体液を頂く前に、血液か精液かくらい言ってくれよ!
俺は今、とてつもなくマズい状況に陥っている。
マジで。
「セシィさん! ちょっと、ご相談が!」
「何だ」
「そちらの……お手洗い、お借りしてもよろしいでしょうか? 一分! いや、三十秒で済ませますんで! お願いします!」
「却下だ」
「なんでだよぉっ!? これ、基本的人権の問題でしょうが! いくら俺が実験サンプルだからって、排泄する権利くらいあるだろ!」
「記録によると、検体001は実験プロセスに入る前、強い生理的アングザエティを示している。これは正常な反応だ。適度な緊張は、未知の刺激に直面した検体のポテンシャルをより強く引き出す助けとなる。君の不安は、今回の実験データとして完全に記録させてもらう」
はぁ?
これが『生理的アングザエティ』だと?
なんだそのクソみたいな理屈は! このポテンシャルが暴発でもしてみろ! このラボ全体を巻き込む、黄色い大洪水になるんだぞ!? それこそがお前の観測したいデータだってのか!?
「ち、違う! 誤解だ! これは不安なんかじゃない! 人間の本能! 本能なんだよッ!」
「検体が内面の期待と恐怖を隠蔽しようと試みる様子を観測。記録。ストレス状況下において、検体の言語論理能力に退行の兆候が見られる。興味深い」
期待してるわけねぇだろ、このアホが! 俺が期待してんのは便器であって、クソみたいな実験じゃねぇんだよ!
つーか俺の論理のどこが退行したって!? どう考えてもてめぇの理解能力に深刻なバグが発生してんだろうが!
そんなこんなで、まったく噛み合わない会話を続けながら、俺たちは長い廊下を歩いていった。
やがて、一際大きな扉の前で足を止める。そこには「危険」「立入禁止」「セシィ専用錬金房」といった、物騒なプレートがこれでもかとばかりに掲げられていた。
ここだ、ここ。
前回ここに来た時の光景が、昨日のことのように思い出される。いや、むしろ思い出したくもないんだが。セシィの奴に簀巻きにされた、あの悪夢がな。
うわー、実家に帰ってきたみてぇな安心感! 懐かしすぎて死にそう!
扉が押し開けられる。中には無数のガラス器具が林立し、様々な色の発光する液体が満たされていた。
そして、ラボのど真ん中には、前回はなかったバスタブほどもある巨大な錬金釜が鎮座していた。
中には、ゼリーみてぇな質感の、淡い蛍光を放つ粘性を帯びた液体がなみなみと満たされている。
「着いた」
ゴミ袋でも放るかのように、俺は冷たい床の上に無造作に転がされた。
「おい、もうちょい優しく扱えねぇのか? モノは『丁寧な梱包、迅速な発送』が基本だろ、常識的に考えて」
ん? なんかおかしいな。いつから俺は自分を「モノ」だと認識しちまったんだ?
違う、俺は生身の人間だ! 抵抗する! 俺だけの人権を取り戻すために!
まずはトイレに行く権利からだ!
「おいおいおい、何してんだ!?」
「実験サンプルの逃走を防ぐ、必要措置だ」
「あああっ!!! 離せ、マジで、ガチで、リアルにヤバいんだって! 考えろ! もし俺がうっかりお前の大事な本を汚しでもしたら、取り返しがつかねぇことになるんだぞ!」
「記録。検体が言語による脅迫を実行。実験に対する極度の反抗と判断」
「クソが! ブス! 陰キャ女!……だからお願いしマス、どうか、先に……おい、シカトすんな!」
セシィは俺を完全に無視し、巨大なガラスの「バスタブ」のそばへ歩み寄る。その瞳には、ほとんど狂信的とも言える光が宿っていた。
狂熱と愛がごちゃ混ぜになった、ヤバい奴の表情だ。
やっぱお前にとっちゃ、知識ってのが誰よりも大事な恋人なんだな?
聞くまでもねぇか。
「美しい……! ああ、なんという美しさだ! この混沌、この不確定性、この無限の可能性……! これこそが、世界の原初の姿……!」
「で、結局なんなんだよ、アレは」
俺は必死に内股になり、膀胱へのプレッシャーを少しでも和らげようと涙ぐましい努力を続けた。
「今回の実験の核――『擬態アペイロン流体』だ」
「あぺ……なに?」
「アペイロン。古代の賢人アナクシマンドロスは、万物の根源を水、火、気、土といった明確な『規定性』を持つ物質ではなく、いかなる規定性も持たない、無限にして永遠なる原初質だと考えた。それこそが『アペイロン』、すなわち『無限定なるもの』だ」
アナクシマンドロスだと? 待て、えーっと……って、考えてる場合か! こちとら膀胱がキャパオーバー寸前で、それどころじゃねぇんだよ!
