67.証拠と涙
(証拠と涙)
紗恵子と良一の待つ、妙子の家に着くと、三人は真っ先にベッドに寝ている母朋子の所に行き見舞った。
「ありがとうよ。お前には、いつも驚かされてばかりだけど、昨日は若返ったよ。まだまだ老いぼれちゃあいかんぞと朋子にいわれているような気がしたよ……」
祖父は寝ている母朋子に話しかけながら白い手をとると、軽く撫ぜて静かにおいた。
中学生の朋子は、もしかすると三十年後の自分の姿かもしれないと改めてベッドの朋子をまざまざと見下ろした。
「綺麗な人ね……」
白く透き通る肌は、今の日焼けした朋子からは想像できなかった。
そして、やはりここに寝ている人が三十年後の自分といわれても、今の朋子からはやはり想像できなかった。
「何、言ってるのよ。自分の姿に見とれているなんて……」
妙子が横で冷やかした。
「ゆっくりしていけるんでしょうー?」
紗恵子は、皆にアイスコーヒーを出して迎えた。
「いや、バーさんを留守番に置いて来たから、ゆっくりもしておれんよ」
祖父は、アイスコーヒーが置かれたソファーに腰を掛けた。
「良一は?」
妙子は、この家に帰ってくるまで、良一の存在が気にならなかったことが不思議だった。
「昨日の続きがあるとか言って自分の家に帰ったわよ」
「あーあー、もしかして昨日の夜は二人っきりだった?」
「そうよ。お父さん、また出張だったから」
「うそ、そんな……、二人っきりで一夜を過ごしたの……?」
「決まってるじゃない。邪魔な子はいないしね。楽しい夜だったわー」
「しまったっ! 朋ちゃんのことで頭が一杯だったから。良一のことなんてすっかり忘れてた。そうとわかれば、帰ってくるんだったっ!」
「もう一泊してきても良かったのよ!」
「じゃあ、もう食べちゃったのねー」
「もちろんよ。綺麗にねー」
「綺麗にって、じゃあ、あ、あそこなんかもなめたりしたのね……?」
「ちょっとね、恥ずかしかったけど二人でなめあって美味しかったわー」
「うそ、そんなことまでしたの……」
「だって、やっぱりあそこが一番美味しいもの。妙子だって良くなめてるじゃない」
「わたし、そんなことしないわよ!」
「うそ、こないだなんて口いっぱい入れて……」
「えーえ、何の話しているのよー?」
「おばあちゃんが持ってきたケーキの話でしょう。ケーキの底に張り付いている紙、アルミカップのもあったわねー」
「うそ、ケーキ全部食べちゃったのー?」
妙子は、紗恵子と良一のもだえ合うピンク色の世界から、現実の世界えと引き戻された。
「二人でねー」
「そんなーあー」
妙子の落胆した顔。それを見て少し可哀想になったのか……
「全部食べちゃおうと思ったけど、妙子はケーキに対して異常な執着があるからって、良一君が言うから二つとっておいたわよー」
「ほんと、嬉しい……、そんなことはどうでもいいのよっ!」
「どうでも良かったのー?」
「良くないけど……、良一と何やったのよー?」
「そんなこと、おじいちゃんがいる前で言えないわよー!」
「やっぱり、おじいちゃんにいえない事をやったのねー」
妙子は身を乗り出して紗恵子に迫った。
祖父は自分の話題が出たことで……
「本当に、この家はにぎやかで楽しい家だなー」
「おじいちゃん、妙子一人が騒いでいるだけですよー」
「二人とも仲良くなー!」
祖父は残っていたアイスコーヒーを飲み干すと、帰り支度を始めた。
「もう行くんですか?」
「バーさんに、昼までには帰るって言ってあるからなー」
三人は、祖父を車まで見送りに外に出た。
「朋子、……」
祖父は最後に過去からやってきた朋子に何か言おうと思ったが、過去に帰る朋子のことを一番よく知っていたのは祖父だった。
「じゃーな……」
何もいえず、やっと出た言葉だった。
「お父さんも元気でね!」
朋子は、寂しそうにうつむいて車に乗り込む、父勝雄に別れの言葉を掛けた。
そして祖父は帰っていった。
「お父さんって……?」
