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“真実”の広告がアリストテレスのとっておきの真理の箱に出会うとき

 卒業論文並みの枚数を誇る冒険者登録書類を書き終えた頃には、俺の右手はもはや自分のものじゃなかった。手首はだるく、指の関節は軋む。まるで昨晩、一人で十回はシコったみてぇな賢者タイムに突入していた。


 隣のセシィはと言えば、やけに興味津々で書類を眺めていやがる。あまつさえ、白紙の用紙を数枚、ローブの中に仕舞い込もうとしたので、俺は即座にそれを叩き落とした。


 こんな行動が、またどんなクソみたいな天文学的罰金のトリガーになるか、わかったもんじゃねえ!


 これ以上デカい借金を背負ったら、いよいよ俺は「裏の道」に進むしかなくなる。そうなったらもう、単なる肉体労働じゃ済まされねえぞ。どこぞの路地裏で、涙を浮かべながら、全身毛むくじゃらのオークの冒険者に「旦那様、お手柔らかにお願いします」なんて言って、俺のか弱いケツの操を捧げて返済するハメになるんだ。


 ようやく、受付のイヴェットさんの懇切丁寧な「ご指導」のもと、俺はこの一大プロジェクトを完遂した。


 彼女は手慣れた様子で書類をファイリングすると、見るからに安っぽい木製のプレートを俺に手渡した。そこには、ちんけな『F』の文字が刻まれている。


「おめでとうございますぅ、イノウィン様♡ これで貴方様も、晴れてFランク冒険者の仲間入りですの! こちらが身分証になりますので、失くさないでくださいねぇ。再発行には5クーパーかかりますので!」


 Fランク――冒険者という名のピラミッドの最下層。


 めでたい……めでたいわけあるか、ボケ!


 つーかイヴェットさんよ、四六時中カネの話ばかりしてると彼氏できねえぞ。マジで。


「では、栄えあるFランク冒険者様。早速ですが、借金返済のために依頼をお受けいただかないとですねぇ~♡ 初心者の方には、こちらのFランク依頼がオススメですの。『商会の倉庫に住み着いた宝箱怪ミミックロソフィの駆除』」


 宝箱怪?ロソフィ?


 どこをどう聞いたら「安全」に聞こえるんだ、その単語は!


「ご安心くださいなぁ。報告によりますと、このロソフィは攻撃性が極めて低く、生物を襲うことはまずありませんし、移動速度もカタツムリ並みですの。初心者の方が戦闘に慣れるには、うってつけの依頼ですよぉ。報酬も、なんと15クーパーですぅ♡」


 攻撃性が低い! 移動が遅い!


 そして何より、15クーパー!


 大した額じゃねえが、少なくとも収入だ! しかも、話を聞く限りじゃ危険はなさそうだ。これはもう、金をくれてやるって言ってるようなもんじゃねえか!


「受けた! それで頼む!」

 俺は彼女が心変わりする前に、そう言って胸を叩いた。


「かしこまりましたぁ。では、こちらにサインをどうぞですの。あ、そうだ。一応お伝えしておきますが、依頼遂行中に発生した器物破損等の損害は、全て報酬から差し引かせていただきますのでぇ。倉庫の壁とか、保管してある商品とかですね。くれぐれも、お気をつけくださいねぇ~♡」


「ノープロブレム! 無傷で終わらせてやるさ!」


 俺は何も考えず、自分の名前を書きなぐった。神様がくれるっつーもんは、もらっておくに限る。


 …………


「おい、セシィ! もう少しシャキシャキ歩けねえのか? 俺たちは今から仕事に行くんだぞ、散歩じゃねえんだ!」


 俺はまだジンジン痛む膝をさすりながら、のろのろと後ろをついてくるセシィに怒鳴った。

 こいつの歩く速度は、体育の授業で1500メートル走があると聞かされた男子中学生のそれと良い勝負だ。


「焦燥感は主観的認識であり、物理時間の経過と任務完了の間に直接的因果関係は存在しない。私の計算では、現速度を維持した場合、97.3%の確率で期限内に倉庫へ到達可能」

