55話 父との思い出
イルマが言い返そうと息を吸ったとき、大地が揺れた。山々がうなり、木々が震える。ユマは咄嗟にタイニールを見る。彼女は矢を抜いたイディアの頭を膝にのせたまま、硬直していた。ヴィヴィが尻尾を丸め、情けない声を出す。
「バルトとやら、気をつけろよ」
イディアの言葉に、ユマは驚き、同時に安堵した。人間ならすでに死んでいておかしくない傷だった。だがローレインの驚異的な回復力により、すでに彼女の傷は塞がっていた。
「奴が目覚めた。おまえたちが騒ぐからじゃ」
「奴って……」
ユマの言葉は轟音にかき消された。木の折れる音が響き、瓦礫が転がってくる。ただならぬ気配を感じたイルマの従者たちが、我さきにと逃げていく。置いてきぼりを食らったイルマが、「おい!」と非難しながら岩場を駆けあがる。振り向いた彼と一瞬、ユマは視線が交わる。兄弟であることの唯一の証明になりそうな、蒼の瞳である。
彼がその場を去ったとき、同じ姿勢でとどまった影があった。それが何か分かったとき、ユマは急いで左腕にはまった縛めを解いた。水を含んで重たい外套を外す。それらをじれったく投げ捨て、岩場へ向かって駆けだした。
「ユマ!」
タイニールが声を張った。
「待ちなさい!」
続いた言葉は、ユマに向けられたものではなかった。矢筒を背負ったバルトが、軽快に岩場を登っていく。アリステルがヴィヴィを抱えながら、叫んだ。
「マグナ、危ない!」
瓦礫が勢いよく転がってきた。タイニールが咄嗟に魔法を放ち、それを破壊した。イディアはすでに水中へ潜り込み、姿を消していた。
揺れる足場にひやりとしながら、ユマは岩のくぼみに手をかける。学園の外套をまとったヨダイヤが、ときどき振り返っては先へ急ぐ。ぱらぱらと転がっていく石ころが不安を煽る。イルマたちの馬だろうか、遠くでいななきが聞こえた。
「掴まれ、ユマ」
目前に手が差し出された。見ると、追いかけてきたはずのバルトが先に、安定した岩場まで登りきっていた。ユマは彼の手を掴んだ。助けを借りながら、よじのぼる。
「何をしているんだ? 逃げるには絶好の機会だと思うけど」
バルトは問いに答えなかった。くるりと手中で何かが回ったかと思うと、それを腰に差した。アリステルの剣である。いつの間に盗ったのだ。
彼は手袋を外すと口にくわえ、伸びきった金髪を結ぶ。顔周りがすっきりすると、途端に南の戦士らしく見えた。
「行こう。おまえから逃げる奴を捕まえるんだ」
立ち止まると身体が冷えるため、木陰にちらつく黒い衣を追って、ユマは走りつづけた。見失っては、あたりを見回し、また見つける。おそらくバルトはユマより速く走れるが、何も見えないのでユマを追うしかなく、じれったそうにしていた。その間にも、地は揺れつづけ、木の葉はざわめいていた。
次に影を見つけたときには、嫌みたらしく笑うイルマの姿になっていた。ユマはそれを睨みつけた。いつもは追いかけてくるくせに、捕まえようとすると逃げるのか。
「なあ、ユマ」
走りながら、バルトが言葉を投げかけた。
「おまえが生み出した悪霊は、いつも父さんの姿をしているのか」
「いいや」
木の根を跳び越えながら、ユマは応えた。
「奴はぼくと馴染み深い、さまざまな人の姿を借りて現れる。お母さま、フェルー、イルマ……。でも確かに、お父さまの姿で現れることがいちばん多い」
「なぜ?」
「きっと、ぼくが最も恐れている人物だからじゃ……」
言いかけたまま、ユマは凍りついた。
いつも水面で顔を合わせる顔がそこにいた。ヨダイヤとイスファニールを半々くらいに混ぜた顔立ちの少年だ。彼の服は血まみれだが、それは本人の血ではなく、返り血だった。
「ユマ?」
バルトが隣に追いついた。ヨダイヤの姿になった悪霊が、くるりと背を向けた。外套が広がり、視界から消える。
「ちがう。悪霊がヨダイヤの姿で現れるのは、ぼくが彼を手にかけたからではない」
ユマは右腕の掴み跡を見つめた。
「ヨダイヤがぼく自身だからだ」
