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76.暗示

(暗示)


「良一、良一、おい、起きろ……」


 新一が、寝ている良一を蹴飛ばした。


「あれ、ここは何処……」


 良一が目を覚ますと、そこは何もない世界だった。


 しかし、その何もない空間に新一は後ろ向きに立っていた。


「良一の無意識の世界だよ」


「あ、そうか。僕は妙ちゃんのお母さんの代わりに、無意識の世界で寝ていなければいけないんだ……」


 良一は、目が覚めてゆくなか、思い出すように言った。


「……、失敗したなー」

 新一はポツリと呟いた。


「え、何を……。でも、うまくいったじゃない。本当にありがとう。君の言ったとおり、妙ちゃんのお母さん、目を覚ましたよ」


 良一は起きる気力もなく、体を丸めて、後ろ向きに立っている新一の背中に話しかけた。


「……、失敗したなー」


「何を失敗したの?」


「もういいよ。良一の役目は終わったよ」


「え、それは困るよ。妙ちゃんのお母さんには、これからもずうと起きていて欲しいから……」


「もう、いいんだよ。彼女はずうと、これからも起きているよ」


「じゃあ、僕はここにいないと……」


 新一は振り向いて言った。


「良一は本当に暗示にかかりやすい奴だな。よく考えてみろよ。人の命は別々なもの、良一が代わって、他の人間がどうにかなるわけないだろう」


「え、じゃあ、妙ちゃんのお母さんは……?」


「彼女は、無意識のなかで迷子になっていただけだよ。彼女は子供のころの時間から抜け出せないでいた。と言うよりも、あそこが彼女の一番好きな場所だったんだ。そこから離れられないでいた。それを君たちが元の時間に連れ戻してくれた。もしかすると、放っておいてもいずれ目を覚ましたかもしれない。でも、彼女は大人になりたくないという、とらうまがどこかにあって、それが時間を止めていたんじゃあないかな。だから、僕は、過去の時間の中から無意識の朋子の心の成長に合わせて、眠っている幼児の朋子、小学生の朋子、中学生の朋子を連れてきて結び付けた。そして現実の世界で君たちと生活する中で本当の自分を見つければきっと目を覚ますと思っただけだ」


「そんなことできるの……?」


「幽霊には、と言うより、魂に時間的制約がないから、もう一つ言えば空間的制約もない。僕の体を使えば簡単なことだよ。つまり僕が君たちの体の中に入れば憑依だけれど、君たちが僕の体の中に入れば、そこは無限の世界だ。君だって、僕の体を使って母親の無意識の世界に行っただろう。人の心の中だけではない。時間的制約が無いのだから、過去へでも未来へでも行けるよ。でも、未来は無理かな。まだ時間も空間も存在しないから。これから君たちが切り開いていく世界だ」


「そうだけど……」


「本当は、そんなことどうでもよかった。ついでのことだった。君に暗示がかかればよかったんだ」


「暗示……」


「そうだ。催眠術と一緒だよ。紗恵子のところに夜這いに行ったとき、君は抵抗しただろう。まあ、他人に体を乗っ取られれば普通は抵抗するけど。だから暗示を掛けて、君の心を無意識の世界に押し込めておく必要があったんだ。それも絶対目が覚めないような強力なやつを……。でも失敗だった。紗恵子に感づかれてしまったんだよ。まさか、霊感の持ち主とは思わなかった」


「紗恵子さんが……」


「そうだ。よく考えれば、僕の存在に気付いているんじゃないかと思うようなこともあった。紗恵子の裸をじっと見ていると、急に振り向いてこっちを見るんだ。もしかすると見えているのかと思ったけれど、姿がないのだから見られようがないと思って息だけは潜めてじっとしているんだ。幽霊が遠慮するのも変だけど……。それに、時々僕に話しかけたりするんだ。僕が見えるように……。でも、見えてはいない。きっと寂しいんだと思ったよ。だから何とかしなくっちゃって思ったんだ」


「ほんと凄いじゃないー!」


「凄くもなんともないよ。紗恵子が霊感で僕を見つけても、しょうがないじゃないか。姿があるわけじゃなし、話が出来るわけでもなし……。触れるわけでもなし……。そんなの気味が悪いだけだよ」


「そうかもしれないけど……」


「それで、君の体をもらって紗恵子と結婚しようと思った。君は紗恵子に気に入られていたからね。僕と君は似ているらしい」


「じゃあ、僕も霊感があるのかな」


「それは違うと思うよ。僕が君の心に働きかけているから僕が見えているだけだから」


「じゃあ、紗恵子さんにも働きかけてわかってもらえればいいじゃないか。新一の気持ちを……」


「だから言ったろう。幽霊が側にいても気持ちが悪いだけだって。それに、いつまでたっても紗恵子の周りで僕がうろうろしているとわかれば、紗恵子は僕を気にして、いつまでたっても結婚できない。僕がいることで紗恵子が不幸になる」


「それなら、僕の体を使えばいいよ。約束は約束だから。僕はここで静かに寝ているから」


「本当に、君はどうしようもないおしとよしだな。君には命を掛けて守りたいものはないのか。宮沢賢治の蠍になるんじゃないのか!」


「僕の体を使って紗恵子さんが幸せになれれば、僕は満足だよ」


「妙子はどうするんだ」


「ターちゃん……」


「君の心の中は妙子のことで一杯じゃないか。もう一つ言えば、妙子もまた君を必要としているみたいだ」


「でも、僕はいいんだ……」


「まーあー、いい。それは君の問題だ。ゆっくり考えろ」


「じゃあ、僕の体を使って……」


「もう、言うな! 自分の一番大切なものすら、わからない君が生を受けて、こんなにいとしい紗恵子を前にして何も出来ない死んでしまった僕がいる。悔しいよ。お前なんか宇宙の塵にして消してしまいたいよっ!」


「ごめん……」


「簡単に謝るな。自分に自信がないから謝るんだ」


「何をさっきから怒っているの?」


「君にはあの声が聞こえないか」


 良一が耳をすますと紗恵子の声が聞えた。


「新一、出てきなさい。良一を元に戻して……。新一、そこにいるのはわかっているのよ」


「紗恵子さんにはわかるんだ」


「ふん、紗恵子でも目に見えないものを確信的に信じることはできないさ」


「僕があんなことしなければね」


「あんなことって……?」


「君に乗り移って夜這いに行った事だよ。あれが切っ掛けになってすべてが、ばれてしまったんだよ」


「じゃあ、この際、正直に出て行ったら」


「そんなことできるわけないだろう……。できるわけないさ……」


「じゃあ、このまま……」


「そう、このまま……。このままが一番いい。そのうち時間がたてば、やっぱり気のせいかもしれない、と思うようになる。そうすれば、僕のことも忘れていくよ……」


「……、そんなの、悲しいね」


「そうさ、悲しいよ。辛いよ。これが死ぬってことだ。夢も希望も、……、無だっ!」


「僕に出来ることはない」


「君は生きろ。蠍になれ。生きて自分の身を焼きながら人の幸せのために生きろ。自分のために死ぬな。人のために死ねー!」


「わかったよ……」


「じゃあ、行け……」


「うん、……」


「最後に一つ、君が目を覚ましたとき、どれだけ覚えているかは知らないが、このことは紗恵子には絶対に言うな。頼む……」


「新一のことは忘れないよ……」


「バカ、死んだやつのことなど忘れろっ!」








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