54話 イディアの話
一同は水辺に対し半円状になって腰を下ろした。道中集めてきた枝を、アリステルがせっせと折り、みなの中心に火を焚いた。その背にぴったりとくっついてヴィヴィが座る。
「さて。ダルタロス……おまえたちが〈山の主〉と呼んでいる精霊の話をする約束だったな」
イディアが口火を切った。
「われわれの間で伝わる話によると、ダルタロスはこの山と湖ができたとき、同時に生まれた。ここらに暮らす精霊のなかでは、最も長く生きている」
タイニールが脚を組み直した。
「わたしたちの間では、環状山脈は、天から火が落ちた衝撃でできたと伝えられている。その言い伝えは正しいの?」
「間違いではない。その火は誰が放ったか知っているか」
「そこまで詳しい話は伝わっていないわ」
「ヨダイヤじゃ」
一同は茫然とした。バルトに通訳していたユマも、ひととき言葉を失う。
「創世神話に出てくる賢者のこと?」
タイニールがわざわざ確認したのは、ノクフォーンでヨダイヤという名前は珍しくないからだ。現にユマの父の名はヨダイヤだ。
「それ以外に誰を指す?」
「なんのために火を放ったの?」
「ヤムターンと喧嘩をしていたのじゃ。ヨダイヤが彼女に向けて放った魔法は避けられ、大地に落ちた。その衝撃で穴が開き、水が溜まった。またその衝撃で周囲の地形が盛り上がった。それがオストラス湖と、オストラス山脈じゃ」
ユマは信じがたく、身をのりだした。
「ちょっと待って。ヨダイヤとヤムターンは争ったのではなく、協力して大地を豊かにしたんだろう? 神殿ではそう教わったけど」
「神殿ではね」
神殿という都会的組織をまるで信用しない、田舎者特有の調子で、アリステルが揶揄する。彼らにとって神殿とは、都市議会と癒着した、ひどく世俗的な組織である。彼女が枝をかがり火へ放る。
「わたしはあり得る話だと思う。ヨダイヤとヤムターンはのちに、それぞれ異なる土地を治めた。それが仲たがいした結果の行為なのでは?」
「その通りじゃ、小娘」
イディアが頷く。
「最初の魔法使いであるイシュテリテが生きていたころ、二人は仲良くしていた。だが奴が死ぬと、魔力の使い道をめぐって意見が対立した。ヨダイヤは力を人間に、ヤムターンは力を大地に与えたいと主張した。両者の力は互角だったから、いくら戦おうと決着はつかなかった。二人の争いは百年続いたとも言われる。結局そのまま、各々の方針で、各々の土地を治めたのじゃ」
タイニールが考え込む。
「興味深い話だわ。あなたの言うことを信じるなら、ノクフォーンでは土地が痩せている代わりに、人間が魔法を使える。アンダロスでは土地が豊かな代わりに、人間が魔法を使えない」
ユマは気づいた。この話は、ノクフォーン人が魔法使いとして生まれ、アンダロス人が普通の人として生まれる理由、そのものではないか。
イディアが口を開いたが、言葉は発せられなかった。
風を切る音が聞こえたかと思うと、水しぶきがあがった。ヴィヴィが立ちあがって吠える。ユマは、手かせがはまった腕を引かれたと思ったときには、水中に落ちていた。
わけの分からないま、空気を求めて水から顔を出した。目前を矢がよぎり、戦慄した。いち早く状況を察したタイニールが、叫んだ。
「木の陰へ走って!」
アリステルとバルトが、弾かれたように駆けだした。吠え立てるヴィヴィも全速力で駆ける。そのとき、水が赤く染まっていることにユマは気づいた。
「イディア!?」
急いで水をかきわけ、イディアの肩を抱いた。動揺で手が震える。胸に矢が刺さっていた。
「ユマ! 釣り場の下に隠れて!」
タイニールの指示にはっとした。ユマはあえぐ妖精を連れて、組まれた丸太の下へ避難する。すかさず第二撃が放たれ、水しぶきを飛ばす。
幹に背を預けたアリステルが、声をあげた。
「バルト、なにを?」
いつの間にか彼は、弓に矢をつがえていた。タイニールが放置した荷物の中から、咄嗟に取ったのだろう。弓弦がうなり、矢が放たれた。
岩場に群生する灌木から、悲鳴が聞こえた。茂みの陰に一瞬、あわてた動きをする人影が見えた。それも複数人である。射手が舌打ちし、次の矢をつがえる。
「外した。腕だ」
「待て!」
ユマはその中の一人に、くぎ付けになった。バルトが弓を下ろす。
「イルマ?」
仲間の構えをとかせて、相手が一歩、進み出た。ユマは水を含んで重い衣服を引きずり、岸にあがった。イディアも引きあげようと奮闘していると、タイニールがやってきて安全な場所へ引きずる。バルトが駆け寄り、手伝った。
木陰に負傷者を横たえながら、タイニールがイルマを睨みつける。
「魔法が届かない距離だと思わないことね、スィミア人。ユマに手を出したら、ただじゃ置かないから」
イルマはたじろいでいた。一つには彼女から感じる圧倒的な魔力に。もう一つには彼女が、死んだイスファニールにあまりにも似ていることに。彼はクリヴェラ譲りの眼をユマに据えた。
へたくそが、とユマは思った。自分を狙おうとして、外したのだ。いつの間にか、杖を持ったアリステルが、ユマの横に立っていた。
最初にイルマが、沈黙をやぶった。
「おまえが家に火を放った日から、家族はめちゃくちゃだ。お母さまは部屋に引きこもって、毎日泣いている。そんな状況だから、弟と妹も笑わなくなった。本館の再建には数年かかるだろうし、おれは親族との家督争いに勝たなければならない」
ユマは何も言えなかった。クリヴェラ一家は好かないが、だからといって彼らの幸福を奪う権利は誰にもない。もし自分がイルマの立場だったら、同様に憤り、恨むだろう。
「何か言えよ、人殺し!」
イルマが叫んだと同時に、風が巻き起こり、木々がいっせいにざわめいた。わずかに残った湖面の霧が吹き飛ばされ、アリステルの長い三つ編みが煽られる。
風圧でよろめいたユマの腕に、アリステルの腕が滑りこんだ。衣が激しく波打つなかで、彼女の細い、二本の脚がしっかりと踏みとどまる。伏せていた睫毛があがり、青緑色の瞳が大きく開かれる。
「おまえは違うとでも言うの?」
風が少し弱まった。
「わたしもマグナも……このあたりに暮らす人はみんな人殺しよ。おまえは今まで一度も、それに関わったことがないとでも?」
そのときイルマが思ったことは、ユマの思ったことと一緒だったかもしれない。人殺しに関わらなかった人など、スィミアにいただろうか? 市民は時に、それに非常に熱狂的になる。例えばイルマは、イレネの神像を壊そうとした婦人に、りんごを投げつけたのではなかったか。
瞬きをしない青緑色の瞳から、涙がこぼれ落ちた。なるほど、アリステルは優れた魔術師になるだろう、とユマは思った。あたりに漂うイルマとユマの感情が、影響しているのだ。だがよく見ると、肩も小刻みに震えていた。自分の感情も混ざった涙を、彼女は地面に落ちるままにした。