7話 最後の夜④
フェルーが、この世のものとは思えないほどの甲高い叫び声をあげた。どこにそんな力が残っていたのか、ユマの腕から抜け出し、這うようにして母の身に崩れ落ちた。イスファニールは応えない。ガラス玉のように澄んだ瞳は、もはや何も映していなかった。
ヨダイヤのうめき声が聞こえた。その衣は血まみれだったが、傷口はすでに閉じている。彼は朝目覚めたときと同様に、自然に身を起こした。
腹の底から湧きあがったのは、それまで感じたことのない、激しい怒りだった。ユマの足元から床へ亀裂が走り、部屋全体がうなり声をあげた。あらゆる物が倒れた。蝋燭も、衣装掛けも、本棚も。天井の一部が剥がれ落ち、フェルーが肩をびくつかせた。窓ガラスが割れ、凍てつく風が雪を伴い吹き込んだ。ユマは剣を抜きはらい、ヨダイヤに跳びかかった。たちまち払いのけられる。
「お母さまの命より、フェルーを議会に差しだすほうが大事だったのか!?」
立ち上がったユマの足元から、灼熱の炎が生じた。室内が火影に赤く染まりあがる。
「ユマ。感情を押さえて、魔法を沈めろ。へたをすれば家が倒壊する」
ヨダイヤは、脅えた表情をするフェルーを抱き上げた。ユマは叫んだ。
「その子に触るな!」
小さく叫び声があがり、妹が床に落ちた。ヨダイヤの腕から血が滴る。そこには、刃物で切りつけたような痛々しい傷が無数に走っていた。彼が片腕をあげた。
「大人しくしていろ」
見えない力が、ユマの首を掴みあげた。背中に壁があたり、強い力で抑え込まれる。ユマは息ができなくなる。まとわりつくものを必死ではがそうともがく。
「他に方法を見つけられ、魔法を解かれては厄介だ。もういい頃合いだろう」
ヨダイヤは外套を手に取ると、自らの血をつけないよう、布ごしにフェルーを抱えた。手をかざして膝の赤みをひかせる。不思議な出来事にフェルーは泣きやみ、父の手をまじまじと見つめた。
「フェルー、許せ。これもおまえの為だ」
彼女を横たえると、彼は倒れた蝋燭を拾い、まわりに並べはじめた。薄闇のなかで、フェルーの姿が煌々と浮かび上がる。やめろ、とユマは叫びたかった。だが足で壁を蹴る以外になすすべがない。
「フェルー、おまえの好きなものはなんだ?」
「夏……。きれいなお花に、ちょうちょに、緑の草むらに、青い空に、お日さまの光。でも、夏はもう終わっちゃったみたい。そうでしょう、お父さま?」
ヨダイヤはフェルーの髪をなで、そっとささやいた。
「終わっていない」
幻がひろがった。
ヨダイヤは魔法を体現するため、思いつく限りのあらゆる神々と精霊の力を借りた。花の精霊、森の精霊、水の精霊、妖精たち、霊獣、はじめて聞く神聖な者の名。一つ名をあげるたびに、幻は美しさを増していった。
いまやフェルーは青々とした草原に横たわっていた。目前を虹色の蝶が飛び交い、心地よい風が吹くたびに葉擦れの音がする。小川のせせらぎ、小鳥の歌声が聞こえてくる。おとぎ草が揺れ、その紫色の花びらが舞いあがる。フェルーの頬は紅潮していた。
ヨダイヤは空を青く塗りつぶすと、仕上げに、生涯で一度も唱えたことのなかった神の名を口にした。――太陽神。
まぶしい光が差した。世界がいっそう鮮やかな色をもった。薄っぺらの幻想にすぎなかった花が、蝶が、鳥が、風にそよぐ草が奥行きをもった。もはやそれらは、現実のものと見分けがつかなかった。フェルーの瞳は光をうけて輝き、口元にはあの夏の日からついぞ見せなかった、幸せそうな笑みが浮かんでいた。
フェルーの手を握ったまま、ヨダイヤが彼女の額にキスした。光がいっそう強まり、ユマの視界は真っ白になった。
気づいたときには、ユマは床に伏していた。
室内はもとの陰気な様相に戻っていた。我が子を見つめるヨダイヤの横顔を認め、ユマはふらつきながら立ち上がった。妹の瞳は閉じられていた。「ユマ」蒼の瞳が向いた。
「ウォリスを呼んでこい。身が硬くなる前に清め、祭典用の衣装に着がえさせたい」
その一言で、ユマは何が起きたか理解した。立ち尽くしたまま、氷で串刺しになった母を見た。それから人形のように可憐に横たわる妹を。
蝋燭の火が揺れ、いくつかがくすぶって消えた。ヨダイヤが顔をあげた。
「やめろ、ユマ」
あたりが冷えかえる。割れた窓から強風が吹き込み、部屋の扉が大きな音をたてて開いた。不気味なうなり声が、廊下の奥に響き抜ける。暖炉の火が消えた。
「やめろ、悪霊を呼び寄せるな!」
血相を変えてヨダイヤが叫んだ。
ヨダイヤの指輪に光が灯ると同時に、大量の影がなだれ込んだ。それは瞬時にユマの影と同化し、いっせいにヨダイヤに向けて襲いかかった。ユマの瞳は大きく見開かれ、憎悪に染まり、その力は抑えられることなくあふれ出ていた。ヨダイヤは影の一部を月の光でかき消した。間髪入れずに、影をまとったユマが掴みかかった。大量の魔力を糧に、際限なく悪霊が集まってくる。
「冷静になれ、ユマ! 闇に食われてもいいのか!?」
ユマは剣を振りかざすが、すかさず腕をつかまれた。腕まわりの影が、瞬時に消え失せた。
「諦めろ、今のおまえではわたしに敵わない。今すぐ悪霊を追い出すんだ」
悪霊による甲高い嘲笑があがった。ヨダイヤが腕を一振りする。群れの半数が叫び声をあげ、白い光によってかき消えた。
「精霊の出来損ないが。一匹のこらず消してやる!」
このとき、ヨダイヤは魔法で傷を癒すことができるために、油断していた。ユマがその刃でどこを狙おうと、問題ないと思っていた。だから、激痛が走ったと思ったときには手遅れだった。生ぬるいものが頬を伝い、視界の片側が真っ暗になっていた。
絶叫が館にこだました。返り血で染まったユマの手には、宝石に似た輝きをもつものがのせられていた。それは魔術師の眼球――魔法を使う際に、身体のなかでもっとも力が集約される部位だった。
顎を上げたユマは、いまだ光りつづける眼球を飲み下した。相手の顔が強張った。口元をぬぐうユマのまわりに、魔力が爆発的に放出された。取り入れたヨダイヤの分が加わったのだ。悪霊がすかさず集まってきた。少年が闇に呑まれて見えなくなる。次に発せられた声には、父親の声が重なって聞こえた。
「罪を償え、ヨダイヤ」