【番外】イノウィンの読書ノート1
一:「オッカムの剃刀」って、なんだ?
イノウィン: だからさ、あのスライムだよ! なんでいきなり俺の服をひん剥こうとすんだよ!? しかも何? 「最適化手術」? この世界の国民健康保険はそんなワイルドな手術までカバーしてくれんのか?
エリノア: 『聖理教会・異端生物図鑑 ロソフィ編』によれば、貴方を襲った個体は「オッカムの剃刀」という哲学概念の断片に汚染された変異体です。その行動論理は、当該原則の歪んだ具現化と一致します。
イノウィン(???): オッカムの剃刀? なんか床屋のキャンペーンみてえな名前だな。で、そのカミソリってのは何なんだよ?
カント: ふふ、子猫ちゃん。貴方の比喩はいつも官能的ねぇ。「オッカムの剃刀」は実体のある刃物じゃなくて、大事な理性の原則よ。その核心を要約するなら――必要なくして、実体を増やすことなかれ。
イノウィン: 日本語で頼む! カント様! お願いします!
カント: ん~、簡単に言うとね、可愛い坊や。何かを説明するときは、一番シンプルで、仮説が一番少なくて済む方法を選ぶべきってこと。無駄で余計なものは、情け容赦なく「剃り落と」しちゃうの。あの日みたいにね。あれは、貴方の衣服とか、あるいはその……ごほん、特定の「モノ」は不必要な実体だと判断して、除去プログラムを実行したのよ。
イノウィン: つまり、俺の服は無駄? 俺の……俺のジュニアも無駄だと!? なんだそのクソみたいな原則! そのカミソリ、どっかのヤバい病院から脱走してきたのか!? 「最適化」とかいう大義名分を掲げた、ただの強盗傷害事件じゃねえか!
エリノア(頬を赤らめ): 偉大なる哲学概念への冒涜です! オッカムのウィリアム修道士がこの原則を提唱したのは、スコラ哲学の煩雑で無意味な論争に反対し、思考の簡潔さと経済性を追求するため! あのロソフィの行動は、その原則を極端かつ歪曲して解釈した結果です!
カント: あら? でも、あの子の汚染された論理の中では、貴方の抗議そのものが、余計な感情的ノイズだったのかもしれないわね。もっとも、お姉さんは思うの。特定の「実体」の存在こそが、現象界の豊かさを構成し、ひいては物自体への悟りへと至る鍵だって。特に、活力と可能性に満ちた若い肉体なんて、その存在自体が目的なのに、単純な効率論で語れるものかしら?
イノウィン: ストップストップ! カント様、その目つきと言葉遣い、俺がまた素っ裸にされた気分になるんでやめてください! とにかくわかったよ! このクソ忌々しい「剃刀」ってのは、「こいつ、いらねえな」って思ったら消しにかかる、ってことだろ?
エリノア: そう、解釈して差し支えありません。
イノウィン: それ、完全に俺がいた世界のクライアントじゃねえか! 「この機能いらないんで、削ってください」「このデザイン複雑なんで、シンプルに」「君、効率悪いから、最適化ね」って! つまりあれか! この世界のロソフィは資本家と同じ思考回路なのか! どっちも変態だ!
エリノア: クライアント? シホンカ? 新種のロソフィか、哲学流派の名称ですか?
カント: うふふ、面白い喩えね。経済領域における実用主義を、存在論のレベルで批判するなんて。荒削りだけど、実践理性の疎外現象に、意外な角度から触れているわ。イノウィン、貴方って本当に、物事をぶっ壊して見る直感の持ち主ね。
イノウィン: 俺が直感したのは、俺の直感がぶっ壊されかけたってことだけだ! 今後、カミソリ持ってる奴を見たら、それが人間だろうが悪魔だろうがゼリーだろうが、全力で逃げる!
エリノア: 過度な恐慌は無用です。その本源を深く理解し、正しい信念を堅持すれば、このような歪みには対抗できます。聖理教会の教えは……
イノウィン: 結構です、騎士様! あんたらの教えが役に立つなら、こんな変態ゼリーがうじゃうじゃいるわけねえだろ! 今の俺にとっちゃ、「逃げるが勝ち」主義が一番実用的だ!
