ぜんぶマスターベーション
眩しい。いや、眩しくなんかないはずだ、夜中なのだから。星も見えない空なのだから。目の前には裸の彼女。でも何も感じなかった。また、キスをした。世間様から見たらさぞ滑稽に見えていることだろう。この人を、私は受け入れるべきなのか、拒むべきなのか。どうして、そんなこともわからない私なのだろう。誰か、どうか教えてくれないだろうか。私たちはやはり滑稽だろうか、これは醜悪なんだろうか。
その人は健康的な肉付きで、薄く照らされた身体の輪郭が美しく輝いていた。ふと、その太腿の白に微かな青が散っているのが目に留まって舐めた。しかし、やはり、何も感じなかった。彼女はくすぐったそうに目を細めて微笑んでいて、これはエロスなのだろうか。筋肉の筋も関節のでっぱりや窪みもエロスかも知れなかったし、そうではないのかも知れなかった。嗜好というのを聞いたことがあるけれど、またそれとも違う気がした。私は彼女に何を求めているのだろうか、彼女は何を求めているのだろう、何を埋めようとしているのだろう。畢竟、よく分からない私なのだ。ついに彼女は私を押し倒した。私は眠るように目を瞑って、今日起きた空想のような現実をゆっくり思い起こす。
*
歩くと靴音だけが響くような夜だった。昼の喧騒が嘘みたいな、シャッターだらけの通りを一人闊歩して気分が良かった。点々と灯った街灯とあちこちにある照明で、そこまで暗くはない、心地いい暗さ。赤信号で独奏も止まり、横断歩道のグレーと白とをただ眺め、ちょうどいい夜だな、とかどうでもいいことを考えた。こういう澄んだ夜はいいものだ、待ち構える労働さえなければ。青を合図にまた眠る町にヒールを響かせて歩く。待っている間、車は全く通らなかった。今日も空に星なんか見えない。けれど、それがちょうどいいと思った。綺麗な星なんかが見える田舎にいたら、きっとうまく生きていかれないのだから。
駅に近づくにつれて、温かいオレンジ色の光やらギラギラの看板やらがちらつくようになり、歩みは自然に早まっていく。火照った酔っ払いが数人、若い輩、キャバクラのキャッチ。喧しいそれらに構わず俯きながら、ヒールを鳴らさないように通り過ぎ、少し歩いたところにあるビルとビルの間を通ると一瞬で世界は暗く、嫌な静けさに包まれた。駅の周りの夜は得意ではなかった。
裏道を抜け、無事に目的地に到着し、でもひどく嫌な思いがした。その扉を開けると、案の定、柔軟剤と香水が混ざった独特の匂いが溢れる。残酷にも労働の始まりを告げられるこの瞬間がものすごく嫌いだった。帰りたくなる気持ちをどうにか押し込め、自分の身体を完全に部屋に入れてしまって、閉じ込めた。
電気をつけると、全く生活感のないワンルームのど真ん中、存在感たっぷりのでかいマットがいつも通り出迎えてくれ、やはりこれにも嫌気が差す。しわ一つないそこへお構いなしにバッグを放り投げてしまう。ぼすん、という音とともにバッグが沈むのを横目に、纏っていたカーディガンを、シャツを、ロングスカートを脱ぐ。仕事着に着替えるのだ。仕事着と言っても、スーツとか白衣とかそんな大層なものでは無くて、生地は薄く丈の短いワンピース。おまけに胸元は大きく空いている、これが私の戦闘服、戦うための装備。
「準備しました」とオーナーに報告すると即刻、にかっと笑う絵文字付きで「了解!今日も頑張りましょうね!」というメッセージが返ってきて図らずも、はあ、と溜息が漏れてしまう。このバイトを始めてようやく慣れてきたものの、こんな仕事に誠意やる気を見出せる人の方が希少だ。しわのできたマットを睨みながら、この後やってくるであろう敵を迎え撃つため、支度を始めた。
ピンポォン。
チャイムの音が、つまり戦闘開始のゴングが、静寂の部屋にけたたましく鳴った。ちらと玄関モニターを見るに、中肉中背、ちょい禿げの中年のオス、顔はマスクで隠れている。扉を開けるとそこにいるのは勿論モニターに映っていた汚いオス。なるほど、しわのあるスーツ、艶のない靴。私はにっこり、そう、口角をあげて目を細めて、笑顔、自然なやつ。そして地声よりワントーン高い声をかけてやる。
「こんばんは、ヨシダ様ですね?」
「あっ、はぃ」