「そんなこたぁどうでもいいんだよ! 要は、とっとと終わらせて、とっとと報酬もらって、あのクソみてえな借金を返すんだよ! 5フリシルだぞ! あれがどういう意味かわかってんのか? まともな飯が何回食えると思ってんだ!」

「記録。個体イノウィンは金銭に対し異常な執着を示す。その価値判断は現地住民と著しい乖離が見られる。後の『金銭による脅迫実験』に応用可能か……」

「誰が被験体だ! あと、人のプライバシーを勝手にメモすんじゃねえ!」

 俺は彼女のメモ帳を奪おうとしたが、セシィは驚くべき速さでそれをローブの中に隠した。


「これはプライバシーではなく、公然かつ透明性のある行動観察である。また、『流動人口管理法』第七章第三条に基づき、許可なき他人の財物の強奪は最低5クーパーの罰金刑に処される。試みないことを推奨する」


 ああん? 早速「金銭による脅迫」が始まってんじゃねえか。


「頼むからさぁ、お嬢様……」

「む? この物体の構造……非ユークリッド幾何学の神秘を秘めている。古代文明の遺物か……」

「ただの漬物石だろ、それ! 菜っ葉ついてんぞ! 大体、なんで石ころ一個にそんな夢中になって、山より高い借金には無関心なんだよ、お前は!」

「何もわかっていない。この粗雑な外見は偽装にすぎない。内部の結晶格子構造、その緊密かつ秩序だった配列……精神の探針を奥深くまで挿入し、幾重にも重なるその層を味わう感覚を想像するだけで……ああ……」

「いい加減にしろ!」

 俺はついに堪忍袋の緒が切れ、彼女のローブの裾を掴んで引きずり始めた。

「金ができたら、石でも何でも好きなだけ研究させてやるから!」

「粗暴な干渉。記録。個体イノウィンは強い支配欲を示す。これもまた……」


 こうして俺は、研究に没頭する変人を引きずりながら、目的の倉庫へと向かうのだった。


 …………


 イヴェットに教えられた住所を頼りに、俺とセシィは城の西地区にある商会の倉庫にたどり着いた。

 見るからに年季の入った建物で、木の扉には錠前がかかり、入口には欠伸をしている爺さんが一人立っている。

 身分証を見せると、俺たちはすんなりと鍵を受け取れた。


 扉を開けた瞬間、埃が顔面に襲いかかってきた。


「ゲホッ、ゴホッ! なんだこの掃き溜めは! 何年使われてねえんだ!」


 薄暗い倉庫の中、どう見てもただの木箱にしか見えない物体が、四、五匹ほど、床をゆっくりと這いずり回っている。「カサカサ」と、紙が擦れるような音を立てながら。その動きは歩くというより、擦っているだけ。速度はナマケモノ以下だ。


 奴らは俺たち二人のことなど全く意に介さず、ひたすら……床に散らばった古い本や紙切れを齧っている?


 俺の目の前の一匹が、箱の隙間でボロボロの紙を挟み込み、中に引きずり込んだ。「バリッ」という乾いた音がする。


 これだけ? これが攻撃性の低いロソフィ? ただの生きたシュレッダーじゃねえか!

 こいつら、本当に哲学概念に汚染されてんのか? 「知識は食欲なり」とか、そういう思想にでも汚染されたのかよ!


「ぷふっ」

 隣でセシィが奇妙な声を漏らした。

 振り返ると、いつも無表情なこの女の目が、らんらんと輝いていた!

 比喩じゃねえ。ガチで光ってやがる! 暗闇の中で、狂信者のような光を放っている!


