5.結婚の申し込み
「きゃっ!」
驚いて思わず悲鳴をあげてしまった。
人がいると思わなかったのだ。
悲鳴をあげられたアルバートは「まいったなぁ」と呟きながら笑っている。
今日は出会った日とは違い、シルクの白いシャツとジャケットを着ていた。絶対にこれなら使用人となんて間違えないだろう。
手には何か書き物をする用だったのか、ノートとペンが握られていた。
「ご、ごめんなさい。いえ、申し訳ありませんでした、ぼんやりとしていたもので……」
「どうしたの? 別に君には敬語を使われなくても問題ないんだけど」
「いえ、そんな事ありません。働かせてもらってますもの」
そう? と言いながら首を傾げるアルバート。
実はここで雇ってもらうにあたって、伯爵にはエヴァの事情を伝えてあった。子爵夫人の妹で、厄介な求婚者から逃げて来た事を。そもそも、ここを紹介してもらえたのも姉の夫の子爵とアルバートが友人同士だったからに他ならない。
だから事情を知る伯爵は、使用人のいない場ではエヴァを使用人としてではなく、友人の義妹として接しようとしてくれたのだろう。
いくらエヴァが行動的で楽天家でどこでも生活ができそうだとしても、姉やこの国での保護人がエヴァを適当な環境に置くわけがないのだ。
両親はエヴァが姉の夫の友人宅に、姉夫婦と遊びに行っていると思っているはずだ。
使用人として働いているのは、結婚相手として見られることに疲れたことと、エヴァのちょっとした好奇心でもある。母国ではお嬢様だ。働くなんて危ないと許可が出るわけがない。きっと本当の事を聞いたら、両親は大慌てで連れ戻しに来るはずだった。
「本を読むのかい?」
エヴァが手に持っていた本に目を止めた。
「ええ、キオスクで買ったんです。まだ読んでなかったものだから」
「見せてもらっても?」
「どうぞ」
アルバートは自分の持っていたノートのようなものを小脇に挟むと、エヴァから受け取った本をパラパラとめくりながら歩き始めた。
その後をそっとついて歩く。
「推理小説か。最近流行ってるよね」
「ええ。この作者の本が一番人気のようでした。お読みになられたことが?」
「うん、一冊だけあるよ。他の話も出てるんだね」
本から視線を上げずにこたえるアルバート。
慣れた場所だからだろう。危なげない足取りではあるけれど、見ているこっちはひやひやしてしまう。
控えめに声をかける。
「転びますよ」
「そうだね、座ろうか。ちょうど大きな木の陰にベンチがあるんだ」
そう言ってアルバートは先導するように歩くと、開けた場所に置いてあるベンチの前に立った。
席を軽く手で払うと、どうぞと身振りでエヴァに進める。
座ってと示されたけれど、伯爵を差し置いて座っていいのだろうか?
どうしようかと悩むエヴァ。その素振りを見たアルバートは先にベンチに座ってみせた。
そして再度、どうぞと進められるともう座るしかなかった。
「この本面白いね。エヴァが読み終わったら貸してもらえるかい? 僕も読みたくなってきた」
「でしたらお先にお読みになってください。私は後で構いませんから」
「君の本だから、君が先に読むべきだろう?」
はい、と渡された本を受け取る。
「ここ、いい場所だろう? 僕もあんまり来ないから良ければここで読むといいよ」
「あまり来ないのに、今日は来ていたんですか?」
「そうだね……」
雑談の続き程度の気持ちで聞いただけだったのだが、アルバートは「はぁ……」と溜息を吐きだした。
息の大きさにぎょっと驚くエヴァ。
何か気に障ることを聞いたのだろうか?
「どうなさったのですか?」
「あ、ごめん。声に出てたね」
あははっと笑いながらも再び「はぁ」と息を吐きだした。
膝の上に肘を置いて、じっと地面を見つめて俯きがちになっている。
エヴァはこのままアルバートの話を聞いてもいいのか迷ったが、漂う雰囲気を察してその場にとどまることにした。
辛抱強く話してくれるのを待っていると、ポツリとアルバートが言葉をこぼした。
「実は求婚をしようかと考えていた女性がいるのだけれど」
「はい」
「君と同郷の人なんだけどね」
「そうなのですね」
エヴァはオーロラから聞いていたが、知らない振りをすることにした。
使用人にも知られているだなんて気分が良くないかもしれないから。
「エブリンって言うんだけどね。あ、同じ年ごろだからもしかして知り合いだったりする?」
「エブリン・ベイリーでしたら、存じておりますが」
そこでエヴァは、アルバートがわざわざ求婚を考えているなんて話を、何故この間会ったばかりのエヴァに話したのかに思い至った。
エブリンの事を知りたいのだ。
婚活中の女性は大概自分をよく見せようとするものだから。
きっと客観的に見たエブリンの情報が欲しいのだろう。
「快活で朗らかさもあり、機知に富んだ素敵な女性だと思います」
「そうなんだね」
虚空を見つめてどこか他人事のようにぼんやりと呟く。
「そんな素晴らしい人なら僕なんて選ばれるわけないね」
そして眉を下げて笑った。
「そんな、伯爵様もお優しいと……使用人の皆も申しておりました」
何かを言わねばと思い、咄嗟に口から出た言葉は嘘じゃない。
使用人の皆も入って来たばかりのエヴァにそう言ってくれていた。
でも優しくてもエブリンのタイプかどうはか別なのだ。
「ああ、違う違うよ。気をつかわせてごめんね。誉め言葉とか慰めが欲しくて言ったわけじゃないんだ。あのね、僕昨日エブリンのところに行ったんだ。そしたら家の人にエブリンはもう王都に帰ったって言われたんだ」
エブリンはここに家があったわけじゃない。知人か親戚を頼って滞在をしていたはずだった。
その彼女が王都に帰ったと言われたということは……。
「振られましたね」
「そうだよね」