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65.懐かしい家

(懐かしい家)


 朋子が電車で通いだしたのは、いつごろからだろうかと思い出していた。

 その時ふと頭の隅を横切ったものがあった。


「私、家に帰るんだ」

 家に帰って今日の晩ご飯を思い浮かべていた。

  

 駅を出ると朋子は覚えのある街並みを歩いていた。


 しかし、何か何処となく違っているような気がしていた。

 小さな路地を曲がると小柴医院の変わらない看板が見えた。

 朋子は走り出して医院とは真反対にある玄関に飛び込んだ。


「ただいまーあー!お母さん!お母さん!」


 静かな家に朋子の大きな高い声だけが、むなしく響いた。

 朋子は辺りを見回すと、いつも母が勝手仕事をしていることを思い出した。


「お母さん!お母さん!」


 台所を見回しても母はいなかった。


 その騒ぎに気づいて父親の勝雄が朋子の後姿に声を掛けた。


「朋子ちゃんかい? ばあさんから電話で何処にも行かずに、ここで待っているように伝言があったよ」


 振り返った朋子をみて驚いたのは父親だった。


「朋子…、!」


 父親の直感というより、親子の絆だろうか、一目で自分の娘だと判断した。

 姿かたちは中学生にしか見えない娘を……


「お父さん? ……、ただいま…」


 朋子もまた昔から白髪が多かった父親だけれども、深いしわと一回り小さくなった父親を何の疑いもなくお父さんと呼んだ。


「えーえ、朋子だよなーあー?」


 しかし、少し時間がたち現実の立場を考えられるようになると、ここに娘がいることは不可能なことだと気がついた。


「娘の顔を忘れてどうするのよ。でも、ちょっとみないうちに、お父さんもおじいさんになったわねー」


「なに言ってんだい。お前は、えらく若くなって、小さく縮んだんだなー」


 そう、確かに、ここに娘がいるはずはない。

 夢か幻か幽霊か、父親は朋子に近づきながら考え、その考えを即座にやめた。


「失礼ねー! お母さんは……」


「今、タクシーで帰ってくると言っとたがな。わざわざタクシーで帰って込んでもゆっくりして来いと言ったんだけど、そりゃあ、タクシーですっ飛んでくるのもわかるなー!」


 今は彼女が誰だろうと何だろうとかまわない。

 私の娘でいてくれるなら、私の娘だ。

 父親は、朋子とすれ違い奥の居間のちゃぶ台の前に座った。


「心配掛けてごめんねー」

 朋子は遠くから父親の顔を見ないようにしてあやまった。


「なーに、いつものことだからなれたよ……」


 そう言えば、朋子が中学生のとき、二週間近く行方不明になったことがあったと、昔の騒動が父親の頭の中をよぎった。


 あの時は捜索願も出して誘拐か事故かで散々心配したが、結局何の手がかりもなく、警察では単なる家出と思って、あまり相手をしてくれなかった。

 小さい時からちょくちょく姿が見えなくなっては、警察に相談をしに行っていたから、家出の常習犯だと思われていたようだ。


 あの時も、知らない間にひょっこり帰ってきていた。

 あまりにも自然に悪びれた様子もなく現われたので怒る気力もなくなってしまった。


 小さい時は家の近くで迷子になるなんて、なんと方向音痴な子かと思っていた。


「しかし、今の医学はすごいじゃないか。こんなに若くなって治るんじゃなー」


「なーにそれ……、私まだ何処も悪くないよー」


「なにを言っているんだ。お前はくも膜下出血で倒れたんだぞっ!」


「いつの話よー」


「もう一年くらい前だよ」


「お父さん、夢を見てるんじゃないの。私は一年前からずっとちゃんと大学に行ってました」


「えー、お前、大学生か?」


 どう見ても、中学生にしか見えない朋子の口から、大学生という言葉が出たことで、父親はとんちんかんな表情を見せた。


 現実の娘は、大学生どころか結婚をして娘が二人もいる。

 朋子ではないと思いながらも、目の前に存在する中学生にしか見えない朋子を否定できない。

 その気持ちが父親を更に混乱させた。


「そうよ。今帰ってきたじゃない……」


「ちょっと診察してやろうか?」


「エッチ……」


「なにがエッチだ。わしは医者だぞっ!」


 勝雄は、診察をしてみれば何かわかるのではないかと思った。

 少なくとも本物の朋子なら手術のあとがある。


「もういい! 口渇いちゃった」

 朋子は台所の冷蔵庫を開けた。


「お父さんも何か飲む……?」


「熱いコーヒーがいいなー」


「熱いコーヒー、じゃあ私もコーヒーにしよう」

 朋子は冷蔵庫を閉めてサイホンを用意した。


「お母さん、何処行ったの?」


「あーあ、その、何だ、子供にピアノを教えに行ったんじゃよ」


「お母さんも暇ねー」


「お前こそピアノをやめて、良かったのか。小さいときから、あんなに練習していたのに。世界のコンクールに出れば一等賞間違いないってバーさんが言っとたぞ」


 朋子はカップを両手に二つ持ってきて父親の前に座った。


「ピアノ……。たまには弾くわよ。下宿にも電子ピアノ買ったから、タッチがいまいちだけど。ピアノ弾いてから実習に出ると調子いいから。今度、腹腔内手術の研究室に入ったわ」