カント: うん、それもまた、深く探求する価値のある立場ねぇ。特に、実践的な面において……。
(イノウィンは背筋に悪寒が走るのを感じ、服の襟をきつく合わせた)
イノウィン: はいはい、哲学研究会はこれにてお開き! 俺は寝る! 夢にカミソリが出てきませんように!
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二:聖理教会統治エリアの通貨換算
イノウィン: イヴェットさん、そこをなんとか! 俺たちが宝箱怪におやつにされかけた仲じゃないですか! あの15クーパーの罰金、分割にできませんかね? 例えば、百回払いとか! 一回1クーパーで!
イヴェット: もちろんですわぁ、イノウィン様♡ 私たちのギルドは、ヒューマンケアを最も大切にしておりますもの! 分割プラン、ございますのよぉ~♡ ただ、ほんのちょっぴりの、ささやかな手数料と利息をいただくことになりますけど。頭金1クーパー、その後は月々2クーパーの12回払い、総支払額は25クーパーですの♡ とっても良心的でしょう?
イノウィン: いくらだって? 25クーパー!? それ、闇金よりタチ悪い金利じゃねえか! っていうか待て……クーパー……フリシル……ガレ……ここの通貨換算、なんでなぞなぞみたいになってんだよ! 1ガレ = 12フリシル = 144クーパー? なんだこの反人類的な進数は! 12進法? なんで10進法じゃないんだよ! これ、おかしいだろ!
セシィ: 聖理教会中枢の通貨体系は12とその倍数に基づく。彼らが崇拝する「論理」と「秩序」の美学に合致するため。1クーパーは、低品質のエール1リットルとほぼ同等の交換価値。黒パン1個は約2フェル、すなわち0.1クーパーに相当。
イヴェット: セシィ様、データが非常に正確ですわねぇ~♡ ただ、ギルドで販売しております黒パンは、特別に場所代、焼き上げ手数料、管理費を上乗せしておりますので、1個1クーパーになりますのよ♡ お値段以上ですわ!
イノウィン: 待て待て待て、計算させろ……パン1個で1クーパー? ってことは、俺の借金5フリシルと15クーパーは……1フリシルが12クーパーだから、5×12で60、それに15を足して……75クーパー? 人を殴り殺せそうなこの黒パンを、75個も買わなきゃいけねえのかよ! パン屋が開けるぞ!
セシィ: 3フリシルで、一般家庭一世帯が、一ヶ月の最低限の生活を維持可能。貴方の負債は、一般家庭25世帯分の一ヶ月の生活資源総量に匹敵する。驚異的な債務累積効率。研究対象として興味深い。
イヴェット: あらぁ~♡ そう計算しますと、イノウィン様のポテンシャルは本当に高いですわね! 私どもが新しく始めました「債務最適化」資産運用プランはいかがでしょう? 今、10ガレお預けいただければ、利息の減免はもちろん、限定版ギルド記念バッジもプレゼントいたしますのよぉ~♡
イノウィン: 10ガレ!? それって120フリシル、1440クーパーだろ! 俺をバラして売ったってそんな値段になんねえよ! 今の俺の全財産じゃ、パン1個も買えねえんだぞ! ここの通貨システム、絶対どっかの哲学者が酔っ払って設計しただろ!
セシィ: 否定。通貨体系の設計は、歴史的慣習と、教会による「12」という数字への神聖化に由来する可能性が高い。哲学者の精神状態との直接的因果関係は認められない。
イヴェット: というわけでして、イノウィン様♡ 貴方様のお支払い能力を考慮しますと、やはり「労役代償」プランをお勧めいたしますわぁ~。ギルドの依頼をこなし、報酬で借金を相殺する。これが最も「効率」の原則に合致した選択ですの♡ もちろん、任務中に発生した追加の損害も、借金に加算させていただきますけど♡
イノウィン: もうわかったよ! この世界じゃ、貧乏は罪なんだ! そして、あんたらの通貨制度は、俺みてえな貧乏人のために設計された拷問器具なんだ! とにかく、ありがとうよ! 異世界でも貧困に支配される恐怖を味あわせてくれて!
