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61.恋する乙女

(恋する乙女)


 その数日後の夕食時のこと、湯川家の玄関のチャイムを鳴らす少女がいた。

「珍しいわね。お父さん帰ってきたんじゃない……?」

 紗恵子がつぶやいた。

 しかし、妙子は直感して、良一に目配りをした。


「お父さんならチャイム鳴らさないわよー!」

 妙子はインターホンを取って防犯カメラの映像を見た。


 幸恵だった……


 妙子はすぐさま良一に合図を送った。


 良一は、急いで、しかし足音は響かせないように二階に上がっていった。

 妙子は駆け足で玄関に向かい、良一の靴を下駄箱に押し込むと、息を整えて何気ない振りで玄関を開けた。


「……、いらっしゃい!どうしたの?」


 妙子の家に友達が来るのは珍しい。


 平日なら、なおさらのこと、翌日学校で会えるからわざわざ自宅まで出向くことはない。

 急ぎの要件なら電話で済ませてしまうからだ。


「……、家出してきたっ!」


「あらあら、大変ね……、とりあえず中に入る?」


 妙子はまったく相手にしない感じで、幸恵を家の中に招いた。


「お友達……? 何か飲み物いりますか?」

 紗恵子が畏まった言葉でテーブルの上に広がった夕食の後片付けをしながら訊いた。


「……、紅茶二つ」

 妙子は返事をしながら居間のソファーに幸恵を座らせた。


「あ、ごめん。食事中だった?」

 幸恵は顔の表情を変えず緊張した感じが痛いほど妙子にはわかった。


「いいのよ。ちょうど終わったところだったから、ここで食後の紅茶を飲んでから私の部屋に行きましょう」


「うん、……、でも、急にきて迷惑だったでしょう?」


「そんなことないわよ。でも、普通は友達、呼ばないようにしているから……。友達には悪いと思っているけど、お母さん寝ているから……、あまり抵抗力がなくって、やっぱり人の出入りが多いと、いろいろ悪い菌を拾ったりして……。でも、そんなに神経質になっているわけでもないけどね」


 妙子は居間の隅に置かれているベッドに目をやった。


「ごめん。私、帰るから……」

 幸恵は立ち上がって玄関に向かおうとした。


「だからそんなに気にしてないって……」

 妙子も立ち上がって幸恵の前に立った。


「違うの……、ここに来てはいけなかったの……」

「どうして……、何で家出してきたの?」


「ちょっとお母さんと喧嘩して……、だから、妙子の家はまずいの……」

「そんなことないわよ。幸恵ちゃん運がいいわ。家出娘がもう一人いるから……」


「それ、私のこと……」

 テーブルの下から朋子が出てきた。


「何でテーブルの下にいるの?」


「あはは、幸恵ちゃんを借金取りだと思って……。つい習慣で……」

 なぜか朋子に代わって妙子が説明した。


「朋子ちゃんも家出してきたの?」


「そういうわけでもないけど、親に文句がいっぱいあることに関しては同じね」


 朋子は妙子の横に座りながら……

「私も紅茶が欲しいー」と言ってから話し出した。


「どこの親も同じね。親なんて口うるさいだけだから、あれやっちゃいけない、これやっちゃいけないばっかりで、じゃー私のやることないじゃないのよ。って、いつも言ってるわけ。私なんか親がいなくなると、世の中がぱっと明るくなった気がするもの……。それで、窓のそばに椅子を置いて、夕日が沈むのをボーっと眺めているの……」


「あ、彼女作家志望だから……。普通とちょっと変わっているの」

 妙子がまた説明した。


「私は朋子ちゃんと、ちょっと違うけどね。朋子ちゃんみたいに束縛されている感じはないけど、ただわかって欲しいのよ。私は一所懸命にやっているんだってこと。お母さんは、仕事しているから家の仕事までは大変だから、私も協力してあげたいと思っていたのよ。でも、それがだんだん当たり前になってきて、今日なんか、お母さん早く帰ってくるからって、朝出るとき言ってたから、塾もお休みだったから、ちょっと本屋に寄っていたのよ。それで帰ってみるとお母さんいないし、慌てて夕食の支度をしたわよ。でも弟は、テレビゲームばっかりやっていて手伝ってくれないし、私一人夕食を作っていたのよ。それで、お父さんまで帰ってきて、夕飯まだ出来んのかって何度も言ってくるし、言うだけ言って手伝ってくれないし、それでお母さん帰ってきて、まだやってなかったのって言うのよ。それで、全部投げ出して出てきちゃった……」


 幸恵は、また怒りがこみ上げてきたように一段と興奮して話した。


「幸恵ちゃんも長女なんだ」

 そこへ紅茶を持ってきた紗恵子が口を挟んだ。


「わかるわ、その気持ち……。特に出来の悪い妹や弟がいると最悪よね……」


「それ、私のこと……」

 妙子が睨んだ。


「でも、もしあなたが家族のために家事をしてあげると思っていたら、多分長続きしないと思うわよ。あなたが家事を好きにならなければだめよ……」


「え、家事が好きな人っているの?」

 妙子も幸恵も驚いた顔で紗恵子を見た。


「好きな人っていうよりも、遣り甲斐かな。私は料理が好きで、自分でも美味しく出来て、それで妙子やお父さんなんかが美味しいって言ってくれれば大満足よ。今度はもっと美味しく作ろうって思うわ。毎日が私の料理の試食会みたいなものね。それにお掃除や洗濯も綺麗なほうがいいし、その中で家族の笑顔が見られるのが嬉しいわ。私が家族を支えているっていうか、育てているって感じね。こんな妙子でも、元気で笑顔で育っていてくれれば、餌を与えた甲斐があるというものよ」


「何、その言い方。私はペットと同じ……?」

 妙子は、むくれた顔で紅茶を取った。


 幸恵には思い当たるところがあった。

 確かに最初の動機は母を助けることであった。

 でも家事仕事をしているうちに、紗恵子が言うように料理を作る楽しみもわかってきたし、最近家族を支えているような充実感があったのも確かだった。


「良一君なんか偉いものよ……」


 あまりにも自然に出た良一の名前に、妙子の体は氷ついていた。


「お姉さん良一君を知っているの?」


 幸恵自身、まさかこの家の二階に良一がいることなど微塵も疑っていない様子だった。


 しかし、妙子は凍りついた体を打ち砕きながら、顔を引きつりながら、ようやく声を出した。


「あああ、れれ、あれ、まえ、前にお父さんとこの家に来たことがあるのよ。私のお父さんと彼のお父さんは研究者の仲間だから……、でででで、でも、うんと小さいときの話よー!」


 紗恵子も妙子の引きつった泡手振りで、まずい話をしたと悟って口をつぐんだ。


「そっか、やっぱり妙子と良一君、全然知らない仲じゃないんだ……」


「ちょっと、ちょっと、誤解しないでよね。幸恵が考えているような仲じゃないから……」


「ほんとに……?」


「ほんとよ! でも、幸恵ちゃんの方は本気なんでしょう……」


 妙子は、幸恵に振ることで、その場をごまかそうとしたが、幸恵はそれを否定しないで恥ずかしそうに下を向いた。

 そのことが結局、幸恵の告白になってしまった。


「いいわね。若いって……」

 紗恵子が一言いってその場を立ち去った。





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