1-3 トラブルメーカー
フルスロック基地、男子トイレ。
二メートル近い長身のクレイドが、用を足すために並んで立つ。隣には、百五十センチにも満たない少年フロウ。
赤髪のクレイドは、視線だけを横に流して口を開いた。
「よう、フロウ」
「……やあ、クレイド」
「なあ、男ってのはなんで用を足すとき、わざわざ間を空けるんだ?」
「そんなこと、僕に聞かれても」
その時だった。
無造作に二人の間へ割って入った影がある。艶やかな黒髪。どこからどう見ても、その肉体は女だった。
「む……。前に立ったはいいが、さて、どうやってするんだ?」
クロコは至極真剣な面持ちで、自身の股間と小便器を交互に見つめている。
思考停止した二人の視線に気づき、クロコは鋭く顔を上げた。
「なんだてめーら。なんか文句あんのか」
その瞬間、背後から放たれた雷鳴のような怒声がトイレに響き渡った。
「おおありだッ!!」
ドゴォッ、と鈍い音が響く。ブレッドがクロコの頭をひっぱたいた。
「いってぇ! 何しやがんだ、ブレッド!」
「それはこっちのセリフだ! とっとと出るぞ!」
抗議するクロコを強引に引きずり回し、ブレッドは呆然とする二人に頭を下げる。
「どうもすいませんね。このバカには俺から厳しく言い含めておきますんで」
嵐のように去っていく二人を見送り、クレイドは力なく呟いた。
「……なあフロウ、今のアレはなんだ」
「……僕が、知るわけないだろう」
基地の廊下に出ると、ブレッドはクロコを壁際に突き飛ばし、殺気混じりの視線を向けた。
「おまえ、自分が何をしてるか分かってんのか! その姿で男子トイレに入るとか、頭沸いてんのか!」
「男なんだから男子トイレに入るのが普通だろ。何が悪い」
反省の色すらないクロコに、ブレッドはこめかみに青筋を浮かべる。
「アールスロウさんの説明を一切聞いてなかったのか。いいか、もう一度言うぞ。一つ、トイレは女子用を使うこと。二つ、着替えは指定のスペースか個室で。三つ、更衣室とシャワーは時間厳守。これだけは死守しろ!」
「……ああ、そんなことも言ってたな。面倒だから半分寝てた」
クロコは欠伸混じりに視線を逸らす。しかし直後、ハッとしたように目を見開いた。
「って、おい! なんでオレが女子トイレなんだよ!」
「混乱を避けるためだ!」
「バカかおまえ! それこそ完全に変質者扱いじゃねーか!」
「いいから行け! 女子トイレは全部個室だ。その姿で堂々と入って、堂々と出てくりゃいいんだよ!」
「そ、そんなことできるか!」
「いいから縮こまるな、この大馬鹿野郎!」
基地の司令室。重厚な机の奥でガルディア司令官が眉間にしわを寄せ、その正面で副司令アールスロウが冷徹な事務作業のように報告を読み上げる。
「昨日の国軍襲撃による被害、死者六名、重傷者十七名です」
「六人……か」
ガルディアは深刻な表情だ。アールスロウは表情一つ変えず、淡々と言葉を継いだ。
「あの状況下では軽微と言えるでしょう。相手がアサシンであることをかんがみれば、やられた全員が死んでいてもおかしくはありませんでした」
「……ああ。だが、敵の目的が俺だとなれば話は別だ」
「ええ。最後の一人の動きを見る限り、あなたを狙っていましたね。基地の機密が漏洩している可能性が高い。至急、情報網の再編が必要です」
ガルディアは頭を抱え、深く溜息を吐いた。
「また忙しくなるな。……で、こんな時に言いづらいのだが」
「何でしょう」
司令官は申し訳なさそうに、一枚の要請書を机へ滑らせた。アールスロウがその内容を一瞥し、小さく肩を落とす。
「スフォード基地への訓練官派遣要請だ。また、留守を預けることになる」
「慣れていますよ。もはや恒例行事ですね」
アールスロウは諦念を纏いながらも、すぐに切り替える。
「クロコの件ですが、呪いの出所については他基地で情報を探るとして……それ以外は、全て私に丸投げということで?」
「ああ、頼む。悪いな」
「いえ。本部からの要請なら仕方ありません。……それにしても」
アールスロウは静かに語気を強める。