つーか、哲学者ってのはどいつもこいつも頭のネジが一本飛んでんのか? なんでそんな『根源』だのなんだのにこだわるんだよ。
「私は三年近くを費やし、一万を超える禁忌の錬金素材を用いて、ついにこの理論上の物質を再現した。これは不安定で、定義されることを拒む。検体001、君はこの世界におけるイレギュラーなサンプルだ」
「だから?」
「だから、君をこの中へ投入する。イレギュラーな魂が『無限定』な物質と出会った時、いかなる反応が起きるかを観測するためだ。君は世界の始まり、原初のエネルギー形態に還元されるのか? あるいは、君の特異性がこの『アペイロン』に新たな特性を与えるのか? いずれにせよ、歴史上最も偉大な発見となるだろう!」
無限定?
ふざけんな!
どう見ても「限定」されまくりじゃねぇか! 色もあれば状態もある、光沢だってあるし、明確な形のガラス容器に収まってる! 規定性マシマシだろうが!
って、待て! こいつ今なんつった?
「原初のエネルギー形態に還元される」? それ、要するに死ねってことじゃねぇか!
メイ様、ごめんなさい俺が悪かったです! 次は(多分来世で)誠心誠意お仕えしますから、どうかこのイカレ女の元からお救いくださいぃぃぃ!
「だが断る! 還元されるなんざ、まっぴらごめんだ! 俺は異常なんかじゃねぇ、ごく普通の人間だ! 男で、17歳、身長175センチ、黒髪黒目の、デカいおっぱいと長い脚の綺麗なお姉さんが大好きな、ごく普通のな!」
「検体が自己の規定性を維持するため、激しい言語抵抗を開始。有効なデータとして記録する」
セシィは俺の抗議をガン無視し、手元のボードにまた何かを書き付けた。
「実験を開始する。協力しろ」
「協力できるか、このタコ!」
俺は身を翻して逃げ出そうとしたが、見えない力が瞬時に体を縛り付け、身動き一つ取れなくさせた。
魔法か! このキチガイ女!
俺の服が、まるで無数の手で引き裂かれるかのように、ビリビリと破れていく。あっという間に、最後の尊厳であるパンツ一丁の姿にされてしまった。
「やめろ! この変態! 人の服を勝手に脱がすな!」
「衣服は後天的に付与された社会的記号であり、実験の純粋性を阻害する。剥離するのは合理的判断だ」
合理的じゃねぇよ、バーカ! せめて本人の同意くらい取れや!
さらに、その力は俺の体をゆっくりと持ち上げ、宙吊りにすると、巨大なガラス容器へと少しずつ、少しずつ移動させていく。
俺の体は、ねっとりとした『根源』の中へと、じわじわと沈められていった。
……意外にも、中は生温かい。
だが、今もっとも深刻な問題はそこじゃない。
俺の膀胱は、ついに忍耐の限界点を突破した。
括約筋が、最後の砦を守る悲壮な兵士のように、怒涛の勢いで押し寄せる敵軍を前に最後の悲鳴を上げた。
だめだ……もう……出る……。
俺は絶望に目を閉じた。
俺、しがない異世界転生者。いわゆる『根源』の中で、史上最も恥ずかしい方法で、その若き生涯を終える。
さよなら、お母さん。
さよなら、パソコンの中に残したままの未視聴アニメと未クリアのゲームたち。
さよなら、俺のまだ見ぬ輝かしき青春……。
……。
……。
……あれ? まだ意識が……?
いやいや、気のせいだ。きっと。
……。
……はは、これが死後の世界ってやつか。人間、死んでも意識ってあるんだな、はは……。
……全然笑えねぇ。
俺は目を開けた。そこは変わらずセシィの錬金房だった。
そして、俺の下半身を浸している『根源』が、何やらとんでもないことになっていた。
中の液体がグツグツと沸騰し始め、激しく色を変え始めたのだ!
黒、白、赤、黄、紫、緑、青、灰……って、脳がバグってきた。
とにかく、ありとあらゆる色がチカチカと目まぐるしく点滅している。
「こ、これは……!」
セシィが初めて、驚愕の表情を浮かべた。
次の瞬間、釜の液体が目に見える速さで膨張を始める。
――パンッ!
風船が破裂するような音と共に、ガラス容器が内側からの圧力で粉々に砕け散った。
火山が噴火するように、大量の泡状のゼリーが錬金室全体に溢れ出す。
俺はその凄まじい衝撃で壁まで吹き飛ばされ、ねばつくゼリーに磔にされた。
まるで琥珀に閉じ込められた虫けらだな。
唯一の違いは、この『琥珀』、なんだか……ちょっと複雑な匂いがすることか。
終わった。マジで終わった。
こいつの三年間の研究成果をブチ壊した上、ラボをゼリーパーティ会場に変えちまったんだ。
絶対に殺される。
いや、死ぬより一万倍はマシな、もっと恐ろしい方法で嬲り殺しにされるに違いない。例えばスライスされて研究されたり、名状しがたい何かの錬金素材にされたり……。
俺は目を閉じ、最後の審判を待った。
しかし、聞こえてきたのは怒号ではなく……喘ぎ声?
