62話 宴
いつまでも岸辺に残り、お喋りに興じる人びとを、日暮れ前に帰るよう、村の長たちが追い立てている。火にあたっていたユマは、腰をあげて、濡れた衣類がどの程度乾いたかを確認した。もういい頃合いだろうと思って、それらをまとっていると、同じ火を囲んでいたイルマが、近づいてきた。オリファも立ちあがり、視線で彼を牽制しながら、そばにやってきた。
「まだ、ぼくを捕まえる気でいるのか」
ユマが問うと、イルマはひととき黙した。「いや」腕を組んで言う。
「それはお母さまの要望だ。おれにとってはどうでもいい」
オリファが意外そうな顔をするので、イルマは視線を逸らした。ぼそりと付け足す。
「それにユマには今回、助けられたしな」
しおらしい異母兄弟の態度に、ユマは思った。なぜ今まで自分は、彼と対話できないと思い込んでいたのだろう。
と、やや離れた場所から、アリステルが恐ろしい剣幕で、イルマを睨みつける様子が視界に入る。おののいたユマは、何も見なかったことにした。イルマが言う。
「話したいのは、お父さまの指輪のことだ」
ユマは納得した。嫡男の彼にとって、指輪を受け継ぐことは当然の権利である。ディオネットにかけてもらった、悪霊除けの魔法も、もはや必要ないだろう。ユマは黒曜石の指輪を外し、イルマに差し出した。
あまりにも円滑に事が運んだことに、イルマは驚いたようだった。すぐには指輪を受け取らない。
「おまえは、指輪を欲しくないのか」
「ぼくは家督を継ぐことに興味はないよ」
「だけど、それがあれば必ず議員になれる。おれは、おまえがずっと、議員を目指しているのかと思っていたけど」
イルマが問うような視線を向ける。ユマは、故郷でのあらゆる努力を思い出した。夜中まで勉強したこと、オリファを相手に、苦手な剣術の練習をしたこと。
「……なりたかったさ。それがいちばん稼げる職だから」
村人たちが、水をかけてかがり火を消している。桶の金具が音を立て、煙が立ち昇る。
「でも、もうどうでもいいんだ。お母さまとフェルーを養うという、夢はなくなったんだから」
二人は黙り込んだ。風が木の葉を揺らし、通り過ぎていく。ざわざわと音が鳴り、どこからか犬の吠え声がする。イルマが口を開いた。
「おまえの妹……覚えているよ。いつも無邪気に笑っていた。おれの弟と妹も同じだ」
ユマははじめて彼に、同情した。これから彼は、苦労するだろう。ノイスター家のややこしい親族たちを、説得しなければならないのだ。それも彼個人の意志とは関係なしに。
「羨ましいのか? ぼくや、きみのきょうだいが」
「まさか」
気丈にもイルマは、一笑した。
「苦労を経験しない人間なんて、この世に存在しない。今までおまえは、たくさん苦労してきた。今度はそれが、おれに回ってくるというだけの話だ」
その言葉によって、ユマは気づかされたことがあった。イルマは生まれたときから、家督を継ぐ使命を背負っている。遅かれ早かれ、その瞬間が来ることは分かっていただろうし、当然、それに伴う困難も予想できたはずだ。そう思うと、彼の学園でのいいかげんな態度が、新しい意味を帯びてくる。あれは、いずれ定められた運命を歩まなければならない者による、精いっぱいの反抗だったのではないか。
イルマが指輪を取り、指にはめる。父の死を悼むように、目をつむった。
「なんにせよ、もうこんな悲しいことはうんざりだ」
乾かしておいた衣類を取り、イルマがそれをまとう。背嚢に物を詰め、外套の金具を留め、出発の準備をする。「幸運なことに」その様子を眺めながら、ユマは口を開いた。
「きみはこれから、『うんざりなこと』を起こさない力を手にする」
手を止めたイルマが見返した。自分と同じ、蒼の瞳である。
「きみは将来、議員になる。議員になるとは、スィミアの人びとの未来を、きみが変えられるということだ」
イルマの口元が一瞬ゆるんだ。背嚢を背負い、手袋をはめる。
