……一緒に…あの…都合が……いや…変な意味じゃ…全然…かまわないです、気にしないで…ハイ」
彼女の喋り方がうつったかのように、俺もしどろもどろだ。まぁ、確かにこういうのって、かなり苦手でもある。
「はい、一緒に行きます」
彼女は家がすぐ近くのため、歩いて来たらしい。俺の車で中心街に向かってゴーーー!
「すごく家が近いんです。夜の動物園って一度は行ってみたかったのに、誰も興味が無くって。でも一人で来る勇気もなくて。今日、ガンバッて来てみたんです」
―――と、車内で明るく喋る女の子。きっと、俺と似通った年齢だと思う。
あるフード店に二人で入る事に。俺は初めて来る店だった。けっこう混んでいる。OLとか高校生が多く、よく見ると若い奥さん達の姿も見える。席に案内され、ガッツリ系を注文。彼女も。
「実はね、私、あなたの後ろを付いてったの。動物園で。最初っから。ふふふ…」
「あ~、だから4回も会ったんだ。変だな~って思った。ははははは」
「笑わないで。いざ来てみたら、暗い場所も多くて怖かったんだから」
「確かに、あまり明るくはなかったね」
「もう、あなたを見失ったらどうしようって、必死について行ったの。そしたら、ヒョウのところで、私が美味しそうで舌なめずりしてるって。ギョっとしちゃった」
「え? アハハハハハハハハハ。なんだかスッゲーー可笑しい。ハハハハハハハハハ」
「ちょっと笑い過ぎ…」
「え? ごめんごめん。でも笑える…ヒッヒッヒッヒッヒ。でもさ、俺だって見ず知らずの男じゃん。変な奴だったらどうすんの?」
「う~~ん、どうしようかな~~。最初に見かけた時にね、すぐに気付いたの」
「え…なにが?」
「あなた……シグマ君でしょ」
ちょうど注文した物が運ばれてきて会話が中断。
あれ…ヤバ…きっと同級生だよ。誰だっけ? まじまじと顔を見ても思い出せない。まだ名前って聞いてなかったよな。聞いたか?
彼女は、俺のそんな困惑をよそに、ハンバーグパスタをバクバク食べている。
「私、由美」
「由美ちゃん……」
えええええ?? 誰だ~~??
「シグマ君とは一度会ってるから。後はヒーミツ。ふふふ…」
一度?? なら高校は違うんだ。大学か? いや、大学で俺をシグマと呼ぶ奴は居ない。
「エヘヘヘ~、シグマ君いじめたら、何だか楽しい~~」
食べながら少しずつ聞き出した情報は、学年は同じで、高校はこの街だと言っているから俺とは別。卒業後もこの街で働いている。この街で生まれてこの街で育った彼女。俺との接点って……
「もう降参、気になってしゃーーないって。教えて」
「ダメ」
「ぇ…ダメって……だめなの!! ひぃぃぃ…」
「だってね、私だって一度しか会ってないのに、すぐ分かったもん。全然思い出せないのって何だか憎たらしいからダーーーーメ!」
モグモグしながら睨んでる由美ちゃん。ちょっと怖ぇって。
「ヒ…ヒント。その時ってさ、由美ちゃんも俺も一人だった?」
「えーーーとねーーーーー、シグマ君も友達一人いたよ。私もおんなじ」
「……あ…ああああああああああああああああああ」
「思い出した?!」
俺はやっと思い出した。ちょっと可愛い子だなって見ていたのも思い出した。あの時の子だ。
「JRで偶然逢った子だ」
「ピンポーーーン! でも、なんだか憎たらしいのは変わんない。遅いって」
「ぐっ……なんでシグマって知ってるの?」
「友達がそう呼んでたし、変わった呼び名でしょ」
「凄い記憶力だな。……そうだ、あの時は淳と二人でJRで遊びに行ったんだ。卒業直後の3月だ。3年前だ!!」
どんどん記憶が蘇ってきて、俺のテンションも上がってきたぜ。
「静香って知ってるでしょ。バレーやってた」
「げ……知ってる」
上がりかけたテンションが、ちょっと下がったかも。
「静香とは同じ中学だったの。別々の高校だったけど、二人ともバレー続けてたから、今でも付き合いあるの。ふふふ…」
「そうなの…」
まただ。またバレー部だ。
「っでね。シグマ君と逢った後に静香に話したの。なんだか強烈な人でさ~、シグマって変な名前で呼ばれててさ~って。そしたら、ええええええ!! って事になって、卒業アルバム見せてもらったら、アハハハハ、あーーーーーーーー、この人だーー! って、指名手配みっけって感じ。だから覚えてんの。ヘッヘッヘ」
「あ~~ははは………ところでさ、強烈ってナニ?」
「目つきがね。キツイって言うのかな…それとはちょっと違うんだけど……あれ? 今は全然だね。なんだか柔らかい目。あの時って触ったら火傷しそうな目してたのに」
「ふ~ん……そう言えば、子供のころに見たTVで、目から光線出すヤツいたな」
「光線?? アハハハハハハ、面白いんだねシグマ君って。どうして、そんな優しい目になっちゃったの?」
「いや…そんな事聞かれても…分からん」
それから妙に盛り上がって日付が変わった。映画は又の機会にしよう。
でも、とにかく彼女には感謝しなければ。自分の心の奥を覗かなくても済んだ。以前の自分に戻ることもできた。頭の中でザーザー言っていた砂嵐は、もう聞こえない。
すみれは、きっと頑張って生きてゆく。別のパートナーと一緒に。
「ベローーー、ただいまーーー! 寝る前にオシッコ行くか」
今日も一人と一匹で寝ました。