「外科は辛いぞ。良くても悪くて患者を切らねばならん。切れば良くなるとは限らんからな。少なくとも切ったことで患者のダメージは増す」


「でも、切らなければ治らない病気もあるから。今の研究室の腹腔内手術はそのダメージを少なくする方法だから。これからの主流になると思うわ」


「そんな、女だてらに刃物なんか振り回したら可愛げがないな。いい男が寄ってこんぞ。そうだな、もっと可愛らしく。内科とか小児科とか精神科とかないかね」


「何言ってるのよ。男なんかお父さんだけでたくさんよ」


「じゃあ、小柴外科医院にするか?」

「やめてよね。私、継がないからね。ここはお父さんの代で終りにしてよね」


「俺の老後はどうなるんだ。もう一人作っておけばよかった」


「今からでも遅くないんじゃない。人口受精とかクローンとか……」


「あーあ、そうするよ。子供を作るのに困らない時代になったからな」


「お母さんと仲良くね。さあ、着替えてこようかなー」


 朋子が父親と向かい会って座るといつもこんな調子になる。


 朋子は、台所の流しにコーヒーカップを置くと二階にある自分の部屋に上がっていった。


 小柴夫婦は、朋子が嫁いで行ってからも二階の朋子の部屋はそのままにしていた。

 そして、たまには掃除をして、娘のいた頃を懐かしんでいた。


 嫁いだ朋子も実家に帰ってくる時は、この部屋で泊まった。

 二十畳ほどあるこの部屋は、子供が二人になっても十分にすごせる広さがあり、一週間ほど滞在しては帰っていった。


 今の朋子からしてみれば、三十年近く経っていたが、何の違和感もなく部屋に入った。


 まず一番にベッドに倒れこむように横になった。

 そして大きなため息をついた。

 久々に自分の部屋は何処にいるよりも気持ちが落ち着く。

 まぶたが重くゆっくりと目を閉じていく。

 意識が遠ざかっていく感覚は気持ちがいい。

 その中でいつもとは違うベッドの沈み具合に体が軽く細くなったような変化に気がついた。


 朋子はびっくりしたように起き上がり壁際の立ち鏡を覗いた。


「あれ、私じゃない?」


 思わず顔をさわって確かめては見たものの、手に触れたその顔はぷよぷよしていて柔らかい。

 次に胸をさわり、その小ささにショックを受けて青ざめたが、そこに写っている小柄な中学生ほどの少女なら納得がいった。


 今まで大学生だと思っていた朋子は、その姿を見て、今朝までの湯川家での出来事が、妙子や良一の顔と共に蘇ってきた。


「私、中学生なんだ……」


 ほっと胸をなでおろしながら、大学生になった夢でも見ていたのかと思った。


 着替えの服を出そうと洋服ダンスをあけると、そこには朋子の知らない服が並び、出して体に当ててみると、その服は大人のサイズのものばかりだった。


 朋子はドアを開けて首だけ出して下に向って叫んだ。

「お父さん、この部屋誰かに貸しているの?」


 また下から叫び声が返ってきた。

「誰かに貸すわけないだろ!」


「でも、知らない人の服があるから……」

「……みんな朋子のだよっ!」


「みんな私の……」


 朋子はもう一度確かめるように洋服ダンスを調べた。

 大人の服、大人の下着……

 その中には絵柄のついた子供のパンツとシャツまで入っていた。

 

「何これ……、わたしのじゃない……」


 朋子はもう一つの洋服ダンスの引き出しを開けた。

 ここには小さい時の思い出の服がしまわれているはずだった。


「あった!あれ、私の行きたい高校の制服もある」


 洋服ダンスの引き出しには、保育園の時の卒園式に着た服、小学校の時の制服、中学生の時のセーラー服、そして高校生の時の制服と夏服冬服と綺麗にたたまれてしまわれていた。

