中学校へ行こう
二人で中学校の門をくぐった。極めて気が重い。
グラウンドが見える駐車場に車を停めると、「バッチこーい、バッチこーい」と、野球部の元気な声が聞こえてきた。
学校の正面玄関。この手の玄関から入るのは初めてだ。ガラスで出来た大きな両開きの扉。そう言えば、ドラマや映画で見る学校の玄関は必ずこれだ。学校建築にはマニュアルがあるのだろうか。
扉に手を掛けたが重い…
どれだけ分厚いガラス使っているのか、とにかく無駄に重たいとしか思えない扉。風でバタンバタンするほど軽い扉が良いとは思わないが、見かけが透明なガラスなだけに、この重厚な扉は意表を突く。
―――俺がどうして…
腹がたってきた。振り向くと、俺に続いて扉を押さえている奴がニッと笑いやがった。小悪魔のような顔で。思わずその重たい扉で挟んでやった。そいつの身体を。ジタバタしながら通り抜けて来ると、顎を上げ、頬を膨らませて睨んでくる。
「あの~、なにか?」
声のする方を見ると、小窓から女の人が顔を覗かせていた。小窓の向こうが職員室のようだ。その女性は化粧も薄く随分と幼い顔をしているが、きっと先生なのだろう。
俺も身を屈める。とにかく小窓の位置が低い。この高さに意味があるのか。向こうの先生すら、けっこう腰を曲げた姿勢だ。俺は180に少し足りない身長で比較的背が高い方だが、けして巨人ではない。ガリバー旅行記でもあるまいしこれはないだろ。イラつきながらも訪問の目的を告げるーーー
「すいません…田沢先生から、校長室に来るように言われた者ですが…」
◆
自己紹介が遅れたが、俺はシグマ。勿論あだなだ。しかし、中学・高校と本名で俺を呼ぶ奴はいなかった。誰もがシグマ、又はシグと呼ぶ。あだなをシグと略して呼ぶのもどうかと思うが、それでも返事をしていた。
今は一応は大学生だが休学中。生まれ育った街とは離れた大学の為、さすがにシグマと呼ぶ奴はいないが、いざ本名で呼ばれてみるとピンとこなかった。暫く経ってから、呼んだ奴が俺の顔をじっと見ているのに気づき、あ~俺だよ俺、などと苦笑いしながら返事をしている。
3日前の木曜日
夜の11時頃、俺はDVDを観ていた。海外ドラマが好きで、最近はマッドメンに嵌っている。確かマディソンスクエアガーデンの男達という意味のはずだ。60~70年代の古き良きアメリかを舞台とした連続ドラマで、とにかく面白い。
そんな時にチャイムが。それも立て続けに3回。
こんな時間に誰だ。姉貴か?