紗恵子は、祖父と朋子の会話が普通とは違う親密味を帯びていたので、妙子に訊いた。
「おじいちゃんの家で、親しくなっただけよ。それより、言えないような事って何をしたのよっ!」
再び妙子はさっきの話に戻ろうとした。
「言えない事ってねーえ、いえない事よ!」
「そんな凄いことしたのねー」
「凄いことって、オリンピックじゃないんだからね。ちょっと教えてあげただけよー」
「うそ、教えるって全部見せたの?」
「わたしが見せてもらったのよ。見ないとわからないから」
「あんなもの見たかったの?」
「妙子は良く知ってるわよねー」
「しらないわよ。それからどうしたのよ」
「だから使い方を教えてあげたのよ……」
「そんなことまでやったのね。あたしがいないと思って」
「たまにはいいんじゃないの。せっかく同じ家にいるんだから、お姉さんとして……」
「もーお、いい。良一なんか一生この家で家事させてやるっ!」
「それって、結婚って言うんじゃないのー」
「そうよっ! 絶対、お姉ちゃんと結婚させてやるー!」
「あら、わたしが良一君をもらっていいのかしらー」
「いいわよ。あんな女たらし、スケベでヘンタイなやつ!」
妙子が家の前の駐車場で目をむき出して憤慨していると、歩道を歩いて帰ってくる良一が見えた。
「やーあ、ずいぶん早く帰ってきたんだねー」
妙子はその良一の言葉に、今までたまりにたまった嫉妬と怒りのエネルギーが爆発した。
そして、地獄の底から響くような低い声で……
「悪かったわねー、早く帰ってきて……。昨日はずいぶんお楽しみだったようねー」
良一は只ならぬ殺気を感じて、慌てて一歩下がって身を縮めた。
「いや、そんな、楽しかったなんて……」
良一は、もう一歩後ろに下がりながら、妙子がまた大きな勘違いをしていると思った。
「これで良一も一生この家で家事をすることになったわねー」
「えー、何で、昨日一晩一緒にいただけだよ……」
「一晩一緒にいれば十分でしょう。あんなことまでしておいて……」
「あんなことって、妙ちゃんの思っていることは何もしてないよ……」
「うそおっしゃい。お姉ちゃんがみんな白状したわよー!」
「えー、言っちゃったんですかー」
紗恵子は懸命に笑いをこらえながら……
「妙子があまりにもひつこく訊くからー」
「これでわかったでしょう」
「でも僕、ただ教えてもらっただけで、そんなへんなことしてないよー」
「大人の女を教えてもらえば十分でしょう!」
「大人の女って、数学の図形の証明を教えてもらっただけだよー」
「は、裸になってもっと他にも教えてもらったでしょう」
「ちゃんと、服を着ていたよー」
「うそ、わたしが見てないと思って、二人で口裏合わせても駄目だからねっ!」
向きになって良一を攻め立てる妙子に、少しかわいそうに思ったのか紗恵子が、助け船を出した。
「信じる信じないは、妙子の自由だけど、わたしは良一君がずっとこの家にいてくれたほうがいいから。それでもいいけど。それってやっぱり結婚よねー」
助け船というより、火に油を注ぐような告白になった。
「紗恵子さん、そんなこと言わないで、妙ちゃんにちゃんと説明してくださいよ」
逆効果だと思った良一は、もう一度紗恵子に真実を話してもらうように頼んだ。
「あら、良一君、わたしが相手なら不服といいたいようねー」
告白したのに良一が賛同しなかったことに紗恵子も向きになって良一を睨んだ。
「いえ、そんなこと無いですよー」
「やっぱり、二人は出来ているじゃない」
その言葉が、良一の自白だと妙子は思った。
「他に何をしたのよ。全部白状するのよー!」
良一は肯定も否定も出来なくなった。
「他にって、後はバーベキューして……」
「バーベキューやったの?」
「紗恵子さんが、五月のときにいなかったから、バーベキューがいいって言うから……」
「バーベキューが終わってから二人でお風呂入ったのねー」
「お風呂は入ったけど一人だよ」
「うそ、二人で入って一緒に寝たでしょう」