「あ……ああ……素晴らしい……夥しい知識の奔流……古の、まだ誰の手にも触れられていない処女の如き典籍……そのインクの芳香は、まるで最も強力な媚薬……見ているだけで、私の身体が……」

 彼女はぶつぶつと呟き、呼吸を荒くし、頬を異常なまでに紅潮させている。身体は小刻みに震え、無意識に両脚をすり合わせ始めた。


 おいおいおい! どうした、急に! 大丈夫か!? キマってんのか!?


「おい、セシィ! 落ち着け! そいつらは魔物だぞ!」

 だが、もはや俺の声は彼女の耳には届いていないようだった。


 彼女の視線は、一匹の宝箱怪に釘付けになっている。その宝箱怪は、ちょうど年代物の分厚い本に手をかけようとしていた。


「だめ……触らないで……そこは私の……私だけが入ることを許された場所……」


 次の瞬間、俺が呆気に取られている間に、彼女は発情期の雌豹のように、猛然と飛びかかっていった。


「その深遠なる禁忌の真理! 貴様らのような無粋な木箱ごときが触れて良いものではない! それを離せ! 私に寄越せ! 我が魂と肉体で、その内側の襞の一本一本まで感じ尽くしてやる! ああああっ!」


 彼女は本の端を両手で掴み、宝箱怪の「口」から獲物を横取りしようと試みる。

 気のせいか? こいつ、普段より口が回ってないか?


 宝箱怪は、餌を横取りしようとする二足歩行の獣に遭遇したことがなかったのだろう。セシィが突進してきた瞬間、驚いて口を開けた。


 ドゴォッ!


 勢い余ったセシィは、そのまま宝箱怪の開いた口の中に頭から突っ込み、前のめりに倒れ込んだ。

 蓋が閉まると同時に、木製の「口」が彼女の細い腰にがっちりと食らいつき、丸みを帯びた尻と長い脚が外に晒されるという、極めて破廉恥かつ珍妙な体位が完成した。まあ、噛み千切るほどの力はなさそうだが。


 しかし、当のセシィは抵抗する素振りも見せない。それどころか、箱の隙間から、押し殺したような興奮した喘ぎ声が聞こえてくる。

「……んぁ……き、きつい……知識が……身体の中に、入ってくる……」


「このアホ女! さっさと離せ! このクソ箱も、とっとと吐き出せ!」


 こいつを連れてきてロクなことにならねえとは思ってたが! しかもこの光景、強烈なデジャヴがあるぞ!

 俺は駆け寄り、セシィの腕を掴んで力一杯引っ張ったが、宝箱怪はびくともしない。

 まるで、変な場所に詰まった大根を引き抜こうとしている気分だ。


「……んふっ……もうすぐ……触れる……あぁ……」

 こんな時まで本の心配かよ、この変態が! 金ができたら買ってやるっつーの!


 どうする!? どうすればいい!?

 確か、なんかのアニメで……。

 そうだ! 『葬送の〇〇〇〇』っていうアニメで見たぞ!

 宝箱怪に食われた奴は、無理に引っ張るんじゃなくて、奥に押し込んでやれば、気持ち悪がって吐き出すって!

 理にかなってる! 試す価値はありそうだ! ま、食われてんのは俺じゃねえしな。


「セシィ! 歯を食いしばれ! 今、助けてやる!」


 俺は彼女の、見事に盛り上がった弾力性のある尻に両手を置いた。ローブ越しでもわかる、とんでもない感触だ。深呼吸し、腰に力を込め、全体重をかけて前方に猛プッシュ!


 ブチュリ!


 粘着質で鈍い音が響いた。


 セシィは吐き出されるどころか、俺の外力によって「んぅあ!」という妙に艶めかしい声を上げ、完全に箱の中に押し込まれ、視界から消えた。


 どこに行ったかって? 聞くまでもねえだろ。丸呑みだ。


 宝箱怪は満足げに「パクパク」と二、三度口を動かし、体を前後に揺らしたかと思うと、最後に「ゲフッ」と一つゲップをし、唾液で濡れたセシィのローブの切れ端をぺっと吐き出した。


 …………。


 終わった! 味方! 味方はどこだ! 助けてくれ!