 それに小さいとき遊んだサッちゃんまで入っていた。


「わたし、高校生……、でも、ここにあるということはもう卒業している。だとすると大学生……」


 朋子はそっと高校生時代の制服に触れてみると、これを着て教室で授業を受けている自分の姿が頭に浮かんできた。


 朋子は引き出しを静かに閉めると、小さい頃から使っていた勉強机に向った。

 そこには、すでに中学生の教科書も高校生の教科書もなく難しい専門書が並んでいた。

 しかし、机の傷や小さいときにべたべた貼ったシールのあとからもわかるように、この机は間違いなく朋子の使ってきた机だった。


 そして、ふと机の横の壁を見ると朋子と小さいときの妙子と紗恵子の三人で写っている写真が目に入った。


「あれ、妙ちゃんだ。じゃあ、この人、妙ちゃんのお母さん……」

 朋子はじっと妙子の母を見ているうちに引き込まれるような、懐かしい気持ちが心の奥から湧いて来るのを感じた。

 それと同時に頭の奥からびーんと痺れるような頭痛が目の前をくらくらさせた。


 朋子は椅子に腰掛けて頭痛の収まるのをまった。

 そして、今の状況を整理しようと想いを巡らしていた。


「私は、妙ちゃんや良一と同じ中学生よね。でも大学生でここから通っているような感じがしてきたし……」


 その時、下から妙子の声が聞こえた。


「朋ちゃん!」


 その声で朋子は急いで部屋を飛び出した。

「妙ちゃん……」


 妙子は朋子の姿を見て、ひとまず安心した。


「よかった。またどこかにいっちゃったんじゃないかと思って心配したのよ」


「ごめん、ごめん。せっかくの修学旅行も行かないで消えるわけないじゃん」


 朋子は妙子の顔を見るなり、今朝までの妙子と同じ中学生に戻っていた。


「朋子かい!」


 母昌子は、タクシーの支払いを済ませて、やっとたどり着いて、その玄関の光景に絶句した。


 朋子も今朝見かけたお婆さんが、やはり自分の母だと確認した。

 しかし、父親を見ていたせいか、先ほどの驚きはもうなかった。


「お母さんも、ちょっと見ないうちに老けたわねー」


 絶句した朋子の母は、まだ信じられないのか重い足取りをさらに重くして地べたにつまずきそうになりながら朋子に近づいていった。


「お母さんて、お前、朋子かい……。小さいときの……」


「小さいときは余計よ。それより元気でやっていたの?」


「あーあー、おかげさまで元気だけど、お前はどうなんだい?」


「もちろん元気よ。それにしても、前に見たときよりも、お婆さんになちゃったもんで驚いちゃった」


「そりゃあー、七十も過ぎればこんなものよー」


「お母さん七十歳なの?」


「もう七二だよ……」


 朋子の母昌子は朋子に捕まるように、その袖を掴んで存在を確かめているようだった。


「うそ、私がまだ十五歳だから、お母さんはまだ四十代でしょう」


 しかし、服の袖を掴んでいるその手の甲は、まだつやもありしなやかに見えたが、所々のしわの多さが年齢の多さを感じさせていた。


「お前が中学生の時は四十代でも、それから三十年も過ぎれば七十歳だよ」


「それより、何でお前が十五歳でいるのかい?」


「十五歳? 十五歳だから妙ちゃんと良一と一緒に勉強しているんじゃない。それに私、修学旅行に行くのよ」


「それは聞いたけど、おかしくないかい。自分の娘と修学旅行くのは……?」


「娘……、私の子供? 誰が……?」


「妙子だよ。忘れちゃったのかい……」


「忘れるより、私十五よ。子供生むの……?」


「そりゃあ、十五の時は生まないけど、それから三十年も経てば子供くらいできるだろ……」


「それは三十年経てばそうかもしれないけど、私まだ中学生だよ……」


 妙子は、話が複雑になってきたのを感じて、これ以上気まずくなるのを恐れて話を反らそうと

「その話は、後にして早く家に上がりましょうよ」


 妙子は昌子のもう一つの手を取って玄関の式台を上がらせようとした。


「そうだ、そうだ。そんなことはどうでもいいことだ。朋子がここにいることが肝心なんじゃっ!」


 勝雄は昌子を諭すように、いつもよりも大きな声で言い放った。


 昌子は、勝雄の意図が伝わったのか、これ以上責めて、またいなくなる事を恐れた。


「今日は二人とも泊まっていくだろう。寿司でも頼もうかね」


「ほんと、やった!だからお婆ちゃん大好き!」


 妙子は昌子の背中に飛びつき両手で肩もみをしながら甘えて見せた。


 昌子は、よろけながら振り返り……

「そうだ。ケーキ、妙子の家に置いてきちゃったよ」


 昌子は、持っていたバックから財布を出してそのまま妙子に渡した。