「はっ……はぁ……っ」
恐る恐る片目を開け、声の主を見る。
セシィは、めちゃくちゃになったラボの中央に呆然と立っていた。
だがその顔には、狂喜と恍惚が入り混じった、ほとんどイッちゃってる表情が浮かんでいる。頬は紅潮し、口の端からはよだれまで垂れていた。
あ……これ、助かったわ。とにかくご機嫌ならそれでいい、うん(俺、死ななくて済む、やったぜ)。
「成功した……! まさか……本当に成功するなんて! 最も極端な『規定性』をもって、『無限定』の混沌を起爆させるだなんて……! そうか……『無』は『有』の対極にあらず……『有』が極まり、定義不能となった先に生まれるもう一つの形態だったというのか! ああ、素晴らしい! この、脳天を貫かれるような感覚……! あああっ……イク……イッてしまうぅぅぅ!」
うん、うちの子は通常運転だな。精神状態も至って安定している。
どこが不正常かって?
うちの子はずっとこうですよ。
たまには自分の原因を探してみたらどうです?
長年、自分をちゃんと調教してきましたか? 知識への渇望を保ってますか? ねぇ?
ドラッグでもキメたかのように、セシィはふらふらと一回転し、その視線が再び壁の俺にロックオンされた。
おいおいおい、国宝級の秘宝でも見るような、ねっとりとした独占欲丸出しの目で見んなよ!
「検体001、貴様という男は……」
彼女は一歩、また一歩と俺に近づいてくる。靴がねばつくゼリーを踏むたび、「ぢゅ、ぢゅ」という生々しい音がした。
「貴様は一体……! 一体何者なのだ! 己の存在だけで、かくも容易く古代哲学の根幹を覆すとは! その体には、あとどれほどの秘密が隠されている……! ああ、知りたい……! 貴様を内から外から、隅々まで、徹底的に研究し尽くしたい……!」
「あ、ははは、ご満足いただけたようで何よりです。なので、そろそろ俺を解放していただけると……」
「そう急ぐな」
彼女は俺の顔に付着したゼリーを指でそっと掬い取り、ぺろりと舌で舐めた。
「……うむ、やはりだ。検体001の体液と混ざったことで、『アペイロン流体』は未だかつてないほど活性化している。駄目だ、このような表層的な接触では、まったく足りん。君の特異性をより深く研究するためには……個体の生命ポテンシャルを最大に反映する体液サンプルを採取し、詳細な成分分析を行う必要がある」
は? 今なんて?
体液サンプル?
「あの……その体液ってのは、具体的にどれのことでしょうか?」
「決まっているだろう。温かく、粘性を帯び、被検体の情緒と生理機能がピークに達した際に抽出することで、最高の活性を確保できる液体。無数の生命がその中に息づき、一つ一つが唯一無二の存在……」
温かい……粘性……生理的ピーク……。
待て待て待て! 心の準備がまだできてねぇんだよ! そんなこと、いきなり言われても無理だって!
「適切な物理刺激は、サンプルの質の向上に繋がる」
セシィはそう付け加えると、黒いローブのボタンに手をかけた。
「採取の過程でこの忌々しいゼリーに服を汚されるのは避けたい。先に脱いでおこう」
ローブが滑り落ち、中に着ていた濃色のシュミーズが露わになる。
だが彼女はまだ不満なのか、さらにブラウスのボタンを外し始めた。
「ま、待て、待ってくれ! 一体何をする気だ!?」
「採取の準備だ。挿入して採取する以上、これらの衣服は邪魔になる」
当然のことのように言いながら、彼女はボタンを二つ外し、雪のように白い、滑らかな肌を覗かせた。
「少し痛むかもしれんが、確かな答えを得るためだ。我慢しろ。あと、下手に動くな。お互いのためにならん。実を言うと、私もこういうのは初めてでな。手際が悪いかもしれんが」
初めて!?
お前、こういうことまで初めてなのかよ!?
「あの……こういうのって……普通、自分でやるもんじゃ……?」
「当然だ。外部介入はデータの汚染を招く。サンプルが自発的に完遂せねば意味がない。だが、私が傍らで補助し、君の情緒が早くピークに達するよう手伝うことはできる。どのような体位で採取したい? 立位か、臥位か? 現状、壁に嵌っていることを考えると、立位一択かもしれんな」
もうやめてくれ!
なんで俺が、異世界のイカレ錬金術師のラボで、こんな背徳的な話題について真剣に議論しなきゃならねぇんだよ!
つーかお前の言う「補助」ってなんだよ!?
……いや、待てよ。考えようによっちゃ、悪くない話なのでは?
どうせ逃げられないなら、いっそ受け入れて楽しむしか……!
「ちっ……」
ん? 今、舌打ちが聞こえたような?
「丁度いい注射器が見当たらんな。仕方ない、時間が惜しい。血液の活性が落ちる前に、これで代用するか」
彼女は瓦礫の山から、一本の……一本の、錆びついた刃こぼれのある小刀を抜き放った。
注射器? 小刀?
まさか……こいつの言う採取ってのは、俺が考えてたアレじゃなくて……その……。
はー、びっくりした。なんだ、ただの採血か。病弱だったガキの頃、病院で散々やったわ。
……いや待て。
採血に刃物を使うか、普通!?
