8話 最後の夜⑤
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肘に何かが当たったと思ったとき、それは盛大な音を立てて床に落ちていた。
手鏡だった。身をかがめてそれを拾った貴婦人は、鏡面にひびが走っていることに気づく。そこに映る瞳が、不自然に分断されていた。あの女のように綺麗ではない、くすんだ茶色の瞳が。
「――!」
外から何やら、大声が聞こえた。
「火事だー!」
言葉を聞き取ったとき、部屋の戸が激しく叩かれた。
「奥さま! ウォリスでございます」
クリヴェラは外套をひったくり、自ら扉を開けた。焦げ臭いにおいが鼻をかすめる。夫の側近は外套をまとっておらず、あちこちに煤をつけていた。
「ウォリス、いったい……」
「落ち着いてお聞きください、奥さま。本館の二階から火の手があがっております。また、中庭に黒い影が……悪霊がはびこっています。侍女と共に、今すぐお屋敷の外へ避難してください」
クリヴェラは青ざめ、回廊へ飛びだした。
「イルマ! どこにいるの、イルマ!」
木材の破裂音が響きわたる。背後でウォリスが侍女に指示を出す声が聞こえる。と、にぎやかな笑い声がとぎれ、扉の一つが開いた。
「なに? お母さま」
息子につづいて、みすぼらしい身なりをした娘が顔を出した。下卑た笑みを浮かべる彼女は、息子より十歳ほど年上のようだった。妓館の女だ。普段であれば怒鳴りつけて追い返すクリヴェラだったが、今は女の存在すら気にする余裕がなかった。
「妹と弟を連れてきて、すぐに!」
妓館の女は、闇に赤く浮かび上がる館を見ると、息を呑んだ。そのまま脱兎のごとく駆けだす。イルマの顔も恐怖に染まった。もっとも、彼が最初に気づいたのは炎ではなく、よこしまな魔力の気配だった。大声できょうだいの名を呼びはじめた。
「ウォリス! ヨダイヤはどこ?」
クリヴェラの問いに、彼が応えた。
「現在お探ししております。奥さまはひとまず、イルマさまと共に外へ」
「嫌よ、彼も一緒でなければ嫌!」
悪霊の笑い声が寒空に響きわたる。侍女に強く腕を引かれ、クリヴェラの手から角灯が滑り落ちた。大理石の床にけたたましい音が響きわたる。ウォリスが炎に包まれる館へ消えていく。置き去りにされた角灯は、館を燃やしつづける炎を映して、夜が明けるまで赤く浮かび上がっていた。
*
六九九年十二月初旬、スィミアの名門ノイスター家で大火事が発生した。焼け跡から見つかったのは三名の焼死体だった。
身長から、それらの遺体が何者にあたるのかが特定された。遺体は、第二夫人のイスファニールと娘フェルー、そして当主ヨダイヤだった。彼らは執務室の一角に、寄り添うようにして横たえられていた。
夫人の息子であるユマの行方を知る者はいない。館のなかで、夫人の侍女を務めていた女が、彼を見た最後の人物だった。カユラと名乗る侍女は泣きながら、ユマが死亡した三人と同じ部屋にいたことを語った。そして、彼の遺体を早く見つけてくれるようにと役人に頼んだ。
議員らは、執務室にユマがいたことを知っていた。その場所から彼の所持品が見つかったからだ。だが同様に次のことも知っていた。三人の焼死体がきれいに並んで横たわっていたうえに、彼らの所持品がいくつか無くなっていたことを。そしてユマと思しき人物が市門から郊外へ出ていったことを。
あの夜、防御態勢がしかれた市壁をものともせず、スィミアに大量の悪霊が侵入した。悪霊は負の魔法に反応する。怒り、恨み、妬みといった感情から生じる、俗に呪いと呼ばれる魔法に。つまり、その日ノイスター家の館にいた何者かが、悪霊を呼び寄せるような負の魔法を放ったということだった。議会では、その人物はユマであると推定された。
平静から彼は、母を第二夫人という立場にとどめた父親を快く思っていなかった。加えて、父が妹を神殿に献上しようとしていると知れば、殺意が芽生えてもおかしくない。その証拠に、スィミアに侵入した悪霊は、夜が明けないうちにおのずと去っていった。彼らが好む負の感情を抱く者、つまりユマが、町を去ったからだ。
このとき、ユマは十三歳だった。家族を失い、約束された未来も失い、友人に会うことも叶わず、たった一人で悪霊から逃げつづける生活がはじまった。凍てつく雪の大地、アンダロス人が「魔術師の故郷」と呼ぶ、ノクフォーンにおいて。
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