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71.よく泣く子

(よく泣く子)


 夜、夕食を済ませると、良一が真っ青な顔色と引き攣った顔面の達也を連れて医務室にきていた。


「お腹と足の付け根が刺すように痛くて我慢できないそうです。それに熱もあるみたいです」

 苦しい顔を見せている達也に代わって良一が説明した。


 その説明と達也の様子を見て校医の先生の顔色が変わった。


 達也は何とかここまで自力で歩いてきたが、その痛さで倒れるようにベッドの前でうずくまった。


「大丈夫……」

 荒い息の中で言葉は出てこなかった。


 校医の先生と良一は達也の肩と足を持ってベッドに上げた。

 そして、すばやく触診をすると、すぐに点滴を始めてから電話を取った。

 電話をしながら、良一に訊いた。


「いつから痛み出したか何か言っていた?」


「よく知らないけど、昨日から調子が悪かったようです」


「担任の先生を呼んできてくれる」

 その言葉で良一は駆け出した。


「え、何処にいるんだろう?」

 夕食の時、隅で先生方が集まってビールを飲んでいたことを思い出した。


「まだいるかもしれない……」


 食堂は、山荘の棟続きに新しく建てられた大食堂で、昼間はレストランとしても営業していた。


「いた……!」


 そこには、担任だけではなく、校長始め多くの教師と一際目立つ体育のラガーマンもいた。

 そして山荘のオーナらしき人と地元の山岳ガイドのサポーターたちも、まだビールを飲みながら談話していた。


 良一は、今までのいきさつを話すと、そこに集っていた人たちはすばやく立ち上がり全員医務室に向った。


 医務室では、校医の先生が浮かない顔で達也を見ていた。


「多分虫垂炎だと思いますが、かなり悪化しているようです。すぐ手術が必要ですが、今救急でヘリを要請したのですが、夜ですし、天候が悪くてこられないそうです。それで今自衛隊のヘリをお願いしているところです。まもなく連絡が来ると思います」