「お待ちしておりました、どうぞ、あがってください」
「ありがとうございます…」
ほんの少し言葉を交わすだけで、ただの遊び慣れてない無害だと悟った。単に癒しを求めてきたのか、定期的に新しいメンエスへ行く開拓マンか、きっと前者だろうが後者だと面倒くさい。変に、俺は分かってるスタンスを小出しにしてくる奴はなかなか厄介、早々に帰ってもらって二度と来てほしくないタイプだ、誰も二度と来てほしくはないが。
「ユリちゃん、ですよね。写真よりすっごく可愛いですね、いやほんとに、スタイルもよくって、若くって、ハイ」
顔、胸元、脚、顔。全身、舐め回す視線を浴びせながらマスクを上下させているのが心底気持ち悪い。私の身体、つまり肉体として私を見る視線は、同じような熱、期待、不愉快極まりない侮蔑を帯びていて、生殖の道具と考える輩は大抵こういう目だと私は知っていた。ああだめ。いけない、笑顔笑顔。私は「にっこり」をして、そして礼を言った。
「ふふ、ありがとうございます」
照れ笑いと、短い返事に含ませた若干の喜びの感情がこのオスに伝わるだろうか。発した言葉の最後を濁しながら、ちらと、でもしっかりと目を合わせてはにかんでみる。どうやらそもそも女慣れしていないタイプらしい。
「お荷物と上着、預かりますね」と私が手を差し出して言うと、そいつは荷物をつきだし、もたもたとスーツを脱ぎ始めた。
「あ、ありがとうございます」と言ってしわくちゃになったそれもつきだす。私は丁寧に受け取って、にっこり、そこのソファに誘導する。
「ヨシダ様はここにお掛けください」
金は全然持っていなさそうだった、むしろここに来るべきではないような人間なのに。来てしまったからには等しく敵だけれど、可哀想なオジサンだと、やはりやりづらいと思ってしまうから。だって、こんな競争社会、管理社会でたかが家族のために、何十年も会社と家を往復、往復、そんなピストン生活のサラリーマン。労働者は、資本主義の犠牲者は、私たちは可哀想。急にうんと優しくしてやりたくなる気持ちになってしまう。上着を掛けてやって、振り向き、そこでまた「女」を見る、性の視線を浴びせられていたことに気づいた。
「ユリちゃん、ふふ、かわいいね、ほんと」
「とんでもないです、何度もありがとうございます」
今度は、ヨシダ様たらおかしい、と楽しく、儚く笑いながら自然に隣に腰かけた。やっぱり、この人の人生を考えてやるのは止そう、搾り取ることを考えよう、そう思った。搾取に限る。距離を縮めてしまおう、物理的にも、心理的にも。
「ヨシダさんだって、優しい紳士って感じで、素敵です。私は好きだな、ヨシダさんの雰囲気」
「え、そう?いや、照れちゃうな、はは」
「ほんとですよ?」
見つめ合う、円らな瞳に映る私が揺れる。簡単すぎてその場で高笑いしそうだった。
幾つかオプションを付けた分上乗せした料金をいただき、今ごろあのオスは呑気にシャワーを浴びて、期待を胸に膨らませているだろうか。そうなら、可笑しい。本当の意味で頭がどうかしているのは私だが、ウキウキしながらシャワーを浴びている敵を思い浮かべると、どうも可笑しくて一人くすくす笑ってしまった。
だって、親ぐらいの齢の大人が、年齢的にも性別的にも負けてる私を前にどぎまぎと浮ついて、羞恥そのものだろう。勿論対価は頂戴してるから、摩耗した精神の人間の拠り所として、癒しを提供します、払った分の非日常を提供します、ここはそういう場所だから。世間がキッチンならここは三角コーナーだ。万が一にも腐った奴らがここで更生して、幸福な世の中に繋がったなら光栄。でも私も一応人間なのだから、やっぱり考えてしまう。それで笑っちゃう、だって堪らなく面白い。
全部腐っていると思った、何より愛してる母国、今日も忠誠を誓おうこの国。上っ面は綺麗に取り繕うくせ、水面下じゃ汚い本能が蠢動している、そして皆それを知っている。もう誰も信じていないでしょう、誇りとか勇気とか情熱とか伝統とか、そういう、純真で美しい言葉を。
