19.本棚
エヴァは夜に仕事が終わってから、借りていた本を返すために書庫へ向かっていた。
伯爵家は代々の当主が読書家だったのか、これまで買い集めていた立派な装丁の本がたくさん残っていた。
もともとこっちの屋敷にはほとんど置かれていなかったが、むこうの屋敷から移動する時に全て持って来たのだ。
頼りないランプの灯りで本の背表紙を確認する。
気になる本は、ランプを棚に置いてページを開く。
集中していたからだろう。後ろからの足音に気が付かなかった。
「エヴァ?」
「きゃぁっ!」
肩をビクリと震わせ振り向くと、アルバートが立っていた。
片手を上げて、困ったようないつもの笑顔を浮かべていた。
使用人服のままのエヴァと違って、アルバートは少し寛いだような恰好をしていた。
「そんなに驚かれると困るんだけど。皆がびっくりして起きちゃうよ」
「あ、そ、なん……」
エヴァは咳ばらいをして自分を落ち着けると、怒ったようにこたえた。
「急に後ろから話しかけられたら驚くに決まってるじゃないですか!」
「ごめん。でも前から話しかけるなんてできないよ」
本棚があるから。
「屁理屈はやめてください」
「そうだね。君を驚かせたことは事実だものね」
「ええ。夜中ですよ? 強盗とか泥棒かと思ったじゃないですか」
「強盗も泥棒も話しかけてこないでしょ」
アルバートはくくっと忍び笑いを漏らした。
「わかりませんよ、財産のありかを狙って使用人に声をかけてくるかもしれません」
「それなら君じゃなくて、執事か家政婦を探すでしょう。そして鍵を使って開けさせるか、僕のところに案内させる」
「そうだとしても、そこまであの一瞬でわかりません」
エヴァは頬を膨らませて不満げに言った。
なんだか今日はアルバートが気に入らないのだ。
理由はわかっている。昼間に女性と歩いているのを見てしまったからだ。
アルバートもエヴァの不機嫌さを感じ取っているのか、困惑しているような雰囲気が伝わって来た。
エヴァはいけない、と思い直すと咳払いをして話を変えることにした。
「そういえば旦那様はどうしてここに?」
「え? 本を取りにだよ」
澄ましてこたえるアルバート。
エヴァは首を傾げる。
「それはわかりますけど……」
「書庫だもの」
「ええ。でも……」
なんだか腑に落ちない。エヴァはくるりと瞳を回すと小さく言った。
「旦那様のお屋敷です」
「そうだね」
「書庫だけじゃなくて書斎にもたくさんの本がありました」
「うん。置いてるね」
「ええと、私と違っていつでも本は選べます。だからこんな暗い夜中にわざわざ書庫に来なくてもいいんじゃないかなって」
アルバートは腕を組んで視線をそらした。
居心地悪そうにしているように見えるがエヴァの気のせいだろうか。
「だって本の背表紙も見えにくいですし」
いぶかしげにエヴァが言ったところで、アルバートが咳ばらいをした。
「いいじゃないか、僕の家だもの。好きな時に好きな場所にいていいはずだろ」
ちょっと拗ねたような物言いにエヴァは口元がほころぶのを感じた。
こうして何気ないやり取りをするのが楽しいのだ。
出来たらずっと続けていたいくらい。
でもエヴァは明日も仕事があるし、早起きしなければいけない。
アルバートだって本を探しに来たのなら、エヴァがいつまでもいると探しにくいだろう。
「もちろんそうです」
エヴァは手に持っていた本を持ち直すと、ランプを持った。
「ではもう行きますね」
頭を下げて脇を通り過ぎようとした時、アルバートの驚いた声が追いかけてきた。
「え、もう行くの?」
「本を探しに来たので」
「いい本見つけられたかい?」
笑顔で本をかかげてみせる。
アルバートはしげしげとそのタイトルを見ると不思議そうに呟いた。
「それはホラー小説だけど大丈夫かい?」
「え、ホラーですか?」
数ページ読んだだけだとミステリーかと思ったのだ。
オカルトは大丈夫だけれど、ホラーは苦手だ。
エヴァの声が曇ったのを感じたのだろう、アルバートは忍び笑いを漏らした。
「一緒に探してあげるよ。エヴァの好みを教えて」
「ええ」
「あ、そうだ! そう言えば君から借りていた推理小説の作者が雑誌に連載を載せていたんだ。良ければ読まないかい? 書斎に置いてあるから明日でも取りに来てくれ」
「まぁ、嬉しいです」
エヴァの瞳が輝く。
「じゃあ明日ね」
「ええ、また明日」
そう言ってふたりは書庫で別れた。
後になってエヴァは、アルバートが本を取りに来たと言って何も持って帰らなかったことに気が付いたのだった。