57話 ダルタロス
ひときわ大きな地鳴りが起こり、ユマは硬直した。直後に、大気を震わす咆哮が響きわたる。
重々しい空気に、胸が押しつぶされそうになった。スィミアを出てからずっと感じてきた、あの感覚である。
「走れ!」
ユマはバルトの手を取り、駆けだした。戸惑った表情をするバルトに、口早に説明する。
「いまの声はきっとダルタロスのものだ」
「待てよ。そいつは、儀式のとき以外は目覚めないんだろ? どうして今目覚めるんだ」
「イディアが言っていただろう。ダルタロスは、創世神話のヨダイヤが、ヤムターンに向けて放った魔法から生まれた精霊だって。つまり、ダルタロスの正体は、ヨダイヤの恨みがこもった悪霊なんだ。だから、ぼくとイルマが争う感情に反応して、目覚めてしまった」
腕を引かれていたバルトが、すぐに並走する形になる。
「で、どうしておれたちは走っているんだ?」
「きみが狙われるからだ!」
のんきなバルトに苛つきながら、ユマは答える。
「ヨダイヤの怨念から生まれたダルタロスは、ヤムターンを憎んでいる。思うに、儀式において、ダルタロスが魔力を持たない者を食べてきた理由は、その者たちをヤムターンの子孫だと思っているからだ。生粋のアンダロス人であるきみが見つかれば、食べられてしまう」
二人は雑木林を抜け、開けた場所に出た。ユマはそこで、複数人の人影を認めた。四人の従者を従えた、イルマだった。ユマは急停止し、バルトが咄嗟に弓を構えた。
しかし、一同が言葉を交わす暇はなかった。
背後から感じる悪寒に、ユマは凍りついた。木がへし折られる音が響きわたる。
振り向いた先にいたのは、大蛇だった。少なくとも、ユマが知っている動物の何かに当てはめるなら、それに最も近い姿をしていた。口が大きく裂け、その合間に藻のからまった鋭い牙が並んでいる。イルマたちも、禍々しい力を持つ精霊に対峙して、絶句している。
ダルタロスの金色の瞳と視線が交わった。ユマの身体中を、警鐘が駆け巡る。タイニールの魔法でも、ヨダイヤの魔法でもだめだ。人間では敵わない。逃げなければ、とユマは思うが、足がすくんで力が入らない。バルトも怪物を凝視したまま硬直している。ユマは頭の片隅で理解した。魔力を持たないアンダロス人が姿を認知できるほど、ダルタロスの力は強力なのだ。
大蛇がバルトに目を据えた。ユマは弾かれたように、彼の肩を抱いた。直後、ダルタロスが大口を開けて、襲いかかってきた。
強烈な反動とともに、ユマたちは吹き飛ばされた。固い雪につっこみ、転がった。ユマは口に入った雪を吐きだした。見ると、ユマが月の光でつくった防壁は、粉々に砕け散っていた。体勢を立て直していたバルトが、目を丸くした。
「ユマ、魔法を……」
使えた。身体のうちにあるのは、以前とは異なる質の魔力だが、たしかに気配に親しみがある。力を確かめるように拳を握ったとき、ユマは以前悪霊に掴まれた跡が、消えていることに気づいた。
感慨に浸っている場合ではなかった。イルマたちの叫び声に顔を向けると、ダルタロスが尾を振り回し、木をなぎ倒す所だった。バルトが開けた場所に移動する。狙いを定めて、弓を引き絞った。
弓弦がうなり、ダルタロスの瞳に矢が命中した。耳を塞ぎたくなるような、絶叫があがる。それを見届けるやいなや、二人は駆けだした。
「ユマ、待て!」
従者を放置し、イルマが追ってきた。服の裾を掴まれ、ユマは尻餅をつく。
「おい、おまえに構っている暇はないんだ!」
ユマを縛り上げようとするイルマともみ合っていると、先へ進んだバルトが戻ってきた。からまる縄を断ち切り、ユマを救出しようとする。三人の上にかかる影に気づいて、ユマはバルトを突き飛ばした。同時にあらぬ方向へ、イルマまで突き飛ばしてしまった。
ユマは咄嗟に、イルマの腕を引いた。直後、イルマの髪をかすめて、ダルタロスの歯が噛み合わさった。彼の瞳が恐怖に染まり、信じられない、という様子でユマを見た。
「どうして助けた?」
大きな地鳴りに、イルマの声がかき消される。足元の地盤が崩れ、身体が宙に浮く。
「ユマ!」
バルトが手を伸ばすが、彼のいた場所もすぐに崩落の波に飲みこまれる。だがその直前に、ユマは、バルトの手を掴みきっていた。
「風神!」
声が重なり、ユマとイルマは睨み合った。こんな所で息を合わせなくてもよい。しかし二人いたおかげで、強靭な風が下から巻き起こった。髪紐が解け、バルトの黄金の髪が、風に遊ばれるままになる。落下速度が減速したとき、ユマは下に目を向けた。そこには広大な湖が広がっていた。