例えば、お偉い役人さんが、いたいけな女の子を食っては平気な顔して揉み消して、またどうしようもないぐらいいたいけな女の子を食って、今度はちゃんと捕まった。その人は「本気で日本を変えてみせます」と高らかに謳っていたのに。ご老人やら女性やらと固い握手を交わして「弱い立場の方の味方です」なんて、ひどい、吐き気を催す薄い黄土色の歯、爽やかな笑み。
そんな人ばっかりが上に立つ世の中だもの、どうして私たち平民が清らかで正しく生きられるのだろう。だからちゃんと真面目にしてみても、笑っちゃう、何もかもがオワコンすぎて。厭世的な思想持ちで、可哀想に、さぞ生きづらかろうと慰めてくる連中も、大体はなんかの勧誘だった。
でもそもそも世の中に期待も何も無かったので、深く凹むこともなく、ゆっくりと死んでいくような、ただ目の前の生を浪費する生活を送っていた。恋人に出会うまでは。私の恋人はそんな偉大なお国の、絶対の救世主だった、そう信じていた。
ガチャッという音で私は現実に引き戻され、同時に、ふつふつと滾っていた戦意をまた取り戻す。気合いを入れて、臨戦態勢、メスの体臭を纏い、歩み寄る。
「おかえりなさい」
「うん、あの、すみません。紙パンツって面が広いほうが前でしたよね?」
「それで合ってますよ、普段は紙パンツなんか使いませんから、分からないですよね」
「うん、本当にそうですね、はは」
こういう店自体初めてだと憶測し、びっくり、帰してやりたいが、駄目だと分かってはいるので、どうかこの人がこんな汚い所にもう来なくても生きていけますように、と祈った。
「じゃあこちらにうつ伏せになってください」
「あっ、はい」
「じゃあ、マッサージ始めますね。お背中にタオル掛けます」
「今日はありがとうございました」と、にっこりを張り付けてその背中に向けて言った。靴を履き終えて振り向いた顔は、とろん、満足気に微笑み、なにか愛おしげに私の瞳をまっすぐに見てマスクを上下に揺らしながら喋る。
「こちらこそ。本当に良かったよ、ユリちゃん」
汚らしいオスの分際で、気安く清い名を呼ばないでほしい、と思ったが、メスらしく「私も、ヨシダさんに喜んでもらえてうれしい」と言い、そしてはにかみながら「またヨシダさんが来てくれるの、待ってます」と追い打ちをかけた。
そのオスはずっと黙って私の目を見て、ちらと手を見、また目を見て「もう一度手を繋いでもいい?」と言った。
「うん、もちろん」私はぎゅっと優しくその指の短い、醜い手を包み込んで、例のにっこりを張り付けて言った。オスはその汗ばんだ熱い手で私の手を強く握った。
「ありがとう、また来るね」
ようやく離れた手はドアノブにかかり、心地いい涼やかな風が吹き込んだ。部屋の空気が存外ねっとりしていたことを気づかされる。私は扉の閉まるまで手を振り、少し待ってから鍵を閉め、やはりもう二度と来てくれるなと願った。
今日も私は戦った、兵士だから。
生徒でなくなると、その途端、大体の子は兵士になることを求められる。国という組織の構成員だから、与えられた任務をこなさなきゃいけない、何故ならそれが普通だから。世間様は、戦えない構成員たちを一括りに「ニート」と呼んで懲らしめる。それは、この国の根底にある思想が勧善懲悪だから、仕方ない。私にはどうしようもない、どうにもできない。
普通でありたかったから、私は大学生という肩書きを手に入れ、さらに週二で居酒屋のバイトをし、確固たる私を手に入れようとしていた。もちろんバイトは生活のためでもあるけれど。人間は何かに所属することで安心できる生き物。誰かに服従したり、何かを信仰したりするのもそう。それは世間様に沢山のレッテルを貼ってもらうことで、自分を確かにしようとするから。これは、本能的なもの。どうしようもない、見えない大きな力、私たち、文明やら文化やらお高くとまってみても、所詮それの操り人形。
私も私を証明してもらって、本能的に安心したかった。でも実際は私が欲しかったもの、安心と居場所、どちらもこれらを与えてはくれなかった。安心が欠けた人間は脆いから、よく傷ついた。居場所が分からなかったから、よく彷徨って迷子になった。そういう風に、どこにも染まれない、馴染めない、ふらふらしている奴は愚図、屑、無能、社会不適合者とか、そんな不名誉なレッテルが貼られ、その重みに耐えきれなくなる。愚図の私を慰めてくれたのは、恋人だった。安心も居場所も与えてくれた。
