格闘技会場にて
-----------はぁ~・・・凄かった!
美穂は試合後の余韻に浸りながら席を立った。
試合を観戦した後は、しばらくその場を動けなかった。
今期のチャンピオンを決める決勝戦であり、長らくファンだった総合格闘技の選手、和久井 元太の引退試合でもあったからだ。
相手は21歳で調子が上がっている若手の惇。
和久井とは師弟関係にある。
惜しくも和久井は破れてしまったが、小学生のころ和久井に憧れてこの世界に入り、直接指導を受けていたという惇は、試合後握手を求めに行くと、グローブをつけたままの和久井に頭を撫でられ、崩れ落ちるように号泣していた。
思わず美穂ももらい泣きしてしまったが、それは美穂に限らず会場全体ですすり泣きが起き、それと同時に健闘をたたえる拍手がいつまでも鳴り響いた。
試合後のインタビューも終わり、まばらに人が立ち始めたが、美穂はまだ余韻に浸りたくてしばらく座り込んでいた。
席の通路が狭いということもあるし、席がリングに近かったため出入り口からだいぶ離れていたから。
ようやく人並みも収まりかけたので席を立ち、会場を出ると外までの廊下はまだ人が大勢ゆっくりと進んでいる最中だった。
ほとんどの観戦客はカップルだったり友人同士だったりと、グループで観戦しに来ている人が多いようで、美穂のように一人で来ている人は少ないようだ。
小柄な美穂は持ち前の運動神経を発揮し、人と人の隙間をスイスイ通り、人ごみを進んでいった。
すると今度はすり抜けられないほどの人並みにもまれて、仕方がなく回りと歩調を合わせてのろのろと出口に向かっていると、追い越してきた後方の方から怒鳴り声が聞こえてきた。
「ぶつかったら誤るのが常識だろうが!」
「こんな人ごみでぶつからない方がムリだろうが!
こっちだって誰にぶつかったんだかわかねぇよ!」
どうやら中々前に進まない群衆に、観戦客がイラついてきたらしい。
「ぶつかった」という認識になるくらい衝撃があるほどぶつけた方がふざけていたのか、ぶつかられた方が神経質なのか・・・。
--------そんなことどうでも良いので、早くこの人ごみから出たい。
そう美穂が嘆息していると、延々と怒鳴りあう男性同士の他に、「キャー」という女性の悲鳴まで聞こえ始めた。
「この狭いところでナイフなんか出すな!」
どうやらどちらかがナイフを隠し持っていたらしい。
入場の際、手荷物検査があったがどういうわけかうまい具合にすり抜けたのだろう。
とにかく、興奮した客の一人がナイフを取り出した・・・という動揺の波紋が広がるのは一瞬だったようで、急に後ろから人の壁が美穂に押し寄せてきた。
ただでさえぎゅうぎゅうに人で詰め込まれたようになっていた廊下が、群衆が前に前にと動くため、圧迫感は満員電車さながらだったが、満員電車はその場で動かなければケガはないが、今は無理矢理にでも動かされてしまう。
運が悪かったのか、靴紐がほどけてしまい、誰かにその靴紐を踏まれてしまう。
その拍子に足は動かなくなり、でも後ろから人に押されるため廊下に倒れこんでしまった。
無数の人が美穂を踏みつけて逃げていく。
パキッ。ゴキッ。
身体のどこかの骨が折れる音と共に激痛が走る。
-------怖い!痛い!立たなきゃ!
起き上がろうと頭を起こすと、誰かの足がこめかみに当たる。
クラッと眩暈が起きると同時に再び廊下に伏せてしまう。
--------あ・・・。これ私ムリかも・・・。
全く動かなくなった美穂に誰一人として気づくことなく踏まれ続け、意識が遠ざかる直前にそう感じた。