「どうもすみません。お騒がせしまして……、よろしくお願いします」

 担任が頭を何回も下げてお願いをしていた。


「じゃあ、わしらは早速ヘリポートの仕度をするよ」

 オーナーらしき人が言った。


「江崎はもう帰っていいぞ。後は先生たちに任せろ」

 良一は、薬で落ち着いたのか、今は寝ている達也をみて少し安心した。


 部屋に帰ろうとした良一は、ロビーの窓を恨めしそうに見ている朋子と妙子に気付いた。


「雨が止むのを待っているの……?」

 良一も、窓際まで来て、妙子たちと並んで外を見た。


「少し小ぶりになったから、もう晴れるんじゃないかなー」

 妙子はじれったそうに渋い顔を見せた。


「晴れないと困るよ。ヘリがこられないから……」

 良一は空を恨めしそうに見ながら呟いた。


「ヘリが来るの?」

「達也が、虫垂炎、盲腸だって」

 良一は振り向くことなく呟いた。


「バカね。こんなところまで来て……」


「みんなと一緒に居たかったんだよ。一生に一度の修学旅行だから……」

 良一は窓から離れて、近くのソファーに座った。


「まあねー、その気持ちわからないでもないけど……。でも、昨日から悪かったんじゃないの?」


「うん、何か悪化しているって。それで、ヘリコプターを呼んだみたいだよ」


「こんな天気にこられるの?」

 妙子も窓から離れて良一の隣に座った。


「普通のヘリは駄目だけど、自衛隊を頼んだみたいだよ」


「何か凄いわねー。よっぽど悪いんじゃないの?」


「よくわからないけど……」

 良一はもう一度窓の外を見た。


「でも、この天気じゃあ、自衛隊でも無理じゃないの……。完全に雲の中って感じだよ」

 妙子の言うように、窓の明かりが、白く重々しい霧の中に写し出されていた。


「もうじき消灯だぞ。早く部屋に帰れ……」

 先生たちもぞろぞろと帰ってきた。


「達也君はどうですか?」

 妙子がいち早く訊いた。


「心配は要らん。もうじきヘリが来る!」

 歩きながらの会話だった。


「先生、ちょっと見舞いに行ってもいいですか?」

 尚も妙子が訊いた。


「達也なら、薬で寝ているみたいだったぞ」


「でも、ちょっと……」


「じゃあ、校医の先生に訊いてから五分だけな。後は早く帰れよ」


 先生の話が終わらないうちに、三人は駆け出していた。


 医務室に着くと、ベッドに横になっている達也が見えた。


「先生、達也君大丈夫ですか?」


「天候しだいといった感じだけど……。ヘリが来てくれればいいけど……」


「こられなかったらどうなるんですかー!」


「大丈夫よ。心配しないで……」

 校医の先生はあえて核心部分は言わなかった。


 朋子はそれを訊くと、一人達也のベッドに行き、達也の布団に手を入れてお腹を触っているようだった。


「駄目よ。大丈夫だから、今は安静にしておいて……」


 しかし、朋子は校医の先生を睨みつけて、

「先生、これ酷い、今に手遅れになるよっ!」


「だから、今ヘリを待っているのよ。いいから、もう部屋にお帰りなさい……」


 その言葉で朋子は医務室を出て妙子たちと部屋に戻ろうとしたとき、医務室の無線電話が鳴った。


「やはり、駄目ですか……。はい、わかりました。お願いします」


「先生、駄目って、どういうことですか?」

 今度は朋子が刺すような眼差しを校医の先生に向けた。


「やはり雲が厚くて着陸地点を見つけられないそうよ。近くの病院で天候が回復するのを待っていてくれるそうよ。雲が切れればすぐに飛んでこられるから」


「そんな、酷い……」


 しかし、校医の先生を責めても仕方なく、三人は息が詰まるような不安の中、ロビーの長椅子に腰掛け、白くもんもんとした窓の外を恨めしそうに見た。


「これじゃー、仕方ないね……」

 良一は、それだけ言うと、一人自分の部屋へと重い足どりで戻って行った。


 妙子は、暗い廊下に消えていく良一を見ながら、悶々とした言いようのない悲しみがこみあげてくるのを必死でこらえていた。


「朋子ちゃん、さっき達也君を診たでしょう。どうだったの?」

 その思いのはけ口を見つけたように妙子が訊いた。


「すごい熱で、お腹全体が腫れているような、今にも破裂しそうな感じ……。手遅れで、毒が回って敗血漿を起こしたら命が危ない」


 朋子は俯きながら呟いた。


「どうして、どうして朋ちゃんがわかるの? 朋ちゃん、わたしと同じ中学生だよ。わかるわけないよ!」


 妙子は朋子の座っている前でひざまずいた。


「そうだね。でも、わかるの……」


「じゃあ、朋ちゃん中学生じゃないよ。わたしのお母さんだよ。お母さん、お母さん……」

 妙子は、朋子の太股を掴んだ。


「妙ちゃん……」

 朋子は見詰める妙子から目をそらした。


「お母さん……。お母さんなら、達也君を助けて、助けて、有名な外科医なんでしょう!」

 妙子は目をそらす朋子の肩を両手で掴み、目を覚まさせようと大きく揺さぶった。


「え、でも出来ない。わたしまだ中学生だから……」


 朋子は妙子の腕を振り切るように、もう一つの窓の側においてあったベンチに座りなおした。


 でも、妙子はそれを追いかけた。


「そんなことない。さっきちゃんと診察できたじゃない!」

 妙子は苛立ち、もう一度、朋子の前にひざまずき肩を掴んで言い聞かせるように揺さぶった。


「あれは、ただなんとなく、そう思っただけだから……」


 朋子自身、良くわからなかった。

 何故そう思ったのか、私は誰なのか……


 しかし、達也に触れたとき一瞬にして、手術の段取りが頭に浮かんだのは確かだった。

 しかし、それが本当に正しい段取りなのか、それとも空想なのか。実証した記憶がなかった。


「違う、そうじゃない。お母さん、時々中学生じゃなくお母さんになっている。お母さん、お母さんならきっとできる。達也を助けてあげて、手術して、お願い……。手遅れになっちゃう。ミーコみたいに死んじゃってもいいのっ!」


 妙子はいつしか大粒の涙をこぼしながら泣いていた。

 その涙をぬぐうように、肩を掴んでいた手を滑らしながら朋子の股を抱きかかえ顔を股の間に埋めて、今度は大きな声を出して泣いた。


 その泣き声は、静かなロビーに広がった。


「ミーコ、……」


 ミーコは、幸せだったのかな?

 あのまま牧場に置いてあげた方が良かったのかな?

