6話 最後の夜③
「ユマ」
呼ばれたユマは、反射的にヨダイヤを見返した。
「おまえはよくやったよ。学園の特待生ともなれば、出自をとやかく言う輩もいなくなる。だが、女であるフェルーはちがう。女は議員にはなれない。見目麗しいとはいえ、正統性を重視する貴族の妻にもなれない。フェルーの人生は明るくない。この子の苦しみは生きている限りつづく」
声がでなかった。頭が回らなかった。フェルーが元気にならない理由はなんだったか。そもそも、どうして自分は執務室にいるのか。ヨダイヤがつづける。
「選ばれし乙女は、外傷を持たない清らかな状態で献上しなければならない。だが実の娘に対し、一度に息の根を止めるほど強い魔法を使えば、悪霊が反応しかねない。苦しみを長引かせることになるが、食事に少しずつ毒を盛るように、徐々に弱らせていくほかなかった」
床を叩く音が響きわたった。
「正気じゃないわ! 今すぐ呪いを解いて」
「イスファニール……」
ヨダイヤが歩み寄る。
「わたしにとってもフェルーはかわいい。この子のためを想えばこそ、手をくだしたのだ」
瞬間、乾いた音が響きわたった。ヨダイヤの手が打ち払われたのだ。
「フェルーのためを想うですって。なら、なぜ事前にわたしに相談しなかったの?」
涙によって、空色の瞳がいっそう輝いていた。室内の明かりがゆらめいた。
「わたしが反対すると分かっていたから。取り返しのつかない時点で打ち明ければ、諦めると算段していたから。あなたはいつもそう、体裁ばかりを気にしている。今回も、クリヴェラを正妻にしたときもそう!」
ヨダイヤが苛立たしげに目を閉じた。
「その話は何度もしただろう。個人の意志は家名の前に屈服しなければならない。一族を名家に押し上げた始祖、あるいはその名声を保ちつづけた祖先を、敬わなければならないからだ。長い時を経て築き上げられた一族の繁栄には、たった一人の子孫の自由が入り込む余地などない。わたしは家名の前では奴隷にすぎない」
「そんなこと、フェルーには何の関係もない!」
「お父さま」
ユマは考える前に声に出していた。
「ぼくはあなたが、お母さまを大切に想っているのを知っています。愛する人が守りたいものを、守るのがあなたの務めではないのですか」
ヨダイヤが鼻をならした。
「生意気な口をきくようになったな、ユマ。何を言っても事態が変わることはない。祭典の日は近づいている。おまえには想像もつかないだろうが、議会は多大な権力と意志に取り巻かれている。理想を常に体現できると思うな。フェルーは死ぬ。これは不動の未来だ」
ヨダイヤは家長で、議員で、莫大な権力を保持している。だが気づいたときには、ユマは彼に掴みかかっていた。机の角に頭をぶつけ、血が滴る。突き飛ばされたのだと、ややあって理解した。ヨダイヤが口早に呪文を唱える。血相を変えたイスファニールが叫んだ。
「やめて!」
唱えの文句が止まった。
「子供たちを傷つけるのはやめて」
体勢を立て直したヨダイヤが、衣についた塵を払った。
「それで? その手はいったい何のつもりだ」
イスファニールの右腕は、ヨダイヤに対しまっすぐ向けられていた。中指にはまった青金石がきらめく。それは杖と同じ役割を果たす、魔法を助長する指輪だった。
「お母さま……」
「ユマ。フェルーを見ていて」
瞳に威圧され、ユマは妹を引き受けた。イスファニールが一歩踏み出し、紅色の肩掛けを床へ放った。羽根のようにふわりと、それが着地した。
「呪いをかけた術者以外が、高確率で呪いを解ける方法を、むろんご存じでしょうね」
「術者を殺し、その血を飲ませる。……本気で言っているのか」
「本気よ。以前、わたしはあなたの存在がすべてだった。でも今、もっとも大切したいのは子供たちであって、あなたではない。家族のために死ぬのはフェルーじゃない」
あたりが急速に冷え返った。
「あなたよ」
混沌とした力の奔流に、フェルーとユマは耐えきれず叫び声をあげた。それはイスファニールの心のすべてだった。愛、憎しみ、悲しみ、葛藤、愛。
イスファニールの手から、脇から、足元から、鋭利な氷の矢が放たれた。ヨダイヤはそれを、防ぎも避けもしなかった。凶器は胸に、腹に、腕に、足に、身体のいたるところに突き刺さった。ヨダイヤは血を吐き、膝をついた。
「やめろ。わたしはおまえと争いたくない」
「反撃する度胸がないなら、大人しく死になさい」
「イスファニール!」
ヨダイヤの目から涙がこぼれおちた。イスファニールがすかさず第二撃を放つ構えになった。
「さようなら、愛しい人」
「やめてえ!」
フェルーが大声をあげた。イスファニールがはっとしたとき、すでに魔法は放たれていた。
突如、世界がゆっくりと動きだした。長い髪が波のようにうねる。のけぞりながら、空色の瞳が向けられた。ユマは血の気が引いた。
重々しい音をたてて、頭が床に打ちつけられた。母の胸には、自身が放ったはずの氷塊が刺さっていた。どくり、と血があふれ出す。恐ろしいほどの静寂があたりを支配した。