 ……いかん、ここにいる味方は俺だけだった。こうなったら……三十六計逃げるに如かず!

 あいつが勝手に死んだだけだ! 俺は関係ねえ!


 俺が踵を返そうとした、その時。いつの間にか背後に回り込んでいた別の宝箱怪が、俺の尻にガブリと食らいついた!


「ぎゃああああああああーーーっ!!!」


 クソが! セシィが左ならお前は右か! 左右対称の美学でも追求してんのか、お前ら!? 同じ村の出身かよ! しかもその村には「腹が減ったらケツを食え」っていう悪習でもあるのか!


「離せ、このクソ箱! 俺のケツは食いもんじゃねえんだよ! こっちは出口であって入口じゃねえんだ、わかってんのか!」


 俺は痛みに顔を歪め、必死に体を捻って振り払おうとするが、無駄だった。

 なんてこった! 金は稼げず、仲間はロストし、自分もこのザマか! イヴェットのあの悪魔め! これが攻撃性が低いだと? 初心者向けだと?


 それにしても、こいつら、さっきから紙や本にしか興味を示さなかったはずだ。なんで俺のケツなんかに……。

 ん? 紙……本……知識?

 待てよ。まさか、俺のズボンに何かついてたとか……。


 激痛に耐えながら周囲を見渡すと、くしゃくしゃになった広告のチラシが目に付いた。

 まさか……こいつの本当の狙いは、俺のケツじゃなくて、この紙切れだったのか?


 チャンスだ!


 俺は尻に宝箱怪をぶら下げたまま、一歩、また一歩と、そのチラシの山へと這い寄る。歩くたびに、尻に引き裂かれるような痛みが走る。


 届いた! 俺は色とりどりのチラシを掴めるだけ掴むと、中身も見ずに丸め、倉庫の一番遠い隅へと放り投げた。


「ほらよ! 新鮮な知識だぞ!」


 効果はてきめんだった!

 俺の尻に食らいついていた宝-箱怪は、瞬時に口を離した。


「ぐっ!」


 また悲鳴を上げたが、今度は解放の叫びだ。

 尻が自由になった! まあ、間違いなく腫れ上がってるだろうが……。


 宝箱怪は「カサカサカサッ」と紙の塊に駆け寄り、蓋を興奮したように開閉させながら、それを一口で飲み込んだ。


 直後、宝箱怪の動きが止まった。木製の体がガタガタと激しく震え始め、「ギギギ……」と奇妙な音を立てる。蓋の隙間からは、一筋の白煙が上がった。

 そして、パンッ!という音と共に、それはまるでオーバーロードしたかのように弾け飛び、ただの木屑と紙切れの山と化した。飲み込まれたチラシだけが、ひらりと地面に落ちる。


 …………。


 ……倒した?


 俺は呆然としていた。こんな簡単に? チラシ一枚で?

 よろよろと歩み寄り、そのチラシを拾い上げて広げてみると、そこにはけばけばしい字体でこう書かれていた。


『オールオッケー』印・万能治療薬!

 悩み事は、これ一本で全て解決!

 風邪、頭痛、手足切断、幽体離脱、哲学思弁障害、ベッドの上での不能まで!

『オールオッケー』印・万能治療薬を、ゴクッと一口! 冒険者の生涯の友!

(※副作用:軽度の下痢、一時的な皮膚の変色、低級ロソフィの誘引など。用法用量を守って正しくお使いください)


 なんだこれ!? ふざけた誇大広告もいいところだろ! 哲学思弁障害まで治るのかよ! 元の世界なら消費者センターに通報されて一発でアウトだぞ!