「彼の面倒を見るのは骨が折れそうです。これで解放軍における『特例』は二人目となりますか。『戦乱の鷹』以来ですね」
「ああ、そうだな」
「司令。もう一点、呪い以外で気になることが」
「なんだ」
「……彼が倒したアサシンたち、全員が急所を紙一重で外されていました」
ガルディアの眼光が鋭く光る。
「急所を……外した?」
「ええ。彼にはまだ、迷い、あるいは慈悲のようなものが……」
「…………ああ、そうかもしれないな」
ガルディアは窓の外、訓練場の方角へ視線を投げる。
「ただ、いまあいつに必要なのは情けじゃない。まずは奴の鼻っ柱をへし折ってやる必要がある」
「……鼻を、折る?」
アールスロウが怪訝そうに眉をひそめる。ガルディアはニヤリと笑みを浮かべた。
基地の廊下で、ブレッドが壁にもたれて待っていた。
ガチャリ、と横のドアが暴力的に押し開かれる。
「ブレッド、見ろ。ピッタリだ」
現れたクロコは、真新しい黒の軍服に身を包んでいた。ブレッドは苦笑交じりに肩をすくめる。
「最小サイズだぞ。合ってよかったな。在庫が切れてたら特注で時間がかかるところだった」
「ああ。……ただ、胸のあたりが妙に窮屈で落ち着かねえ」
「男用しかないんだから仕方ないだろ。……っていうか、女用があってもおまえ絶対着ないだろ?」
「当然だ。だが、これに袖を通すと不思議と『軍人』になった気がするな」
クロコは軍服の襟元を正し、少しだけ誇らしげに微笑む。ブレッドは感心したように頷いた。
「反乱軍の分際で、軍服なんて洒落たものを作るよな」
「『ファントム』っていうお偉いさんが、この軍をかなり高水準まで組織化したらしいからな。十年も戦い抜くには、寄せ集めじゃ無理ってことだ」
「ファントムか……。どんな奴なんだろうな」
「さあな。常にヘルムで顔を隠し、名前も偽名という正体不明の英雄様だ」
クロコは「正体不明」という言葉に何かを想ったのか、ふと沈黙した。だが、すぐに頭を振り、苛立ちをぶつける。
「そんなことより、呪いを解くのが先だ! 服のサイズを気にしている場合かよ」
「見通しがない以上、まずは基地に馴染むのが先決だ」
「……いっそ、この指輪ごと指を切り落とすか?」
「おまえ、冗談でも怖いことを言うなよ」
「ヘタしたら、一生この身体だぞ。……それくらいなら、代償なんて安いもんだろ」
クロコは腰の剣に手をやり、殺伐とした瞳で己の指を見つめた。ブレッドはすかさずその手を止める。
「やめろ。それで元に戻る保証はどこにもない。ガルディアさんが情報を集めてくれると言ったんだ、今はそれに賭けるべきだ」
「あの司令官を信用しろってか?」
「『呪いの専門屋』ですら解けなかった代物だぞ。個人の力で解決できるわけがない。ガルディアさんの人脈に頼るのが、今は唯一の現実的な選択肢だ」
「専門屋って……」
「少なくとも、指を切るよりマシだろ。利き腕だから剣技にだって影響するだろうし」
クロコは渋々といった様子で、剣から手を離した。
「……分かったよ。だが、あまり期待はしてねえからな」
「じゃあ俺も着替えてくる。それが終わったら、少し基地内を回ってみよう。顔を売っておくのも大事な任務だ」
人通りの絶えた基地の影で、少年兵が三人の青年兵に囲まれていた。
少年は十二、三歳。小柄な体に、一箇所だけ跳ねた黄色い髪。透き通るような緑色の瞳が、恐怖を隠そうと必死に震えている。
対する三人は十代後半、いずれも屈強な巨躯だ。
「調子に乗ってんじゃねぇぞ、ザコが」
中央の男が少年の腹を容赦なく蹴り飛ばす。
無防備な体がくの字に折れ、少年は床へ転がった。男は百九十センチ近い巨体を揺らし、黒髪の下から下卑た笑みを浮かべる。さらに追撃とばかりに、少年の腹を足先で突き上げた。
「ぐっ……ッ!!」
胃の内容物が逆流するような衝撃。少年は空中で一度浮き、糸の切れた人形のようにうずくまる。
「……何で、こんなことを……っ。僕に何の恨みが……」
「あぁ? その目つきが目障りなんだよ。チビのくせに演習場でチョロチョロしてんじゃねぇ!」
