53話 対面
「夜更かしするために泊まったわけじゃないのよ」
翌朝、天幕を片づける二人を眺めながら、タイニールがとげとげしく言った。彼女は寝巻に外套をまとっただけの恰好で、髪もまだ梳いていなかったが、杖だけはしっかり握っていた。部屋にユマたちがいないことに気づいて、あわてて飛び出してきたのだ。
東の空が暁色に染まり、煙突から暖房の煙が立ち昇る。髪を結わえていないアリステルが、寝ぼけ眼をこすりながら、表へ出てきた。ユマのそばをうろついていたヴィヴィが、すかさず彼女に駆け寄っていく。
やがて太陽が顔を出し、上空に漂う煙を黄金に染め上げた。その様子をバルトがぼうっと眺めているので、鎖で繋がれたユマは何回か、彼に動くように言わなければならなかった。
次に全員そろったときには、ヴィヴィの毛皮の泥は落ちていて、アリステルの髪はいつも通り三つ編みだった。バルトの表情を見る限り、少し残念に思ったのはユマだけではないようだ。一行は囲炉裏を囲んで腹ごしらえをしたあと、乾かしておいた靴を履き、出発した。
朝もやで白く染まる木々の間を、昨日と同じ順番で進んだ。レタを出てしばらくすると、タイニールが言った。
「きょう泊まるときは、きちんと魔法をかけてあげるわ」
説明するまでもなく、悪霊除けの魔法を、である。雪を踏みしめる音が響いた。
「かけないでください」
ユマの言葉に、彼女が立ち止まった。自然と隊列も止まる。不可解な表情をするタイニールに、ユマは言った。
「悪霊を避けるのは、都合の悪い事実から目を背けたいからだと、気づいたんです。だから、魔法をかけないでください。悪霊に怯える生活はもうたくさんです」
どこからか水鳥の鳴き声が聞こえてくる湖水は、深い霧につつまれていた。水面は穏やかで、風が吹いたときだけかすかに波が立つ。うっすらと見える太陽がはるか遠くに感じられ、どこかに時を置いてきてしまったように感じた。美声の妖精はここで、どれほど長い時を過ごしてきたのだろうか。
ローレインが警戒するからと、魔術師ふたりにはいったん離れた場所へ行ってもらった。ユマは釣り場に立ち、群青のオカリナを吹いた。
すぐに、オリファがいてくれれば良かったのに、と思いはじめる。フェルーも彼の吹く笛の音を気にいっていた。バルトが残念そうな目で自分を見ていることに気づき、ユマは咳払いする。
「きみが吹くか」
「うん。貸してみろ」
先ほどよりはるかに大きく、美しい音が響きだした。それは陽気な音調で、オリファがよく話していた、アンダロス人の祝祭を想起させた。その祝祭では、人びとは大きなかがり火を囲み、隣人と手を繋ぎ合って朝まで踊り続けるのだという。
ユマは、霧がかる水面にオカリナと同じ色の瞳が現れたことに気づいた。妖精はひっそりと演奏者を見つめていたが、しばらくすると鼻から下も水からあげ、近づいてきた。バルトは音を奏でるのに夢中で、彼女が二ミアほどの距離に来るまで気がつかなかった。
「おお、太陽神よ」
驚いたバルトが、オカリナを落としそうになる。イディアが尾びれを動かし、ユマに向き直った。オカリナと同様の音楽的な声が反響する。
「ユマ。この者は誰じゃ」
ユマは互いに互いを紹介した。イディアがバルトのほうを向くと、ずいぶん古風なアンダロス語を用いて、こう言った。
「おまえ、なかなか良い演奏だったぞ」
あいまいな返事をしたバルトが、視線を逸らした。目のやりどころに困っている。
「ところで、それは何の遊びじゃ?」
イディアが、二人の腕にはまる手かせを指さした。
「……遊びではない。事情があるんだ」
ユマは本題に入った。
「今日、ここに来ているのはぼくらだけじゃない。きみの話を聞くために、マグナとその弟子も向こうにいる」
イディアの瞳が警戒の色に染まる。
「わたしを殺すつもりか?」
「ちがう。マグナは純粋に、きみの話に興味があるだけだ。担保として、ぼくを人質にするといい」
ユマは鍵を取り出し、バルトの手かせを外した。おい、と彼が抗議するが、ユマはその輪をイディアに渡した。彼女はなお考えていたが、やがて言った。
「呼んで来い」
水に浸かる彼女と並ぶようにして、ユマは釣り場の端に座った。
魔術師ふたりが、バルトに呼ばれてやってきた。タイニールは不満そうだった。一つにはバルトが自由になっていることについて。もう一つにはユマが人質にされていることについて。腕を組み、妖精と睨み合った。
「彼女を信じると言いました」
ユマが言うと、タイニールは腕をほどき、前へ進みでた。
「岩窟のローレイン。わたしはオストラスの人間の長、マグナです」
「わたしはイディア」
「イディア。約束の品をあなたに返します」
懐を探り、巾着を取り出した。イディアが身を乗り出し、岸に近づいた。
緑柱石が輝きを放ち、妖精の手に滑り落ちた。彼女がじっと手中の首飾りを見つめる。目を閉じたとき、涙がこぼれ落ちた。タイニールがはっとして、物欲しそうな目をする。ローレインの涙は、貴重な薬の材料になるからだ。ユマが首を横に振ると、タイニールはしぶしぶ、見なかったふりをした。
「つけてあげようか?」
ユマが言うと、「だめよ」タイニールが引き留めた。
「その首飾りの力は強すぎる。バルト、あなたがやりなさい」
指名されたバルトがぎょっとした。タイニールがつづける。
「首飾りは、ヤムターンの血筋には悪影響をもたらさない。そうでしょう、イディア?」
「余計なことを調べたな」
タイニールを睨みつけたイディアが、バルトに首飾りを渡す。
「どういうことですか?」
ユマの問いに、タイニールは応えなかった。バルトが白い首に、おそるおそる銀の鎖を回す。
胸上の石に触れて礼を言うイディアは、嬉しそうだった。視線の先にはバルトがいたが、彼女の目には違う人物が映っているようだった。前にもこんなことがなかっただろうか、とユマは思った。
ずいぶん後に思い返して、その謎が解けた。首飾りの名の由来が何かなんて、無粋な質問をしたものだ。ディゲンとはきっと、彼女に首飾りを贈った人間の名だ。そして彼はヤムターンの血筋、つまり今のアンダロス人と同じ血筋の者だったのだ。