 理由はわからんが、宝箱怪は何かヤバいもんを食ってぶっ壊れた、ということらしい。


 考えている暇はねえ。あのトラブルメーカーを助け出さないと。

 セシィを助けさえすれば、あいつも俺に感謝するはずだ。そしたら……今夜あたり、その身体で恩返しを……へへへ。

 いやいや、俺は新時代の好青年だ。力ある者は、責任を負わねばならない。


 俺は同じようにチラシを丸め、セシィを飲み込んだ宝箱怪に向かって投げつけた。

 紙の塊が近くに落ちると、宝箱怪は案の定、そちらに興味を示した。

 だが、セシィを飲み込んでいるため、口は開かない。


 好機! 俺は駆け寄り、奴の注意が逸れている隙に、その外殻を力一杯ぶん殴った。

「吐き出せ! さっさとその厄介者を吐き出せ! さもねえと、もっと大量の広告を喉に突っ込んでやるぞ!」


 俺の脅しが効いたのか、あるいは単に新しい「知識」を食べるスペースを空けたかっただけなのか。宝箱怪は勢いよく蓋を開け、「オエェッ」という音と共に、全身半透明の粘液まみれで、妙な匂いを放ち、胸にボロボロの本を抱きしめたセシィを吐き出した。


 セシィは床にへたり込み、激しく咳き込んでいる。だがその瞳は、極度の興奮に輝いていた。紅潮した頬には満足げな笑みが浮かび、その目はトロンとしている。まるで、極上のセックスを終えた後のようだ。


 彼女は自分の無様な姿も構わず、同じように濡れた本を掲げ、戦利品のように言った。

「貴重なサンプルの確保に成功」


 成功するかっつーの! お前、あと少しで箱のウンコになるところだったんだぞ!

 俺が説教しようとした矢先、彼女の視線が、倉庫の隅でまだ本を齧っている最後の一匹を捉えた。


 まずい!


「……あ……まだ……まだある……足りない……まったく足りない……私の身体が……もっと多くの知識で満たされることを求めている……」

 彼女はそう呟くと、再び狂乱の眼差しで、もがくようにそちらへ向かおうとする。


「いい加減にしろ、このクソ研究者! 次に死にに行ったら、もう知らんからな!」

 セシィは身をよじり、どこか拗ねたような、媚びるような声で懇願する。

「離して! 知識が……分析を待っている……中に入れて……一回だけでいいから……もっと……」


 自分の生存率を先に分析しろ、アホ!


「ああああ! 知識! 我が知識よ! 我が内へ来たれ!」


 セシィは俺の手を振りほどき、またしても……もう何も言う気になれん。


「本当に、懲りない女だな、お前は!」

 俺は額に手を当て、溜息をついた。今度は力も込めず、ただ、彼女の背中をポンと叩いてやる。

「おらよっ」

「んぐっ!」

 彼女は声と共に箱の中へ吸い込まれ、再び丸呑みにされた。

 宝箱怪は、またゲップをした。


 セシィさんよ、しばらくその中で反省してな。

 セシィを飲み込んだ宝箱怪は、仲間たちの惨状に気づいたのか、ブルブルと震えながら後ずさり始めた。


「お? 怖気づいたか? 成仏しな」

 俺は新しい紙の玉を作り、にやつきながら詰め寄る。

「怖がるなよ、お兄さん。いいもん見せてやるぜ。『一夜で億万長者!ネズミ講で夢を掴め!』……」


 宝箱怪はそれを見て、さらに速いスピードで逃げ出した。


「待てコラ! 俺の洗礼を受けやがれ!」


 紙の団子を持って後から追いかけ、よろめきながら、場面はとてもおもしろい。

 それは戸棚を押し倒し、俺は雑物につまづき、倉庫の中はあわただしい。

 やっとそれを隙間に閉じ込め、その蓋はきっちり閉まり、決してあけない。


 ちっ、往生際が悪い!


「このぉ!」

 俺は近くにあった木の棒をテコにして、奴の蓋をこじ開けようとする。

「開けろ! FBIだ! お宅訪問だぞ!」

 奴は必死に抵抗し、蓋がギシギシと音を立てる。

「観念しやがれ! とっとと成仏して、来世は箱以外に生まれ変われ!」


 なんだこいつ、妙に力が強いな! 求生本能ってやつか? 箱のくせに!