最近はシャワーを浴びても、こびりついたオスの臭いがなかなか落ちなくて、身体を強めにこすってしまう。ふと、鏡に映る肉体。ああ、そこはかとなく下品であさましくて、確かに今の私は社会の底辺、愚図。これじゃあ確かに汚い一羽の雌鶏。理性も品性もない、動物らしい、この身体、憎い。嫌というほど私に性を掲げ、訴えかける、乳房の膨らみが忌まわしい。どんどん、あさましく、プロスティチュウトに成っていく。いや、いや。私は違う、私はユリであるために、私は清廉。
生理なんか、来なくなってしまえばいい。科学技術が発達したのに、まだ性の運命から逃れられずに這いつくばって、人間は恥かしい。もう野性的な行為などやめてしまって、体外受精を標準にしてしまうのなんてどうだろう、そうならとっても素敵。もし大統領になったら去勢を制度化しよう、そうしたらきっと、今度こそこの国は良くなる気がする。こういうのってすごく批判されてしまうから、死んでも口にしないけれど。
「ユリちゃん、お疲れ様!今日もありがとう!一人しか付けられなくてごめんね 本日のお給料 一六〇〇〇円 お財布確認お願いします」
「ありがとうございます、財布大丈夫です」
「お部屋のリセットもお願いします!」
「了解しました」
いちいちにかっと笑う絵文字を付けるの、どうにかならないだろうか。害はないけれどこれを見て苛々する時もある。
財布を開けると幾枚もの紙幣。諭吉、諭吉、諭吉。こんな紙切れのために労働者皆汗水垂らして働いているのか。確かに金は人を幸せにするから。ここの給料は前やっていたバイトより五、六倍はいいし日払いだから目に見えて金が増えていく。しかし私は持て余していた。
マット全体に熱湯をかけて、バスタオルで拭きとり、仕上げに除菌シートで拭いた。そしてしわのないようにベッドメイキングならぬマットメイキングしておく。部屋に落ちている髪の毛を拾い、ちりちりした、明らかな陰毛は直接触りたくないのでコロコロで取って、ついでに部屋の隅なんかもコロコロして、千切って丸めて捨てた。フローリングワイパーで何度か部屋を往復し、掃除終了。はじめに教えられた掃除のやり方を全くそのままこなしている。私は意外に潔癖なのでそれもあるかもしれなかった。
「リセットしました、部屋出ます。本日もありがとうございました」
連絡すると、ゆるい顔のキャラの「おっけー!」と「ありがとう!」のスタンプが送られてきた。これで、今日は解放される、帰ろう。疲れたから、崩れおちてそのまま、ぐっすり眠りたい。残機補充しなければ明日の私のために。明日。そっか、帰ったら明日が来てしまう、ふと嫌だと思う。
荷物をもって靴を履いて、電気を消す。そこは実は終わりない闇で、恐ろしいほどの無音は私に一人を突きつけてきたので、思わず逃げるように部屋を出た。
部屋は六階、エレベーターを呼ぶ。位置を示す光は一階で点滅している。何気なくスマホを開くと時刻は一時をまわっていた。帰って、その前にコンビニで軽食を買って、あの辛いクリスピーチキンにしよう、明日の支度をして、そうだレトルト米も買おう、あ。
こちらに向かってカツカツ、と足音が近づいていることに気づいた。音が止まり、真後ろに女がいることを悟る。六階には三つの部屋があるが、一つは空き部屋で残り二つはどちらも店が使っているので同業者ということになる。
挨拶しないのもどうなんだろう、どうせ同じエレベーターに乗ろうとしているのだろう、仕方なし、ゆっくり振り返ると、ばちり、目が合う、長い睫毛にふちどられた薄い色の瞳。
「お疲れ様です…」ぼそっと挨拶し小さく会釈すると「うん、お互いお疲れ様だね」と、マスク越しでもわかるような、気持ちのいい笑顔を向けて返してくれた。無視されなくてよかった。
ポーン。
エレベーターがひらく。先に乗り込み、一階と「開く」のボタンを押す。
「ありがとう」
キャラメル色の髪を揺らしその女性も乗り込む。長い髪の隙間から甘い香水がふわっと香り、狭いエレベーターに二人閉じ籠る。清潔で綺麗な人だと思った。それに、どこかで見たことがある、感じたことのある雰囲気のような気がした。ゴウンゴウン、という音だけが響き、空気は重たくなった。少しするとその女性がねえ、と話し出した。
