5話 最後の夜②
月が空から滑り落ちた、とスィミア人は表現する。ユマは頭が真っ白になる。カユラがかがみ込み、妹ごとユマを抱きしめた。その肩は震えていた。
「馬鹿なことを。フェルーの症状は病だと、祭司にも診断してもらったではないか」
「病ならば、なぜ治らないのです」
「治らない病だってある。たとえスィミアで最も高名な医師を呼び、最先端の医術を施したとしても。イスファニール、おまえは現実を受け入れたくないだけだ。フェルーは病気だ。そして治る見込みはない」
ユマの口内はからからに渇いた。父は、ユマが知る限り最も知見が広く、聡明な人物だった。その彼が断言したのだ。フェルーはもはや助からないと。
「わたしの目を見なさい、ヨダイヤ!」
ユマがびくついたのは、一瞬、自分に言われたかと思ったからだ。
「あの子は病気じゃない。その証拠に」
こほん、とフェルーが咳をした。
声が途切れた。ユマは「しっ!」と合図するが、背を預けていた扉の感触がなくなる。たちまち、光が線となって漏れだした。ユマは、自分と同じ蒼の瞳をもつ人物を見上げた。
驚きを露わにしたのはイスファニールである。子供たちの名を呼びながら駆け寄り、咳を繰り返すフェルーを抱き上げた。
首を垂れたカユラが一歩、廊下の暗がりに下がる。ヨダイヤが、ユマに視線を注いだまま、戸口から身を引いた。それを入室の許可と受け取り、ユマは暖かい部屋に足を踏み入れた。扉が閉まる直前、カユラと視線が交わった。彼女の瞳は何かを懇願していた。後から振り返ると、母のいちばん近くにいた彼女は、多くのことに勘づいていたのかもしれない。
外界と隔絶される音が、いやに大きく響いた。
ユマは振り返り、「お父さま」と言った。
「お母さまのおっしゃることは本当なのですか」
ヨダイヤは答えなかった。
「お母さま」ユマが母の腕を取ろうとすると、避けられた。ユマは衝撃をうけた。彼女の広がった袖口から見てしまった。かつて絹の衣のように滑らかだった腕が、醜く焼けただれているのを。母はこの冬、指先がわずかに出る程度の、袖の長い衣ばかりをまとっていた。だから今まで気づかなかったのだ。
「……魔法返し」
あるものにかけられた魔法を解こうとすると、解かせまいとする魔法の反発が生まれる。その法則はむろん、人にかけられた悪しき魔法、俗に言う「呪い」に対しても同様に働く。
「そうでしょう、お父さま?」
父は背をむけると、外套を外して所定の場所に掛ける。
「では、呪いなのだろう」
「ふざけないで」
母が絞り出すように言った。
「あなたはすでに知っていたはず」
蒼の瞳が、美しい人にじっと注がれる。
「おまえがここ最近、書庫に入り浸っていたのは呪いを解くためか」
ひととき、沈黙があった。家長であるヨダイヤに対し、そのようなことは不可能かもしれないが、イスファニールは、気づかれないように行動していたのだろう。
「そうです。でもどの魔法を試してもだめだった。真っ先に疑ったのはクリヴェラだった。でも、あの女は力こそあれ呪いをかける度胸などない」
「そうか。なら、おまえの推察では誰なんだ、イスファニール?」
彼女が娘を抱える腕に力をこめ、一瞬、ユマに目を向けた。突如、恐ろしい予感が沸き上がる。
「あなたよ」
時が止まったようだった。
吹雪が窓にふきつけ、がたがたと揺れている。机の両脇と壁際に並んだ、大小さまざまな蝋燭が生き物のように炎を躍らせている。誰も何も言わなかった。ユマは明かりが瞬くたびに、自分の薄い影が幾重にも現れては消えるのを見た。
ヨダイヤが口を開いた。
「認めよう、賢い妻よ。フェルーに魔法をかけたのはわたしだ」
途端、蝋燭の炎がいっせいにざわめき、磨き抜かれた黒檀の机がうなった。フェルーが小さく息を呑んだ。母の瞳は怒りで燃えださんばかりだった。
「何を考えているの。この子はあなたの娘よ」
「……おまえは外からやってきたから、スィミアのことをよく知らないのだろう。スィミアでは五十年に一度、月の女神を祀る大祭典が開かれる。その祭典には、ノクフォーンじゅうの都市から高名な神官や都市議会議員が招かれる」
「何を言いたいの?」
「各都市はイレネのために素晴らしい貢物を用意する。薔薇を閉じ込めた氷の彫刻、不死鳥の羽根飾り、数ミアの長さにおよぶ一角獣の角、小人につくらせた銀の王冠、宝玉を埋め込んだ竜骨の杖……。そしてわれわれスィミア人は、数々の調度品とともに、この世で最も美しいものを献上しなければならない――すなわち、純潔の乙女を」
イスファニールの表情が凍りついた。
「おまえも分かっているだろう。魔法を使うとは、そういうことだ。われわれは不毛なこの地で、魔法がなければ暮らしていけない。古くからスィミア人は、神々と契約を結んできた。この町に暮らす者に暖かさを、食べ物を、繁栄をもたらしてもらう代わりに、豪華な品々とともに娘を捧げる。捧げものとなる乙女は慣例として、家柄がよく、誰もが認める美しい少女である必要がある。議論に議論を重ねて、最終的に選ばれたのがフェルーだった。……そろそろ、おまえに話そうと思っていたんだ」
空色の瞳は何も映していなかった。
「……フェルーはまだ四歳よ」
「歳は関係ない」
「わたしは、あなたの正妻ではない」
「だが、フェルーがノイスター家の娘であることも同様に事実だ。クリヴェラのほうの娘は、可愛げはあるが、美人ではない。対してフェルーは、あらゆる貴族の間で美しいと評判になっている。イスファニールよ、これは名誉なことだ。フェルーは薔薇を閉じ込めた氷塊と同様、生きていた姿そのままで氷櫃に横たわる。クリヴェラの子供たちに遠慮し、出自を気にしながら生きるより、よほど幸せなことではないか」
イスファニールは震えながら、力なく膝を折った。話の分からないフェルーが、母を気遣い、頬におずおずと手を伸ばした。