「おい! そのナイフで何する気だ!? 採血じゃなくて放血の間違いだろそれぇ!」
俺は、錆びたナイフを手にじりじりと迫ってくる彼女の姿に、本気の恐怖を覚えた。
「こっちに来るなぁぁぁぁっ!!!」
俺は全身全霊の力を振り絞り、ついに壁のゼリーから脱出すると、転がるようにして錬金室の扉へと走った。
「待て、検体001! 動き回るな! 血液データに影響が出る!」
背後からセシィの苛立った声が飛んでくる。
待てと言われて待つ奴があるか! こっちは命が懸かってんだよ!
俺は金属製の扉をこじ開け、廊下へ飛び出した。
――ドンッ!
二歩も走らないうちに、俺は柔らかく、弾力に富んだ何かに激突した。
「きゃんっ」
媚びるような、それでいてどこか嬉しそうな嬌声が響く。
「イノウィンお兄様ったらぁ〜、今日は随分と乱暴なのねぇ。でも、そんなお兄様も……」
「あああああ、どいてくれぇぇぇ!」
申し訳ありません陛下、俺はただ、純粋に生きたいだけなんです!
「あぁん、お兄様が初めて私を痛くしてくださったわ! 今日を『イノウィンお兄様が私を激しく突き飛ばした記念日』に制定しなくては!」
「陛下! セシィ様! 遊んでる場合じゃありません!」
廊下の向こうから、切羽詰まった声が飛んできた。
オルトウミだ。彼は大量の書類を抱え、息を切らしながらこちらへ走ってくる。
「一大事です! 聖理教会の浄化部隊が、ゼノ草原の防衛線を突破! 帝国国境に向け、高速で移動中との報告です!」 ゴワゴワの麻布が、俺の繊細(自称)な現代人の肌を、特に……特に、俺の弟さんをヤスリがけしてくる!
一歩進むたびに、股間が擦れてヒリヒリする!
快適なリネン生地とか、そういうファンタジーはどこに行ったんだよ!?これ、どっかの監獄のゴミ箱から漁ってきたんじゃないのか?それとも、異世界式の新しい拷問器具か?俺みたいな肌の弱い(自称)転生者をイジメ抜くための!?
ε=(´ο`*)))はぁ……もう何も言うまい。
前を歩くエリノさんは、背筋をピンと伸ばし、まるで定規で測ったかのように規則正しい足取りだ。「素人は近寄るな、玄人も来るな」オーラが全身から駄々洩れである。
で、あのカント様はというと……。
うん、彼女はほとんどの時間、存在しない。
エリノさんが何やら葛藤している様子で、時折ブツブツと何かを呟きながらカント様を召喚するんだ。
すると、どうだ?カント様が現れるや否や、その「痴漢の手」が遠慮なくエリノさんの頬や綺麗な金髪に伸び、挙句の果てには胸当て鎧の下に潜り込もうとする始末!口からは顔が赤くなるようなヤバい発言がポンポン飛び出す!
最終的には、エリのさんが真っ赤になって俯くと、カント様は「プツン」と、まるで最初からいなかったかのように消えてしまう。
この召喚獣……いや、この哲学者、モザイク必須なことしか言わねぇ!本当に歴史の教科書に載ってた『純粋理性批判』の著者か!?偽物だろ?それとも、異世界ではキャラ崩壊が流行ってんのか?
この二人……十中八九、いや十中十、普通じゃない。まさか、あの……アレか?お察しの通り、そういう関係なのか?
間違いない!だってこのやり取り、特定の「大人向け」な作品でしかお目にかかれないやつだもん!
この荒野は、俺が思っていたよりずっと広かった。最初の変態スライム以降、奇跡的に他の危険には遭遇していない。
沈黙は金、なんて言うが、このままじゃ俺が化石になっちまう。
ダメだ、何か話題を振って情報を引き出さないと。モンスターに殺される前に、この沈黙に殺されるか、カント様の突然のセクハラ登場で心臓発作を起こすのが先だ。
「あの……エリノさん?ここって、一体どういう場所なんですか?ていうか、この世界、名前とかあるんですか?」
「フィロランド大陸、と」
「フィロランド……なんか哲学っぽい響きっすね……。で、今の世界の状況ってどうなんです?さっきのスライム、普通じゃなかったですよね。自我があるみたいで」
「それすら知らないとは。よほど閉鎖的な土地から来たのですね。大陸の現状は……芳しくありません。数百年前に起きた『万哲の源』事変以降、哲学概念がマナを汚染し、現実を歪めてしまったのです。ロソフィ、先ほど貴方を襲ったような存在が、至る所で発生しています。聖理教会が秩序を維持し、異端とロソフィを排除。対して自由思辨学院のような異端組織が、陰で問題を起こしている」
聖理教会?いかにもお堅い公的機関って感じだな。自由思辨学院?名前からして面倒事を起こしそうだ。
つまり、この世界は物理的に危険なだけじゃなく、思想的にも分裂してるってことか?