ヨダイヤはとにかく忙しい人だった。冬の間、空がまだ暗い、一番冷え込む時間帯に、角灯を持つウォリスと共に門へ向かう姿を、ユマはよく覚えている。館の扉が閉まる音でユマは目覚めて、外を見やるが、吹雪で何も見えない日もあった。ヨダイヤは身を切るような風と雪をまとって帰宅し、杯を傾け身体を温めながら、執務室へ直行する。
イスファニールとクリヴェラはそれぞれ別棟に暮らしていた。そのため食事を取る部屋も異なった。ヨダイヤが同じ食卓につくことは十日に一回あるかないかで、母が彼の正妻ではないと理解したユマはしばらく、それが理由で頻度が少ないのだろうと考えた。しかしある日クリヴェラが、彼に同様の不満をこぼしているところに遭遇した。そのときユマは知った。彼には家族と食事を取る時間すらないのだと。
ユマが知る限り、ヨダイヤにとって唯一の心休まる時間は、イスファニールと共にいるときと、書庫にいるときだった。
ヨダイヤが彼女と交わしていた会話の内容は正直、よく分からない。ユマが加わった途端、そこは二人の空間ではなくなってしまうから。
蔦の絡まる裏庭のあずまやで、二人はよく時を共に過ごしていた。ユマは邪魔をしないように気をつけていたものの、ときにうっかりそこへ足を踏み入れてしまったものだ。というのも、ヨダイヤはその花々に囲まれた美しい場所で、横になっていることが多かった。つまり、イスファニールが一人であると思ってユマが近づくと、その膝の上に彼の頭が乗っていることがあった。
幸い、ヨダイヤはいつも穏やかな眠りについていた。そんな時イスファニールは口に指を一本あて、何も言わず、ただ微笑んでいるのだった。
「おとぎ草の香を炊いて寝るから、わたしに眠くなる成分が染みついたのかも」
なぜお父さまは眠るのかと尋ねると、イスファニールは冗談半分にそう言っていたことがあった。せっかく一緒に過ごす時間を設けているのに、眠るのは失礼だとユマが言うと、彼女は笑った。今ならその理由が分かる気がする。ヨダイヤにとっては、イスファニールこそが、世界で唯一のおとぎ草だったのだ。
ユマがヨダイヤと二人きりで話す機会は、イルマより少なかったと思う。イルマは嫡男だから、家のことや、議会のことをよく教えられていた。だがヨダイヤと同じ空間で過ごす機会は、イルマより多かったかもしれない。
ヨダイヤはユマが本に興味を持った日から、書庫への出入りを自由にさせた。おそらくイルマにも同様の権限が与えられていたが、書庫で彼を見かけたのは数えるほどしかない。それよりユマは、ヨダイヤを頻繁に見かけた。彼とは食事の際に顔を合わせるより、書庫で顔を合わせることのほうが多かったほどだ。
大人しく読書している限りは、彼はめったにユマを追い出さなかった。だからユマは、いつもこんな挨拶をした。
「こんにちは、お父さま。お邪魔であればおっしゃってください」
彼はもちろん、仕事をしているのだ。より根拠のある事例を、議論に勝てる証拠を頁の間に探している。しかし常に差し迫った問題を考えているわけでもなかった。
ヨダイヤは頁をめくる手を止め、床の一点を見ながら、窓の外を見ながら、あるいはペンの羽根を見ながら思案していた。ふとペン先をインクにつけ、紙に何かを書きつける。彼は書庫では、完全に自分の世界に浸ることができた。わずらわしい反論も、足元をすくおうと油断なく注がれる視線も、そこには存在しない。書物の声を聞き、自分の心の声を聞き、知恵の森を静かにさまようのだった。
「ユマ」
ときにヨダイヤはユマを呼び寄せ、著名な人物を挙げて尋ねた。
「おまえはリヨンの言説についてどう思う?」
彼はユマと議論したかったわけではない。議論するには、一介の学生である少年の知識量は少なすぎた。
では何をしたかったのか。彼は黙って息子の意見を聞き終えると、多くの場合、何かしらの本を渡してきた。それを読み切るとユマは、自分が述べた意見とは別の視点も持つことになった。ユマは悔しく、内心ヨダイヤに腹を立てていた。
一方で、本を渡されないときは一程度、彼の理解を得たときだった。満足そうに頷くヨダイヤを見ると、ユマは、今度は自分に腹が立った。しかめ面をして、落ち着かない気持ちで、足元に視線を落とす。そんなはずはない、と思っても本心は言っていた。嬉しいのだ。彼に認められることが。