 九牛二虎の力を使い果たし、ようやく隙間をこじ開けた俺は、すかさずその隙間に紙の塊をねじ込んだ。


「くれてやる! 『オールオッケー』印だ! 満足するだろ!」


 いつもの震え、いつもの光、いつもの崩壊音。

 世界はようやく、静寂を取り戻した。


「お……終わった……」

 俺はその場にへたり込んだ。スライムと競争するより疲れた。

 倉庫はめちゃくちゃだ。木箱は倒れ、ガラクタが散乱し、そして目の前には、全身ずぶ濡れで、衣服が乱れ、まだ何かを反芻している女が一人。


「構造解析……概念の残滓か。研究の価値あり」


 もう、こいつに構う気力もねえ。

 今の俺の頭の中は、15クーパーを受け取って、どこかでうつ伏せになって寝たい、それだけだった。


 …………


 ギルドに戻った俺は、疲れ切った体を引きずり、カウンターに依頼書を叩きつけた。

「依頼……完了だ……」

「お早いお帰りでぇ~、イノウィン様。少々お待ちを。任務完了の確認をいたしますのでぇ~」

 彼女は小さな水晶玉(通信用だろう)を取り出し、小声で何かを話している。

 しばらくして、彼女は水晶玉を置き、笑顔のまま言った。

「確認が取れましたぁ~。依頼は確かに完了ですの。ですがぁ、倉庫の管理人さんから連絡がありまして、倉庫内の保管箱がいくつか破損し、商品も散乱していたとのことですの。清掃と賠償が必要になりますので、修理費と清掃費を合わせて……30クーパーになりますぅ♡」


「はぁ!? どういうことだ!? 金払うどころか、こっちが払うのかよ!」

 俺は思わず飛び上がりそうになったが、尻の激痛で再びカウンターに突っ伏した。


「はいですぅ~♡」

 イヴェットさんは頷き、依頼書の、虫眼鏡でもなけりゃ読めないような小さな文字を指差した。

「ご署名いただいた契約書にも、はっきりと『発生した損害は報酬から差し引く』と書いてありますので。報酬が15クーパー、損害賠償が30クーパー。差し引き、15クーパーのお支払いをお願いしますね。もちろん、この分はそのまま借金に加算させていただきますので♡」


 俺の目の前が、真っ暗になった。

 金を稼ぐどころか、借金が5フリシル(300クーパー相当)から、5フリシルと15クーパーに増えただと?


 なんだこの悪徳ギルドは!? 確かに倉庫は荒らしたが、清掃費がそんなに高いわけねえだろ! 大体、俺たちがいなけりゃ、被害はもっと大きかったんだぞ!


「それとぉ、拝見したところ、お怪我をされたようですねぇ~。ギルドでは、簡単な治療を無料でご提供しておりますけど、いかがです?」


 無料治療? この悪魔に、ようやく良心が芽生えたか?


「どんな治療だ?」


 イヴェットさんはカウンターの下から小瓶を取り出した。中には怪しげな虹色の液体が入っており、瓶には見慣れたラベルが貼られていた。

『オールオッケー』印・万能治療薬。


「結構です! 大丈夫です! 尻はなんともありません! 自然治癒で治します!」

 俺はその薬瓶がまるで猛獣であるかのように、後ずさった。


「そうですかぁ? でも、歩き方がとても不自然ですわよぉ? 両足が閉じきらない感じで、まるで何かデカいヤツに後ろからガッツリやられたみたいな……」

「ははは、これが俺の歩き方でして! 大臀筋が鍛えられるんですよ! はは……失礼!」

 俺はまだサンプルを研究しているセシィを引っ掴み、逃げるようにギルドホールを後にした。


「またお越しくださいねぇ~♡ Fランク依頼は、まだまだたくさんありますので!」


 二度と来るか、クソが!

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