マジかよ。俺はただ転生しただけじゃなく、哲学概念っていう名の肥溜めにダイブしちまったのか?やめてくれよ、俺は強力な魔法で魔王をぶっ飛ばす予定だったんだぞ!魔法も使えないのに、これ、詰んでないか?
「哲学概念の汚染?じゃあ、さっきのスライムは……」
「『オッカムの剃刀』という哲学概念の断片に汚染され、生まれたロソフィです。あれらは歪んだ概念に基づき行動するため、非常に危険です」
俺の口元がヒクついた。危険どころの騒ぎじゃねぇよ。人の服を剥ぎ取って、人体の最適化までしようとしてくるんだぞ!俺の判断がもう少し遅かったら、今頃俺はアストルフォ君になってたかもしれねぇ。しかも、彼にはあるモノが、俺にはない状態でだ。
「それって、俺たちの世界の『クライアント』みたいっすね。こっちの都合なんかお構いなしに『最適化』を要求してくるあたりが」
「クライアント?新たな哲学流派ですか?『削減』の道を説く?」
「いえ、ロソフィより恐ろしい生物で、無理難題を押し付け、おまけに『無限の修正』を要求して、こっちの精神を削ってくるんです」
「……危険な存在のようですね。排除すべき対象です」
「そうそう。で、その……ここではどうやったら強くなれるんです?俺も……俺も強くなって、あなたを守れるように(自分でも信じてない)なりたいな、なんて。あなた、あの……すごい銀髪のお姉さんを召喚できるみたいじゃないですか?」
エリノさんの体が、カクンと凍りついた。後ろからでも分かるくらい、動揺している。
彼女はくるりと振り返り、頬を赤らめ、視線を泳がせた。
「カ、カント様のことですか!?み、見ましたか?いえ、あれは……あれは……稀少な魔法です!そう、古代の召喚魔法!魔力の消費が激しくて、不安定なんです!」
おいおい、その真っ赤な顔が全部物語ってるぞ、少女!それに「古代の召喚魔法」って言い訳、古臭すぎだろ!三流ファンタジー小説でも今時使わねぇよ!
プツン。
銀髪のカント様が、彼女の隣にふわりと現れた。物理法則を無視した「お山」が、その登場に合わせてブルンと揺れる。彼女は細い指を自身の紅い唇にそっと当てた。
「あらあら、エリノ。絶対命令によれば、正直こそが最高の善よ。自分と他人の欲望に嘘をついても、本当の満足は得られないわよ〜?そんなに身体を硬くして……まさか、お姉さんにあなたの内なる矛盾がどれほど『湿っている』か、じっくりと先験的分析をしてもらいたいの?」
出たよ出たよ!このクソみたいな台詞!「先験的分析」と「湿っている」がどう繋がるんだよ!?カント様、あなたの理性は全部そういう方向で消費されてるんですか!?
「ああああ!カント様は少しお休みください!」
カント様は不思議そうに首を傾げたが、素直に「プツン」と消えた。
エリノさんは大きく息をつくと、俺を鬼の形相で睨みつけ、動揺を気迫で隠そうとした。
「と、とにかく!あれは深遠なる力!貴方のような素性の知れない者が詮索すべきことではありません!それに『哲契者』……いえ、この力を使える者は万に一人!非常に稀なのです!貴方がなれるなどと、妄想しないことです!」
ああ……墓穴掘りまくりだぜ、騎士様!その説明、ザルより穴だらけだ!「哲契者」って単語、漏れちゃってるし!さっきのカント様も明らかにバラそうとしてたじゃねえか!嘘つくの下手すぎだろ!
俺は心の中で嵐のようにツッコミを入れながらも、顔では「へぇーすごいっすね、なるほどー」という表情を必死に作った。
まあ、服をくれて道案内もしてくれてるんだ。これ以上追及して、彼女が本当に頭から煙を出すのも可哀想だ。
「魔法、ですか……すごいんですね」俺は話題を変えるために相槌を打った。「じゃあ、普通の魔法っていうのは?」
「『理型』の力の前に、原初の魔法など脆弱で不安定な、旧時代の遺物でしかありません。真の強者とは、哲学を理解し、実践し、『理型』を編む者を指します」
「さっきの……カント様みたいな?あの人、めちゃくちゃ強そうだし、えーっと、すごく『個性的』でしたよね?」
エリノさんの顔が、また一瞬で赤くなった。早口になる。
「カント様は特例です!き、極めて稀な存在なのです!彼女のことはもう聞かないでください!それに、あのような目つきで思い出すことも許しません!」
「どんな目つきです?」
「その……不純な妄想に満ちた目つきです!『騎士行動規範』によれば、他者の顕著な特徴を凝視し、呆然とすることは、極めて無礼にあたります!」
「俺は哲学について考えてたんですよ!すごく純粋に!カント様のあの偉大な身体……じゃなくて、偉大な思想が、俺に哲学的なインスピレーションをくれたんです!」
なるほど、理解した。この世界、魔法使いは最下層ジョブで、哲学者が環境トップってわけか。
でも俺、哲学なんてクソほども知らねぇよ!誰が好き好んでそんなもん勉強するか?専門外なんだよ!