俺にはキツイ性格の姉が1人いる。まるで母親のような姉が。ちゃんと母親は居るのだから、姉が母親代わりに俺を育てた訳では無い。だが、子供の頃に口やかましく姉に躾けられたた記憶が強く残っている。
無意識に足音を忍ばせて玄関へと向かうが無駄だった。
ベロという名前の犬と一緒に暮らしている俺。誰かが訪ねてくると、とにかく嬉しいらしく、玄関に繋がる扉を自分で飛びついて開け、外に向かってずっと吠えている。特に女性が好きらしい。確かにベロはオスだが関係あるのだろうか。
「ちょっとーーーー!シグ、居るんでしょ。相談があんの」
「あ~~、ますみさん、どうしたの?」
鍵を開けると、向こうからドワが開けられ、尻尾を千切れるほどに振るベロが飛びついてゆく。
30代の若いママさん――ますみさんは、待ってましたとばかりに中腰になってペロペロされる。「ん~~ベロちゃん、なでなで」などと言いながら。
ベロは、ひとしきり舐めると、踵を返し、居間にすっ飛んで戻る。そして玄関の方を上目使いに見ながら、バリバリバリバリバリ…とドックフードに貪りつく。
ベロの不思議な習性。嬉しいと食う。
再び、ますみさんの居る玄関へと足を――手かもしれない――コケそうに滑らせながらも飛び込んで行くベロ。
「ますみさん、とにかく中に入って」
玄関に見知った人が居る限り、この、ベロの不思議な習性が無限ループのように繰り返されてしまう。
ますみさんはベロの頭を撫ぜながら、「ごめんね~、こんな遅い時間に。ねぇベロちゃーーん」と、まったく悪びれた様子も無く入って来る。まぁ、そんな事など気にする事も無い俺は、「全然いいよ、暇だったからDVD観てたとこだしね」と言いながらも考えていた。あとで観る時は途中からか…それとも最初っから観た方がいいだろうか…と。
彼女を居間のソファーに案内すると、もう座っていた。ベロと並んで。
「DVD観てたんだ。うふふふ…H系? ベロちゃんとお散歩でもして来ようか」
そんな事を言いながら、目をキラキラさせている。年の功とでも言うのか、この人は下ネタが好きだ。綺麗な顔立ちなのに勿体ない。
「マッドメン観てたの。何を喜んでるかな~~。相変わらず満開だね」
「だってさ~、シグってバリバリ若いじゃん。ひっひっひっひいーーーっひっひっひっひ」
「あのね…いーーっひっひって……はぁ。なんか飲む? ビール、焼酎、バーボンもあるよ」
「うん、ビール貰おうかな。また晩御飯多めに作ったら持ってきちゃるね」
「あ~、ところで缶のままでいい?」
「うん、大丈夫だよ」
冷蔵庫からビールを2缶持って来る途中、ますみさんの視線に気が付いた。
「ちょいと姐さん、視線がチラチラ股間に来てますが」
「あら、ちょっと見ただけよ。あははははははははは」
妙に声がでかい。
この人、美人だしスタイルもいいし、なんかエロい。いったいどうされたいのか。「で、相談って何?」と、話題を彼女の訪問の目的に軌道修正をするが、どうせ、しょうもない相談なんだよな、きっと。以前も、この姐さんから何度も相談された事を思い出した。
1つ目。太った。ジーパンがきつい。
2つ目。職場の女性同僚の意地が悪い。
3つ目。飲み会で職場の男にケツをサワサワされた。
4つ目。娘が生意気。
5つ目。また太った。
この1つ目と5つ目が定期的にくる。他にもあったような気がするが思い出せない。大体くだらない話が多すぎだって。
「そうそう、忘れるとこだった。今週の土曜日にさ、娘の学校に行って」
「はい??」
話の内容が頭に入ってこない。
「ユイがさ~、学校で何かやらかしたみたいでさ、担任が来いって」
「担任が俺に?」
「……え?」
「いや…そりゃ〜さ~、名指しで来いって言われりゃ~……行くよ〜…うんうん」
「あ~~シグのこと呼び出す訳ないじゃん。バッカね~。父親はしょうもない男だったから別れたけど、シグが父親じゃないんだからさ。ユイは妙に懐いてるけどね」
