61話 村の精霊
やけに周囲の音が不明瞭だ、と思ったとき、ユマは自分が水中にいることに気づいた。はるか頭上に、たゆたう陽光がある。
銀の影が舞い降りたかと思うと、笑みをたたえるディオネットが、ユマの手を取った。その手に引かれながら、ユマは口を開いた。
「一つ、おききしたいことがあります」
言ってから、水のなかで喋れることに驚いた。泡が立ち昇るが、不思議と息もできる。
「スィミアの祭典で、イレネに捧げられた娘たちは、どこへ行くのでしょうか」
ディオネットがユマを見下ろした。背後から差す光がまぶしい。
「あなたはその娘たちに、わたしの神殿で会ったはずです」
ユマは衝撃をうけ、同時に思い出した。過去のことをよく思い出せない、とミオラが言っていたことを。
「では、ミオラも昔、祭典で捧げられた娘なのですか」
「ええ。はるか昔のことですが」
ディオネットの髪から、細かい泡が逃げていく。
「しかし、神殿にいる全員が全員、そうして集まった娘ではありません。成人を迎える前の多くの娘たちは、居場所のない、ふつうの子たちです。あの子たちは大人になる前に、神殿を出ていかなければなりません。本来ならあそこは、死者の魂しか滞在できない神殿ですから」
水壁の向こうの光が、揺らぎながら、だんだんと近づいてくる。ユマは目を伏せ、彼女から視線を外した。
「……あなたはこれからも、スィミアの娘たちを所望しますか」
ディオネットの手が、ユマの頬に触れた。灰色の瞳の奥には、強い意志が宿っていた。
「供物の内容を決める者は、わたしではありません。いつだって人間です」
身体がぐんと引っ張られた。
ユマは水面から顔を出し、新鮮な空気を大きく吸っていた。荒い呼吸を何度か繰り返したあと、周囲を見渡す。ディオネットの姿はなくなっていた。
ふと、水中に漂っていたユマの脚を、何かが捉え、持ち上げる。ユマは均衡を崩しそうになりながらも、何とか踏みとどまる。
全身が水面からあがり、水気を含んだ服の重みが、一気にのしかかる。霊気のきらめきが漂い、周囲を渦巻くとぐろが解かれていく。そのときになって、ユマははじめて、自分を取り巻くものが何かを知った。
「ダルタロス?」
金色の瞳をもつ精霊は、もはやどす黒い鱗に覆われていなかった。それは半透明で、湖の色を透かしていた。ダルタロスは尾にユマをのせ、自身の顔の高さまで、彼を持ち上げた。
どこからか、歓声があがった。
見ると、岸辺で人びとが笑い合い、抱き合っていた。いつの間にか、そこにはレタの人だけではなく、他の村の人びとも集まっていた。
足元がぐらついたかと思うと、精霊の尾が岸辺へ向かいはじめる。小島の横を通るとき、バルトが尾に飛びのった。口角をあげた彼は、ユマの背を叩いた。次にイルマが飛びのったが、彼は危うく均衡を崩して、湖に落ちるところだった。咄嗟にバルトが手を掴かみ、事なきを得た。
ユマが尾から飛び降り、地に足をつけたとき、すかさずオリファが飛びついてきた。あちこちを叩きながら、ネルと一緒に泣いている。これは大発見だ、とユマは思った。ミスティルーが泣くなど、はじめて知った。
しばらくすると、見慣れた杖頭が現れた。人波が割れ、タイニールが進みでる。その表情は穏やかで、すがすがしかった。
ダルタロスの尾が、引いていく。精霊は村人たちを眺めまわすと、天を仰ぎ、ローレインのオカリナのように美しい声で鳴いた。円を描きながら、静かに湖底へ潜っていく。波紋が広がり、大きな波が、何度も岸辺に打ちつけられた。
タイニールが言った。
「〈山の主〉はもう、人間を食べないわ」