「哲学」っていうなら……せいぜい教科書で齧った「唯物論」くらいか?あれ、役に立つのか?
俺の心は一気に冷え込んだ。俺の異世界ライフ、哲学モンスターから逃げ回るだけで終わるのか?俺の俺TUEEEEEE夢はどこへ?
ぐぅぅ〜〜〜。
不意に、情けない腹の音が鳴り、俺の悲劇的な自己憐憫を中断させた。
そりゃそうだ。あれだけ大騒ぎしたんだ、腹も減る。
「エリノさん、何か食べるものあります?」
エリノさんは荷物から小さな布袋を取り出し、黒くてカチカチの棒状の物体と、小さな水筒を俺に渡した。
「これを。節約して食べるように」
俺はそれを受け取った。ずしりと重い。
これ、本当に食い物か?建築資材の類じゃなくて?
疑いながらも指でつまみ、信じられない思いで地面に思いっきり叩きつけてみた。
ガンッ!!!
すげぇ!黒パンは無傷なのに、地面に小さなクレーターができたぞ!
腕は衝撃で痺れ、パンは手から吹っ飛んでいった。
「おい!これを食い物だと!?攻城兵器としても十分通用するレベルだろ、これ!」
やはり、実践は真実を教えてくれる。伝説は本当だった!こいつは戦場で武器になる!
「黒麦パンは食物繊維が豊富で、保存が利き、健康を害することもありません。水でふやかして食べることを推奨します」
俺は苦虫を噛み潰したような顔で、なんとか水で少しだけ柔らかくし、まるでサンドペーパーを飲み込むように一欠片を喉に押し込んだ。喉が傷ついた気がする。
「どうですか?粗末ですが、必要なエネルギーは摂取できます」エリノさん自身は、まるで美食でも味わうかのように、平然とそれを齧っている。
「……歯が鍛えられて、いいっすね」
生まれて初めて、学校の学食がご馳走に思えた!カップラーメンでもいいから食わせろ!
「エスタット城に着けば、商会でまともな食料が買えます。安くはありませんが」
商会?金儲けできそうな響きだ!金を稼いだら、絶対に小麦粉と米と醤油を手に入れてやる!白米に漬物だけでも、これより一万倍マシだ。
この異世界人どもに、本物の美食ってやつを教えてやる!炒め物!
まあ、俺の料理スキルはカップ麺と目玉焼きが限界だが、理論だけは豊富だ!いずれにしても、私も無数のグルメ動画の中で育った!
美食への妄想を胸に、俺たちが再び歩き出そうとした、その時。またしてもカント様が現れた。
彼女は俺の胃袋の空虚さ、いや、空腹で萎えきった俺の……魂を見透かすように、にこやかに微笑んでいた。
「あらあら、可愛いエリノ。資源配分の正義について悩んでいるのかしら?生命体の欲求が満たされないのは、調和に反することよ。ご覧なさい、あの子の虚ろな瞳。まるで餌を待つ雛鳥のよう……お姉さん、空っぽの器がゆっくりと満たされて、満足の喘ぎを漏らすまでを見届けるのが大好きなの。この欠乏から充足へのプロセスこそ、実践理性における最も美しい旋律ではないかしら?彼に食物を与え、存在の充実を実感させてあげること。それこそが、最高の道徳律よ」
言い終えると、彼女は俺にウィンクを飛ばしてきた。そこらのアニメのサキュバスよりよっぽどサキュバスだ。そして、エリノさんの羞恥と怒りに満ちた表情の中で、再び消えていった。
助けて!また哲学用語でエロいこと言ってる!こいつ、どういう品種のカントなんだよ!?
ていうか、なんで「満たす」とか「充実」とか言うたびに、視線が俺の下半身にいくんだよ!?俺の胃袋と下半身に何の関係があるんだよ!?
ない!
「あのカント様って、いつもあんなに分かりやすく話してくれるんですか?」
「カント様に無礼を働かないでください!あの方の言葉一つ一つには、深い……深い……」
「分かります、分かります。実践理性の旋律、ですよね」
「貴様……!」エリノさんの顔がまた赤くなり、手が剣の柄にかかった。
「落ち着いてください、騎士様!理解と賛同を示しただけですから!」俺は慌てて両手を上げた。
もう分かった。この世界、まともじゃない。まともな人間が一人もいない。
……
どれくらい歩いただろうか。景色は相変わらず代わり映えしないが、遠くに街の輪郭がおぼろげに見えてきた。
「まだ着かないんですか、騎士様」
「もう一息です。日没までにはエスタット城の城門に着けるでしょう」
「今、まだ昼過ぎですよ!」
とぼとぼ歩いていると、俺のつま先が、何か柔らかいものに蹴つまずいた。
「うおっ、なんだこれ!?ロソフィか!?」
エリノさんが剣の柄に手をかけ、警戒しながら俺のそばに寄った。
彼女がゆっくりと草をかき分けると、そこにいたのは、深い色のローブを着た少女だった。乱れた黒髪が顔の一部を隠し、顔色は青白い。ピクリとも動かず、そばにはボロボロの本が数冊と、奇妙な瓶がいくつか転がっていた。
「遭難者でしょうか?」エリノさんはすぐに駆け寄り、しゃがんで様子を確かめる。「呼吸はありますが、微弱です」
彼女は水筒を取り出し、少女に水を飲ませようとした。
その時、気絶していた少女が、何かの匂いを嗅ぎつけたかのように、カッと目を見開いた!暗い紫色の瞳が、俺の……俺の下半身にロックオンされた!