「だよな…」
内心あせっていた。俺がユイに変な事を吹き込んで、それが担任の逆鱗に触れたのかと思い記憶を手繰っていたのだ。おおおお、ほっとしたぜ。
「んんんん? どうした、様子変だよシグ」
「いや…意味も分からず動揺しちまって……アハハハ…」
「ちょっとシグ。ユイに変なこと吹き込まないでよ。それでなくても最近マセて困ってんだからさ」
「はぁああ? やめてくれよ。中坊に俺が何を言うって。中1だろ、中2だっけ。まだ生え揃ってもないお子ちゃまだってよ。お子ちゃま、お子ちゃま」
「それがさ〜、けっこう生え揃ってんのよ。これが」
妙に小声で身を乗り出して話し始めた姐さん。思わず距離を保つように仰け反っちまった。
「がっ……いや…そんな事は…どうだって……なんで小声になるの」
そんな俺の困惑などお構いなしに続けるますみ姐さん。
「どこで覚えたんだかさ〜〜、最近、アレもしてるみたいなのよね〜」
「ぐぇっ…そっそっそんなこと俺に言うなよ。会ったときバツ悪いって」
俺も小声だ。ますみさんは天井を見上げて何かを考えているようだ。
「よく考えたらさ、私も小学の時からずっとやってたわ。キャハハハハハハ」
そんな事をわざわざ思い出そうとしていたのかと、ある意味感心したが、二人っきりの部屋でこの手の話しは気まずい。話題を変えようとしたのだが――
「ひぇぇ…そっそうっなんだ。まっますみさんって幾つだったっけ?」
「34。30過ぎても、けっこうするわ。マジで」
こういう時のリアクションって、マジっすか…ってのも変だ。どう切り返したら良いのか必死に考えたのだが、後から思うと俺はバカだった。
「あっ…あ~~、誕生日にそっち系のマッシーンでもプレゼントするよ。感想をレポートに纏めて提出して」
「ちょんだい、ちょんだい。すっごく興味あるの」
「うげ…」
ちょっとした冗談で流したつもりが、ガッツリ食いついてきた。暫くこのバカげた話が続き、どうやらそのマッシーンを俺が買うらしい。実際に買った事も無いし、幾らするんだ? 大体、誕生日って何時よ? 覚えておかなけばならいないのか。だめだ、ダイヤリーにでもメモしなければ絶対に忘れる。いや、その事自体を忘れてしまいそうだ。
カチャカチャと音が聞こえ、見るとベロが水入れの容器を前足で――手か――かっちゃいている。
ちょうど良いタイミングで話題を切ってくれたぜ。
「うん? ベロちゃんナ~ニ?」
「水が飲みたいのに入ってないから、早く入れろって催促」
俺が冷蔵庫から水を取り出し器に注いであげると、気が利かない奴め、っと言うように俺を見ながら長い舌を伸ばしては丸め、器用に水を飲み始める。
「えええ! ベロちゃんって水道水じゃないの?」
「いや、水道水だって。冷たい水じゃなきゃ嫌らしくて、冷蔵庫で冷やしてんの」
「へ~~、なんか可愛い~。ところでベロちゃんって何のミックス? シェパード入ってるっポイよね」
「どうかな~。こいつのママって、全然シェパードに似てないけどね。ベロって小さい頃は可愛い顔してたのに、今はシェパードって言うよりズルイ狼みたいだよな…身体も妙にデカいし」
今度は犬の話しが暫く続いた。
女の人って、どうしてこうも話が逸れてゆくのか。自分が何しに来たのかを忘れているのだろうか。
DVD観てぇぇ。あれ…どこまで観たんだった? ダメだ、完全に忘れた。最初っから観なきゃならん。
「ねぇ、ユイ何しでかしたの? 俺が行かんきゃならん理由って…何?」
「え……そうそうそう、それ頼みに来たんだった。うんうん」
来てから1時間は経っていたが、やっぱり忘れてたんだ。頼むぜ。
「化粧してマネキュアしてイヤリングして学校行ったらしいのよね〜」
「それって珍しいの? ザラに居るんじゃないの?」
「行ってる中学って厳しいって言うかさ〜、お利口さんばっかの学校なの。面倒だよ~~親が。ちょっと目立つ子に対して、よその親が変な噂するから」
