51話 変化の兆し
咳が収まってきた次の日、タイニールが例の首飾りを見つけた。それは繊細な意匠が施された銀の首飾りで、大きな緑柱石が一粒、はめ込まれていた。長い年月を経てきた物なのに、錆もなければくすみもない。それだけでも魔力がこもっていることは明らかだった。
タイニールが鎖の端と端を持ち、慎重に首飾りを掲げる。ユマは石を覗き込んだ。純度も輝きも申し分ない。このような山奥では一生お目にかからない代物である。危険を冒して妖精から盗むだけの値打ちはあった。タイニールは呪術的な模様が描かれた、つづれ織りの巾着を取り出すと、それに首飾りを滑り込ませ、紐を念入りに結んだ。
ローレインの元へは、レタで一泊した後、朝早くに向かうことにした。古くからある次の格言の通りである。「森へ出かける賢者は、陽が天中へ昇ると同時に帰り支度を始める」。彼らの領域に入るときには、明るいうちに帰るのが常識だった。
ユマはタイニールに、バルトの同行を許してくれるよう、説得を試みた。儀式の問題は山脈内部に暮らす者のみに関係する問題ではない。誰よりもまず、バルトの問題である。彼をのぞいて話を進めるべきではない、と。
タイニールはしぶった。連れまわす適当な理由はいくらでも思いつくが、途中で逃げられたり死なれたりでもしたら、長としての面目がつかない。何より儀式までに新たな生贄を用意できる確証がない。祭典は五月初旬に行われる。時期はひと月後に迫っていた。
「あなたの意見を尊重する」
最終的に、彼女は言った。
「この悪習をなくしたいと思いながらも、わたしは行き詰っていた。でも、あなたが来たことで新しい風が吹いた。ここで意見を無下にしたら、その意味がなくなってしまう」
出発の前夜、バルトがはじめてタイニールの家にあがった。旅支度をするためである。アリステルも手伝い、彼のために歩きやすい靴、暖かい外套と手袋、頑丈な背嚢、それに形の良い山杖を見繕った。
支度があらかた終わったときのことだ。タイニールが、部外者を野放しにすることは住民にとっては不安だろうと、不穏な物を取り出した。それは手かせだったが、両手を拘束するには長すぎる鎖がついていた。
「責任をもって見張るのよ」
ユマが疑問を挟む余地なく、左腕に輪を固定された。タイニールはもう片方を、バルトの右腕に固定する。それからユマに鍵を渡した。
「万が一のことを考えて渡しておくけど、リマに戻ってくるまで外してはだめ。慣れるために今日はそのまま寝なさい」
ユマが寝床として使用している物置部屋は、辛うじて人ふたりが横になれる広さがあった。二人は藁を増やして布団を広げ、陽が落ちてそこそこで布団に入った。ユマは環境が変わるとなかなか寝つけない質だが、バルトはすぐに寝息をたてはじめた。
ユマは彼の背中を横目で見ながら、考えていた。自分は今まで、魔法を使えないことは、人間として欠陥があると思っていた。しかし、魔法を使えないバルトが、自分より弱いとか、劣っているとか、そんな馬鹿な考えはもはや浮かばなかった。彼は強い人だ。そしてユマにはない何かを持っている。かつてユマが魔法を得意としていたように、そしてオリファが剣術を得意としているように、バルトにも何か、得意としていることがある。そしてそれは、種類は違えど万人が持っているものであるような気がした。
翌朝、タイニールが村の留守を、マティニールとロクサンに頼んだ。弟子のなかではバルトが最も警戒しないからという理由で、アリステルが同行者に選ばれた。先頭にタイニール、中間にバルトとユマ、しんがりにアリステルという順で歩を進めた。彼女に懐いているヴィヴィが、当然のようにその後ろにつづいた。
レタへつづく道は、ユマとアリステルが数日前に通ったばかりである。そのため行く手に障害物はほとんどなかった。唯一難点だったのは、先日の雪が解けて道がぬかるんでいたことだ。道は乾いているか、完全に雪に覆われているかのどちらかが良い。滑らないように気をつけなければならず、足元に神経を使った。たちまちヴィヴィの白い毛には泥が斑点のように付着し、見るもあわれな姿になる。ただし、尻尾を振りながらあちこち動き回る当人は、全く気に留めていないようだった。
「うさぎだ」
だしぬけに、バルトが指さした。
「罠にかかっている」
つたないがノクフォーン語で言った。みなに待っているように指示したタイニールが、茂みに分け入った。しばらくすると、ぐったりした兎を持って戻ってきた。
「リマの誰かが仕掛けた罠よ。丁度いいわ。泊めてもらうお礼に持っていきましょう」
彼女が背嚢に後ろ脚を括りつける。その様子を見ながら、バルトがユマにささやいた。
「白いうさぎなんてはじめて見た。罠もおれが知っているのとは違うやり方だ」
へえ、とユマは応えた。冬になると兎の毛が白く生え変わることは、ノクフォーン人にとっては常識だが。
「向こうで暮らしていたころは、狩りをよくしていたの?」
バルトが微笑んだ。自信があるということだろう。ヴィヴィが兎にかぶりつこうとするので、タイニールが叱っていた。
午後になってレタに着くと、トリオンが驚いた様子で出迎えた。わざわざ伝えるまでもないことだからと、タイニールが事前に人を遣わさなかったからだ。彼女がトリオンに、手土産として調合した薬が入った巾着と、獲れたての兎を渡した。
「今夜、四人が泊まれる場所はある?」
「用意しよう。だがなぜあの少年が?」
バルトのことである。タイニールが応えた。
「悪い霊がついているから、儀式の前までに落とさなければならない。そのためにローレインの歌声が必要で、一緒に来てもらったのよ」
当然のごとく、一行はすまし顔をしていた。しかしバルトが彼女の言葉を完全に理解していたなら、そうはできなかっただろう、とユマは思った。なんとなくだが、嘘をつくのがへたそうだ。
「ローレイン?」
驚いた様子で、トリオンが言った。
「この村で最後にローレインを見たのは、おれのひい爺さんだが。まだここに暮らしているとは限らないぞ」
「いるわ。ユマがこの前、北の岩窟で見かけた」
タイニールの視線が寄越され、ユマは説明した。
「先日遭難したときに、ローレインが助けてくれたんです。親切な妖精でした」
「親切?」
トリオンが大口を開けて笑い、ユマの肩を叩いた。
「親切な妖精がいると思うか、タイニール?」
「いないと思う。でも、ユマの命を救ってくれたのが本当なら、この子の言うことを信じてみたいわ」
彼の手が、肩に乗ったまま動かなくなった。西日によって黄金に染まる木の葉が揺れている。タイニールが腕を抱えた。
「冷えてきたわ。屋内に入れてもらえると嬉しいのだけど」
ああ、と言ってトリオンがユマから手をどけた。
「気が利かなくてすまない。居間へあがってくれ」
トリオンが呼ぶと、彼の妻が戸口に出てきて、みなの外套を預かっていく。タイニールが屋内へ入ったあと、トリオンがアリステルに耳打ちした。
「おまえの師匠は、前より丸くなったみたいだ」
すると、彼女も神妙な面持ちで頷いたのだった。
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