29.はかない命
(はかない命)
朝食、妙子は降りてこなかった。
「何、怒っているのかな? 妙子が襲われたわけじゃないのに……」
「お、お姉さん、その言い方は……」
良一は、父親の顔を気にして青ざめて言った。
「妙子は何をすねているんだ……。昨日、いじめすぎたかな……」
父親が新聞を見ながらぼそっと呟いた。
良一は、ビックと背筋が緊張して肩が張った。
「僕、見てきます……」
いたたまれなくなった良一は、妙子の様子を見に行くことで、その場を逃げた。
「朝食ができたよー!」
「変態! あっちに行け!」
妙子は起きているようだった。
「あれは誤解なんだー! 信じてもらえないと思うけど……」
良一自身、説明がつかないことを妙子にわかってもらえるわけもなく、徹底的な瞬間を見られてしまった以上、弁解のしようもない。
「僕は、もう帰るから、後でご飯食べてよね」
良一は、こんな形で出ていきたくはなかったけれど、説得して納得してもらえるだけの時間はないと思った。
「やっぱり僕が原因のようです。ここを片付けたら帰りますので、そしたら出てくると思います」
「妙子はほっといて、ずっと居てくれていいんだよ」
父親が出かける仕度をしながら良一に言った。
「いえ、今日帰る予定でしたから……。明日はまた学校ですから……」
「そうかね。またお休みの時にでも泊まりに来てくれ……。歓迎するよ」
「日曜日も仕事ですか?」
良一は日曜日でも、いつものように出かけようとする父親に訊いた。
「これじゃあ、良一君のお父さんと同じだね。家庭サービスはなかなかできないよ。今日は大学で学生が待っているから……」
「大変ですね……」
「私も当直だから、いつもと同じように出るわよー!」
紗恵子は父親を送り出すと、妙子の朝食を残して片付けを始めた。
「あ、これくらいは僕がやりますから出かける仕度してください」
「ほんと、助かるわ。まだ洗濯物があるのよー」
紗恵子は、レストルームに足早に向い、そして洗濯機のスイッチを入れると着替えのためか二階に上がって行った。
その途中で妙子の部屋のドアを叩いた。
「妙子! なに怒っているのよ。胸をさわられたのはあんたじゃないでしょう!」
ドアを開けようとしたが鍵がかかっていた。
「もしかして、妙子…、妬いているのね。どうして私の胸をさわりに来なかったかって? やっぱり、妙子のお気に入りは良一君なのね!」
急にドアが開いて妙子がむくれた顔で出てきた。
「そんなわけないでしょう!」
「じゃあ、良一君が何をしようと妙子には関係ないじゃないの! 私は、嬉しかったわよ。妙子が来なければ、もっといいところまでいっていたのに……」
「悪かったわねー! もう絶対に部屋には行かないわよ!」
「だから、何で妙子が怒っているのよ!」
「怒ってないわよ! ちょっと気分が悪いだけ……」
「それならいいけど、私、今日当直だから、お母さんをちゃんと見ているのよ。それと洗濯物を干しといてねー!」
「よくもか弱い受験生に家事をやらせるわねー!」
「それでも受験生の良一君は朝食の後片付けをやっているわよ」
「もういい! あいつの顔なんて見たくない!」
「だから、何で妙子が怒るのよ」
「もういいっ!」
「あ、ついでに言っておくけど、良一君、多分病気よ……。それもかなり重症の……」
「そんなのは見ればわかるわよー!」
紗恵子は妙子に話しながら、もう一度、昨夜の良一を思い起こしていた。夢遊病の様な行動と性的本能を抑えようとして抑えられない様子、そして一回目は立ったままバランスを崩して倒れたこと、二回目は紗恵子が支えていたにもかかわらず、姿勢を保持出来ずに床に倒れたこと、以上のような症状から脳幹近くに何らかの疾患があると考えた。それが腫瘍なのか動脈瘤なのか血流の梗塞なのかMRIをかけなければわからないと思っていた。どちらにしても、もし脳幹近くなら手術は難しいと……
「良一君にはとても言えないけど、もし私が想像しているとおりだとすると受験は無いと思うわ……、いい思い出作りなさい」
紗恵子は意味ありげな言葉を残して妙子の部屋を後にした。
妙子は黙って聴いていたけれど、紗恵子が自分の部屋に入ろうとしたときに、慌てて叫んだ。
「どうすればいいの?」
「やさしくしてあげるのね……。本当はもう少し様子を見たいところだけどね……、今日帰ると言っているし、学校を休むようなことがあったら、家の方を見てあげてね。布団の中で硬く冷たくなっているかもしれないから……」
紗恵子は半ば脅しとも取れる言い回しをしてドアを閉めた。
妙子は、胸の詰る思いでベッドに駆け出し布団をかぶって寝転んだ。