セシィ: 記録。個体イノウィンは、聖理教会の通貨体系に対し、強い拒絶反応を示す。認知過負荷の兆候も見られる。今後、「反金融主義」的哲学思想の萌芽が見られるか、要観察。
イヴェット: どういたしましてですわぁ~♡ こちらが、貴方様が次にパンを「稼ぐ」ことができるかもしれない依頼リストですの。ごゆっくりお選びくださいねぇ~♡ 契約内容は、隅々までよぉ~くお読みくださいませね♡
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三:アリストテレスの「真理」認識について
イノウィン: くそっ……で、あのボロ箱だよ。本は美味そうに食ってたのに、なんで広告チラシ一枚食っただけでお陀仏になっちまったんだ? あの紙、毒でも塗ってあったのか? それとも、この世界の宝箱怪は、コート紙アレルギーとか?
セシィ: 否定。一次検査において、紙およびインクから既知の毒性成分は検出されず。当該ロソフィの崩壊は、その内在的哲学概念と、摂取した情報との間の根本的矛盾に起因する可能性が高い。
イヴェット: そうですのよ。あの手の宝箱怪ロソフィは、通常「アリストテレス」の哲学断片に汚染されていて、特に「知」と「真理」に執着する傾向がありますの。
イノウィン: アリストテレス? なんか聞いたことあるな……あれだろ? 物理の教科書に載ってて、「物体が運動を続けるには力が必要だ」とか言ったせいで、未来永劫ツッコミを入れられ続ける運命の、あのオッサンだろ? で、そいつが爆発したのと何の関係があんだよ?
セシィ: アリストテレスは、真理を「事実と命題の一致」と定義した。知識は、客観的世界の正しい認識に由来する。ロソフィの行動論理の核は、その存在を維持するための、知識への渇望と捕食にある。
イヴェット: ですのでぇ、彼らは真実の情報が記された書物に、とっても敏感なんですのよぉ~♡ ところが、貴方様が投げ入れたあの「オールオッケー」印・万能薬の広告には、「風邪、発熱、腕や足の切断、幽体離脱、果ては哲学思弁障害に至るまで」治癒可能と謳ってありましたわよねぇ~?
イノウィン: ああ! すげえだろ! 悩み事、これ一本! みたいな。まあ、隅っこにちっちゃく「副作用:軽度の下痢」とか書いてあったけど……。
セシィ: 当該広告の記述は、客観的事実と著しく乖離しており、未実証の誇大表現を多数含む、典型的な虚偽命題である。これを知識として摂取することは、真理の探求を存在の基盤とするロソフィにとって……。
イノウィン: つまり、オーガニックしか受け付けない健康マニアの胃袋に、着色料と香料まみれのジャンクフードを無理やりぶち込んだみてえなもんか?
セシィ: 「事実と命題の一致」という信念に存在を依存する個体が、極度に不一致な情報を摂取した結果、存在基盤が揺らぎ、概念構造が崩壊した。
イヴェット: というわけでしてぇ、ギルドでは現在、この手の誇大広告印刷物を、「特定ロソフィへの特効兵器」としてリストアップすることを検討しておりますの♡ ただし、ご使用前には『特殊アイテム使用申請書』をご提出いただき、想定される環境清掃費を前納していただくことになりますけど。全てのロソフィに効くわけではございませんしねぇ~♡
イノウィン: つまり俺は、棚からぼた餅で、新戦術を開発したってことか? 虚偽広告で腹をパンクさせる? どこが真理の道なんだよ……でも、金がかからなそうでいいな! って、待て、清掃費? いくらだ?
