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73.糸の切れた良一

(糸の切れた良一)

  

 夕方になってようやく修学旅行のバスも無事学校に着いた。

 妙子が疲れた体を引きずりながら帰ると、祖父祖母、父親と母朋子のベッドの周りを囲んでいた。


「遅かったのね……」


 母朋子は寝たままの状態で顔だけ傾け妙子を見た。


「お母さん、もういいの?」


 妙子はいつものように母親の前に立って顔を覗き込んだ。


「朝、起きた時は、変な気持ちだったけど、今はもう慣れたよ……」


 弱弱しい声だった。でも、肌の色が薄っすらといつもよりかピンク色に染まっているように見えた。


「お母さんなんか、朝目を覚ますと、起き上がろうとするのよ。一年以上寝たっきりだったのに……」


 そこに紗恵子が出てきて、今朝の出来事を嬉しそうに話した。


「紗恵子の看護がよかったんだよー!」

 父親が、紗恵子の苦労を労った。


「でも、本当に目を覚ますとは思わなかったわ。正直言って。でも、お父さんが、必ず目を覚ますっていって……」


 紗恵子の目から薄っすらと涙が光ったように見えた。


「いや、確信があったわけではないが、世界の例からすると、一年二年寝ていた患者が急に起き出したということはあるんだよ。まさか自分のところでそうなるとは思わなかったがね」


 父親もさすがに喜びを隠せない様子だった。


「妙子、おいで……」

 妙子は顔を近づけ耳を傾けた。


「え、何、お母さん……」


「達也君はもう大丈夫よ……」


「え、え、えーえ……。お母さん、みんな、みんな覚えているの?」


「最初は、夢かと思っていたけど、妙子が修学旅行と訊いて思い出したよ」


「お、お母さん、内緒だからね。言っちゃあだめよ……」


「わかったわ! 秘密ね……」


 まだまだ母親は体力が無い様子で、それだけ言うと、また目を閉じた。

 少し微笑んでいるように見えた。


「え、何が秘密なの?」

 紗恵子が妙子に訊いた。


「そういえば、小さい朋子ちゃん、帰ったんだって。おじいちゃんから聞いたわ……」


「うん、……」

 妙子は元気なく答えた。


「よかったじゃない……」

 紗恵子は妙子の寂しい気持ちが伝わってくるようだった。


「ちゃんとお別れ出来なかったから、ちょっと心残り……」


 妙子の沈んだ顔を見たのか、母朋子が小さな声で言った。

「わたしじゃ不満なの……?」 

 

「えー、仕方ないから、お母さんで我慢しておくわー」

 妙子が気を取り直したように笑って母朋子を見た。


「それより、ピアノ練習しているでしょうねっ!」

 止めとばかりに、いつもの母親の言葉。


「また始まった、いつも聴かしてあげていたでしょう」


 母朋子はただ微笑んでいるだけだった。


「それより、良一君は?」

 紗恵子が心配して訊いた。


「もう、帰ってくるんじゃないかな。自分の家に荷物置いてから来るって言っていたから……」


 妙子が答える間もなく良一の声がした。


「ただいまあ……」


 妙子は、嬉しそうに良一を迎えに出た。


「お母さん目を覚ましたわよー!」


 そして、良一だけに聞こえるように、小さな声で呟いた。


「お母さん、私たちといたこと、みんな覚えているみたいよ」


「え、ほんと……」


 良一は改めて挨拶をしようと、妙子と一緒にベッドに向った。


「良一、……」

 母朋子は、薄っすらと目を開けて小さな声で呼びかけた。


「……、……」


 良一は、母朋子と顔を合わすや否や、紐の切れた操り人形のように、その場にくたっと倒れてしまった。


「良一、よっぽど疲れているのねー!」

 妙子が良一に手を貸そうと腕を持つと、その反応のなさに血の気が引いた。


「良一、変よ……」

 妙子は父親の顔を見た。


 父親は、良一をそっと仰向けにすると、脈と目の瞳孔を見た。


「救急車!」


 紗恵子はその声で、すばやく電話を取った。


「お父さん、良一どうしちゃったの?」

 妙子は父親にすがった。


「詳しくはわからないけど、危ない状態だ……」


 すぐに救急車が来て、良一は運ばれていった。

 妙子と父親も付き添いで救急車に乗り込んだ。


 病院では、すぐさま採血と心電図、MRIが撮られたが、何の異常もなく、ただ深い眠りに付いているようだった。


「異常はなさそうだ。きっと疲れていたんだ……」と、父親は呟いた。


「じゃーあ、すぐに目を覚ますわよね……、ただ少し疲れているだけだよね……」

 妙子は、こぶしを握って父親を見つめた。


 その日の深夜、妙子は眠らずに良一をずうっと見詰めていた。







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