「これで、ケーキとお菓子でも、何でも買っておいで。この家には子供が食べるようなものは何もないからね。それと着替えもだよ」


「ええ、いいの?」


「全部使うんじゃないよ!」


「わかってる」


 妙子は、これでさっきの複雑になった話が途切れると思い二重に喜んだ。

 そして朋子の手を取ると再び外えと駆け出して行った。


 しかし昌子もまた、この成り行きだと、もう一度朋子を責めてしまう気がして、少し時間を空けて冷静になりたいと、その口実を探していたところだった。


 それと夫、勝雄の考えも訊きたかった。


「お父さん、これは夢ですかね?」


 居間のちゃぶ台に崩れるように座った昌子は、まず勝雄の顔を伺った。


「わしは朋子にあって話している間に、ほれ、朋子が中学の時に家出して大騒ぎした、あの時のことが頭をよぎったよ。それから、もっと小さい時の不意にいなくなることも、今考えれば変なことばかり、あの子の身の回りに起きていた……」


 勝雄は話しながら台所に行き、お盆にきゅうすとお茶を入れた湯のみを持って、ちゃぶ台の昌子の前に座った。


「あの時のことは、もう思い出したくないと思っていましたよ。毎晩毎晩、今帰ってくるんじゃないかと、電話でもしてくるんじゃないかと、家中の電気を付けて二人で寝ずに待っていましたね。誘拐なのか家出なのか事故なのか、それすらはっきりしなくて、それで四日経っても何の音沙汰もなかったから、私はもう生きていないだろうと覚悟は決めていましたよ」


昌子は勝雄が差し出したお茶を一口飲んだ。


「あの十日間は、わしも辛かった。今でもテレビで同じような場面が出てくると思い出してしまうよ。それで、十日目の朝、朋子は二階から眠たそうな顔で目をこすりながら体操服で降りてきたんだ」


 勝雄は思い出すように頭を上げて宙を仰いだ。


「ちょうど、私たちが、連日連夜の疲れからか二人して寝入ったところに帰ってきて、声も掛けずにそのまま二階に上がって寝てしまったのだと思っていましたよ。今考えれば変といえば変ですし、体操服というのも変でしたね」


 昌子も落ち着かない様子で、湯呑みを何度も握りまわしていた。


「お前が、泣き喚いて取り乱すもんだから、よく事情が聞けなんだ」


「お父さんだって、帰ってくればいい。何も言わんでいいとか言ってたじゃないですか」


「そうだったかな。難しい年頃だから、親に言えない色々な深い事情があると思ったんじゃよ」


「でも、あの体操服は友だちに借りたとか言ってましたよ。それで今度返す時のために私はわざわざクリーニングに出してしまっておきましたから。でも返しにいく様子もなかったし、私も家出していた時の友達にはあって欲しくなかったから、返しに行きなさいよとは言いませんでした。そのまま大きくなってしまいましたから。もうそんなこと忘れていましたよ」


「まだその体操服はあるのかい?」


「あるんじゃないですか。クリーニングに出していたからビニールにかぶって捨てるのも何か気が引けて、借りた物ですからね」


 昌子はもう一口お茶を飲むと奥の部屋の洋服ダンスに向った。

 そして幾つも引き出しを開けてその体操服を探した。


「あ、ありました。妙子と名前が書いてあります」


 昌子は、その体操着を持って勝雄に見せた。


「やっぱりあの時、朋子は未来にいて娘と一緒にいたんだ。今こうしているように……」


 絡み合った糸が、今一本の糸としてつながった。昌子はもう一度座りなおして湯呑みを取った。


「あの子はタイムトラベラーだったんですね……。それもあの子があまり意識していないうちに過去と未来を行き来していた……」


「そんな映画かテレビじゃああるまいし……」


「でも、お前だって現実に中学生の朋子に遭ったんだろ。わしらはテレビを超えとるよ。まいい、このまま成り行きに任せてそっとしておこう。もし朋子なら十日後には、いなくなる。過去のわしらのところに帰ってゆくからな……」


「帰っちゃうんですかねー」


 帰るとなると、さっきまでいた中学生の朋子が急に愛おしく思えてきた昌子だった。


「しょうがない。わしらの朋子はベッドの上で寝ているからな」


「朋子が、差し向けてくれたんですかね。自分が起きられないから、中学時代の朋子を……」


「そうかも知れんな。あの十日間以降、家出騒動はなくなったからな。バーさんも結構ロマンチックじゃないか」


「なに言ってるんですか。ロマンチストじゃなかったらピアノは弾けませんよ」


「そうかね……」


 久しぶりの笑顔であった。単調な生活の中、笑うという行為は、毎日の生活の中には組み込まれていなかった。


 二人の笑い声は外まで響いていた。







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