 朋子はいつもの問いかけを繰り返していた。


「ミーコは私の手の中で死んだの。だんだん心臓の動きが小さくなって……。私何にもできなかった。だから、医者になったの……。私は医者……」

 

「……、……」


「お母さん、ミーコになっちゃうよっ!」

 妙子は、泣きながら叫んだ。

  

「妙子は、よく泣くわねー。紗恵子は全然泣かない子だったのに……。もう、わかったから、泣かないでよ。妙子にはかなわないわ。何をして欲しいのよ……」


「え、妙子は泣きながら頭を上げた。そこには体操服の朋子ではなく、白衣を着た三十路を過ぎたころの母がいつの間にか座っていた。

「お母さん、おかあさんっ!」


 妙子は、もう一度母親に抱きつき、さっき以上の声を出して泣いた。


 その大きな泣き声を不審に思ったのか、幾人かの教師が出てきて、その光景を見守っていた。


「妙子、恥ずかしいわよ。みんな見てるから……」

 妙子は、泣きながら顔を横に向けた。


「お母さん、達也を助けて……」


「わかったから、何処にいるの……」


 妙子は涙を拭くこともなく母親の手を引っ張って医務室へと駆け出していた。


「わたしは、医師の湯川朋子よ。患者を見せなさい!」

 母親朋子は、しばらく達也を見ると……

「ここで手術は出来るの?」


「簡単な手術なら出来ますが……」


「道具はあるのね。すぐ準備よ。あなたには、手伝ってもらうわ。大至急……」


 妙子も他の先生方も即座に外に出された。

 居場所がなくなった妙子と先生たちは仕方なくロビーまで戻った。


 そこには、良一、幸恵と小夜子、聡子が待っていた。


「何かあったの? なかなか戻ってこないから……」と、幸恵が訊いた。


「達也が盲腸で今、手術している」


「朋子ちゃんは、……?」


「え、朋子ちゃん……。今手術している……」


「朋子ちゃんだよ!」


「そう、手術している……」


「妙子、しっかりしなさいよー!」


 そこに担任の先生が間を割って声をかけた。


「もう、お前ら消灯はとっくに過ぎているぞ!」


「先生、達也君大丈夫なんですか?」

 幸恵が不毛な答えの妙子に代わって核心部分を聞いた。


「ああ、大丈夫だ。明日、また早いぞ。戻った戻ったっ!」

 担任は幸恵たちを部屋に追い返した。


「先生、あのお医者さん、わたしの知り合いなんです。ここにいてもいいですか?」

「そうか、妙子の知り合いだったのか。助かったよ。本当に助かった。じゃあ、ここで静かに待っているんだぞ」


「良一も、……」

 担任は、うなずいて返事を返した。


 それから三十分もしないうちに母親朋子は出てきた。


「終わったわよ。そんなに酷くならないうちに手術できたわ。もう大丈夫……」


「もう、終わったの?」


「心臓を手術するわけじゃあないんだから、すぐに終わるわよ」


「お母さん、ありがとう!」


「妙子が、お礼を言わなくてもいいわよ」


「あ、うん……」


「でも、確か修学旅行に付いて来たと思ったんだけど……?」


「……、そうよ。わたしと一緒に来たのよ」


「何で、校医でもないのに……?」


「ほら、山だから、登山なんだから、石が落ちてきたり骨折ったりするでしょう。達也みたいな人もいるし外科医として同行しているじゃないの」


「そうだったかしら……」


「わたし、お母さんと修学旅行できて嬉しかったっ!」


「そうね……」


 その時、医務室の方から校医の先生が声を掛けてきた。


「今、自衛隊のヘリがこちらに向ったそうです」


「じゃあ、ストレッチャーで運んで準備しましょう」


 妙子と良一は、思わず外を見た。

 そこには、さっきまでの厚い雲が嘘みたいに消えていて、空には満天の星が輝いていた。


「本当に山の天気って変わりやすいのね。でも、綺麗。毎日プラネタリウムが見られるのね」

 そう言ったのは、もちろん妙子だった。


 しばらくして、投光機が照らされた。

 爆音の中、自衛隊のヘリが到着した。

 多くの生徒が窓から顔を出して外の騒ぎを見ていた。


 母親朋子は、そのまま達也とヘリに吊り上げられて行ってしまった。





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