番外 王妃 イレイン
――すべては自分の天下だった。
公爵家の令嬢として生まれ、エルヴィスに出会ったのは――彼が五歳、イレインが十歳の頃。
その頃にはすでに、婚約者として彼を支えるようにと両親からも伝えられていた。
それから五年後、国王夫妻が亡くなり、エルヴィスが十歳という幼さで即位することになった。即位に合わせ、エルヴィスとイレインは籍を入れる。
五歳年上のイレインは、彼よりも国内のことを熟知していた。彼よりも自分に相談されることが多く、優越感に浸り……エルヴィスの側近を自分の味方で固めることに成功した。
当然、エルヴィスの発言力は弱く、このまま自分の好きなように国を動かせる――そう、信じていた。
だが、エルヴィスが十五歳になる頃には、立場が逆転していた。
「――陛下が覚醒しましたの?」
「はい。氷の魔法が目覚めるの、早かったですね。これで王妃陛下も少しは楽に――きゃぁアアアッ!」
イレインはバシン、とエルヴィスのことを報告してきたメイドを平手打ちした。
それも、顔を狙って何度も。
わけがわからず泣き叫ぶメイドを冷めた目で見て、イレインはくすりと笑う。
「――すべて、私のものだったのに。ああ、イライラが止まりませんわ。――そうだ、ねえ、あなた。確か私よりも若かったですわよね。うふふ……」
イレインはナイフを取り出し、彼女の顔にピタピタとナイフを触れさせる。つぅ、と頬から血が流れるのを見て、恍惚の表情を浮かべて目元を細めた。
「ねえ、ご存知? 自分よりも若い女性の血を浴びると、若返るんですって。――うふふ、ねえ、私のために、その血をくださいな」
そのときのイレインの瞳は、狂気を宿していた。
助けを求めるメイドの声が響く。
――だが、誰も動かなかった。動けなかった。
彼女を庇えば、次の犠牲者は自分なのだと、悟っていたからだ。
イレインは彼女の血を指で掬い取り、自分の肌に塗りつける。
メイドは恐怖と絶望でカタカタと震えていた。
「ああ、かわいそうに。でも、大丈夫ですわよ。――あなたはもう、私の糧になるのですから」
にっこりと笑い、パチンと指を鳴らす。
彼女の部屋に護衛の騎士が現れ、メイドの腕を引っ張り立たせると、イレインの部屋から連れ去った。
――その後、メイドの姿を見た者はいない。
「ねえ、絨毯が血で汚れましたわ。この絨毯を捨てて、新しい絨毯を用意してくださる?」
くるり、と別のメイドたちに顔をむける。
メイドたちは震えながらも、それを誤魔化すように「はい、ただちに」と恐怖で引きつった笑みを浮かべてイレインの部屋から逃げるように出ていった。
イレインは鏡の前まで足を運ぶと、血に濡れた肌と別の場所を見比べて、目元を細める。
「やはりもっと若い女性の血が良いのかしら……?」
じっと鏡の中の自分を見つめて、ぽつりとつぶやいた。
◆◆◆
――そしてそれから十五年の月日が経ち、イレインはメイドが仕入れた情報を耳にして、苛立ったように声を荒げた。
エルヴィスが新しく寵姫を迎えたという噂だ。
(宮殿にいた寵姫たちは、全員始末したというのに――……)
イレインは頭痛を耐えるように、額に手を添える。
「――まったく。王としての役目も果たさず、父としても夫としてもダメな人ですのに、女遊びをやめる気はなさそうですわね」
イレインは悲しそうに目を伏せた。
メイドは困ったように眉を下げて、言葉を続ける。
「なんでも、踊り子を寵姫にしたようですよ。とても美しい女性だったので、エルヴィス陛下の一目惚れだったんじゃないかって噂になっています」
「……そう。……それは、私よりも美しい女性、ということかしら?」
「それは……わかりませんが……」
イレインの声が露骨に低くなった。
そのことに、びくりとメイドの肩が跳ねる。
「……ああ、私、もっと美しくならなければなりませんわね……」
唇に弧を描いて、メイドに近付くイレイン。
――その日、また若い女性が一人、イレインのもとから消えた。
その翌日、一番の古株であるメイドが、イレインのもとを訪れて彼女に声をかける。
「王妃陛下、あの噂を耳に入れられましたか?」
「エルヴィス陛下が寵姫を迎えること?」
「はい。名はアナベル。剣舞の踊り子だったようです。デュナン公爵がパーティーの余興を頼んでいたようで、剣舞を見たエルヴィス陛下が寵姫になるように誘った、と……」
「……。面白くありませんわね」
イレインは睨むように窓の外を見る。
彼女の心とは正反対に、エルヴィスの瞳のような青空が広がっていた。
「旅芸人の一座にいたようで、そこまでしか調べられませんでした。ああ、ですが……その旅芸人は、クレマンが率いていたようです」
「クレマン? ああ、あの……。へえ、どんな顔をして戻ってきたのかしらね?」
「ミシェルの姿はありませんでした」
「ミシェル?」
初めて聞く名だとばかりに首をかしげるイレインに、メイドはミシェルのことを説明する。
そこでやっとミシェルのことを思い出したのか、「ああ」と声を出した。
「いましたわね、そんな人。すっかり忘れていましたわ」
クレマンの子を宿し、幸せの絶頂にいた女性。
その幸せそうに輝く笑顔が気に入らなかった。
だから、手を出したのだ。
不幸になれ、と呪いながら。
そんな存在を思い出して、イレインは肩をすくめた。
「彼女のことはもうどうでもいいの。それより、問題はその『アナベル』という女性ですわね。――紹介の儀までに、調べられるだけ調べてちょうだい」
「かしこまりました」
メイドは一礼して、イレインの部屋から去っていく。
イレインは鏡の前まで移動すると、そっと鏡に触れた。
「――私よりも美しい女性はいらない――」
だって私は、誰よりも美しいのだから。
――冷たい声でつぶやくイレイン。
その言葉を聞いたものはいなかった――……
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