だんだん露骨になってきた話に、美女三人を目の前にして、恥ずかし気持ちのなか、妙子の話どおりなことを頭で想像して良一も、別な意味で興奮してきていた。
「そんなことしないよ。紗恵子さんも言ってよ。二人でなんか入らなかったよねー」
「さーどうだったかしら……」
良一は凍りついた。
「わな、わな、これはわなだから、信じないでよー」
「じゃあ、証拠見せてよー!」
「証拠って……?」
「やましいことが無ければ、わたしの胸さわれる?」
妙子は一歩前に出て胸を突き出して良一を睨んだ。この作戦は良一の家事労働の刑を延長させた時の捨て身のわな。
「え、えーえ、こんなところで出来ないよー」
庭先に入ってはいたものの、道からは通行人には見られるし、ましてや側には、紗恵子と朋子が見ていた。
「ほらご覧なさい。出来ないじゃない……」
妙子は真実が決まったとばかりに、良一に背を向けて家に入ろうと歩き出した。
良一はこのままでは、いわれの無い罪に仕立て上げられるとあせった。
しかし、怒りに任して興奮して我を忘れている妙子に、理屈は通じない。
「……、ちょっとまって!」
良一は、妙子を追っかけて後ろから妙子の腕を掴んだ。
「放してよ!」
妙子は、良一に腕をとられた弾みで振り返り叫んだ。
それと同時に掴まれた腕を振りほどこうと暴れた。
良一は叫ばれたうえに抵抗されたことで、余計に慌てて、もう一方の手で胸をさわる予定が、そのまま妙子を引っ張り寄せて両手で力強く抱きしめてしまった。
良一は失敗したと思いながらも、さらに暴れて逃げ出さないように、もう一度しっかり抱きなおしながら、さらに力強く抱きしめた。
妙子は、力強く抱きしめられたことで声も出せず、ぐいぐい締め付けられる腕の中で、良一の男としての力に圧倒され、身動きできない圧迫感が妙子から抵抗する意欲と先ほどのいらだちを忘れさせた。
妙子のやり場の無い二本の腕は思わず良一の肩を抱いてしまった。
前を見ると紗恵子と朋子が、まじまじと二人のこれからの成り行きを期待をこめて見ているのがわかった。
弾みとはいえ妙子を抱きかかえてしまった良一は、次にどうしたらいいのかわからずに、ただ抱きしめているしかなかった。
そのうち無我夢中で、ただ力任せに抱きしめていることに気が付き慌てて力を抜いた。
力を抜いてみると妙子の体の輪郭が腕と体を通して見えてきた。
良一にとって妙子を抱きしめる行為は初めてということではなく、幼児期のマショマロのようなふわふわとした柔らかい妙子の体が頭のなかに蘇った。
しかし、中学生に成長した妙子の体は、細く壊れそうなくらい痩せていて、あばら骨と背骨のごつごつした感じが腕に響いた。
「もっとご飯食べなきゃ駄目だよー!」
常に家族の健康状態と食事を考えている良一にとって反射的に出た言葉だった。
「失礼ねえ! このスケベ!」
妙子は、力いっぱい良一を押しのけた。
良一は大きく一歩後ろに仰け反り、そしてバランスをとろうとしている良一の足を妙子は思いっきり踏みつけた。
「痛いっ!」
良一の顔は哀れにも引き攣り、妙子は気が住んだように振り返り家の玄関へと走っていった。
途中、妙子はもう一度振り返り、片足を上げてもだえている良一に向って……
「今日も罰としてバーべキューだからねー!」
そういって家の中に入っていった。
朋子もそれを見て慌てて駆け出し妙子を追った。
残された紗恵子と良一は、気まずい空気のなか、二人同時にため息を付いた。
「何でしょうねー! あれ……、罰って何も悪いことしてないのに」
「さーあー、愛の告白じゃあないの……」
紗恵子は表情を崩さず良一とすれ違う時も目をあわせずに家に入っていった。
良一は一人残され、まだじんじんと痛みの残る足を少し引きずりながら、結局身の潔白は証明されたのだろうかと考え直していた。
それとも抱きついたことで、終生家事労働の刑よ、といいかねない妙子に不安が広がっていた。