そして彼女は、迅雷の速さで口を大きく開けると、俺がしゃがんだことで麻布のズボンがめくれ、ちょうど半分ほど丸見えになっていた尻の肉に——ガブリと噛みついた!
「ぎゃああああああーーーっ!!!」
俺は凄まじい悲鳴を上げた。尻に激痛が走る!こいつ、犬か!?
「離せ!離せって!俺は食い物じゃねえ!まだ何の活躍もしてないのに、喰われてたまるか!」
痛さのあまり飛び跳ねて振り払おうとするが、彼女はさらに強く噛み締めてくる!
「おい!離せってんだ、このクソ女!」
「お嬢さん!しっかりしてください!それは食べ物ではありません!それは……イノウィンの臀部です!」
「おい!そんな具体的に紹介しなくていいから、早く助けろ!」
散々もがいた後、少女は最後の力を使い果たしたかのように、ようやく口を離した。
「高タンパク……サンプルを分析……」
俺は尻を押さえ、痛みに涙目になっていた。そこには、くっきりと、よだれまで付いた歯形が残っていた!
なんなんだよ、もう!スライムには服を剥がされ、見知らぬ少女には尻を噛まれる!俺の身体には、何か特殊なフェロモンでも出てるのか!?
……まあ、悪くないかもしれない。
「ただ、お腹が空いていただけのようですね……」エリノさんはため息をついた。「見殺しにはできません。エスタット城まで、連れて行きましょう」
俺は地面に転がる、俺を噛んだ少女を見た。心の中では一万回くらい「嫌だ」と叫んでいた。
面倒だ!絶対に超絶面倒なことになる!この見た目、この行動、どう考えてもまともじゃない!こいつを連れて行ったら、俺の尻に安寧の日は訪れない!
「連れてく?で、どうすんだよ?こいつが目覚めたら、今度は反対側も噛まれてシンメトリーにでもなれってか?恩を仇で返すってレベルじゃねぇぞ!」
「『テッカーシュタイン家の家訓』第七条。遭難者を見捨ててはならない。たとえその行動が粗野であっても、騎士の器量をもって包容すべし、と」
「じゃあ、あんたんちの家訓には、包容した相手に噛まれた時の対処法は書いてあるのか?狂犬病のワクチンは打てるのか?魔王が遭難してても助けるのかよ?」
エリノさんは俺の言葉を無視し、少女を担ぎ上げようとし始めた。
だが、こいつをここに置き去りにして餓死させる?それは、さすがに……寝覚めが悪いか?
それに、もしかしたらこいつ、隠れた実力者かもしれない。ラノベの定番だろ?謎の美少女を助けたら、後で……まあ、噛まれたけど。
分かったよ、分かった。俺の良心が痛むからな(ほんの少し)、それと潜在的な戦力への投資だ(こっちがメイン)。俺、イノウィンは、かくも理知的で善良な男なのだ(自称)。
「しゃーねぇな、俺がツイてなかったってことで」
俺は歯を食いしばりながら尻をさすり、エリノさんと一緒に、驚くほど軽いこの少女を担ぎ上げた。
彼女に早く回復してもらうため(そして二度と俺を噛まないように)、俺は食料探しを名乗り出た。
梨のような野性の果物をいくつか摘み、食べられそうな野草も見つけた。
鍋はないので、見つけた割れた瓦を使い、石で即席のコンロを作って、エリノさんの水筒の水で煮込んだ。
醤油も塩も、調味料は一切ない。だが、俺はグルメ番組の記憶を頼りに、「白湯で煮た白菜」の真髄を再現しようと試みた……。
まあ、実際は「ただの水で煮た野草と果物のごった煮」だが。
「その行為は、『野外生存条例』第三章第七条に適合していますか?未知の植物には毒性がある可能性が……」
「大丈夫だって!見た感じ、毒はねぇよ!」俺は自信満々に(完全に勘で)言った。「異世界……じゃなくて、遠い故郷の味を楽しみにしてろって!」
俺の(自称)丹精込めた調理の結果、瓦の上には、不気味な色合いのペースト状の物体が誕生した。
あれ……?想像と違うな?どちらかと言うと、スライムの嘔吐物に近い。
その時、黒髪の少女が、ふっと目を覚ました。彼女は何度か瞬きをし、俺の手元にある「料理」に視線を固定した。
何も言わず、ただじっと見つめ、ごくりと喉を鳴らした。
「起きたか?」俺はできるだけ友好的な笑みを浮かべ、瓦を差し出した。「腹減ってんだろ?食うか?俺が作ったんだ」
少女は黙って瓦を受け取り、中にある名状しがたい物体を見ると、無表情のまま指で少しすくい、口に運んだ。
俺とエリノさんは、固唾をのんで彼女を見守った。
彼女は二、三度咀嚼し、少し間を置いてから、抑揚のない声で評価を下した。
「水分が過剰に蒸発、繊維の破壊が深刻。有効成分の損失は不明。食感は腐敗した泥に酷似、風味の層は単一。エネルギー補給の試みとしては失敗。生食の方が効率的と判断」
「……」
エリノさんが隣で「やはり……」という顔をしている。
場が、ひどく気まずい。
「ま、まあ食えるだろ?」俺は諦めきれずに尋ねた。
「可食。空腹を満たす目的に限定。美味という概念からは著しく逸脱」
そうかい、毒舌評論家かい。まあ、食ってくれただけマシか。
俺も腹が減っていたので、一口食べてみた。
おえぇぇぇっ!!!