周囲の二人がヘラヘラと笑う。少年は血の混じった唾を吐き出し、歯を食いしばって見上げた。
「……ガルディア司令官は言ってた。一生懸命訓練すれば、僕だって強くなれるって」
「ハッ、司令官の世迷い言を信じてんのか? おまえみたいな欠陥品、一生ザコのままだよ!」
嘲笑とともに再び蹴りが放たれる。少年は苦悶に身をよじりながらも、執念で立ち上がった。その手には、腰に差していた木剣が握られている。
「僕だって……ッ!」
「おいおい、俺様とやるつもりか? 腕だけじゃなく頭までイカれてやがる」
男が剣の鞘を構える。圧倒的な体格差。少年の二倍はある壁のような巨体。だが、少年の緑の瞳に迷いはなかった。
「うあぁぁぁーっ!!」
叫びとともに突進する。男は大仰に剣を振り上げた。
ビュンッ、と風を切る音。少年はその紙一重の軌跡を潜り抜け、男の懐へ飛び込む。全霊を込めた木剣の突きが、男の腹部を正確に捉えた。
ゴッ、と硬質な音が響く。
だが――男は、微塵も揺らがなかった。
「攻撃が、軽すぎる」
男の冷徹な一言と同時に、鈍重な蹴りが少年の脇腹を蹂躙する。
「うぅ……っ」
少年の体は廊下の壁まで吹き飛び、力なく床へ落ちた。男たちは満足げに嗤う。
「ザコにもほどがある。戦場に出たら、真っ先に死ぬのはおまえだ」
「確かに。おまえみたいなザコが、戦場で真っ先に死ぬんだろうな」
暗い廊下に、冷ややかな声が響いた。三人の青年が振り返ると、そこにクロコが立っていた。
「今の勝負。もし本物の真剣だったら、てめぇは一撃で腹を裂かれて死んでたな」
巨体の青年が顔を紅潮させる。
「なんだ、あぁ!? 新入りか。女のくせに『特例』で兵士になったっていうアレか」
男はニヤリと下卑た笑みを浮かべ、鞘に収まったままの剣をクロコへ向けた。
「教えてやるよ。強い者にたてつくとどうなるか、その身で味わえ」
「ほお。……じゃあ俺も教えてやる。俺に剣を向けた代償が、どれだけ高くつくかな」
クロコもまた、鞘ごとの剣を構える。背後のブレッドが顔を覆った。
「おいクロ、入隊早々ケンカを売るな!」
「うるせえ。先に剣を向けたのはあのゴリラだ」
「てめぇ……! 誰がゴリラだッ!!」
男が咆哮し、突進する。しかし、次の瞬間、クロコの姿がゆらりと消えた。男が当惑したときには、すでにその懐にクロコが潜り込んでいた。
「え――」
クロコは最短距離で剣の柄を突き出し、男の顎を正確に打ち抜いた。
乾いた衝撃音。巨体は木の葉のように宙を舞い、天井に激突して跳ね返り、床に叩きつけられる。
仲間たちが青ざめて駆け寄るが、男は白目を剥いて意識を断っていた。
「おまえらもやるか?」
クロコが鋭い視線を投げると、二人は怯えきった様子で男を置いて逃げ出した。ブレッドが呆れてため息をつく。
「……相変わらずムチャクチャだな」
「先に剣を向けたのは相手だ」
「先にケンカを売ったのはお前だと言ってるんだ」
クロコは無視して、床に倒れていた黄色い髪の少年に視線を下ろした。
「……ありがとうございます」
「別に助けたわけじゃない。俺に向けた剣が気に食わなかっただけだ」
少年はふらりと立ち上がる。その瞳には、先ほどまでの悔しさが残っていた。
「ボク、弱いから……。だからこんな目に……」
「さっきの勝負、お前の動きは悪くなかったぞ。……まあ、弱いのは事実だがな」
クロコはキョロキョロと周囲を見回した。
「それよりここ、どこだ? 基地内を回ってたら迷っちまった」
「あ、それならボクが案内します! この基地は広いですから!」
「助かる。ついでに聞くが、お前の名前は?」
「サキ・フランティスといいます!」
クロコとブレッドが名乗ると、サキは目を輝かせた。クロコは最後に、少しだけ気まずそうに言った。
「あー、ついでに言っておくが。俺は女じゃない。男だ」
「おと……、え?」
サキがポカンと口を開ける。
その光景を、道の角からアールスロウがじっと見つめていた。
「なるほど。これが『天狗の鼻』というわけか」
アールスロウは小さく呟き、静かに踵を返した。
「どうやら、俺が直接動かなければならないようだな」