「ふ~ん、確かにここら辺って閉鎖的かもね」
「更にさ~、ウチって母子家庭じゃん。今時、珍しくも無いのにさ。あの学校に通ってる子って、不思議と居ないんだよね。親が離婚してる子。…最悪。格好の噂の的ってヤツ。あーーーーーーーー腹たつ。色々と思い出してきた」
ますみさんは、愚痴やら積もり積もった鬱憤を延々と喋ってる。俺はひたすら相槌と頷き。
―――ひぇぇぇ、マジかよ。もう12時過ぎてるよ。DVDはダメだな。ヤバ…眠たくなってきた。ベロは…目瞑って寝てんのかよ、野郎だけで。
「―――そんでさ~、担任が親に来てほしいって言うのよ。校長室で今後の事を話し合うとかなんとか」
―――なんで俺が行くのかが分からん。考え事してて聞き漏らしたか? 聞いて無かっとは言えん。俺に矛先が向く。リピートするかもしれんから聞き続けよう…徹夜だ。
「ん? シグ、ちゃんと聞いてる?」
「え…聞いてるって」
「え~っと…どこまで話したっけ?」
「げっ、……こ…校長室だ」
「そうそう、それでね、平日に来いて言うの。だから、ウチは母子家庭で平日は無理って言ってやったら、土曜日に落ち着いたって訳」
「学校って土曜日は休みじゃないの?」
「知らない。やってんじゃないの。仮に休みだって呼び出した方が出て来りゃいいだけでしょ。大体、何が校則でーーっさ。たかが化粧で親ば呼び出すかね。教師ってそんなに暇かい!」
―――アルコールは失敗だ。完全にテンションが上がってきた。もう出さん。反論したらマズイぞ。そうだよね~って繰り返すしかない。
「ところがね……土曜日に予定入っちゃって、どうしても行けないの。お願い! シグ行ってきて~」
「……近所の者ですがってか?……いくらなんでもムリあるだろ」
「伯父って言っちゃったの、シグの事。今では、ほとんど父親代わりの伯父だって。ね~ね~ね~、お・ね・が・い!」
「お…おおおおおお…おじさん?」
「そう、オジサマ」
「余計にマズイ事にならん? 俺って…あんまり家庭的な印象を人に与えないと思うけど…。父親代わりの伯父って。……パっと見、堅気に見え無いってよく言われるけど。……どう見える?」
「う~ん…真面目君には程遠いかも…でもスーツ着れば全然変わると思う。持ってるでしょスーツ。着て見せて」
隣の部屋に行き、スーツに着替えようとしたところ、視線を感じ振り返ると、ますみさんとベロが、直ぐ側に居る。「へ~、いい身体してんね」とか言いながら、前に回り込んで来た。
「うわ…」
「ブリーフ派なんだ。それってビキニタイプって言うの?」
「ト…トランクスって嫌いなの…グっと引き締まる感じじゃなきゃ……あの~股間のガン見は…」
「ふふふ、見ちゃった。メモメモ…プラプラするのは嫌だと…キャハハハハハ、手で隠しちゃって~、もしかしたら少し反応しちゃった? どうなの? ちょっと見せないって」
「なっ……スーツ着たぞ! ほら見ろ!」
赤面の俺は、声もデカかった。
「あら残念。素早いこと。へーーー似合うわ。惚れちゃいそう」
「でも…サラリーマンのようには見えないのは気のせいか?」
「確かに……ヤクザっぽい。なんで?」
「でも好青年」
「誰が? まさか君が?」
「あのね~」
「ふふふ、それで大丈夫よ、ちょっと強面の方がいいしね」
ますみさんは安心したのか帰って行った。夜中の2時に。
徹夜にならなかっただけで良しとすべきか。マッドメンのストーリーって…あれ…完全に飛んでる。
ますみさんは、学校に日程の変更を頼むのが腹立たしくて出来ないようだ。まぁ、頼まれた以上はしかたがない。
「ベロ、寝る前のオシッコ行くか」
ベロは外に行かなければ絶対にオシッコをしない。
行く前に、必ずストレッチを行うベロ。
前足を―――手か―――グーーっと伸ばし、次は後ろ足もグーーーっと。さぁ行きましょう。他のワンコもおんなじ事するんだろうか。