なんだこれ!?酸っぱくて渋くて土の味がする!黒パンよりマズい!どうやってこいつは無表情で食えたんだ!?この子、味覚がぶっ壊れてんのか!?
吐き気をこらえ、食料を無駄にしないために(主に空腹のため)、俺は無理やり喉に押し込んだ。
「ん?少女、どうして続きを食べないんだ?」
「空腹は満たせるが、致死性の毒は見られないものの、主なリスクとして下痢、嘔吐、及び短期的な幻覚を誘発する可能性あり」
……今から喉に指突っ込んで吐いても間に合うか?
結果は……。
俺の腹が、激しい抗議の雄叫びを上げた!ゴロゴロと鳴り響き、猛烈な痛みが襲ってくる!
「ちょ、待って!俺、個人的な問題を解決してくる!」俺は内股になり、青い顔で、遠くの茂みに向かって猛ダッシュした。
「だから言ったでしょう!未知の植物は危険だと!条例第七章には明確に……」
「消化器系の拒絶反応は顕著。観測記録:サンプル007の調理行為は、高い自滅傾向を示す」
俺は茂みの中で苦痛に満ちた「出力」を続けながら、涙を流していた。
この異世界……野草まで俺をイジメてくるのか!それにあの毒舌女!いつか唐辛子と鉄鍋を手に入れて、本物の和風料理ってやつを見せつけてやる!
まずはこの腹の問題を解決してからだ!あああっ!
……
俺たちがエスタット城の城下にたどり着いたのは、夕暮れ時だった。
それは、平原に築かれた都市だった。
白い石造りの建物が、縦横まっすぐに、整然と並んでいる。そのシンメトリーな光景は、強迫観念を持つ者が見れば心が安らぐだろう。道行く人々も、多くは地味な色の服を着て、表情は平坦で、足取りは規則正しい。
これがエスタット城か。
この極度に規格化された光景と、俺の隣にいる、みすぼらしい格好の一団を見比べてみる。
俺はまるで、澄んだスープの中に落ちた一匹のネズミのようだ(俺はネズミじゃないが)。完全に浮いている。
「ようやく着きました。イノウィン、ここで……」
彼女が言い終わる前に、黒髪の少女が不意に俺の袖を掴んだ。
「貴方と行く」
待て待て?どういうことだ?俺に懐いたのか?あの野菜ペースト一杯で?それとも、このトラブル吸引体質が気に入ったのか?まさか、彼女の歯形がつくほど弾力のある俺の尻肉か?
「お嬢さん、貴方の身元は不明です。目的は何です?『辺境人員管理条例』によれば……」
少女は、ただ繰り返した。抑揚のない声で、俺をまっすぐに見つめながら。
「貴方と行く。食料が……ある、かもしれない」
「『かもしれない』って、その不確定な言い方、すげー不安になるんだけど!ていうか、なんで俺なんだよ!?ほら、この騎士様を見ろよ!正義感の塊だ!見るからに金持ち……じゃなくて、頼りになるだろ!この人について行った方が、安定した食料が手に入るって!」
「私は彼女を帯同することに同意していません!私の職務上、それは……」
「貴方、調理法が独特。研究価値、極めて高い」
「食い物じゃなくて、料理人としての俺が目当てかよ!しかも反面教師としてか!」
「……仕方ありません。イノウィン、彼女は一時的に貴方が管理してください。入城後、速やかに衛兵に彼女の身元を……ええと、名前は分かりますか?」
俺とエリノさんは、同時に少女の方を見た。
「セシィ。セシィ・ラヴクラフト」
「分かったよ、セシィさん。ついて来るのはいいが、三つ約束しろ!第一!二度と俺を噛むな!どこの部位もだ!第二!俺の料理を評価するな!第三……」
「実験材料の提供、考慮する」
「そういう意味じゃねぇよ!」
腹が、またズキリと痛んだ。
分かったよ。まずは、トイレを探そう。それから、噴射しない食い物を手に入れよう。