イヴェット: 今回の任務で発生した倉庫の混乱状況から換算しますと、およそ15クーパーほどになりますわねぇ~♡ すでに貴方様の債務に加算済みですのよぉ~。ギルドの戦術研究へのご貢献、感謝いたしますわね♡
イノウィン: やっぱりな! アリストテレスは、俺の財布を救っちゃくれねえ!
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四:「市場の需要と供給」とは?
イノウィン: アダムさん! あんたは話のわかるいい人だ! 見てくださいよ、この通りには腹を空かせた人がこんなにいるのに、あんたの商会の倉庫には白いパンが山積みになってる! これじゃ資源の最適配分とは言えませんよ! もう少し安くするとか……いっそ、タダで配るとか! 慈善事業ですよ! 口コミも上がりますって!
エリノア: なりません! 『テッカーシュタイン家・商業取引規範』第七条に明記されています。「無償の贈与は、厳格な資格審査と道徳的必要性の評価に基づかねばならず、市場の公正を破壊してはならない」。安易な配給は、怠惰を助長し、正当な対価を支払う者への不公平を生みます。
アダム・スミス: はぁ……エリノア嬢の引用された規範は、その精神において、市場の法則と相通じるものがありますな。イノウィン君、慈善は美徳ですが、欠乏を解決する恒久的な策ではない。君が見ているパンの価格は、私が気まぐれに決めたものではなく、実は「需要」と「供給」という二つの見えざる力が、せめぎ合った結果なのです。
イノウィン: 需要? 供給? なんか公民の教科書で見たような……。
アダム・スミス: そうですな。現在、エスタット周辺の小麦畑がロソフィの被害で減産している。一方で、流入してくる難民は増え続けている。パンの数には限りがあるのに、欲しがる人は増えている。もし価格が同じなら、最初に店に来た客が全てを買い占め、後から来た君のような者は、いくら強く欲しても手に入れることはできない。これもまた、最適解とは言えませんな。
イノウィン: つまり、値上げは、パンをより必要としている人のために? 例えば……より金を持ってる人のために?
エリノア: それは、実際の必要性ではなく、富に基づいた選別。騎士道精神が掲げる理念とは、相容れないものがあるやもしれません……。
アダム・スミス: 価格が上がれば、一方では需要が抑制されます。ある者は、より安い黒パンやオートミールで代用するでしょう。そして他方では、供給が刺激される。より高い利益は、遠方の商人を惹きつけ、リスクを冒してでも食料を運んでこさせます。農夫は生産を拡大しようと努力するでしょう。時が経てば、パンの供給は増え、価格はまた徐々に落ち着いていく。この「見えざる手」が、最終的には資源を最も必要とされる場所へと導くのです。
イノウィン: 要するに、金持ちが勝つってことだろ? そんな小難しく言ったってさあ! その「見えざる手」ってやつ、なんで金持ちばっかり助けるんだよ? そいつ、目が悪いのか? アダムさん、あんたの理論はすげえんだろうけど、今の俺の腹の足しにはならねえんだよ! 俺の「需要」はリアルにここにあるのに、俺の「供給」能力は限りなくゼロだ! 市場ってのは、そこんところ、どうにかしてくれねえのか?
アダム・スミス: それは……市場の法則そのものは、個人の短期的な窮状を直接考慮するものではありません。全体の効率と、長期的な均衡に重きを置くのです。
エリノア: と、なりますと、市場とは、冷徹な審判のようなものですね。「需要」の切迫度や道徳的優劣ではなく、ただ「提示価格」の多寡によって物資を分配する。それは、騎士団が功績と規定に基づき戦利品を分配するのと似ていますが……それよりも、ずっと、冷たい。
イノTウィン: とにかく、わかったよ! いわゆる市場ってのは、金持ちの旦那の言うことが絶対ってことだ! 需要と供給? 要するに、俺たち貧乏人がなんで腹を空かせてるのか、理路整然と説明してくれるありがたい理屈ってわけだ! アダムさん、あんたの学問は、本当に人をイラつかせる天才だな!
アダム・スミス: 公正な取引、童叟欺かず……まあ、時には、政府などによる、少々柔軟な「市場調整」も必要ですがね。