「ユリちゃんじゃない?」
少しして、背後からそう言われ「はい、そうです」と短く返し、着くまで世間話する感じか、と思い億劫だけれど、振り返る。
「宣材見て可愛いなあって思ってたけど本物も美人さんなのね」
甘めの声だった。よく見るとスタイルも抜群にいい。ただ、すでに仕事のテンションは抜いてしまったから容姿を褒められても困ってしまう。こういうことを喋るのは心が疲れる、作り笑顔が引き攣る。
「とんでもないです。あなたのほうが、スタイルもよくて」
彼女は「それはそうなんだけど」とまで言って、はっとして「ちがう、ごめん、まちがえた」と首を振りながら「はっずかしー」とぼやいて笑った。私は当惑した。
「いや、ごめんね、初対面なのに引いちゃうよね。こういうキャラで売ってるもんだから、つい」と弁解する彼女の耳は赤くなっていた。
「ああ、ありますよね、そういうの」
「そうそう、駄目ね、なんか板についちゃってるみたい」彼女の耳はまだ赤く、今度は手をパタパタ振って顔を扇ぎながら言った。気の利いたことも言えず、ただ、あははと愛想笑いだけすると会話は終わり、エレベーターの空気はまた重くなった気がした。
ポーン。
一階。「どうぞ」と言うと、また「ありがとう」と先に出た彼女がふと立ち止まり、ねえ、と振り向く。
「家どっち?」
「えと、北口のドンキの、もっと奥です」
「途中まで一緒。ちょっとだけお喋りしながら帰らない?」
私がそれこそ驚いて返事に詰まると「やっぱりだめよね」と、見るからにしょげてしまったので、慌てて「私なんかでよければいいですよ」となるべく明るい声を絞り出す。
「ほんと?うれしい、ありがとう」と彼女はまた爽やかな笑顔を向けてくれた。
こういう、すぐ仲良くなった、と思えるような、お気楽で明るい人が苦手だ。私が人より重いからそう思うのかもしれないが、こういうタイプの人は構うだけ構って、飽きたら突然突き放すし、思ってたのと違うわ、じゃあねと普通に言う奴もいる。これは経験談だから信憑性は保証する、勝手に期待して勝手に裏切られたと言われても、困る。
外は気持ちいい涼しさで、重ならない二つの靴音だけが静寂を刻んだ。優奈さんがいる手前、さすがに裏道は使えないので自然と遠回りをすることになった。
「他のセラピストの子と顔合わせること、滅多にないからさ。今日はよかったな、延長入って」
「私初めてです、同業の方と会ったの。あの、あ、すみません、名前いいですか?」
「あたし夕奈っていうの、よろしくね」
「夕奈さん…あ、ユナ。ユナさんですか?」
「そうだよ、知っててくれたんだね」
「そりゃ知ってますよ。一番人気じゃないですか。さっきからずっと、どこかで見たことあるなって思ってたんです、すっきりしました」
店のホームページ、ツイッターで「爆美女」と太鼓判を押されていたお姉さんが、今、目の前の夕奈さんに重なる。マスクで目元しか見えなくてすぐには分からなかったが、確かに溢れ出るオーラ、というか、カリスマ性的なものがあると思い、隣を歩くのもなんだか恥かしくなって背筋が曲がる。
「それで、なにか聞こうとしてたでしょ?」
「はい。夕奈さんは他のセラピストさんに会ったことありますか?」
「うん、あたしここ結構長いから」と笑いながら言って「二、三年ぐらいは在籍してるかも、一か月まるまる来ないとか、全然あるけど」と付け足してまた笑う。
意外だった。服装は大人びているが、見るからに二十代前半、なんなら二十歳ぐらいだろうか。若いのにえらいなと、なんだか圧倒されてしまう。どうしてもお金が必要なのだろうか。
「古株になっちゃったもんよ。ていうか、みんなやめてくだけなんだけど」
「そうなんですね」
「まあ、どうせ仲良くなんかなれないけどね、全然会わないし。ていうかそれよりさ、聞いてよ。今日の糞客がね」
夕奈さんはお喋りだった。表情をコロコロ変えながら、私も相槌は打っていたが、ほとんど一人で忙しなく喋っていた。仕事でもないのに、よくこうも話が尽きないな、と感心してしまうほど。やっぱりこういう人が向いている仕事だよな、なんて思っていると夕奈さんがそこでさ、と話を振ってきた。