「もう会うことはないな」
「たぶんね」
彼が片手をあげ、遠ざかっていく。きっとリマの方角から山を越えて、街道へでるのだろう。それから数カ月ぶりに、スィミアに帰るのだ。
オリファがユマの隣に並んだ。
「良かったのか」
「なにが?」
「指輪のこと。お父さまの唯一の遺品だろう」
「唯一じゃないさ」
ユマは胸に手を当てた。親しみのある、温かい力の流れを感じる。
「ここにある」
その日の夜は、リマで盛大な宴会が催された。広場の中心に大きなかがり火が焚かれ、倉庫にあった敷物が全て広げられた。それでも足りないので、個人の家々の机や椅子が持ち出された。自身のお気に入りのクッションを持参する者も多かった。
飲むことが好きな者はずっと飲んでいたし、歌うことが好きな者はずっと歌っていたし、踊ることが好きな者はずっと踊っていた。料理ができる者はみな調理場に駆り出されたが、得意の一品をつくり終えると、誰もが戻って宴を楽しんだ。
オリファとバルトはすぐに仲良くなった。最初は、オリファがその独特な好奇心から、バルトを質問攻めにした。彼はアンダロスに関することなら何でも好きだから、かつて実際にそこで暮らしていた者を前にして、目に見えて興奮していた。
勢いに押されて若干引いていたバルトも、次第に会話に乗り気になっていった。特にオリファが村人に頼まれて、自前の笛を取り出したときは、非常に心惹かれたようだった。返し損ねたローレインのオカリナを取り出し、一緒に演奏しはじめた。二人の周りには人だかりができ、何度も拍手が巻き起こっていた。
ユマはネルと共に、集会所の階段に座り、タイニールがつくった果実酒を飲みながら物思いにふけっていた。「魔女は嫌いだけど、このお酒は誉めてあげるわ」そう言ってネルはちびちびと酒を飲んでいた。
そこへ、ロクサンとマティニールが現れた。二人に腕を捕えられたユマは、有無を言わさず人だかりのなかへ連行される。ネルがあわてて肩に掴まる。
ユマは靴を脱がされ、立派な敷物の上にあげられた。そこでは三人の村の長が集まり、主役がやってくるのを待っていた。
「これからどうするの、ユマ?」
タイニールが、新しい杯に酒をなみなみと注ぐ。
「みんな、ここに留まるつもりなら歓迎すると言っている。今回の功績を伝えれば、ヘテオロミアの議会はあなたに味方して、スィミアの勢力を追い払ってくれるでしょうよ」
ユマが黙って杯を傾けていると、トリオンが肩に手を置く。
「そうしたら、マティニールかアリステルを嫁にもらうといい」
ユマは酒を吹きだした。「なんてこと言うの!」マティニールが父をはたく。ロクサンが聞き捨てならない、という表情になる。たぶん、どちらかに気があるのだ。それを分かっているのだろう、トリオンがにやにやする。「酔っているわね」タイニールが呆れたように吐息をついた。
ユマはこぼれた液体を手の甲でぬぐった。天を仰ぐと、月が煌々と輝いている。
「まずは……オイスガルドへ行って、オリファの家族にお礼を言いたいです」
「学生に戻るつもり?」
あくびをしながら、退屈そうにネルが言う。オイスガルドは学園都市として有名だからだ。ユマは首を横に振る。勉強はもうたくさんだ。
「そのあとは、オイスガルドから出ている、アンダロス行の船に乗ろうかな」
どよめきが起こった。
「アンダロスなんか行って、どうするんだ?」と、ロクサン。
「危険だよ」と、マティニール。
「たしかにおまえは言葉には困らないが……魔術師が就ける仕事はあるのか?」
と、トリオン。言いながら嗜好品の葉を噛んでいる。ユマはつづけた。
「その船に乗れば、バルトが無事に故郷へ帰るのを見届けられます。彼のノクフォーン語はまだつたないから、心配なんです。ねえタイニール、彼はもう自由でしょう?」
「当然よ」
タイニールは小魚の干物が盛られた皿を取る。
「理由はそれだけ?」
空色の瞳がじっと見つめる。ユマは微笑み、何も答えなかった。