「ユリちゃんはさ、何かある?」
失礼だが、話が全く頭に入ってなかったため「え?」と聞き返す。
「先輩であるこのあたしに、質問。ほら、なんでもいいのよ。お触りされたらどうしたらいいの、とか、サービスしてって言われたらぶっていいですか、とか」と、頼ってみなさいと言わんばかりに彼女は言った。さらに彼女は「ねえユリちゃんは無口クール系で売ってるの?」とか言っていたが、そういうわけでもない。単純に余計なことを言いたくないだけだ。しかしそう答えたらそれ自体が余計なことになりかねないので、ただ適当に笑って誤魔化す。
夕奈さんの見た目こそ綺麗で口数少なそうだが、喋っていると本当、お茶目で可愛い人だと思った。さっきから先輩風を勢いよく吹かせる夕奈さんに、聞きたいことはあった、ただ、聞いて答えてくれるかも、聞いて私がどうしたいのかも分からない。喉につっかえている言葉を靴音が急かし、もう、聞くなら今しかないと、私は闇の向こう、遠くだけを見て、なるべく平然に、喉を震わす。
「さっき、同業の子と会ったことあるって言ってたじゃないですか」
「うん」
「なんていう人と会ったことありますか?」
「うん?」
振り絞った勇気は言葉を放つ直前にしゅわっと消えて、かなり遠回しな質問を投げてしまった。夕奈さんは首を傾げ、分かりやすく頭にハテナを浮かべた。ああ、変な子だって思われているに違いない。怖気づいてないで、ちゃんと言わなきゃ。私がうじうじしていると、先に夕奈さんが口を開いた。
「ごめん、質問が斜め上すぎてびっくりしちゃった。会いたい子でもいるの?SNS盛りすぎとか?」
彼女は優しい。明らかに異常な質問だったのに、ドン引きしたに違いないのに、笑って答えようとしてくれている。
「ちがくて、あぁもうごめんなさい、ほんと」と私は顔面を手で覆う。
「いや、別に隠す必要もないことだし。えっと、レイカちゃんと、ヒメちゃんでしょ、あとマリアちゃん」
私は覆っていた手でそのまま夕奈さんの手を掴む。
「マリアって子に会ったことあるんですね?会話はしましたか?」
「ええ、うん、あるわよ普通に」
勢い任せに距離を詰めてしまったため、夕奈さんの困り顔が目の前にあって、近くでも綺麗だと思ったが、恥かしくなり、掴んでいた手を離す。これじゃあ本当に気違いだと思われて、口を利いてもらえなくなるかもしれない。
「ごめんなさい、おどろかせちゃって」
「あたしは大丈夫だけど…、ユリちゃん、大丈夫?なんかごめんね?」
「私が悪いんです、謝らないでください」
「もしかして、マリアちゃんの知り合い?」
「まあ、はい、そんなところです」
「マリアちゃんね、いい子よね、あの子。最近ぱったり来てないみたいだけど。まぁ、あたしもシフト入れない時はあるし、待ってればそのうち」
「死んだんですよ」
「え?」
「死んだんです、由里は」
こんなこと、言う必要なんかない。当たり前だ、考えなくても分かる。いらない訃報をして馬鹿馬鹿しいけど、言う意志もなかったはずが口が勝手に動いてしまった。
「知ってるのね、名前。そっか、そうだったんだ」さっきまでの言動が嘘のように、静かにそう言い、少し黙った後「知らなかった。二人の関係はわからないけど、近くにいた人が死ぬのは辛いし、混乱するものよ。ごめんね」と、また静かに、透き通るような声で言った。
「夕奈さんは謝らないでください。会ったばっかなのに、すみません、変なこと言って。何言ってんだろ、わたし」
「ううん、いいの」
今度は涙が出てきた、また意図せずに。こんな情緒不安定な人間の背中をそっとさすってくれる。夕奈さんって本当できた人だ。こんな仕事なんか辞めてしまって、幸せになってほしいと、勝手に願った。私にはなにもできないのに、知らないのに。
「あの」
「なあに?」
「私、麻里っていうんです」
「麻里ちゃん、いい名前ね。ありがとう、教えてくれて」
鼻声でぼそぼそ喋る私とは対照的に、聖母のような優しい微笑みを浮かべた夕奈さんは、その透き通った甘い声で慰めてくれた。そのまま支えられて深い夜を歩いた。いつからか靴音は重なっていた。